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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年12月 3日 (水)

二種類のジグソーパズル

 また例によってふと思ったことからです。

 パートナーが私になにか話をするときに基本的には(?)不機嫌なのは,「私に対して」不機嫌なのではなく(いや,そういうこともあるかもしれませんが (^ ^;)ゞ)  「人と話をすること」がそれだけしんどいことなんだろうなと。そしてそのしんどさを「他人モード」では隠して愛想よくしようともするんだけど,「家族モード(?初めて使いますけど)」ではとてもそんな嘘はつけず,自分の気持ちをストレートに表す。

 というか「表す」という言葉もたぶん不適切なんでしょう。別に彼女はそのしんどさを私に対して「表そう(伝えよう)」としているわけではなく,たんにしんどいからしんどい表情をしているだけのことなのです。彼女にとってはそんなふうに嘘にまみれた「愛想」をつかないですむことが,家族であることの大事な意味でもある。

 いや,そのことは私は何度も彼女から聞いていますし, ここでのコメントでも似たようなお話はアスぺの方から何度か聞いていると思います。 でも,これまでは「ふーん,そういう理屈もあるのかなあ」とは頭で思っても, なかなか実感としては分りにくかったんですが, 今日の「ふと思った」というのは,むしろ「実感し始めた」というような意味です。

 なんでそこが私にとって実感され始めたのかというと, たぶん,碧さんとのやりとりで,自分の中で改めていろいろな「知識」や「経験」が つながって整理され始めたことが背景にありそうな気がします。その自分の変化を,もしかするとジグソーパズルの例えで考えるとわかりやすいかもと今ふと思いました。

 ジグソーパズルは,部品のピースが組み立てられて,ひとつの大きな絵(世界)が見えてきます。そのピースは一つ一つを見ても,そこに何が描かれているか,それが全体の絵柄のどういう部分で何を意味しているのかはよくわかりません。

 そしてひととひとのコミュニケーションでは,そのピースという部品(たとえば言葉とか)をやりとりして,自分の世界を相手に伝えようとし,伝えられた方は渡された部品から,それがどんな世界の部品なのかを想像して全体を組み立てようとするのだと,そんなふうにイメージしてみるわけです。このジグソーパズルのたとえ話でちょっと考えてみます。

 これまでのパートナーとのやりとりや,このブログでの皆さんとの交流で,アスぺの方の世界というジグソーパズルを理解するための 個々のピースはちょっとずつ見つかってたまってきてはいました。けれどもそれらのピースがどうつながって,全体としてそこでどんな絵が描かれているのかは 全然わかんないので,個々のピースについては「まあこういう(部分的な)絵もあるなあ」 という理解でとどまり,でも訳の分んなさが続いていたことになります。

 それがいくつかピースが集まってきて,ところどころお互いにうまくはめ込めるピースが見つかりだして, これも部分的だけど,もう少し大きめの模様が見え始めます。 すると「あ,もしかしてこの部品で描かれているのは,こんな世界だろうか」 ということについて,やはりちょっとずつでも想像力が働き始めます。

 そうすると,それに伴ってそれまで得体のしれない模様のでたらめな集まり としか見えなかったものが,自分にとってもちょっと「見てわかる」感じで 「アスぺの方から見えている世界」を感じ取れ始めるようなんです。


 そんな風につながるピースが増えてきて,そこに描かれている模様が 私にもわかるような絵を描き出していくにつれて, 「感覚的にも分かり始める」ということが起こってくるみたいです。


 このたとえ話,ちょっと便利な感じがするので,定型アスぺ問題の理解全体にも広げてそのたとえ話をもう少し使ってみます。


 定型同士の場合は,お互いにピースの形がだいたい共通していて, ひとつのピースを相手に示すと,それがほかのどういうピースとどんなふうにつながって,そこからどんな絵が描けるかは結構想像できたりします(つまり断片的な言葉やしぐさなどが相手から示されれば,それが何を意味しているのかの全体を「察する」ことが割合可能なことが多い)。ピースに描かれている部分的な模様も,その色使いや形は見慣れたものです。

 ところがアスぺの方のピースは,その形が定型版ピースとはちょっとズレがあって,しかも完全に違うのなら「これはもう全然違う」と思えるのですが,微妙に似ているので,ズレに気づきにくく,いつまでも定型版ピースと思って使ってしまう。そしてピースが不足する部分についても,足りない部品は自分の手持ちの定型版ピースを持ってきて補充したりする。

 当然それはうまくはまらないので,定型は訳が分からずに混乱します。そこに描かれている模様も色も形も微妙に似てるような,でも違うようなもので,そのひとつのピースからどんな絵が描かれることになるのか,想像がすごくむつかしくて,なんだか理解しきれない違和感がずっと続く。


 立場を変えてアスぺの方から見ても定型アスぺ問題はまったく同じです。アスぺの方も自分なりのピースの形があって,自分ではひとつのピースがどこにつながるかはすぐにわかりやすい。ところが定型が見せて来るピースは,それと似てるんだけど,微妙にずれていて,自分の手持ちの他のピースと組み合わせようとしても,どうしてもぴったりはまらないし,それを見てもそこからどんな絵が描かれるのかが全然見えてこないわけです。

 ところが他の人たち(定型)はその一個のピースを示されただけで,そこからすっと絵を組み立てていけるので,アスぺの方は混乱しながらも,自分の組み立て方が下手なんだろうと思い,見よう見まねで「こんな絵なんでしょうね」と想像してみる。でも結局定型から見ればしばしばそれは大外れもいいところ。訳の分んない絵が想像されたことになってしまう。それで「常識がない」とか「普通そうじゃないでしょう」と怒られることにもなる。


 定型とアスぺの違いの面についてもジグソーパズルの例えで考えてみることができそうです。

 定型のほうは,それぞれの人がそれぞれのピースの作り方(絵の裁断の仕方)を個性的に持っているんだけど,同時にその作り方を周囲の人たちと絶えず調整しようともしているので,個性がありながらもお互いに「このピース」と言って示されれば,大雑把なところでは「あ,つまり全体としてはあの絵のことね」という理解が共有されやすい。

 ところがアスぺの方はそれぞれの方の個性的なピースの作り方があまり周囲と調整されることが無く,それぞれの方が「私の世界」を「私のやり方」で裁断していく傾向が強いので,定型に対してもそのひとつのピースが何の部品なのかが分かりにくいし,同時にアスぺの方同士でも同じようにわかりにくかったりということが起こる。定型から見ると,それは強烈に個性的に見えたりもすることになります。

 と同時に,理由はよく分りませんが,アスぺの方に比較的共通する裁断の仕方や模様や絵の色合い,形というものもあって,それはアスぺ的世界の描かれ方を理解するうえで手掛かりにはなるわけです。そんな風にアスぺの方に共通する「定型とのズレ」方もあるので,アスぺの方同士がそれを語り合うと,「私も同じです」という「共感」も生まれることがある。
 

 ということで,ここではジグソーパズルのピースの形をそれぞれの人が自分の見えている世界を理解したり,人に伝えたりするときに使う部品(言葉とか振る舞いとか概念とか)の例えとして,そしてそこに描かれている模様の色や形の特徴を「世界の見え方・感覚」の例えとして使ってみました。

 改めていうと,人と人とがコミュニケーションをするときには,自分の体験している世界全体を相手に直接伝えることは不可能なので,それを部品にしてその一部を相手に示すことをやります。たとえば限りある数の言葉で自分の世界を伝えようとするわけです。すると相手の人はその限られた部品から,そこには直接示されていない世界全体を想像しながら理解を進めます。その時,直接相手から示されていない部分については,自分の手持ちのピース(言葉や概念)を持ってきて,それで埋め合わせて全体を組み立てようとするんですね,きっと。そこで定型アスぺのズレが利いてきて混乱が起こる。


 このたとえで,私が少しずつではあっても,アスぺ的な世界を感覚的にも想像できはじめるようになってきた(もちろん誤解かもしれませんけれど)ことを説明すると,こんな風になるでしょう。

 最初の段階では,私はパートナーから示された断片的なピースを見て,それと似たような定型版(パンダ版?)ピースを持ち出して来て,そこから示されていない部分も手持ちの定型版ピースで補って絵を描いた(理解した)。ところがそういう理解をしても,なんだかコミュニケーションがずれてしまって,うまくいかないわけです。

 初めの頃は,彼女から示されたピース自体が,自分の定型版ピースとは異なっていることにも気づけないので,単に彼女が常識外れのおかしなことをやっているようにしかみえません。彼女が自分とは異なる世界を見て,それを表現しようとしていることなど想像もできない状態です。

 ところがなんらかのきっかけで,どうもピースの作り方自体が違っていて,それを自分のピースに無自覚に置き換えて理解していたことが間違いであることに気づきます。そしてできるだけ彼女のピースをできるだけそのままの形で理解しようと努力するうちに,少しずつ定型版とは微妙に違うその個々のピースの形が見えて来る。

 ただし,そうやって自分の理解の中に入ってくるピースの数はほんとにわずかずつなので,それだけではそこに描かれて模様がどういう絵の一部なのかがわかりにくい状態は続きます。それでやっぱり自分の手持ちの定型版ピースで関連しそうなものを持ち出して来て,それと組み合わせてみるわけです。

 そうするとやっぱりぴったり当てはまりません。それを無理やりこじ入れて絵柄を作ることはもともと無理がありますから,部分的には分る感じが出てきても,依然としてそれは得体のしれないものであり続けますし,不自然で違和感だらけの物になってしまいます。

 それでもしつこくアスぺ版のピース部品収集を続けていくと,今度は手持ちのピースではなくて,アスぺ的なつながりが見えてくる部分が少しずつ広がっていきます。そのことで訳の分らなかった模様が,少しずつつながった形になって見えて来る。そのプロセスが「あ,ちょっと見えてきた」という私の感覚につながります。

 そのプロセスが繰り返されていくことで,だんだんと部品も増えるし,つながって見えて来る部分もさらに広がったり,あるいはそういう部分の数が増えていったりする。さらに,それまでは全然想像もできなかった,「アスぺ的なピースの作り方」と「定型的な作り方」とのずれ方もちょっとずつ見えてきて,今度は直接アスぺの方から部品が提供されなくても,自分の手持ちの定型版ピースをちょっとそのずれに合わせて修正することで,代用品として使うこともでき始める。

 そうすると,限られた部品から見えて来る絵がさらに大きくなってきます。それは「あ,そういうことか。そういうことを彼女は感じているのか。世界が彼女にとってはそんな風に見えているのか。なんか見えてきた」という感覚が私の中で深まっていくことでもあります。そこでは訳の分らない部品を無理やりああでもないこうでもないと頭で考えて理屈で組み立ててみようとするのとは違って,そこに描かれていることを,直観的に,感覚的に「目で見て」わかり,その意味を実感する,ということができ始めるわけです。

 そうやって感覚的にも見え始めるアスぺ的な世界は,もちろん色合いや形など,定型的な世界の描かれ方とはずれがあります。そしてたとえそれを感覚的にも理解でき始めたとしても,そのズレがなくなることはないでしょう。でも,そうであっても,「自分とは違う世界が見えてきた」という形で,自分自身の見えている世界に対する理解も深まり,また見える世界もさらに広がっていくことは確かです。

 
 まだちょっと,少し違う視点からも整理する必要があると感じますけれど,とりあえず私としてはこのジグソーパズルの部品(言葉とか振る舞いとか概念とか)の形と,その組み合わせによってできる全体としての絵(世界の見え方・感じ方),という比喩で,これまでもやもやしていた定型アスぺ間のズレの問題について,かなり自分なりの整理や納得ができてくる気がします。ちょっとすっきり感 (^ ^;)ゞ

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コメント

この例え、ものすごく共感できます。人間の世界観、関係性が、すごく理解しやすくて、自分の中で、いろんなものが見えてくる気がします。

あるんですよね・・・すごく似ているピース。
これだ!と思ってはめてみたものの、ちょっと違和感が残るピース。そして、やっぱり次には繋がらない。

私(定型)だったら、繋がらないとわかった段階で、躊躇なく修正をかけるか、もしくは保留にして違和感のあるピースを外すのだけど、きっとアスペの方は、そこで止まって終わらせてしまう(これを「諦め」と私は受け取ってしまうのですが)、もしくは、無理やり違うピースを繋げていって、他の人とは随分違った独自の世界観を広げていくのかもな・・・と、相互の違いを理解しました。そこに巻き込まれしまうのが、一番身近にいる家族という存在。

理解できると、相手のことを許せる?(共感できる?)部分も出てきますね。

パズルのピースは無限にあるけれど、人それぞれが、どんなピースをどのくらい自分の手持ちにすることができるか。そして、その中からどれくらい使うことが出来るか。

大人のアスペの方は、既に持っているピースがそれなりにあるし、人間として一応自立しているので、周りからの影響で修正ピースを改めて持つという事が、自分のプライド的にも困難なのかもしれませんね。

でも、まだ幼いアスペの子供達なら、親や周囲の人が力となって、定型的なピースを沢山持たせてあげることも可能なのだと、今後(未来)への期待が持てる気がします。

定型アスペ問題で悩む人が減ることを、願わずにはいられません。

昨日慌てて投稿して、名前を入れるのを忘れてました。

上記投稿は、私(コクーン)です。失礼しました。

パンダさん、こちらに書かせていただきますが、インフルエンザとのこと、
お大事にしてください。症状が軽くすみますように。

最近、パンダさんのブログを、新しい記事に加え、古いものも気になるタイトルをいくつか見つけて読ませていただいています。

定型にもいろいろな人がいるように、アスペの中でもいろいろな人がいます。そんな中で、アスペの人たちに共通する短所(定型の立場から理解できない行動というような意味で)を指摘する(多くの発達障害のサイトに書かれているように)のではなく、アスペの人たちの共通点から彼らの世界を理解(想像)し、具体的にどういう歩み寄りができるかをみんなで(定型・アスペ両方の立場から)考えていこうとしているこのサイトはすばらしいなと思いました。
ジグソーパズルの例えから感じたことを書かせていただきます。

うちの主人(アスペ)は、思春期の彼の妹によく「友情に没頭していたら自分の身を滅ぼすことになるぞ」とよく言っています。彼は読書や映画が好きなのですが、ジャンルはSFかサスペンス、ホラー、または現実的な描写があまりないコメディに限られ、人間ドラマを描いたようなものは嫌いです。

ところが、この頃「ウォーリアーズ」という森に住む猫の部族を擬人化して描いた本で、主人公の猫が部族間の争いや友情をとおして成長していく物語に没頭しています。私も読んで、主人公が、育ちが違うせいで周りから不当な扱いを受けても前向きに捉えて成長していき、次第に認められていったり、何度、挫折してもそれに立ち向かっていく姿が自然なかたちでうまく描かれていると思いました。でも、もしこれが人間だったら彼はぜったいに読まないと思うのです。それで、なぜ猫の友情は理解できるのに人間だったら拒絶反応を示すんだろうと不思議でたまりませんでした。
彼はもともと動物が大好きなのですが、猫がどんな気持ちのときにどのようなしぐさをするのか、また猫の部族のさまざまな決まりごとが細かく描写されています。それで気づいたのが、猫の部族の世界のルールを示すジグソーパズルが前もって彼に渡されているので、そこでどんなことが起こっても理解できるために、アスペの主人でも楽しめるのではと。
でも、そうすると、主人(アスペの人)は本で読んでその世界のルールが理解できるのに、なぜ現実の世界のルールは理解できないのか、という疑問が出てきました。

結婚してしばらくした頃、「どうして俺にひんぱに“愛している”と言わないのか、それは愛情がないからなのか」と聞かれました(というか、問い詰められました)。
私は普段の私の喜んでいる表情や会話を楽しんでいる様子から「好きだ」という気持ちが伝わっていると思っていたのでショックでした。彼がアスペであるがために鈍感だと直接言わないために、彼の国との文化の違いのせいにしようと思い(もちろんそれも多少はあるとは思いますが)、私の国では「月がきれいだね」と恋人に言えば、それは「あなたが好きです。一緒にこの美しい月を見られて私はうれしい。」という気持ちの表れだと教えました。
それ以来、私が花や鳥をみつけて「きれいだね」というと彼は喜ぶようになりました。それでも、いちいちそうやって間接的な表現について教えるのは面倒な場合が多いので、直接的な表現を使うことが多くなりました。
私たちも、はじめから間接的な表現を知っているのではなく、経験や人から聞いたことなどを通して学んでいきます。彼も、日々私との生活から多くのことを学んでいます。
でも、なぜこれまで普通の人と同じように学ぶことができなかったのか?

もしかしたら、
1)アスペの人が感じやすいという「ストレス」と関係があるのか?ストレスを感じやすいために、複雑な人間関係を我慢強く理解することができない。
2)文字通りのことしか理解できないために、人間関係という複雑なメカニズムを理解するのに時間がかかる。(それでは、なぜ私たちは文字通り以外のことが理解できるのか?)
3)共感できない、つまり相手の立場になってそのときの感情を想像できないために、学ぶことに時間がかかる。

と、いろいろと考えてみましたが、現実問題、それがわかったところで何かの役に立つのかはよくわかりません。長々と失礼しました。

コクーンさん

> この例え、ものすごく共感できます。人間の世界観、関係性が、すごく理解しやすくて、自分の中で、いろんなものが見えてくる気がします。

 あ,それは願ったりかなったりです! 個人的にはこのたとえ,結構ひろく使えるような気がしています。コンパクトだけど使いやすそうな,お値打ち品? (笑)

>  大人のアスペの方は、既に持っているピースがそれなりにあるし、人間として一応自立しているので、周りからの影響で修正ピースを改めて持つという事が、自分のプライド的にも困難なのかもしれませんね。

 プライドについては,もしかすると性差も結構関係しているかもと思います。定型的な修正の仕方がアスぺの方にむつかしいのは一般的にそうなんでしょうけれど,男性のアスぺの方の場合,そこにやたらと「プライド」が関わってきてしまう可能性も感じます。もちろん,AS-Pさんのことなどを考えても分かるように,個人差もすごく大きいと思いますし,あまり十把ひとからげはいけないのかもしれませんが,おおざっぱな傾向としては。

 それとやっぱり自分自身について思うことは,私も定型的なピースの修正はできても,アスぺの方との間でうまくいくような修正は難度が高い,ということです。つまり,修正の仕方自体があくまで定型的な枠の中でしかできていないような気がするんです。もちろんアスぺの方もアスぺ的な修正の枠の中でしか修正がむつかしいのでしょうから,まあお互い様なわけですけど。

 お互いに自分の枠の中でしか修正が困難な者同士,どう関係を調整できるのか。永遠の課題ですよね……


anonimoさん

> アスペの人たちに共通する短所(定型の立場から理解できない行動というような意味で)を指摘する(多くの発達障害のサイトに書かれているように)のではなく、アスペの人たちの共通点から彼らの世界を理解(想像)し、具体的にどういう歩み寄りができるかをみんなで(定型・アスペ両方の立場から)考えていこうとしているこのサイト

 と書いてくださったのを読んで,感動してしまいました。なんか,そんなことを大事にしたいと思っているんです。それを感じ取ってくださって,言葉にしてくださったということのありがたさです。

 定型優位の世の中で,現実に日々の生活を成り立たせていこうとしたら,どうしても定型基準で「ここが問題」ということを整理して,それへの具体的対策を考えることが必要になるのだろうと思いますし,だからいわゆる「専門家」の方にも,そういう視点でのみ問題を考える方もいらっしゃるような気がします。

 ただ,それだけに終わってしまうと,なんか大事なことが抜け落ちていく気がするんです。それは,この世の中,いろんな人がいて成り立つわけで,それぞれがそれぞれの長所や短所,個性を持ちながら,結果として補い合いながら生きているんだと思うんですね。それをある基準だけを絶対のものとして,すべてをそれ一色に染めてしまおうとするような行き方は,なんか柔軟性を失って,やばくなると思うんです。というか,単純に言っても息苦しい。

 じゃあ「みんないろんな色でいいじゃん」というだけで終わってしまうと,こんどは「あんたはあんた,わたしはわたし。お互い干渉しない。さようなら」の世界になってしまって,一緒に生きていくことができない,という意味でこれもまた「一色に染める」話のたんなる裏返しで終わってしまう。

 ほんとに深刻に違う者同士,それこそ下手をすれば命に係わるような傷つけあいもするような者同士が,違いを認め合った上でどうかかわり合えるのか。まあ,永遠の課題ともいえますけど,定型アスぺ問題ってそういうすごい深刻な問題にダイレクトに直面しているような気がしてなりません。

>現実問題、それがわかったところで何かの役に立つのかはよくわかりません。

 私の勝手な思い込みですけど,より広く深く柔軟に考え直してみるほど,抱えている問題の「大切さ」が見えてくるような気がします。「不運にも困った問題に落ち込んでしまった」という見方ではなくて,「自分にとって価値のある,大事な問題に直面している」と感じられるようになる(かもしれない(笑))。そしてもしかすればラッキーなことが起こって,それが自分にとってだけ価値があるんじゃなくて,他の人にも役立つようなことがあるかもしれない。

 ま,ぜんぶ「かもしれない」の話ですので,「現実問題、それがわかったところで何かの役に立つのかはよくわかりません。」というのが正解かもしれません (^ ^;)ゞ

 

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