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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年12月 1日 (月)

冷めた好意?

 定型同士では感情的に相手に関わることで,相手を励まそうとしたり,支えようとしたりすることがあるし,相手からそうされることで救われることもあり,そういう「気持ちのやりとり」が人間関係の中でとても重要になるわけですけれど,定型アスぺ間ではまさにそこのところに大きな問題が起こりやすいのですよね。

 私のパートナーはそういう気持ちのやりとりは極力避けるような気がします。やろうとしてもかえって混乱して,状況が悪くなるばかりだったりするからでしょう。人から物をもらっても,お返しはしないと言います。このプレゼントもまた気持ちのやりとりの大事な一部になりますが,以前,随分苦労してなんとかやりとりをしようとしてやはり全然うまくいかず,悪くなるばかりだったので,もうしないことにしたと言います。

 プレゼントをもらって,それが自分への好意だということは彼女も分かるわけです。でもそれにどう答えてよいかわからないし,その好意の中身もなんなのかは戸惑うようです。

 たぶんそういうことのひとつなのかなと思ってみるのですが,私が彼女に喜んでもらおうとか,しんどそうなときに手伝おうとしたりしても,それに感謝されたと感じられることがほとんどありません。むしろ戸惑われたり,不機嫌になってしまうことすらあります。その好意をどう理解して,どう応えていいのか分らなくなって,そんなふうになるのかなと思います。

 そういう状態に自分が置かれ続け,そしてそれが定型アスぺの大きなズレなんだと分ってくると,改めて自分の彼女に対する「好意」が決して「無償の愛」みたいな高尚なものではないことを思い知ることになります。

 というのは,やっぱり自分はその「好意」への「見返り」を期待しているんですね。その「見返り」というのは,もちろんお金とか物とかではありません。彼女からの感謝とか,喜びとか,そういうものです。そういうことを期待し,それがあれば自分も支えられるところ,そういう表現が極端に少ないか薄いために,気持ちのバランスが取れなくなるわけです。だいぶ前の記事で,「砂漠に水を撒くような」という表現でも考えたことがあったように思います。

 ただ定型同士であれば当然のことに思えるそういう「見返り」がもし得られないものだとしても,自分の側からの「好意」を失いたいとは私は思えないのですね。そこを失ったら,もうなんのために一緒に暮らしているのかが分らなくなります。

 じゃあどうやったら定型的な「見返りへの期待」へのこだわりを減らして,気持ちのバランスシートが崩れないようにしながら,なおかつ好意を無にしないということが可能になるのか。実にむつかしい問題です。

 立場を逆にして見れば,彼女のほうも彼女なりの形で私のためにいろいろと好意を示してくれているのだと思います。ただ申し訳ないことに,私がそれをなかなか気づくことがむつかしく,好意を好意として感じる感度のいいアンテナを持てていません。なんというか,好意にも波長のようなものがあって,それがずれていると,お互いに気づきにくいのでしょう。

 こちらからの「好意の電波」は,いくら送ってもそれへの返信がないので,電波を相手に送ることは基本的にやめて,ただ自分の中の好意として閉じこもり,言ってみれば自己満足の世界になったらちょっとは楽になるかなとか,そんなことも考えたりします。あるいは自分の気持ちを冷め切った状態に持って行くとか。

 たしかに,「熱い好意の気持ち」を切り離して,感情のやりとりは考えず,たんたんとした気分に切り替えてみると,とりあえずかなり楽になる気がします。もしかすると,アスぺの方は基本的にそういう種類の世界に生きようとしているのかなと想像もしたりします。もしそうなら,私がそれに合わせていることになるのかもしれません。

 問題はそういうたんたんとした気持ちを続けた場合,それは「他人」になってしまうことを意味しないだろうかということでしょうか。定型的にはそういう感情の割り切り方は,やっぱり「冷たい関係」になりやすいでしょう。あるいは相手を切り捨てる時の態度にも近いかもしれません。

 でもアスぺの方から見れば,多分そいういう姿勢は相手を切り捨てることではないのでしょう。なぜそれが切り捨てにならないのか,その秘密を知りたい気がします。もしそれが分かれば,少しはそこから学べるものがあるかもしれませんし。
 
 

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コメント

以前に一度コメントをしました、自称アスペルガー疑惑の碧です。
最近の共感等に関する記事を見て、ずっと疑問に思っていることがあるので質問をさせていただきます。

まず、共感というものの本質についてなんですが、多くの方は家族や友人などの親しい人が自分と関係のないことで喜んだり悲しんだ場合も、喜びや悲しみと言った感情を感じるのでしょうか?

私はそういった場合、相手の話を聞いて「そういう出来事、事象があったのか。」と認識をするに留まります。
ただ、助けを求められたときは現実に可能な範囲で助けます。喜んでいるのならば、マナーとして祝福の言葉はかけます。
しかし、同じような感情を抱くことはありません。一緒に喜んだり悲しんだりは出来ませんが、そういう振り、演技なら出来ます。

次に、相手の好意への対応についてです。パンダさんが期待をするような反応は、多くの方はスルリと出てくるものなのでしょうか?また、その反応は、本当にその反応のままの感情で構成されているのでしょうか?

私は嬉しく思うことにズレがあるようで、相手の好意だと認識しても嬉しく思えないことがそれなりの頻度であります。余裕がないほど好意に応えられず、自分のペースを保たせて欲しいと思うこともあります。
また、多くの人の言動からは本心が見えないのでプレッシャーに感じることもあります。特に好意は対応に失敗した場合大変なことになるので、喜びよりも先に恐怖や困惑を感じることもあります。

そういう前提があるとして、私は他人であればあるほど、おそらく相手の期待するような反応を返します。喜んだり感謝する振りをします。その方が大概が上手くいくからです。
しかし、この行為はパターンとして認識し、演技をしているだけなので本心ではありません。
要するに、仮面を被っているだけで相手の感情なんてなに一つ受け入れられていません。

(好意の内容にもよりますが)親しい人にそんな不誠実な態度はとれません。もしかしたら、振りをした方が相手は満たされるのかもしれません。そうするのも、優しさなのかもしれません。
でも、どうしても演技をすると上滑りをして、大切な相手の気持ちとかも無視してるような気になります。少なくとも私は、親しい人にそういう対応をした場合、相手が満足そうな顔をすればするほど傷つきます。

共感が出来ないと、相手の感情を汲むことと優しさが結びつかないんですかね。本心じゃなく振りをするときは、事務的な行為として行なってしまいます。

相手の好意に気付き期待に応えようと振りをすることがあったら、それは優しさになるんですか?
私は本心を言って欲しいですけど…
じゃないと、また同じ事をしてしまうので。相手のデータが必要なんです。

長くて要領を得ない文で、すみません>_<

トマトです。

この「定型から見た寂しい関係性」には、ASの人の「感情の掴みそこね」の特質がからんでいるので、感情を掴みそこねるということがどういう感覚か実感出来ない定型には、どうにもこうにもそこに共感をフィットさせることは不可能ではないかと思うんです。

理屈としては、頭で「そういう人も居るのか」と理解しようとします。
でも、その当事者に感情を抱いてしまったら、自分の気持ちや存在感をどう殺してよいものやら、という問題になりがちです。

理論上の正解を得たところで、感情は湧き上がり、胸にあふれ、苦しくなり寂しくなり、涙となって
したたり落ちます。

それは「感情というものをつかめるか否か」という脳機能の問題なので、心理の方向で探ろうとしても駄目なんだと思います。

情報も知識もシンプルな伝達も伝わるのに、感情だけが伝わらない・・・
ここに定型の自分殺しの試練が続きます。

(定型レベルでは)ASの人は相手の感情を求めない・・という感覚に、定型流のあれこれな納得材料をもってきて心理分析しても、それは、ブロークンレコード状態でずっと、つまづき続けるところだと思うんです。

ASの人と仕事がらみで対峙していて、仕事なんだからよけいな感情が交差しない心地良さに満足するときもあるんです。
でも、仕事のパートナーと認識しているASの人が、ふと見せる「感情の琴線に触る」言葉や行為に、嬉しいという感情、感謝という気持ち
できれば私のこの「ありがとう」という気持ちが伝わり受け入れられたいという欲が出て来てそれを口に出す。

その後の・・・妙な・・・・独り感。

ASの人は、私を切り捨てているのではない。
「ありがとう」の取り扱いが解らないから、自分であみだした「そういうときはにっこりしてみせる」を実行するしかないのだと・・

それも「大変だね、ありがとう」なんだげど。


碧さん

 するどいご質問,ありがとうございます。
 おかげさまでいろいろ考えることがありましたので,あとで記事で書いてみますね。


トマトさん

 碧さんも問題提起してくださっていますが,
 最近「共感」と「共有」あるいは「共通」を少し区別して考えて見られないかと
 そんなことを思っています。

 アスぺの方の感情については,もちろんないわけではなく,
 すごく感情の問題で苦しんだり,苦労されたりしているし,
 他人への共感がないわけでもなく,
 ただ定型よりはむつかしいんだろうと思います。

 いろいろアスぺの方のお話とか伺っていて,
 アスぺの方の感情の働き方については 
 以前よりすごく分ってきたという実感はあります。
 以前は「感情があるのかないのか」ということすら混乱しましたけれど,
 もうそれは全くありません。
 
 あるのだけれど,違う,ということが前提になって,
 その違いは経験による部分と持って生まれた部分と
 それぞれどんなふうになっているんだろう,
 ということが今は考えるテーマのひとつです。

 そういう分け方をしてみていくと,
 意外に感情の動き方について共通する部分を感じるし,
 それがなぜ定型的な形にならず,
 アスぺの方の特徴になっていくのかについても,
 結構な範囲,経験の違いによって理解できそうな部分が見えてきます。

 もしそうであれば,同じアスぺの方でも
 育ってきた家庭での受け止められ方によって,
 その後の生き方や性格などがかなり違うように思われることも
 理解ができるようになってきます。

 
 異文化の人と接した経験から思うのですが,
 全然違う価値観や感覚を持った,ほんとに理解がむつかしい人間同士,
 そのことを前提にしながら,なおかつ相手の人と信頼関係を創る工夫もあって,
 人間の社会って昔からずっとその努力を続けてきたんだなあと思えます。
 定型アスぺの問題もある意味その一つのように思えます。

 共感と共有についていえば,
 感情の内容をすり合わせて共感することはむつかしいですが,
 すごく基本的な感情の動き方については
 かなり共通する部分もあって,
 そこは共感するしないに関係なく,すでに「共有」されていそうに思います。
 これはこれまでいろいろアスぺの方と交流させていただいたことからの感覚です。

 その「共有」されている「共通」部分にうまく目を向けることで,
 単なる共感ではない形の信頼関係や人間関係が見えてこないか。
 そのあたりを考えています。

 

読んでいて思うのですが、ふとした瞬間に共感できた? ような時があっても、蓋を開けてみると やはりズレがあり、あの瞬間はちがったのか、と、ガッカリする。… 一度共感しあえた?ような気がしても 次はちがったりする…

この部分を 分析、理解しようとしても なんだか無理があるような気もします。
ある瞬間は 何か共有されたような 共感したように感じて 今後の関係に期待が高まり お互いの関係がやっとわかりあえた、成長できたように思えて、それが、続いていくように定型は期待していきますが
アスペの方は、そこで プツっと完結してしまう。 それはそれで終了、次は、別の人? ってパターンのような気がします…

共感しあえないとき、考え方 うけとめかたを聞いてみると いってることは正しいけれど じゃあそこに気持ちはともなってるの?疑問がふつふつとわく。 定型はどうしても、感情がともない、気持ちを話をしても 理論上でしかかえってこなくて そこにアスペの方にも感情がともなっていても その感情には、予想もつかない理論からの感情で その感情を分析すれば 理論上わからなくもないので 一応理解できたような 共感できたような錯覚に陥りますが 、理論やルールなどからの感情なので、定型が感じる 通じた感は 錯覚…もしくはその場かぎりで 完結して、またスタート地点の繰り返しのような気がします
すみません、マイナス的な意見で…。

定型アスペ問題に限らず、どんな人にも生育歴はものすごく影響アリですよね。

カウンセリングを受けた時、私が主人の問題例を上げると、臨床心理士の先生は「だって、経験してないから・・・」「経験してこなかったから・・・」とおっしゃってました。

確かに、その通りなんです。

私だって、経験していないことに対しては、どうしたらいいのか不安になるし、誤魔化したくなったり、どう対処したらいいかわからなくて逃げたくなったりしますもの。
そう、ASも定型も、そのところは同じだと思うんです。

だからと言って、私は誤魔化したり、逃げ出したりはしないんですけど。常に、「じゃあ、どうしよう・・・」って考えちゃう。これが、私の性格なのかな。

我が主人の両親に、主人の幼き頃のことを聞いても、「手のかからない子だった。」といい、具体的な事を聞くことができません。エピソードが聞けないんです。勿論、彼の口からも聞くことができません。

このような両親に育てられた子供って、親子の関わり方、人との関わり方を学んでいるとはとても思えない。
専門書等は読んでも、小説なんて読まないですから、疑似体験もできず、想像力もついていません。
自分が実際に経験したことしか分からないのです。
そこには、ASという脳の仕組みが大きく関わってきているのも確かなんですが。

だから、彼が経験してきたことに関しては、私と話が合う、理解できる=共感できるという事になるのです。

その時は、彼も嬉しそうですし、私も嬉しいし、楽しかった。
家族というものの認識と経験に、私と彼が経験してきたものが大きく違ったがために、夫婦ふたりだけの時は良かったのだけど、子供ができてから・・・彼の経験が生かされなくなっていきました。親子の関係が希薄だったからなのか・・・と私は感じています。

このように、彼と私の間でズレが生じた時に、「彼は経験してないから分からなくて当然」と思う(考える)ようになってから、以前ほど寂しい、苦しい感情に私が押しつぶされることはなくなりました。

なので、娘たちにも、「お父さんは、経験してない(経験してこなかった)から、気持ちがわからない(通じない)のも仕方がないよね」と言うようにしたら、娘たちも納得出来る部分を見つけたようです。

主人に、「いろんな経験してないでしょ」と言うと、「経験してる!」と反論してきますが、私は、全く経験していないと否定しているわけではなく、人間関係、社会性の経験値が低いという事を理解して欲しいと思うだけなのにな。

私が彼に理解してもらいたくてあれこれ言う言葉を、否定的に取られてしまうのが辛く感じるけれど、これも彼が沢山?否定される経験をしてきた結果の対応なのかもしれない・・・と感じるようになりました。

パンダさんの書かれていることを読んでいて、私が感じたことを書かせていただきました。


どんぐりさん

 「積み重ねが希薄」という感じは私も気になり続けているところです。
 私の感覚ではいい加減信頼関係が安定してもよさそうに思えるところで,
 なにか薄いガラス細工が小さな衝撃でパリーンと割れて元に戻りようもなくなるとか
 そんな印象をアスぺの方に受けることも何度かありました。
 
 その話がどんぐりさんの「その場かぎりで 完結して、またスタート地点の繰り返し」
 ということとどこまでつながるのか,つながらないのかは
 私にはまだよく分りませんが,なんとなく関係ありそうな気もします。

 マイナスの見方については,もともとがほとんど絶望的な気持ちにもなる
 巨大なズレを抱え込んだ関係がアスぺ定型の関係でしょうから,
 マイナスに見ざるを得ないことは,いい悪いと関係なく
 まあ自然な成り行きのように思います。
 いくら頭で考えたって,感情が付いていかないことはいくらでもありますし。

 私の場合は性格的にしつこいので (^ ^;)ゞ,
 自分の中で可能性を感じるうちはプラス面にこだわり続けるのでしょう。
 今までの所では「もうこれで限界」という感覚はまだありませんし,
 結局同じところをぐるぐる回っているだけ,という自覚もまだできません。
 逆にだんだん見えてきているものがある感覚の方があります。

 とはいえ,もちろん,先のことなど分らないわけですし,
 ほんとは単に同じところをぐるぐる回っているだけかもしれません。
 あらかじめ正解を決めることなど無理だとすれば,
 そのへん,どうするかは極端な話,趣味の問題かもしれませんね。
 まあ,みなさんからいろいろ教えていただきながら,
 肩ひじ張らずにぼちぼち考えられればと思っています。


コクーンさん

 コクーンさんのお宅の様子を拝見していて,
 なんとなく我が家に通じるものを感じたりして,
 「ああ,似たようなことに突き当たっているのかなあ」とか
 そんなことも思いました。

 経験の差が持つ影響については,もしかするとアスぺの方は
 定型以上に大きかったりする可能性もありそうに思います。
 定型はいい意味でも悪い意味でも,周囲と調整する傾向が強いですから,
 経験の差もストレートには出ずに,なんかかんか調整されてしまって,
 あまり極端にはなりにくい,ということがあるかもしれないと思うからです。

 その点,アスぺの方は自分の世界で自分を作っていかれる傾向が強い
 という印象を私は持つので,経験の差がストレートに,あるいは
 極端な形で蓄積されることもありうるような気がするんです。

 それはそうと,お子さんへの言葉かけが
 お子さんにもなにかインパクトがあったようで,よかったですね。
 そういう言葉かけができるといったことが,
 きっと将来に大きな意味を持つんだろうなと感じます。

パンダさんがおっしゃる、積み重ねの希薄さ、ガラス細工の表現、まさしくその通りです。 同じように感じているんですね…。

私は パンダさんご夫婦のような年月ではないと思いますが それでも10年以上関わってきました。はじめて出会ってからはさらに長い年月があります。でも年月とか、出来事とか、どんなに深い絆を持っても どなに多くの思い出ができても、そこが重要視されることはなく、一歩進んだ気がしても三歩後退り、少しずつ成長し進んだ気がしても、いきなり完結するイメージです。
悲しいかな いつもスタート地点で 深まらないというか…

離れてみて思うのは 子どもにすら 関心が薄いですから…

そんなものなのか…と割りきらなければ スタート地点にたつたびに 自分が崩れそうになるのです

いつか、いつか、いつか きっとわかりあえる

いつか、いつか…
と願いながら 年月だけが過ぎ去り…
何も変化のない現実に、絶望しか感じられずに …

子どもだけをまかせられ
自分の楽しめる仕事や趣味の世界だけに打ち込み、食費と高収入にも関わらず数万しか家庭にいれない、変わらない元夫を 変わらないのだと 諦めるしか私にはありません

話をしても 頭がよいから理論だけをぶつけられ 気持ちは感じません。

変わらないのだ…
そうあきらめ 離れるしかありませんでした。

>アスぺの方は自分の世界で自分を作っていかれる傾向が強い
 という印象を私は持つので,経験の差がストレートに,あるいは
 極端な形で蓄積されることもありうるような気がするんです。

主人のことで、思い当たるフシがあります。

ある雑誌で、縦軸横軸を頼りに4つのタイプに分けるチャートがあり、私と娘が主人のことを「ここに当てはまるよね」と分析していました。そして、主人に「自分はどのタイプに当てはまると思う?」と尋ねたところ、私たちが予想していなかった「理想」のタイプを指してきたのです。彼自身が自分だと思っているタイプと、私たちが見ている彼のタイプが違った・・・。このズレが、衝撃的でした。沢山自己啓発本を読み、知識として得た情報で自分のイメージを作り上げているのか?と思ってしまいました。

そんな彼に、私は「(あなたについて)他の人の言葉は鏡のようなものだよ。鏡に映さないと自分の顔も見えないでしょ。自分で気づかないことを教えてくれているのよ」と言葉かけをしているのですが、なかなか分かってくれません。私たちの方が勘違いをしていて、勝手に捉えているだけだと言うばかりで、私が納得できる説明はありません。鏡の役目が果たせない。それだけ、人を信用できない状況なのか・・・と悲しくなってしまいます。

理解してもらえない辛さを抱えているのは彼のはずなのに?(と私には思えてしまうのだけど)、そんな彼を助けるために、他に何かアプローチの仕方があるのかな・・・

パンダさんと同じように、いろんな方法を考えてみたりしてますが、実際には、私が思うほど彼は困っていないのではないか?という疑問にも答えがないままなのです。
感情が見えない、察することができているつもりでも確信が持てないって、不安になりますね。

どんぐりさん

 拝見していての勝手な印象ですけれど,お相手の方は頭がよくて,
 世間的にはエリートの道を進まれてきたということなのかなと思いました。
 対人関係でのいろんな困難も,そういう頭の良さで乗り切ってこられたとすれば,
 その今のご自分の生き方に疑問を持つことはなかなかむつかしいですよね。
 
 そんなふうに「自分自身を考え直してみる」ということをするかどうかは,
 定型かアスぺかということとは違うところで決まってしまう部分が
 もしかすると結構あるのかもしれないと思いました。
 人間だれしも今の状態でなんとか行けているうちは,
 自分の足元を考え直すなんて,そんなめんどうなことはしたくないでしょうし。

 私がパートナーに向き合う気持ちを持ち続けられているのはなんでなのか,
 そのことを改めて考えたのですが,
 たぶん彼女が彼女なりに本当に真剣に問題を考えようとしてくれているから
 ということだと思うんです。
 悲しいことに,お互いの頑張りがそのまま相手に伝わるようなことはないですが,
 でも,すごいズレを含みながらも誠実に頑張ってくれていることはわかる。

 それがもし,彼女の方がまるで居丈高にただ自分の正当性を言い立てるだけなら,
 私はとても一緒に生きていきたいとは思えないと思うんです。

 そこは本当にそのひとひとの成育歴とか,人柄とかがすごく関係してくる部分
 という気もします。
 だから,私は定型アスぺのカップルに,「頑張って一緒に進む道を模索すべきだ」
 というようなことは絶対言いたくはないんですね。
 そうすべきでないカップルだってあると思います。
 相性だってあるし,ほんとにそんなの,ひとつの「正解」があるわけないと思います。

 ただ,どう進むにしても,そこで経験したいろいろな苦しみや悲しみを
 ほんとうに大事な経験として生きられるようになるといいなと,
 そのことは思います。
 人生に無駄なことはない,と思いたいわがままかも…… (^ ^;)ゞ
 

コクーンさん

 「実際には,私が思うほど彼は困っていないのではないか?」ということ,
 私も似たような感覚を持つことがあるんですね。

 まあ,考えてみると,アスぺの方の生き方は,基本的には
 「私の問題は私の問題として自分で対処するしかない」という姿勢のように思うので,
 たとえば夫婦の問題や子どもの問題と言った,
 「お互いに共有している問題」と定型なら感じそうなところも,
 「一緒に考え,一緒に解決していこう」とはなりにくくて,
 それぞれが自分の責任で対処するというスタンスになりそうですし,
 その際に「これ以上考えたところで意味はない」という見切りがあれば,
 そこでの気持ちの切り替えもはっきりしているのかもと想像します。
 そのときは,定型的に見れば「同じ問題を共有している」はずの相手は
 こちらのほうはなお悩んでいたり,一緒に考えたいと思っていたとしても,
 「それはあなたの問題でしょう」という割り切り方をされてしまうのかも。

 もしそういうことになると,定型の側としては
 なんだか置いてけぼりにされてしまって,相手が一人で勝手に
 気楽になっちゃったと感じたりもするかもしれません。
 で,そうできるのは,もともと悩みがそんなに大きくなかったからかも
 という推測が働くようになる。

 アスぺの方は,小さいころからいろんな諦めとか,割り切りとか
 そういうことを積み重ねてこられているのかなと想像します。
 もちろんそれでも鬱になられたりとか,大変だったりするわけですけど,
 そうやってたくさんの諦めや割り切りをしなければ,
 ほんとに身が持たない状態もあるのかなと思うんですね。
 だから逆にそうやって割り切ろうとしない相手のことは
 不思議になるんじゃないかとも想像します。
 かといって割り切ったからアスぺの方が辛さを抱えていない
 という話でもないと思うし,
 そのへん,なかなかややこしいです……

 例によって勝手な想像ですので,アスぺの方から見てどうなのかは
 ほんとにわかりませんが,
 そんな風に考えてみると,私的にはなんとなく理解できる気もします。

 

パンダさん

そうですね

まず、アスペの方も一人一人ちがうと思いますし、男女の差や 生育環境など 経験でそれぞれちがうと思います。

パンダさんの奥さまほど 元夫が自分を振り返ったりしていたかは わかりませんが 彼なりに 悩んだり 壁にぶつかっている姿は見てきました。
彼なりに深く傷つきながら こなしてきていたのだと思いますが、基本 自己内で完結していたように思います。 その場しのぎの術は 彼なりに習得していたのでしょうが それは身内には通用するものではなかったです。

まず 話し合いがあまりできないので 小さなもめごとが、離婚騒動まで進展してしまうし、一度 変わる自信がない!と 叫ばれたことがあります。苦悩が見えましたし その場にいないとならないのはわかるが 逃げ出したいような態度、彼の理論と私の感情が どうしても噛み合わない。 理解をしたいと歩み寄ると さっと身をかわす…ような…
そういう空気の読み 用心深さは 神経質なくらいで 話し合いが 彼を苦しめているようで 逆ギレされるし 私ももめることが怖くなったり…
ある程度は 私も 変わらないのだと 割りきらなくては 彼を苦しめるのでは?と引いてみたり…
そうすると それをよいことに ますます横柄な態度をとられたり
悪循環でした。 ある程度 こういうものか、変わらないのだということを割りきることも必要なのかなと… そうしなければ 彼が壊れそうにも思えたり 自分も疲弊してしまい …
しかし そうなると またスタート地点で 開き直られているような?

本当に 難しいです。

彼は パンダさんの奥さまのように 立派ではなかったかもしれませんが 何かちがうと自覚はあり、悩んではいたと思います。 悩むとフリーズして微動だにしなくなる姿を見るのがつらかったです。

アスペと定型の関係での問題で、答えがほしい 何か納得したい 理解したい …私も考え、悩み、相談機関を利用し 講演を聞いたり
でも 結果 歩み寄ろうと理解したいとすることに そもそも 無理があるのでは?
彼の特性に寄り添うというのは どういうことなのか ?
お互いが ボロボロになることではない

答えはないのかもしれない そんな生易しいものではない…
ひとつ 私の中での答えは 割りきること… 期待しないこと 求めない、でした
答えになってませんね
すみません

どんぐりさんの元ご主人と、私の夫の問題は、似ているなと感じました。
経験していないから分からない部分もあれば、人とはかなり異なる経験を積んできた場合もあり、それがストレートに、応用もなく身に付いてしまうのがアスペなのかなと思うのです。

夫は、かなり異質な、過酷な体験をしてきました。
そのトラウマがかなり激しく、それをストレートに家族に出していました。
自分がその過酷な状況を生き抜いてきた経験を私や子どもたちに強要しようとしてきました。
しかし、そこには混乱があるので、その主張も一貫しておらず、家族は振り回されるばかり。
しかし、その経験を、アスペ独自の感覚で生き抜いてきたことが彼の『自信』になっているので、それがおかしいと疑うことはないようです。

ただ、家族が冷たい視線を送っていることには年月が経つにつれ、気付いてきたようですが。その解決方法を彼なりに試行錯誤しているのが分かるのですが(アンガーコントロールの本を読んだり・・・・・・)、小手先の努力ではなかなか変わらないのが、俯瞰している私からは分かる。

しかし本人にはそれを示唆することはできませんね。したとしたら、激しい抵抗にあうのは目に見えていますから。
彼なりになんとかしようと思って努力していることを認めて、私自身が、彼が怒り出しても『こういう原因なのだ』と割り切って自分をコントロールして耐えるしか。

非常に精神力を必要とする作業ですね。
別れるか、別れずに耐えるか。
どちらが『自分の人生』にとってメリットが大きいのか、そのあたりから判断するしか無さそうだなと思うこのごろです。


あすなろさん

ありがとうございます。気持ちに寄り添っていただいて (元夫からはなかった)感極まり うれしくて熱いものがこみあげました。 通じるって、それだけで大切ですよね。

元夫は 小さな話し合い→逆ギレ→逃げてしばらく帰らない、音信不通

もしくは
逆ギレ→離婚だ もう無理だとパニック

もしくは
話し合いモードを感じると 一人になりたがる よせつけない または 寝る。
話し合いだけでなく

子どもは基本私にまかせきり。学校行事は出ない。
私の実家にはいかない。
そして自分は 仕事と称して家にはいない
もちろん仕事でしょうが 趣味に没頭。

計画はたたない

ほかにもあげればキリがないけど 家族はただの同居人って感じで、、
ブルンブルンに振り回されっぱなしでした。

約束もなりたたない
給料も 食費のみいれる

彼のルールにはまらなければ 許せないようでした

歩み寄ろうとしても逃げる 放置すれば好き勝手にする 話し合いをしようとすれば上記の通り。

解決方法が私にはみつかりませんでした

どうにかできなかったのだろうか… 一体、なんのための結婚だったのか、
いまだに考え悩みます。

どんぐりさん

お相手の方への憤りや絶望感だけなら、ある意味悩む必要もなく、ただ別れればそれですむんだけれど、相手の方の悩み苦しむ姿を見てしまうから、そこで割り切れなさが残ってしまう、ということなのかなあと思いました。

ああ、その感じ、考えてみれば私もいくつか経験しています。例えばアスペとはある意味正反対の性格を持った母親に、兄弟共々ずっと苦しめられてきたんですけど、激しく自己中心的でも、そこに母親なりの愛情は感じるし、それに、周囲の人間はほんとに振り回されて大変ですが、そんな風に不安定な母親の辛さも伝わってくるので、やっぱり気持ちの上で切り捨てられないんです。

その辺りは人によってさっと割り切れるタイプと、引きずりやすいタイプがもしかするとあるのかな、とも思ってみますが、私の場合は明らかに割り切りが下手で、引きずるタイプなんでしょう。

まあ、そういう性格に生まれたのも運命ですから、そういう自分として、うじうじと考え続けるしかないんだろうな、というのは、私なりの開き直りかも。

結局、それぞれの方が、それぞれに抱え込んだ状況や性格のなかで、自分らしい割り切り方や開き直り方を見つけることが必要なのかなと、そんなことを思いました。

アスペの方も、そんな諦めや割り切りを、他人に対して小さい頃からずっと積み重ねてこられているとすれば、定型アスペのカップルが持続するには、そこを何らかの意味で共有するしかないし、そのことにお互いが意義を感じられなかったり、ただ傷つくだけの思いになる場合は、お互いに自分の道を歩む決断が必要なのかも知れませんね。

誰も不幸になりたくて生まれて生きている訳じゃないだろうに、なんとも不条理なものです。

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