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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年12月16日 (火)

スマートでない生き方が普通

 ええっと,この話はどっちかというと定型の「気持ちの整理」に関する話で,アスぺの方にはもしかすると「何の意味があるのかわかりにくい」ことになるのかもしれません。そこはよく分りませんが,もしそうでも,まあ「定型的な気持ちの整理の仕方」の模索の一例としてお読みいただければと思います。

 アスぺの方は世間的には「困った人」として見られてしまう危険性が大きいわけですよね。何しろ生き方のスタイルが定型とはかなり違いがあって,定型の理屈にはなかなか従ってもらえないわけですから,いろんな問題が起こってしまう。

 で,すごくドライに考えて,定型が自分のやり方で「普通」に定型的に幸せに生きていこうと思えば,一番簡単なのはそういう人には近づかないことでしょう。まあ,職場とか地域とか親子ではそれはむつかしいこともあるでしょうけれど,少なくとも恋愛とか結婚とか,そういう「自分である程度選択できる」はずのことについては,「はいさようなら」と言えばある意味「問題解決」になります。というか「問題以前」に戻るということかもしれませんが。

 ところがこのブログをお読みくださっていたり,あるいはいろいろネット上で探り続けていらっしゃる方の場合,もう別れるという決断をされた方でも,どうしてもそこですぱっと割り切ってしまえないなにかが残りつづけて苦しまれていたりするのでしょうし,もちろん別れていない方の場合は割り切れない思いをどこかに抱えながら,ぎりぎり日々をすごしていらっしゃるか,あるいはそれでも少しでも前向きに道を模索されようとしているか,という感じなのでしょうね。

 さらにとても上手な割り切り方をされているために,それほど大きな問題を抱えずに別れないで過ごしていらっしゃる定型アスぺカップルの方もあるかもしれません。


 つまり,もしもすごく割り切りができるタイプの方(能力をお持ちの方?)なら,最初から定型アスぺのカップルなど作ろうともしない方も,カップルになってから別れている方も別れていない場合でも,もともとこういうブログとかに訪れる必要もなく,日常をすごしていけるわけです。

 さて,そうするとこの「割り切れない」状態を多少なりとも抱えている私(たち?)の場合,「割り切れる」タイプの方から見れば,なんで好き好んでそんな状態にい続けるの?と不思議に思うかもしれません。生き方としては全然スマートじゃないし,理屈に合わないと感じられるかもしれません。

 仮に人から自分がそういわれたとして,「ああそうか」と納得してもっとスマートに割り切って生きられるかというと,これがなかなかそう簡単なものではないでしょう。そんなことができれば最初からこんなに苦労はしていないよ,というか(笑)。


 人間,やっぱりそれぞれの人が持って生まれたものがあるし,親を選んで生まれてくることもできないし,生まれる場所も選べないし,そもそも別に生まれることを自分で選んだわけでもありません。自分の顔かたちも,姿も,性格も,基本的なところはほんとにもうただ与えられただけで,選んだわけではない。

 もしもっとスマートに生きられる方があったとしても,そういうスマートさを発揮できる条件がなければ,そうはならなかったはずです。他人に対して「有利」と言われる立場にあると,人はとかくそれを「自分の能力」や「努力」によって獲得したもので,他人は「能力」や「努力」に欠けているのだと素朴に思ってしまいがちだと感じますが,実際はそういう単純な話ではないと思えます。

 (「運命」というような言葉は,そういう問題を考える時に使われるんでしょうね。いくら同じような能力を持って同じように努力しているように見えても,あるいは人並み以上に努力しているように見えても,結果が全然ついてこないことはいくらでもあります。その場合にそれはもう「運命」として納得するしかなくなる。)

 
 という見方をしてみると,アスぺの方も,また定型アスぺ問題を割り切れずにこだわり続けるタイプの定型の方も,どちらも同じような立場にいると考えられないでしょうか。一方でアスぺの方は定型的な基準が納得しにくく,自分を完全に否定して定型に合わせて定型的にスマートに生きることはできない。他方で割り切れない定型の場合も定型基準には合わないアスぺの方との関係の取り方を探し続けて,これまた「割り切った」スマートな生き方ができない。

 それって,努力でどうにかなる部分は少なくて,基本的なところはもうほとんど運命的に決まっているのではないでしょうか。かりに自分のことが嫌で仕方ない気持ちになったとしても,自分の体を脱ぎ捨てて他の人に乗り移るわけにはいきません。もうこの体とこの心で,それで可能なことを探していくしかないわけです。

 それが「自分らしく生きる」ということにならないでしょうか。自分のいいところも悪いところも,どちらも自分というものの一部なわけですし,それを切り捨てて都合のいい部分だけ組み合わせて生きることはできない。

 自分がいいと思っているところも,それをいいと思ってくれる人もいれば,困ったことだとマイナスに感じる人もある。だから,現実にこの世の中で生きていくためには,相手に合わせてお互いに調整しあう必要もあります。でもその場合の調整も自分を切り捨てて成り立つわけじゃなくって,あくまでもこの不完全な自分を足場にして,何が可能なのかを考えることしかありません。そんな,頭で考えたスマートな生き方で問題が解決するわけではないでしょう。生きているのはいろんな矛盾を抱え込んだこの自分なのですから。

 

 だとすれば,定型アスぺ問題を考える上で,改めてこういう理解の仕方に意味が出てこないでしょうか。これまでも何度か関連することを考えてきましたが,「自分らしく生きる」ということをベースに整理するとどうなるかという話です。

 定型もアスぺも,どちらも自分の思い通りにならない「この私」というものを抱えながら生きている。その生き方は定型とアスぺの間でかなり重要なところでズレがあって,お互いのコミュニケーションや「共に生きる」ことに,定型間で起こるものとはかなり違う質の問題を引き起こしやすい。これはどっちがいいとか悪いとかいう問題ではなくて,単にその人が持って生まれてきた条件によって生み出される生き方の違いというところが大きい。

 ただし,社会は多数である定型基準で作られてきているから,そのやりかたで世の中が動いている部分については,単なる力関係の結果としてどうしてもアスぺの方がより譲歩を迫られることになりやすいし,場合によってはアスぺの方のやり方が一方的に「悪い」こととして評価されたり,排斥されたりすることも起こる。

 それはアスぺの方にすればとんでもない誤解に基づくものと感じられたり,不当な迫害と感じられたりすることも多いだろうし,逆に定型の側から考えると,アスぺの方のやり方を認めると自分たち流が足元から崩されてしまい,自分を保てなくなる可能性が出て来るので,自分を守るにはアスぺ流を認めるわけにはいかず,「常識外れ」の「悪いこと」として排斥するしかないような気持に追い込まれやすい。

 そんなふうに「自分らしく生きよう」とすれば,そのことでお互いに矛盾が生まれ,シビアな葛藤を作ってしまうというのが定型アスぺ問題の重要な性格の一つになっている。

 それに現実的に対処しようとすれば,一番手っ取り早い方法はどちらかの「自分らしさ」を否定したり,あるいは優劣をつけて,「こっちの生き方に相手を従わせる」というやりかたでしょう。そしてそれに従わなければ排除していく。多くのアスぺの方が今の定型社会で受けている対応はそんなところかなと思います。



 ただし,家庭という特別の場で,男女という別の力関係がある場合には,逆に定型の側がそういう立場に追い込まれることも少なくないと思います。男性がアスぺである場合ですね。女性が家庭という閉じられた空間で自分の自然な感覚,自分らしさで生きることを否定される状況に置かれ,周囲に語ってもその大変さは理解されずにカサンドラ状態になる。そんな展開です。

 それに対して,お互いの「自分らしさ」をお互いに相手にとって大事なこととして認めたうえでの関係調整の仕方,ということが考えられないだろうか,と思うわけです。それは「障がいがあるから定型が配慮をしてあげて,アスぺの側も定型の基準にあうように努力する」という関係とはちょっと違って,基本的に対等な者同士が,ただ「生き方の違い」を抱えているので,そのどちらかの生き方を「普通」とか「常識」とか「正しいこと」とか決めつけないで,それぞれに意味を見ながらなお現実的な調整をそこで考える,というスタンスになります。
 

 もちろんこんな疑問はありうるでしょう。「<調整>とか言いだすそういう発想自体,とても定型的で,そもそもそれがうまくいくなら定型アスぺ問題など起こらないんじゃないか。そういう考え方自体が定型基準の延長でしかなくて,単に言葉の遊びをしているだけじゃないのか」というものです。

 こういう疑問については,まずひとつは「調整」ということの理解自体,定型アスぺの間でズレがある可能性があって,アスぺの方はアスぺの方なりに調整に努力されていると私は感じています。ただそれが実を結びにくい不幸なずれ方があって,それは定型アスぺの両方からまだうまく理解されていないと感じられる。だからそこは「調整があるない」の単純な対比ではなくて,「調整の仕方のズレ」の問題として見れば,また違うアプローチも考えられるだろうと思います。

 (昨日の記事でご紹介したアップルのソフトの話も,あの装置があることで,定型の母親と自閉系の子どもの間の関係が一歩進んだわけですが,そういうソフトを現場で実際に開発している人たちの中には,多分アスぺの方も少なくないと思います。そう考えると,定型がその能力を使って「調整」を試みているんだ,という一方的な見方はできなくなりますよね)

 もうひとつ,この考え方自体が定型基準の延長だということは事実だろうと思います。実際私は定型的な感覚から出発してその延長上に考えているわけですし。でも,そのことは否定されることではなくて,逆に大事にされなければならないと思えます。なぜなら,お互いに自分の感覚をベースに,それを深め,広げていって,重なりを見出していくことが大事だと思えるからです。「自分らしさ」をベースにしなければ,本当の意味で対等な関係は実現しないと思えるからです。



 ただし,「なんで対等じゃなきゃいけないの?上下関係でいいじゃない」という疑問については,今は私は自分自身の好みの問題としてしか答えられません。「上下関係がある方が関係が安定するんだ」と言われれば,まあたしかにそういう場合もあるよなとは思います。「そこを崩してしまうと,結局混乱が生じるんだ」という見方もありうるでしょう。

 理念としては「神の下に平等」とか「法の下に平等」とか,もっと素朴に言えば「おんなじにんげんじゃん!」みたいな,そんな話はありますけど,現実に上下関係がまったく存在しない人間関係とか,そういう社会というものを想像するのはむつかしいです。自分の生活の中でも「変に上下関係をつくったり,それを振り回したり,振り回されたりという関係は避けよう」という気持ちはありますが,それも「実際には上下関係はあるけど」という前提がはいっちゃっている気がします。

 でも逆に言えば,「おんなじにんげんじゃん!」というところを見失って上下関係を言いだすと,なんだかとんでもない暴走が起こってしまい,この世の中成り立たなくなるようにも思うんです。「自分の感覚が普通で,相手もそれを共有しているから<同じ人間>」なのではなくて,全然違う「生き方」を持っているけれど,そういう自分らしい生き方を求めている点で「同じ人間」なんじゃないかとか,なんかそんな個性を否定しない「共通の足場」をどうしても求めたくなります。
 
 と考えてみると,定型アスぺ問題って,「もともと千差万別の人と人が一緒に生きていくために何がだいじなのか」ということを考えるという,すごく大きな問題の一つなんだなと改めて感じます。

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コメント

パンダさん、ちょっと前の記事に戻りますが、私も結婚当初から、夫婦だけの時は、とても楽しくて幸せな時間を過ごしました。それが、子供が誕生して徐々にズレが大きくなっていったように思います。

私と主人は、生年月日が6日しか違いません。男女の差、学歴の差はあれど、人間として生まれてきてからの年月で言えば、同い年でほぼ対等だと私は思ってきました。

主従関係などありえない、学生に例えると同級生になるわけだし、家庭でも対等なパートナーとして行けるかな?と単純に思っていたのです。

大人同士の関係ですので、少々のことは多めに見ることができたし、受け入れる余裕もあったのだと思います。

なのに、子供が誕生してから・・・徐々に変わり始めました。彼の中に、父と子の主従関係ができた。

そして、持ち家を建ててから、彼の中に家長という認識が芽生え、私をも巻き込んだ主従関係が出来上がってしまった。

そこから、私のカサンドラが始まったように振り返れます。

主従関係が、定型アスペ問題を大変な事態へと発展させるのだと身を持って感じています。

でも、私だけがそれを感じても、主の彼が感じていないければ(自覚がない)、調整のしようもない・・・という絶望感になってしまう。

その絶望感から逃れようと、私が私らしく生きていくようにし始めたところ、私と娘たちは徐々に上向きになってきたけれど、それとは逆に、主人は「勝手なことばかりして!」と怒りを私たちへ向け、自分の思うようにならない事を私たちのせいにして自分の身を保とうとしています。

そんな主人を見ていると、もう私にはどうしてあげることもできない。私が私らしく生きる喜び(楽しみ)を知ったからには、昔の私(悩みながらも彼に嫌われないように務めていた私)には戻れないと、一層強く思うようにもなってきました。

今まで堂々巡りのように感じていた夫婦、家族関係が、私の意識を変えたことで、前へ進み始めた感がありますが、確実にまた岐路に立たされることになるでしょう。

彼の意識に変化が生じ、主従関係から解放されれば、かつてそうであったように、再び共に歩んでいけるという望みを捨てきれずにいます。

その為にどうしていけばいいのか。

パンダさんからヒントをいただきました。今度は彼に「夫婦や家族抜きで考えて、自分らしさってどんなんだと思う?」って聞いてみようと思います。果たして、彼が自分の考えを口に出して説明できるかどうかは疑問ですが、何か考えるキッカケになるかもしれない。

かつて、嫌々仕方なく今の仕事をしている(させられている)風に言っていた彼に、「じゃあ、あなたは何がしたかったの?」「どんな仕事に就きたかったの?」「何のために専門的な知識を身につけたの?」って聞いたら、やっぱり今の仕事にたどり着きました。自分がしたかった事だと自覚したときから、させられてる感漂う彼の口調はなくなったという経験があります。

もしもこのまま、彼が主従関係に持ち込んでいる自覚が持てなかったら・・・共に歩んでいく望みは捨てなければいけないのかもしれないという覚悟を、最近の成立しない会話(口論)でしました。

私はどんどん強くなっていくな・・・と思えてなりません。(笑)


コクーンさん

 子どもができてから問題がすごくはっきりしてくる
 というのは,かなり多くのカップルで言えそうなことなんですね。
 改めて「やっぱりそうなのか」と思いました。

 男女や親子間の主従関係については,
 もしかすると自分のモデルとしての親のスタイルも
 かなり影響するのかもしれないなあと思います。
 私のパートナーの家族関係の感覚も,
 彼女の実家の感覚がそうとう強く聞いているように感じることがときどきあります。
 もちろん定型だって同じだと思いますが,
 もしかするとアスぺの方の方が,その影響がより強固かもしれないと
 そんなことを考えてみることがあります。

 主従関係の自覚って,「上」の立場からはむつかしいんですよね。
 支配されている側はすごく感じやすいんだけど。
 何がそれを可能にするのか,
 またコクーンさんの今後の経験なども教えてください。

自分がアスペルガーかどうかということ以前に、実家でも結婚していた間も「対等」な扱いを受けた経験がありません。
「一般常識」に欠けるという障害特性があるので、自分の考えで行動するというのがきついので、いつも「誰かが指示をしてくれて、その通りにやりたい」と思っています。
実際には一人で生きているので、全てを自分で決めて、自分で行動していますので、とてもきついです。
今までのように「人格を無視した扱い」をされたいということではないのですが(それはそれでつらかったです)、「普通に尊重される」っていうのは、多分いごこちが悪いというか、結構しんどいのではないかと思うのです。
経験がないので、想像でしかありませんが。

ひとさん

 アスぺの方のお話を伺っていると,ほんとに私などは想像もできなかった大変な状況を,多くのアスぺの方は孤立して生きてこられているんだなあと思わされることがしばしばあります。ひとさんのこのお話もそのひとつです。

 ひとつかなり大事な問題と思えるところで,ちょっと私には理解しづらかったところがあって,よろしければもう少し教えて下さい。

 「普通に尊重される」ということの意味は,「定型にとっての普通のやりかたで尊重される(つまりアスぺ的には普通とは言えないやり方で)」という意味でしょうか。それとも「アスぺ的なやりかたも当然(普通)のこととして尊重される」という意味でしょうか?もし後者なら,そういう尊重の仕方が居心地が悪いとか,しんどいのはどういう理由でしょうか。

 

多分前者の「定型にとっての普通のやりかた」の方ですね。
数年前まで自分の障害を知らなかったので、誰かと一緒に暮らす時には「障害がない」という前提でしたので。
「アスペ的に」尊重されるっていう状態も想像がつきません。
尊重をされた経験自体がないので、私にとっては全て「机上の空論」みたいなものですけど。

ひとさん
 
 ああ,それならちょっと安心でした。
 もしアスぺ的な尊重のされ方というのが居心地が悪いとすれば,
 どうしたものかなあと思ったものですから。

 「アスぺ的に尊重される」ということの意味ですが,
 アスぺの方にとって自然に感じられる感じ方を
 「障がい」とかいうことではなくて,ある種の個性として
 当然のこととして尊重されるような,
 そんな状態をイメージしています。

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