2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 冷めた好意? | トップページ | 二種類のジグソーパズル »

2014年12月 2日 (火)

共感はやさしさの条件?

 記事「冷めた好意」に自称アスペルガー疑惑の碧」さんからいただいたコメントを読んで,これまで定型アスぺ間でお互いに繰り返し説明している(つもり)にも関わらず,どちらもどれほど相手の感覚を理解することがむつかしいのかということを改めて感じました。

 ただ,私の側もほんとに物わかりが悪いことを改めて知ってある意味自分自身にあきれると同時に,それでも碧さんが改めて丁寧に整理して書いてくださったことで,今まで断片的にはなんとなく感じ取り,記事にも書いてきたことについて,いくつかいろんな自分の経験ともつながってもう一歩「ああ,そういうことか!」と「感覚的にもわかる」感じになり,そして定型アスぺのズレの形もさらに見えて来るような気がしました。

 碧さんの疑問について改めて私の個人的な考えを書いてみます。


まず、共感というものの本質についてなんですが、多くの方は家族や友人などの親しい人が自分と関係のないことで喜んだり悲しんだ場合も、喜びや悲しみと言った感情を感じるのでしょうか?」
 

 これはこのブログのやりとりでも繰り返し話題になりましたし,私も他の定型の方もその都度同じように書いていると思いますが,本当に「感じます」。つまり,アスぺの方にとっては,定型がどれほど繰り返し「言葉で説明」しても,なかなかそこは納得が出来ず,本当のこととは思えず,場合によっては説明されたこと自体をよく覚えられなかったりするのでしょう。

 それとまったく同じことを逆の立場で私はパートナーとの間に何度も経験しています。彼女がほんとに一生懸命に訴えていることを,私は何度聞いてもピンとこず,そんなときは「それって,本当なんだろうか?」と感じたりしますし,またいつもそのことが頭から抜け落ちてしまって,また彼女に対してピント外れの対応をしてしまったりします。人間,自分の理解ができないことについては,ほんとに覚えていられないものですね。

 それでもほんとに長年繰り返し彼女に言われて,自分も自分自身の感じ方や考え方を振り返り,「反省」してみて,ようやく少しずつ感覚的にも分かり始めた気になり,「○○さんがこう言っていたことがようやく分ってきた気がする」と言って,彼女にまたショックを与えたりしています。(彼女の場合そこで「ようやく分ってもらえた」という「共有の喜び」を感じるより,「そんなこともなかなか分かってもらえないのか」という「絶望感」の方が先立つようなのです)

 同じように碧さんの次の説明も,何度もアスぺの方から似たようなお話を伺っているにもかかわらず,私にはなかなか感覚的には分りにくいもののひとつでした。


私はそういった場合、相手の話を聞いて「そういう出来事、事象があったのか。」と認識をするに留まります。ただ、助けを求められたときは現実に可能な範囲で助けます。喜んでいるのならば、マナーとして祝福の言葉はかけます。しかし、同じような感情を抱くことはありません。一緒に喜んだり悲しんだりは出来ませんが、そういう振り、演技なら出来ます。」

 私の(たぶん)定型的な理解の仕方でこのお話を受け止めようとすると,助けを求められて助けることも,相手を祝福することも,すべては全く感情を伴わない演技にすぎないということですから,「じゃあ,なんのためにそうしているかというと,自分が損をしないようにとか,あるいは得をするように,冷静に計算して相手を操っているだけのこと」という理解になってしまいがちなのです。


 このイメージは,いわゆる「冷血漢」,人の気持ちを自分の利益のためにもてあそぶ人間のそれに重なってしまうことになります。そして「なんてひどい人(たち)なんだ!」という憤慨がそこで生まれてもおかしくはないでしょう。

 ところが,そういう理解やイメージは,少なくともパートナーやここでのアスぺの皆さんとのやりとりから受ける実際の印象とはずれてきてしまいます。たとえば老人福祉に関係している私のパートナーにとって,困難な状態にある老人を少しでも普通の状態に近づけるための仕事は,彼女にとって大事な生きがいになっていますし,気持ちの支えなんです。それは私にとっては「冷血漢」のイメージとは全然重なりません。

 というふうに,多分碧さんにとってはごく普通の,単純な説明なんだろうと思うのですが,それを定型的な理解の仕方で理解しようとすると,ものすごく話が矛盾してきてしまって,「ピンとこない」状態になってしまうのですね。多分そういうことがお互いに起こっているのではないかという気がしています。  



次に、相手の好意への対応についてです。パンダさんが期待をするような反応は、多くの方はスルリと出てくるものなのでしょうか?」

 定型同士でも「相性」がありますので,どの程度期待に沿った反応が出て来るかは人によるところがあります。ですから,その期待に沿った反応が出てきやすい人間同士は,いわゆる「気が合う」という関係になりますし,その絆は強まっていくように思います。逆にそこがうまくいかない関係は「気が合わない」関係で,敵対的な関係になりやすいのだと思います。定型アスぺの関係が悲しいほどに敵対的な関係になりやすいのは,そこで「気が合う」状態が作りにくくなってしまうからでしょう。

 ただ,定型の場合,たとえ限定されたものであってもそういう「気が合う」関係は多分アスぺの方に比べて,だいぶ多いんだと思います。また,パートナーの話を聞いていると,彼女も気の合う関係が嫌だとかそういうことを考えているとは思えませんが,けれども現実にはそれがとても得にくいことについて,「もともとそういうものだ」と感じて諦めている印象を持ちます。それに対して定型はそこのところをあきらめることがすごくむつかしい生き物なのかなと思います。そこをあきらめてしまうと,なんだか生きている意味のすごく大事な部分を捨ててしまう気分になりそうです。

 つまり,定型同士でも,すべての人同士の間でそういう「期待される反応」がするりと出てくるわけではなく,相性でそこがうまくいきやすい関係と,そうでない関係が生まれますが,でも定型であれば,多かれ少なかれそういう関係は誰かと持ちやすいですし,またそういう関係をどこかに求める気持ちはかなり切実だと思います。たくさんの人との間にそれを求めるか,ほんとに一人か二人かでいいかは,人によって個性があると思います。


「また、その反応は、本当にその反応のままの感情で構成されているのでしょうか?」


 この碧さんの疑問は,これまでアスぺの方から頂いたコメントなどからすると,「本当はそういう感情は持っていないのに,振りをしているだけではないのか」という疑問か,あるいは「なにかの感情を持っていたとしても,それが期待されているものとぴったり重なるなどということはあり得ないのではないか」という疑問なのかなと想像しました。

 まず最初の方からいうと,定型同士は言葉遣いにも「お化粧」をして,本当の気持ちとは別のことを言うことが実際にあるわけですし,全く心にもないことを言って相手をだますこともありえます。だますときには,ひどい場合は自分の利益のためにそうする人や場合もあると思いますし,逆に相手のことを「気遣って」嘘を言うこともあります。(たとえば不治の病にかかった時,そのことを伝えずに「大丈夫。問題ないよ」などと言うことなどは,そういう「気遣い」だったりもすると思います)

 ですから,その場合はもちろん「本当にその反応のままの感情」ではないことになります。それは相手が自分をだまそうとしているのであれば,当然それにショックを受けることもありますが,でもその「お化粧」や「嘘」が「自分に対する気遣い」だと感じられれば,その「気遣い」が嬉しいという感情になることもあります。その意味では絶対に「本当にその反応のままの感情」である必要は必ずしもなくて,「自分の為にそうしてくれている」と感じられるかどうかがより重要なのかもしれません。

 「ぴったり重なることはあり得ない」ということについては,理屈からいえば,もともと違う体を持って生まれ,違う経験を積み重ね,違う立場にいる者同士ですから,「完全に同じになる」ことはもちろんあり得ません。ただ,「共感」とかいう感情は実際はもっと大雑把なもので,たとえ細かいところは違っても,あることについて「うれしい」とか「悲しい」とか「腹が立つ」とか,そのあたりがだいたい重なっていればそれで普通は問題がありません。それで十分に共感は成り立った気分になりますし,満足もできると思います。そのあたり,どの程度「大雑把」かについては個人差が大きそうです。

 ただ,そうやって共感が成り立ったと思っていたのに,実は大事なところで全然ずれていたと後から思うようになると,その人とのそういう共感的な関係については,すごく慎重になったり,場合によって猜疑心が生まれたりすることはありそうです。今までパートナーやアスぺの方とやりとりしてきた感想からいうと,アスぺの方が共感についてすごく疑いを強く持たれるのは,子どものころからそういう定型の「共感的な世界」に裏切られ続けてきた思いがあって,それですごく疑い深くなられているのではないかと想像したりしてみています。ここはかなり微妙なところのように思えるので,簡単には結論が出そうにありませんけれど。


「私は嬉しく思うことにズレがあるようで、相手の好意だと認識しても嬉しく思えないことがそれなりの頻度であります。余裕がないほど好意に応えられず、自分のペースを保たせて欲しいと思うこともあります。また、多くの人の言動からは本心が見えないのでプレッシャーに感じることもあります。特に好意は対応に失敗した場合大変なことになるので、喜びよりも先に恐怖や困惑を感じることもあります。」

 
 定型の世界にも「ありがた迷惑」とか「小さな親切大きなお世話」というのがありますし,その点は一緒じゃないでしょうか。ただ定型アスぺ間ではズレが大きいので,アスぺの方にとっては定型的な気遣いの関係は「ありがた迷惑」や「大きなお世話」になりやすく,場合によってはその「得体の知れなさ」に恐怖まで感じるようになるのでしょう。これについても,私の個人的な異文化体験から言っても,意味の分からない大きな「好意」はすごく負担になったり,場合によって相手への猜疑心や恐怖さえ生み出しかねません。そこは定型も同じだと思います。そう考えてみると,アスぺの方の感じ方もなんとなく納得できる気もしてきます。

 もうひとつ,碧さんの書かれていることでとても大事に思えるのとは,アスぺの方(碧さん)も「相手の好意だと認識して」嬉しく感じることもあるということ,「余裕があれば好意に応えられる」こと,「本心が見えればプレッシャーに感じなくて済む」ことです。実際にはその逆のことが多くて,そのために苦労されるのだと思います。でもだからといって,定型アスぺがまったく違う心の持ち主で,共有しているものがないとは私はやはり思えないのはそういうことがあるからです。

 もし仮にアスぺの方も「好意を嬉しく思うこともある」のだけれど,「本心が見えずに逆にプレッシャーになる」し,「余裕がなければそれに応えることがさらにむつかしくなる」ということなのだとすれば,「お互いに好意を嬉しく思い合える」ための工夫が何か可能ではないか,とそんな希望を持つんです。現状では定型アスぺ間のズレが余りに大きすぎて,どうしてもそこについて絶望的な思いになりやすいでしょうし,それはある意味当然と思えるのですが,でもそういうむつかしさがあるということと,てがかりとしての「共有」が現実に存在していることとは別に矛盾しないと思います。その意味でも,碧さんの書いてくださったことはこれからの工夫を考える上でとても大切な糸口のひとつかなと感じています。


「そういう前提があるとして、私は他人であればあるほど、おそらく相手の期待するような反応を返します。喜んだり感謝する振りをします。その方が大概が上手くいくからです。しかし、この行為はパターンとして認識し、演技をしているだけなので本心ではありません。要するに、仮面を被っているだけで相手の感情なんてなに一つ受け入れられていません。(好意の内容にもよりますが)親しい人にそんな不誠実な態度はとれません。もしかしたら、振りをした方が相手は満たされるのかもしれません。そうするのも、優しさなのかもしれません。でも、どうしても演技をすると上滑りをして、大切な相手の気持ちとかも無視してるような気になります。少なくとも私は、親しい人にそういう対応をした場合、相手が満足そうな顔をすればするほど傷つきます。 」


 定型アスぺ間のここの感じ方の違いは,お互いの態度にものすごい誤解を生む大きなポイントなのだろうと改めて強く感じました。このことについてはこれまでも何度もアスぺの方から説明を受けているはずで,そのたびに多少は「ああ,そういうことなのか」と頭では思わないでもないのですが,どうしても気持ちに収まり切れず,ついついそういう違う見方があることを忘れてしまいます。

 ただし,実はこれも私の個人的な異文化体験からいうと,違う文化の人たちとの付き合いの中では,かなりこれと似たようなズレやそれに基づく対立が生まれることがあるんです。まずひとつには,「この人たちにとってはこうされることが嬉しいんだろう」ということは「頭ではわかる」ので,そうするんだけど,でも感情が付いていかず,ただ「テクニック」として相手にそう合わせるだけになると,それで相手が喜ぶとなんだか自分が相手をだましているような気分にもなって,場合によっては罪悪感さえ持ちかねない,ということが起こり得ます。

 それからもうひとつには,「他人であればあるほど相手の期待に合わせ,親しければ親しいほど本音を重視してうわべの<お化粧>はしない」ということについて,同じような理由で日本的な気遣いの関係を他の文化の(定型の)人から強烈に批判されることがしばしばありました。たとえばもし親しい友達が「この洋服買っちゃったんだけど,似合ってる?」と聞かれたとして,もし「全然にあってない」と思ったとしても,ストレートにそういう場合は少ないのではないでしょうか。

 まずはその人が気に入って買ったのだろうし,その気持ちは傷つけないようにしながら,でも似合っていないという「可能性」は婉曲に伝えようとすることが多い。それで「微妙」というような変な言い方も今はやっているのかなと思います。「個性的だね」とか「それも面白いんじゃない」とか「そういうのもありかも」とか「悪くないかも,でも…」とか,なんか多少奥歯に物が挟まったような言い方をすることが多い。

 もちろん,親しい人の間ではもっとストレートに言った方がいいと感じている人もありますし,実際そうしている人もいます。ただ,そういう気遣いを頭から否定され,怒られてしまうことはあまりないのではないでしょうか。日本的な人間関係では。

 ところがこれはほんとに親しい人の間では「絶対にすべきことではない」と考えている文化の人たちもいて,それをすると本気で怒られるんです。本当の気持ちを言え,と言われて。本当の気持ちを言わないのは自分を信頼していないからで,親しい友達と思っていないからだと,そういう話になってしまうんですね。

 ここまではアスぺの方が感じることと似ている点が多いでしょう?
 だからといってその文化の人たちがみんなアスぺだとは私は全然思わなくって,そこにはやっぱり定型アスぺの違いはあるし,それが何なのかはずっと気になっていることです。(本気で怒ってきて,本音を言わないと友達じゃない,と強烈に迫ってくるところはアスぺ的ではないかも)しかしそういう感じ方をする定型の社会もあるように,少なくとも碧さんのような感じ方を定型がまったく理解できないわけではないのです。定型アスぺの気持ちの持ち方に,ここでも重なりを感じます。そこは基本を共有しながら,何かの条件の違いで,ズレが拡大していくのでしょう。


「共感が出来ないと、相手の感情を汲むことと優しさが結びつかないんですかね。本心じゃなく振りをするときは、事務的な行為として行なってしまいます。相手の好意に気付き期待に応えようと振りをすることがあったら、それは優しさになるんですか?私は本心を言って欲しいですけど…じゃないと、また同じ事をしてしまうので。相手のデータが必要なんです。」

 他の文化の人から見れば,極端に「察する」ことを重視し,察してくれないことにショックを受けたり激しい怒りさえ持つのは,とても日本的なことのようですね。欧米でも中国などでも,基本的に「察してもらう」のではなくて,「自分から説明する」ことの方が重要と思われれているみたいですし。そういう文化では「配慮」というのは必ずしも感情的な意味での共感をベースにはしていないのではないかと思います。ただ「同じ人間同士」という感覚とか,「愛」とか,なんかそんな「普遍的なもの」を想定しているのかなとは思いますが,それは「同じ感覚や感じ方を共有している」という話とはちょっと違いそうです。

 その意味では「理解し合えない者同士の間に生まれる思いやり」の方がより深い「やさしさ」なのかもしれません。「てめえら人間じゃねえ,叩っ切ってやる」(桃太郎侍 (笑))というせまい世界ではなく,「分らない者同士をつなぐ愛」が大事になる世界でしょうし。

 いずれにしても,私は碧さんの書かれていることから,やっぱり人をだましたくない,大事な人には誠実でいたい,といった思いを感じ取りますし,その思い自体は定型であっても否定する人はいないと思います。だから,そのことを定型アスぺ関係を考える上での足場の一つにできる可能性はあるように思えます。

 ただ,やっぱり定型の世界にはもう一つややこしい人間関係の調整の世界があって,そこを含めて考えると,場合によって「振り」がやさしさになることもありうると思うんですね。で,そのような「振り」を「嘘」とか「だまし」とかと感じるのではなく,「思いやり」や「やさしさ」として感じ取る感じ方も,定型は持っているような気がします。

 その二つの世界をどう調整できるのか。今うちでも問題になっていることはそこかもしれません。

« 冷めた好意? | トップページ | 二種類のジグソーパズル »

コメント

記事にしていただきまして、ありがとうございます。
これから書くことは、パンダさんのお話とズレているかもしれませんが、ご容赦ください。

まず、「好意」という言葉がどうしても私にとって曖昧で、そもそもそこからズレているかもしれないので、辞書の定義を書きます。

①その人にいだく親しみや好ましく思う気持ち。愛情の婉曲的な表現としても用いられる。

②その人のためになりたいと思う気持ち。親切な気持ち。

この定義を見ると、少し乱暴に思われるかもしれませんが、私の目から見ると一般(定型)的に①は「共感」や「心配」といった、一回一回気持ちのやり取りを要求されるような形で表出する気がします。一方で②は「思いやり」や「優しさ」といった、相手のためにする行為として表出する好意のような気がします。もっと雑な言い方をすると、①は言葉で現れることが多く、②は行動で現れることが多いように感じます。

私の場合、①はほとんど発生しません。②はあります。
そこで、【私はそういった場合、相手の話を聞いて「そういう出来事、事象があったのか。」と認識をするに留まります。ただ、助けを求められたときは現実に可能な範囲で助けます。喜んでいるのならば、マナーとして祝福の言葉はかけます。しかし、同じような感情を抱くことはありません。】について補足します。

【私はそういった場合、相手の話を聞いて「そういう出来事、事象があったのか。」と認識をするに留まります。】【同じような感情を抱くことはありません。】は①がないからです。
【助けを求められたときは現実に可能な範囲で助けます。】は②だからです。相手を大切に思っているから、その人の為にありたい。役に立ちたい。助けたい。という感覚は常にあるものです。何か出来事により引き起こされる「感情」とは性質が違います。
つまり、相手とともに感情が動くことはないですが、そのかわりに相手を貴いものとして自分の心の根底に位置付けているような感覚です。

次に私が自分の感覚と一致して分かる好意は、とても現実的な行動で示される②です。①に関しては、今までの経験から分析し認識する感じです。また、①の好意に応える場合は感情に報いるようなことを期待されるので、頭で考えて様々ある選択肢から選び出す感覚です。

私の優しさは子供の頃からひどく現実的で冷徹なものです。小学生の頃のエピソードが本質がわかりやすので書きます。

・窓に貼ってあった紙を直すために、机に乗っても届かないために窓枠に登ろうとした友人に対して「危ないからやめな」と注意すること。(前段階として椅子とか机とかで試すという行為は私が提案し、協力していました)

・鬼ごっこで鬼になったせいで泣いて教室に戻った友人に「こんなことを繰り返していたら、誰も誘わなくなる」と忠告すること。

この二つの出来事は結果的に友人を泣かせ、私が先生に「どうして相手の気持ちがわからないんだ」と怒られるという結末でしたが、これらは私としては純粋な思いやり・優しさでした。さすがに、私の優しさが相手に追い打ちをかけることになりやすいと分かってからは上記ほど極端なことはしませんが、今でも本質は変わっていません。
自分にできることを提示したうえで、相手の選択肢の一つとして存在していること。実際に相手の為になること、役に立つこと、助けられることをすること。この二つが私の優しさの基本です。

あと、①がないということは好ましいと思わないことか、という問題があります。最初に私は一般(定型)的な①と書きました。これは、好ましいということの表出の仕方が私と周囲で違いがあるように感じるからです。
私の①は一緒にいるということです。一人でもいいけれど、特別で好ましく思うから一緒にいるんです。そして、大切に思うから相手の助けになろうと行動するんです。

最初に提示した前提が見当はずれだったらすみません(笑)少し、単純化しすぎてしまいましたかね……


コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/58144226

この記事へのトラックバック一覧です: 共感はやさしさの条件?:

« 冷めた好意? | トップページ | 二種類のジグソーパズル »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ