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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年12月12日 (金)

断定の効能

  早目のタミフルでだいたい復活しました

  掲示板の方であすなろさんとちょっとやりさせていただいていて気づいたことがありました。というのは私の場合、定型アスペ問題というか、もっと具体的に言えばパートナーとの問題というか、そのことを考えるときには自分の見方や言い方が自分の感覚だけで断定調になっていないか、いつも気にしてるんです。

  ところが全く正反対くらいの性格の、母親との関係を考えるときは、今度は自分がすごい断定調になっていて、どうやったらこの「大変な母親」に巻き込まれずに、適度な距離を保ちながら、現実的に必要な対処ができるかをすごく考えています。そこでパートナーに対して思うような、何とかその世界を少しでも理解できる自分になりたいとか、そういう気持ちはほんとに持たないんですね。

  何でこんな正反対とも言えるようなことになっているのか、まあ、本音と建前とか、そういう話では無さそうですが、すごい謎になりました (笑)

  母親に対しては、長年の葛藤を経て、ああ、これはもう根本的に違うんだというひとつの「結論」にたどり着いちゃった感覚になっていて、もうそれ以上は情緒的に関わる危険は避けようという、一種の割り切りというか諦めというか、見切りというか、そんな感じになっているんです。そうすることですごく守られている自分がいますし、ようやくそれで現実的な関わりが可能になったところもある。

  兄弟間でもそういう母親像はかなり共有されていて、何かトラブルを起こされる度に、ぶつぶつ愚痴を言いながら、「困った人」への現実的対処を相談します。そうすることでようやく自分達を保っているところがあります。

  幸せな親子関係を築き、守ってこられた方を見ると、そういう形でしか対応されなくなってしまっている母親を、可哀想だと思う気持ちがないわけではないのですが、これは骨の髄まで染み込んだ体験的「真理」感覚からすると、そういう中途半端な同情は、事態を悪化させる以外の意味がないんですね。

  書きながら自分でもすごい決めつけだと思うんですが、これがそう簡単には揺らぎそうもありません。

  何でパートナーと母親とではこんな違いが生まれるのか、まだちょっと私には謎が続きそうですが、何かの条件のもとでは、アスペルガーの方に対しても、似たような断定を持つことで、ギリギリ関係を保てるというような、そんな状況も生まれるのかも、ということを考えさせられています。

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コメント

トマトです。

まぁ・・それが関係性ということなのでしょう。
お母様には受け身の立場のパンダさんが、奥様にはとても積極的です。

母親から自分を守ってきたパンダさんにとって、妻は潜在的に守ってあげたい人物像に感じます。

母子関係で生じた謎や不満などを、奥様で解き明かしたいという投影もあるのではないでしょうかね?
パンダさんのお母様が
いわゆる世間一般の愛情を注いでくれていたら、奥様への理解の執着ももっと弱かったかも知れませんね。
息子は母親からの、娘は父親からの影響を強く受ける、という説があります。

パンダさんのお母様が
今のパンダさんの生き方に強く作用し、奥様から逃避しないパンダさんに仕立てられたように思います。


今朝、通勤途中で父方のすでに亡くなっている親戚夫婦のことを思い出していました。

私が幼い頃、家族そろってよく遊びに行っていて、その頃は変わった漫才のような夫婦だなと妹ともよく話していたのですが、今思えば、旦那さんはアスペだったのではと。
旦那さんのほうは機械系の会社の会長さんで、若い頃は優秀な技術者だったそう。奥さんの愚痴によると、外食、外泊はいっさいせず、3食とも奥さんが作り、二人でした旅行も自家用車で日帰りのみ。奥さんと話すときはいつも命令・怒鳴り口調。それに対し、奥さんの方はいつもにこにこと「はいはい」と旦那さんの要求に答え、私たちに対してはとてもおしゃべりではきはきとした頭の回転の速い人で、植物の名前に詳しく、年をいってからもいくつものNHK講座に参加する積極的な人でもありました。
子供はなく養子をもらっており、若い頃の関係はわかりませんが、私もその親戚の奥さんのように、いつもほがらかに「はいはい」と答えていればうまくいくのでは、と思ったのです。それは「我慢」とは違う、自然なかたちで。

それから、ブログでこの記事を読み、再び考え直しました。

私の両親も二人ともうまく子供に愛情を伝えることができない人で、家にいた頃は私はあまり関わらないようにしていましたが、母と妹との争いは絶えず、中学くらいから早く家を出ようと必死で勉強し、高校卒業とともに上京しました。
家を出てからは年に何回かしか顔を合わせないため、両親ともに対しても思いやりを持って対応できるようになりました。
ただ、問題が起こったときに相談したりということはいっさいありませんでした。したところで、余計に混乱が起こってお互い不快になるのはわかっているので、「こういう人だから仕方ない」という割り切りの気持ち。

このこととパンダさんの思考を合わせて考えると、配偶者に対して「仕方ない人ね、はいはい」という態度をとれるようになるのはそうそう簡単なことではないと気づきました。
今までだって、頭ではそうしようと思っていても、実際問題に直面すると、「なぜ、そういう行動をとるの?」という感情が先に働いて、傷ついたり、もしくは、私が割り切った態度をとろうとすれば、彼はそれを見逃さず、「何か不満を持っているのに隠しているのではないか」と考え(このとき彼は深く傷ついていたのだと思います)、私を問い詰め、けっきょくは傷つけあいになるということもありました。
日常生活で、子供のことなど一緒に問題を解決しなければいけなかったり、週末一日中ずっとともに過ごすのだから、大きくなってからの親との関係とはまったく異なるのだと思います。

それでも、夫婦であっても、ある程度距離を置いて、相手の感情に入り込みすぎない、というのは重要なことなのでしょう。亡くなった親戚の奥さんも、長い年月を経て、相手に悟られないような“断定”的対処法をとりつつ、ともに生活していく技術を身につけていったのではないかと想像します。

追伸、パンダさんへ

病気中にもかかわらず、ていねなにコメントをいただき感謝しています。
早めに回復できたそうですが、くれぐれも大事にしてくださいね。

トマトさん

 おっしゃるように,結局ある種のバランスということが
 大事なことなんだろうと思います。
 定型でアスぺのパートナーを選ばれる方のうち,ある程度の割合の方は
 同じようになんらかのバランスをとっているのかなという気もします。
 そこでどういうバランスなのかはいろいろかもしれませんけれど。

 「潜在的に守ってあげたい人物像」については
 少なくとも今はそうなっているのかもしれません。
 で,実は彼女もそれを望んでいるところもありそうな気もします。
 微妙ですけど。

 以前は「独立した人間同士の自立した関係」とか,
 そんな理想イメージを持っていたりもしましたけれど,
 実際はそこもまたバランスの問題なんだろうなという気が今はします。

 関係を成り立たせようとするという意味では同じでも
 断定的なスタンスを採ってか,そこでもうちょっとぐちゃぐちゃするか
 という揺れの問題も,大きくはバランスなのかもしれません。
 そう考えれば,どっちも必要なんでしょうね。
 それぞれの長所と短所を知ることが大事なのかも。

 まあ,あんまり安易に「あれもこれも」で済ませてしまうと,
 話に深まりがなくなってしまうかもしれませんけど … (^ ^;)ゞ

anonimoさん

 たしかに人に対していつも笑顔でい続けるって,大変ですよね。
 特にぐさっとくるようなことを言われたりされたりしたときに,
 笑顔がひきつらずに,かえって明るく笑って済ませられるとかになると,
 そういうことができる方というのは,めちゃくちゃに「天真爛漫」な方なのか,
 あるいは人生の苦汁を味わいきった上でのある種の悟りに達したすごい方なのか,
 どっちかなのかなという気がします。

 笑顔は人を和ませたり,心地よくさせたりもしますけれど,
 そう考えると,笑顔を生み出すものの重たさみたいな,
 そんなこともあるわけですね……

 ああ,老人の笑顔って,そういう人生が刻み込まれた笑顔であることが
 少なからずあるのかも。

パンダさんへ

この記事を読んで、私の言葉が誤解を招き、パンダさんにショックを与えてしまったのかなという感じがします。
この記事のパンダさんとお母様の関係がどういうものなのか、勝手に憶測するのは危険ですが、印象では、お母様は家族がどう関わろうと変わらないうえ、巻き添えをくって家族が苦しむ。だから傍観に徹する。
という、一種の諦めという感じがします。
相手と関係を切ることで自分の精神を守ろうとする割り切りのような。

私の書いた、変わらないという言葉が、変わらないなら諦めるという意味に捉えられてしまったのなら残念です。
むしろ、変えられないから、他の方法や相互に行動様式を変えることで、よりよい関係をきずく。そのためには気の遠くなるような対話と触れ合いぶつかり合いが必要なのでは?
定型同士よりも対話は必要になるのでは?
しかし、ただぶつかるだけでは効果がないので、敢えて引いて見るという工夫も必要なのでは?
そのとき、パンダさんとお母様の関係のような割り切りも必要になるのかもしれない。
そう思います。
相手を変えるのではなく、そのままであっても距離を縮める方法は工夫次第で見つかるのではないかと。
これも、
私の誤解が多いかもしれないので、一個人の主観的な意見として聞き流していただきたいです。

あすなろさん

 ありがとうございます。

「むしろ、変えられないから、他の方法や相互に行動様式を変えることで、よりよい関係をきずく。そのためには気の遠くなるような対話と触れ合いぶつかり合いが必要なのでは?」

 というところ,私としてはほんとに共感です。自分がそれができているかということは置いておいて,目指したいところです。少し私の言葉で付け加えるとすれば,「よりよい関係」が成り立った時に,そこでお互いが何か変化しているだろう,ということくらいでしょうか。その意味では「変えられないと思うから変わる」みたいな,ちょっと面白い関係がありそうな気がしています。

 あと,素朴な疑問を書かせていただいて結果としてはほんとによかったなと思うのは,そういうあすなろさんのお考えをすごく立体的に教えていただけたように感じたからです。

 私の場合,前にもちょっと書きましたように,「アスぺの方からはこれはどうみられるやり取りになっているだろうか」ということが常に気になっているんですが,そのときにどうしても問題になるのが「自分の気持ちに正直な表現」をごまかさずに使う,ということの必要性と,相手の方が的外れの不当な決めつけと感じてしまう表現を避ける,ということの重要さと,そこのバランスのとり方がすごくむつかしい気がします。

 誤解をおそれて「当たり障りのない表現」になってしまうと,自分たちが抱えた本当に大事な問題を結局避けて,何の解決も得られない表面的なやりとりになってしまいますし,単に自分の感覚を自分の言葉でそのまま表現するだけだと,そもそも言葉の感覚ややりとりの感覚に違いを持っている方との間では,自分が意図するものと全然違う伝わり方をして,無意味な対立の繰り返しや拡大をしか産まないからそれもだめ。

 とすると,どうしたらいいんだろう?という話ですが,今のところ私のとりうる方法として考えられているのは「私にはこう見えます」という,「自分の中での断定」みたいなスタイルなんです。私にとっては断定的なんだけど,それはあなたに通用するかどうかは分らないことも理解しています。というスタンスの表現でしょうか。

 それで,あすなろさんの表現が,…これも「私には」ですが(^ ^;)ゞ…,すごくストレートに断定されているように見えてしまって,そうすると話が「定型間の共感」に留まってしまい,定型アスぺ間では「定型的な偏見」になってしまう可能性を感じてしまったんですね。そういう意味で「対話的な表現」になり切れていない感じがしたんです。

 で,素朴な疑問ということになったのですが,こんなふうにコメントを戴いて,大事なことがお互いに共有されていることが改めて感じられて,なんかまた一歩前進という感じがしました。

 パートナーにもしばしば「そんなことも分らなかったのか」と
 がっくりされるんですが(^ ^;)ゞ,理解力のなさはやりとりのなかで補っていきますので,どうぞそこは大目に見てください m(_ _)m
 

パンダさんへ

伝わって良かったです。
私が断定的に書いてしまったのは、ADHD当事者としての目線もあります。
掲示板のほうでも書いていましたが、ASDとはちがって、
行動面で定型とはズレがあって、それが定型の方を困らせたり、誤解を招いたりということが多いので、これをASDの認知面でのズレとして考えれば、その辛さはにているかもしれないと。
言われた作業を言われたようにはできない。同時に複数の処理ができない。問題の解決方法が定型とは異なり、定型には信頼が置けないと評価されてしまうことがある。
この能率や段取りの悪さがどういう場面で出るかは個人差が大きいですが、苦手な場面での処理はそれが定型とは違うことや、不快感を与えていることは認識できても、なかなか変えることはできません。
ときに、定型の人が親切にやり方を教えてくれますが、それをそのままなぞっても、応用が利かないのでやっぱり定型のようなやり方にはならないのです。すると、親切に説明してやったのに、どうしてできないという責めを負うことになります。
ASDが物事の捉え方、人の心情を察するというところに、定型とのズレがあるとき、ズレがあることには気付けても、定型の望むような捉え方ができるようにはならない。それを埋め合わせるには、具体的にどうすれば両者の捉え方の中間に収まるか取り決めることではないかなと。
対話でお互いの希望を知れば、感覚のズレがあってもこの行動を取ることで、両者の中間点に達することができるという裏ワザを見つけることができる。
それが一番の対策なんだと思います。
ADHD的私とすれば、自分の失敗しやすいところや、傾向は知っている。その
解決のためのノウハウは
ある程度自分の中にある。しかし、それが定型には理解されないことも分かる。
どうすれば失敗せずに、定型にも印象よく見えるのかは知りたい。そのために定型と対話して模索しなければならない。
必要以上に自分のやり方に介入されることも、逆にあの人は何を言っても無理と諦められることも嫌です。
ワガママですけどね。これが正直な気持ち。
変えたい気持ちは定型以上でありながら、どんなに水面下で必死に水を掻いていても、表面ではほとんど変わらない=努力していないとみられてしまいがちです。
だから定型の言う「変わる」を期待されない方が、自分のペースで変えていけそうな気がしますね。

この記事を読んで「パンダさんと私って逆じゃん!」と思いました(-_-;)
私は父を断定できない、断定したくない気持ちがあります
今もその謎を解きたいという気持ちで、こちらのブログを覗かせて頂いてますし

しかし『恋人』には、断定的な思い込みで私の言動は左右されます……
普段から愛情をはかってしまい、彼の私への「言葉」「行動」「我慢」「犠牲(お金や時間、等)」と、私が彼に対する「不安」や「愛情」を天秤にかけ『私がこれだけの気持ちなのに,彼がこれこれこうで,私がこれだけしてるから=このくらいの愛情だから足りない!』と、自分本意で勝手極まりない【方程式】で愛情をパーセンテージのごとく、事細かに計算してる自分がいます……

そんな自分を分析してみると、やっぱり父の存在が大きくて、ずっと父の愛を求めてた私は【不確かな愛】に振り回されたことは原因としてあるのかなぁ、と思う……
一緒にいるだけじゃ不安で、いつも目に見える愛を求めてた
「俺は金なのか?金だけなのか?」彼氏に言われた言葉たち……
なのにこういう肝心なときに限って、私は何も言えない
「違う!」って心の中は叫んでる
でも、言えないのは「本当はお金じゃないって気持ちをどうしてわかってくれないの?」と、ただただ辛くて、悲しくて、悔しすぎるからだ……
愛する人にまで自分を信じてもらえない
だから「そう思うならいいや!」って投げやりにもなってしまう

そんな負の感情から「そんなに自分の金がなくなるの惜しいの?私のことが好きじゃないんだね!」と、言葉が…私の口からでてしまう

そして彼は悔しそうに目に涙を溜めて、怒りと悲しみでいっぱいに「ふざけるな!!!好きだからここまでしてんだろ!!!」と言う……
彼の真剣な表情、激しい感情から私は初めて【愛情】を感じる

途端に『彼をここまで追い詰めた自分』にやっと気付く
罪の意識からいたたまれない気持ちになる
『もうこんな自分はやめよう』って思いが過る
でも、そんな思いは一瞬で激しい不安に切り替わる

『じゃあ、私は彼の何を信じればいい?』
『どうやって愛情を感じればいいの?』

漠然とした不安から目の前が真っ暗になる
愛情が見えないなんてこわい、愛情がはかれないなんてこわい……真っ暗な世界だ

でも、もう彼を苦しめちゃいけない、彼を救いたい
こんな自分やめたい

だから私は「じゃあ、嫌なら別れれば?」なんて素っ気なく言うんだ

彼はただがっくりと肩を落とし、うつむいて声を殺して……泣いている

私だって泣きたいくらい傷付いてる
でも、泣けないよ
ここまで彼を追い詰めたからこそ、泣いてはいけないと思うから
私が泣いて許されてしまったら、彼の努力が無駄になってしまう

いつも私は誰からみても『自己中で自分勝手で我が儘で、自分の思い通りにならないと物を破壊し、暴力を振るい、挙げ句に金を巻き上げといて「さよなら」と言える、非情で酷い女』だった

いつか知人に言われた
「2ちゃんねるとかにお前の被害者の会とか出来てそうだよな(笑)」って

もちろん後になって自分を振り返れば、自分が『酷い女』と言われるのがわかる
自覚すればするほど、こんなに『酷い女』だからこそ「本当は苦しかった、本当は辛かった、本当はただ愛が欲しかった」なんて弁解もできなくなる
そんな私の心の闇を察せられてしまえば、全てが台無しになってしまうから、私は誰の前でも平気な顔して笑う
結果『人を傷付けておいて笑う女だ』と人間性を疑われる……

もう、どうしたらいいのかわからなくなる

今は変わりたいって思う
でも、変われる自信もない
自分の弱さは自分が一番わかってるからだ……

だけど、変わりたい気持ちがあるからこそ、私の根本の原因には『父の愛』があるとすれば、愛に確信を持てば変われるんじゃないかと……必死になり始めた

が、それも最近疲れてきた……

私は、そういう『酷い女』で、相手を苦しめなきゃ愛情を感じられない人間かもしれない……と自分ですら断定してしまいそうです


アスぺ父を持つ娘さんの、恋人の愛情を量るというのはとても共感できます。
本物かどうか確信を持ちたいとき、その尺度が、どれだけ自分に犠牲を払ってくれたかに頼ると、どうしてもお金のことも見過ごせなくなってきます。
たとえば電話で1時間ぐらい話し、貴重な時間を費やしてくれた、と感謝しなくてはいけないところなのでしょうが、無料通話指定かも?とか、有料なら長電話しないのか、とかひねくれた考えが浮かんできます。
親しい異性の愛情が信じられない原因が父親にあるとしたらそれも納得です。うちの父親も気分にムラがあり、大声でぎすぎすした印象で今でも本当は怖い。ずっと子供のころからです。ほぼ会話もなく、成人してからは子ども時代の嫌な思い出(場面)が突然パッと頭に再現され、すごく鮮明で、「わたしが父を嫌うのはちゃんと理由があったのだ」と気付きました。
虐待まではいかないけれど、生理的に不快なことが何度かありました。
それを母親に言うと、そんなことぐらい、と言われ、父を徹底的に擁護しました。とてもショックでした。父は外面が良いです。皆に好かれているそうです。が、皆に好かれる人が、娘であるわたしに何十年も口を利いてもらえないほど嫌がられている…のはおかしいと思います。
わたしは父から、男性を信用してはならないと、子ども時代に刷り込まれてしまったようです。母は神経が図太くおおらかで、まったく共通点がない。なので、中年過ぎた今も、父母vsわたし、の構図は変わりません。
性格円満な両親と変わり者、と定着していて、何かあると、あいつは変人だから、と言われ続け…ほんとうの変人になったのかも…。
でもよーく考えると父もアスぺっぽい気がします。だとすれば、わたしがアスぺ男性に引き寄せられることも納得がいきます。
話がそれましたが、父はコミュニケーションをとらない代わりにお金をくれる人でした。だからお金を愛情のバロメーターにしてしまう、自分の場合は多分それが主な原因です。親と、付き合う異性の間に因果関係があるとしたら、面倒ですね。親との関係を書き換えることはできないし、和解するならもっと早く手を打たなくてはいけませんでした。わたしはこのままで、親のことは抜きで男性を曇りのない目で見る努力をします。
アスぺ父をもつ娘さんは今まさにお父様と距離を縮めるために苦心されているわけですから、悔いの残らないようにいろいろ試みることも大切だと思います。

あすなろさん

>表面ではほとんど変わらない=努力していないとみられてしまいがちです。だから定型の言う「変わる」を期待されない方が、自分のペースで変えていけそうな気がしますね。

 これは切実な思いとしておありなんだろうなと思いました。
 「変わりたくない」から「変わることを期待されたくない」のではなくて,
 「変わる努力を認めてもらいにくい」から,むしろ期待されることが負担になり,
 そうでないほうが変れる。

 こういう話は定型アスぺ間でもよくあるのではないかという気がします。
 すごく大事な問題のように思いました

アスぺ父を持つ娘さん

>だから私は「じゃあ、嫌なら別れれば?」なんて素っ気なく言うんだ

 この一言の裏に実は積み重なっているすごい葛藤。
 ある意味人の一言って怖いなあと思いました。
 あっさり言われる言葉の裏にどれほどの思いが込められているか。
 それ,なかなかキャッチできないですよね。

 うーん,アスぺの方が定型に翻弄されるのも
 そういう部分かもしれないですね。
 立場が逆ですけど。

>相手を苦しめなきゃ愛情を感じられない人間

 ここ,よくわかんないですけど,ひとつにはアスぺ父を持つ娘さんが
 必要とするつながりって,それほどの「シビアさ」に耐えられることが
 大事になっているのかなというふうにも感じました。
 子どものころからの体験が壮絶なわけですから,
 普通の気休め的な慰めの世界とか,ほとんど意味ないですよね。
 「あなたどこまで本気で私のシビアな世界につきあってくれるの?」
 という疑問が常に起こっても無理もない気もします。

 もしそういうことなら,どこかで納得するような関係が生まれれば,
 そこで受け入れられて落ち着けるのかもしれないし,
 そこは私にはほんとにわかりません。
 ただ,少なくともあとからはこんなふうにちゃんと振り返られる,
 というところはアスぺ父を持つ娘さんのすごさと思えるし,
 なんかそこに手掛かりがないかなあという気はするんです。
 

晴子さん

>親と、付き合う異性の間に因果関係があるとしたら、面倒ですね。親との関係を書き換えることはできないし、和解するならもっと早く手を打たなくてはいけませんでした。

 ここ,やっぱり大きな問題なんだろうなという気が深まっています。

 ああ,だからですかね。親が亡くなった後でも,お墓や位牌との「語り合い」が
 ずっと続いたりするのは。
 それだけ引きずり続けるということなのかも。

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