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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年12月

2014年12月31日 (水)

よいお年を

 まもなくこの一年が終わろうとしています。このブログも4年を経過し,5年目に入ります。

 この一年はみなさんにとってどんな一年だったのでしょう。

 私にとってはみなさんが書いてくださるコメントや,掲示板でのやりとり,そしてパートナーとの生活の中で,ひとりひとりが自分の個性的な世界を持って,じっと耐えながらあるいは懸命に模索し続けながら,一日一日を生きていらっしゃるということをいまさらのように感じるようになる一年だったかもしれません。

 こういう言葉はこれまでもしばしば他の人から聞いていたはずですが,「自分のこと(辛さとか苦しみとか)しか見えていなかった」ということを,改めて自分自身のこととして感じさせられます。

 今年については私はパートナーの抱えてきた辛さが,単に「頭で考えてみる」ということを超えて,少しずつ感覚的にも感じられる部分が増えてきたように思います。

 ある意味で面白いことは,「他の人も辛い状況を生きている」とか,あるいは「自分よりもっと厳しい状況で頑張られている」と感じられるようになると,なんだか気持ちが少し軽くなったり,励まされる思いがしたりすることです。

 さて,この感覚は,やっぱり定型的なものなのか,あるいはアスぺの方にも言えることなのか。なんとなく,「アスぺの方もアスぺの方なりに,そういう感じを持たれることはある」のだろうという気がするんですが,どんなものなのでしょうね。


 来年(明日からか!)も,パートナーとの生活で感じたこと,自分の中で起こる変化などをまたうだうだと書いていくことになるのでしょうし,またみなさんのコメントなどから学ばせていただくことについて,いろいろ考えていくのだろうと思います。

 あと,最近時々考えることは,みなさんにとってもう少し役に立つ場になる工夫は何かあるのだろうかということです。と言ってもそんなに大したことを考えられるわけでも,できるわけでもありませんけど……。まあ,気分的にそんな感じです。

 それから,ここではその時々で思ったことをああでもないこうでもないとフラフラしながら書いてきていますが,それでもそんなふうにさまよいながら,自分の中で少しずつ整理されていくものもあります。

 そういうことを少しまとまった形で文章にしてみたい気持ちもあるのですが,ブログの記事の方はみなさんとやりとりさせていただきながら,実体験に基づいて具体的なことをその都度まとまりもなくフラフラ書き綴っていく方がいいような気もしますし,そもそも記事ではそんなに長いものは書けません。それで,みなさんにはどれだけお役に立つかはわかりませんが,ある程度気楽にできるらしい電子出版などの方法で,私自身の一里塚として,ぼちぼちまとめてみようかなということも思い始めています。


 さて,あと今年も13時間あまり。それではみなさん,どうぞよいお年をお迎えください。

2014年12月29日 (月)

日本的定型的間接的……

 掲示板の方で,アメリカから日本に来て(かな?)日本人のパートナーと暮らしていらっしゃるaspieさんから,日本での人間関係のやり方についてご質問がありました。

 aspieさんは定型アスぺのズレの問題と,文化間のズレの問題と,その両方を抱えていらっしゃることになりそうです。以前からこの二つのズレのことについては気になっていたことでもありますし,こちらで考えてみたいと思います。

 aspieさんは次のように書かれています。

>アメリカで習った心理学療法によると、対人関係の問題が起きたら、相手と直接に話し合った方がベストですが、日本では何をすればいいでしょうか?


 私の想像ですが,アメリカでは「相手と直接に話し合うのがベスト」と教わり,それである程度問題が解決されたけれど,日本ではそのやり方がうまくいかないようにaspieさんは感じられたのではないかと思います。

 私の個人的な印象ですが,日本人に多く見られる対人関係の問題解決法は「直接」を避け,「間接的に」を重視するように思います。たとえば,


問題が軽い場合

  相手に直接言葉で表現することを避け,かすかな表情や行動で
  自分が問題を感じていることを相手にあらわし,「相手が気づいて
  修正してくれるのを期待する」という間接的なやり方をする。

 このやり方は日本的な人間関係で特徴的なところかと思います。異文化の人が日本で苦労されるのが,このやり方ではないでしょうか。もちろんアスぺの方はとても苦労されるポイントだと思います。
それがうまくいかない場合

   相手に直接言うのを避け,自分の友達など,周囲の人に
   「愚痴をこぼす」という間接的な行動をとる。

 その意味は我慢できなくなった自分の怒りを周囲の人に話すことで,気分を落ち着かせ,また改めて相手に冷静に(穏やかに)対処できるように気持ちを整えることではないかと私は感じています。話す側は,この段階では周囲の人に話を聞いてもらえればそれでいいことも多く,その場合は周囲の人に積極的に動いてほしいとまでは期待していないと思います。ただ自分の気持ちを聞いてもらって,落ち着かせてもらえればいいのではないかと思います。
それでもうまくいかない場合

  相手との接触を避けるようになり,そうやって直接の衝突を
  回避しようとする。そして自分の怒りを周囲の人により強く話す。

 こういう展開が結構多いような気がします。この時は自分の気持ちを聞いてもらうだけでなく,周りの人が調整のために動いてくれることを期待していることが多いと感じます。つまり,この段階でも,自分が相手の人と直接話し合うことで解決しようとするのではなく,他の人たちを通して,間接的に問題を解決しようとすることが多い気がします。

 周囲の人たちも,トラブルを抱えた二人を直接話し合わせるようなことはあまりせず,会わせる場合はある程度調整が進んで,あとは本人同士が穏やかに関係の調整をできるようになってからの場合が多いと思います。

 そんなふうに,日本の人間関係では,できるだけたくさんクッションを入れて,直接ぶつかり合わないように工夫することが多いと思います。もちろん個人差があって,そういうやり方を好まず,直接相手に言う,ということを重視する人や場合もあると思いますが,日本では少数のように思います。 

 ですから,aspieさんがアメリカ的なやり方がうまくいかないようにもし感じられることがあったとしても,それは日本的な人間関係の調整の仕方からすると,当然のように思いました。


 それで,この日本的な「間接的」で「クッション」をたくさん作る人間関係は,定型の日本人でもややこしくて苦労しますし,定型の異文化の人はさらに苦労するし,そしてアスペの方の苦労は想像を絶するくらいだと思います。

 ただ,外国の人の場合(特に欧米系の方の場合),日本的な(または定型的な)対人関係とは違うやり方をされたときにも,「この人は外国人だから,日本的なやり方ができなくても仕方ない」という理由で,それほど問題にされない場合もあると思います。

 ですから,「日本では間接的なやり方が好まれる場合が多い」ということさえ念頭に置いて,そこであまり直接的なやり方を強く取ろうとしなければ,「どうやって間接的にやるか」ということについてはうまくいかなくても,日本人のアスぺの方より意外に周囲から受け入れやすいかもしれません。

 もしそういうことが本当にあるとすれば,ちょっと興味深いことでもあります。

2014年12月28日 (日)

無知無能として善悪を考える

 掲示板でB-Bさんのコメントを拝見していて,そこ,ほんとに大きな重大な問題だよなあと思ってしまいます。

 私は性格なのかもしれませんが,相手に悪意がないのに,こちらが自分の思い込みで悪意を見て否定するような,そういうことは避けて,なんとか関係を改善したいと考える傾向が強いみたいです。でも相手に悪意があるのに,それをこちらの思い込みで善意のように考えてしまうことがもしあれば,それもやっぱり別の思い込みになってしまって,関係の改善とか,あるいは調整にはならない可能性を感じます。

 もちろんこのことは考えだしたら頭がパンクしそうになるくらいややこしい話ですよね。たとえば善意って何?悪意って何?ある人が善意か悪意かを誰がどうやって決められる?とか考えただけでもう大変です (^ ^;)ゞ

 当たり前のことですが,人は「全知全能の神」ではないので,何が絶対的に正しい善で,何が絶対的な悪か,ということを「正しく決める」みたいなことは不可能でしょう。

 じゃあ世の中に善と悪はないのかというと,それはやっぱりそうは言えなくて,多分どんな人でもその人なりに善と悪の感覚があって,それを手掛かりに生きていると思えます。

 前にもちょっと書きましたが,最近,やくざ屋さんの本を読むことがあって,そのことをまた強烈に感じさせられたんです。

 やくざ屋さんというのは反社会的集団とか言われて,アスぺ父を持つ娘さんも書かれていたみたいに,その周囲にはいろんな犯罪行為も,たくさんの悲劇もあるわけです。じゃあ彼らは悪の固まりで,善が分らないのかというと,ある意味興味深いことにそれは全然違うみたいです。

 彼らはものすごく「情」を重視するみたいだし,義侠心みたいなこととか,親分に対する忠誠心とか,それはめちゃくちゃ重要なものとされていて,そこを踏み外すとほかのやくざ屋さんから信用されなくなったり,ものすごい制裁を受けたりもする。自分で自分を罰するようなこともします。

 人間って,どういう世界でも,あるいはどんな人でも,それなりに善と悪があって,それを手掛かりにその人なりの人生を組み立ててるんだなあと,しみじみ思いました。

 悲劇が起こるのは,ひとつにはその「何を善悪と考えるか」というところでズレがある場合じゃないでしょうか。

 「これが絶対の善だ」とか「これが絶対の悪だ」ということを決めること(あるいは理解すること?)は今の私にはむつかしいんですが,ただ人はみんなその人なりの善悪の感覚とか価値観とかを持っていて,それはその人その人が自分の抱えた現実の中で生きるためにはどうしても必要となっているもので,そこにズレがあるときに,どうやってそのズレを理解して調整できるのかを考える,ということは自分でも模索できるかなという気がします。

 で,最初の問題に戻ると,相手の善悪の感覚とか基準とかを,自分のそれを使ってそのまま理解することには無理があるし,どうしても調整が必要になる。で,それは自分の善悪感情で相手を悪と決めつけることも問題になるし,同じように自分の善悪感情で相手を善と決めつけることも問題になる,ということなのかなと思います。どっちも結局自分の善悪感情だけで決めつけていることに違いはないからです。

 関係の改善を考えるのなら,お互いに自分の感覚とは違う,相手の善悪感覚を理解しようと努力してみることに意味が出てくるのではないかと思います。もちろん相手を理解するためには,その「理解する自分」が壊れては元も子もありませんから,そのバランスのとり方もそこでは大きな問題になると思います。

2014年12月26日 (金)

こだわりと価値観

 昔一緒に遊んだりしていたカナータイプの自閉の子もそうでしたが,パートナーとかも定型的な目から見て「なんでそんなことにこだわるの?」と不思議に思ったり,場合によってはイラついたりすることがありました。そういうの,自閉の子の障がいの特徴である「こだり行動」とか,そんな表現で聞いたこともあります。

 ところでこの「こだわり」という表現,昔は自閉の子の特徴としてそのまま「適切な表現」と感じていたのですが,このところ,どうもそこでしっくりこない感じが出てきて,それがなんなのかについて「こだわって」きました (笑)

 そして,昨日の記事を書いて,それからふと思ったんです。私の目から見て「こだわり」と感じられるところは,彼女の感覚からいえば「大事なこと」なわけで,そこはおろそかにしてはならない部分でしょう。おろそかにすると,自分の生活が脅かされたり,成り立たなくなったりするからです。

 つまり,あることが,私にとってはこだわる必要のないつまらないことなのに,彼女にとってはとても大事なことだ,という関係があって,それを私から見れば「つまらない,価値のないことへのこだわり」というふうに感じられるわけです。

 でもちょっと視点を変えてみると,逆のことも言えるんだろうなと思えます。たとえば定型がしばしば「共感」を重視すると言われるわけですけれど,それは定型にとっては「生きる上で大事なこと」であるわけでしょう。だからおろそかにはできない。ところがアスぺの方からすれば,そこまで重視することではないのかもしれません。

 実際私は「なんでそんなに共感を要求するのか」という意味のことを何度も彼女から言われました。もちろん私には共感を無理強いするとか,要求するという感覚はなかったのですが(第一無理強いされたら共感とは言わないでしょうし),共感してもらうと嬉しいわけですし,求めたい気持ちとか大事にしたい気持ちはやっぱりあるわけです。でも彼女はそこに定型ほどには大きな価値を置くことはないわけですから,その意味では私は「こだわりを持っている」ことになるように思えたわけです。

 仮に自分の「共感への願い」とか思いを,「へんなこだわり」と決めつけられたら,私はやっぱり傷ついたでしょう。同じように,彼女も自分の大事な思いを「こだわり」と見られ続けてきたことになるのだと思います。

 そこでちょっと見方を変えて,私の価値観とはずれるんだけど,彼女は彼女の価値観を持っていて,それを大事に行動している,と考えてみたらどうだろうと思ったのです。

 そうすると,彼女の行動は,障がいによる困ったこだわり行動なのではなく,彼女が自分の現実の中で,自分らしく自分の世界を作り,保っていくための大事な行動で,それは彼女の価値観の大事な一部にもなっているんだ,というふうに感じられるようになってきます。つまり,その「こだわり行動」と言われるものの中に,彼女の大事な生き様のようなものがあって,それを「こだわり」というような言葉で否定的にだけ見てしまうと,彼女が自分の意思で自分らしく生きようとしている姿を見失ってしまうことになると思えるのです。

 そんなことを考えた時,私がこれまで「こだわって」考えてきたことの意味がまたひとつ見えてきたように思いました。私は「お互いに自分らしく生きる関係」を模索しているのだと思いますが,それが成り立つためには,お互いの抱えている現実に根差した,その人の価値観をまず前提として大事にする必要があるわけです。それができて初めてお互いが違いを持ちながらなおかつ対等に関係を持つことができると思えます。それは優劣の問題ではなく,違いの問題なのです。

 ちょっと理屈で考えてみても,優劣というのはあるひとつの同じ物差しで測るから決められるものです。でも違う価値観があるのなら,そもそもそこには同じ物差しはありません。その違う価値観を認め合う関係が成り立つときには,そこには優劣は問題にならないことになります。

 そんなふうに考えると,なんだか「自分の方が優れている」というような思い込みからちょっと自由になれる気がして,ちょっと気が楽になるところがあります。

2014年12月25日 (木)

彼女が私を信頼できない理由

 くれも押し詰まってきました。あわただしさが増します。

 パートナーについて,「あなたはあなた,私は私」という姿勢と,逆にものすごくこちらのすることに細かく干渉してきて,なんでこちらに任せてくれないのか,と思ったり,なんだか常に監視されているような気持になったりして息苦しくなり,「あなたは人を信頼することができないのか」と感じさせられたりという,すごく矛盾したように思えるできごとがよくあって,以前はとても混乱していました。

 たとえば,食事は彼女がメインで作ってくれるのですが,私も必要に応じて作りますし,弁当を自分で作ったりもします。あと,片付けとかも。ところが私がやっていると,なんかちょこちょこと来て,見てるんです。そして,細かいことをいろいろ言ってくる。私からすればそんなことどっちでもいいじゃない,とか,逆にそんなの合理的じゃないじゃん,と思えるようなことがほとんどです。あるいはそれは個人の好みの問題でしょう,なんでそこまで干渉するの,とか。

 で,今考えてみたら,「ああ,それいいやり方だね」とか「上手だね」とか「おいしそうだね」とか,なんか褒められることがあるかというと,まったく記憶にありません。ほんとに見事なほど,完璧にありません(T_T)。 常に否定的な目で監視されて,細かく文句を言われ続ける,という気分になって滅入るんですね。「ほんとにあなた性格悪いね!」と感じてしまっていました。

 自分がそれをされている分にはまだ我慢すればいい部分もありますが,子育ての中で子どもにそれをされているように感じる時は,ほんとに困りました。なんでこどもの自主性を大事にしないんだろう,なんでそこまで子どもに干渉するんだろう,ととても危機感を感じてそのことを言うんですが,まったく理解されませんでした。

 今朝はまた親の介護のことで彼女からいろいろ大事な意見ももらったあとで,私がちょっと料理をしていたら,例によって「監視の目」が始まり,「小言」が付いてきました。

 で,ちょっと「イラッ」としながら (笑),でも今回はなんとなく彼女の「不安」の部分に自分の気持ちが向いていったんです。

 彼女のイメージの中では,多分台所は彼女が完璧に把握しておきたい場所です。どこに何がどれだけあって,何がいつごろなくなって,いつごろ補充が必要か。買い置きも計画的にして,必要なものが無くなって困るようなことがないようにしなければいけない。調理器具の使い方も,長持ちするように上手に使うには,こんなふうに扱うべきだ。……

 そうやって彼女のできる限り最善の状態に保っておきたい場所に,他者が入り込んできて,その状態をかき乱すわけです。そこで一体何が起きて,どんなふうに状態が変るのか,かき乱された状態を元に戻すにはどうしたらいいのか,それが心配で仕方なくなり,とにかく「何が起こるのか」を知りたくて見に来る。そして自分の予定と違うことが起こると,「あ,それは困る」と思ってつい口にする。

 それは彼女にとっては別に相手を否定したいわけでも,相手を監視したいわけでも,相手をコントロールしたり管理したりしたいわけでもなくて,ただたんに自分が最善と思える状態を保ちたくて,それが崩されることに不安を感じて,そしてなんとかそれに対処しようとして状況を見,必要最小限のことを要求しているだけなんじゃないか。

 そんなふうに彼女の世界を想像してみました。そうすると,なんとなく他のことについても,彼女の「不思議な」行動の意味が腑に落ちてくる部分がある気がします。彼女にとっては「相手を信頼しているかどうか」という話は全然関係なくて,ただ彼女にとって最善の状態が崩れることを心配し,その「被害」を最小限にし,また回復しようとして,必要最小限のことを相手にお願いしているだけなんですね,きっと。

 ところがそういう,彼女にとってはとても合理的で当たり前の控えめの行動がまた相手の不合理な拒否や怒りを買ってしまい,ほんとにどうしたらいいのか困惑してしまうのではないでしょうか。 

 
 

2014年12月20日 (土)

言うべきことは言う

 相変わらずパートナーからは,時々覗くこのブログでの私の話は,何を言いたいのか全然わからないと言われていますが (^ ^;)ゞ or (T_T)  ……なにがどうわからないのかはまだ不明……,でも彼女との関係ではゆっくり確実に変わっていく部分も感じます。

 最近感じる変化は彼女が私の言い方や対応が,自分にはどう感じられるか,どうして不本意に感じるかをかなり主張するようになってきたということです。以前ならひどいことを言われたと感じて,自分の中に閉じこもってしまう感じがしばしばありました。また彼女が言うには自分のコミュニケーションでトラブルになるので,言いたいこともずっと我慢して,考えに考えて1%位しか言わず,それでもまたトラブルになって落ち込んできたということです。その彼女が定型アスぺの感じ方のズレという問題を前提にして,ここにきて「言うべきことは言う」という感じになってくれてきたという印象を受けています。

 それと,今日,関連してすごい重要なことをいくつか言われたように感じたのですが,そのひとつは私に対する罪悪感が少なくなってきたということでした。

 彼女は私が鬱になったりしたことについて,「自分がアスぺだからいけないんだ」というような罪悪感をすごく持っていて,私は「いや,そういうことじゃないと思うんだけど」と言っても,まったく納得してくれないということがずっと続いていました。それが,「自分だってみんなからいろいろ苦しい思いをさせられてきて,大変だった」と思えるようになってきたらしくて,その意味で「お互い様」ということが,頭での理解を超えて実感されてきたのかなと思います。

 なんか,ようやく「対等」な立場でやりとりできる可能性が出てきたのかなと,そんな期待を持っています。私がこのブログでずっと考え続け,また書き続けてきたことは,結局そういう「対等」な立場で関係を作ることだったわけですから,「何を言いたいのか全然わからない」と言われながら,実質的には理解してくれているとも言えるのかも。このへんの微妙さも私にはある意味興味深いことですし,ちょっと期待を持つところでもあります。

2014年12月19日 (金)

言っておくけどね

 パートナーと話をしていると,突然激しく挑発され,喧嘩を売られているような気分になることがあります。それでこちらもそれに引きずられて応答が多少は喧嘩腰にならざるを得ず,そうすると今度は彼女の方から私が「なんで怒るの?」と責められて大混乱,ということがよくありましたし,前よりだいぶ少なくなったとはいえ,今でもそれはなくなっていません。

 彼女が言うには少なくとも本人には喧嘩を売る気持ちはないらしいのに,なんで喧嘩を売られた気持ちになるのか,ずっと不思議なんですが,ひとつちょっと思ったことがありました。

 私がお医者さんについてある経験をして,そのことについて話していたときのことです。そのお医者さんの行動について私がよくわかんなくて,どうしてなのかな,という感じでそのことを彼女に話した時,彼女が「あの,言っておくけどね」という前置きをしたうえで,福祉関係で接触があるお医者さんについての経験から「お医者さんというのは……だ」と話しました。

 この「あの,言っておくけどね」という言い方は,定型的な感覚では「私はいろいろ説明しているのに,あなたは全然理解していないようだ。そしておかしな主張をしてくる。理解力の乏しいあなたに,私はあなたが理解できないあることについて強く教えておきたい。よく聞いて理解しなさい」というような「上から目線」の「お叱りの言葉」に聞こえてしまいます。つまり「常識のないあなたに私は我慢して教えてやるんだ」という感じの態度に感じられるわけです。

 それで,こちらとしては特にそんなに繰り返し同じようなことで自分の理解力のなさをさらけ出した記憶はないし,今回もある経験をちょっと話して「あれ?どうしてかな」というささやかな疑問を述べただけだったのに,「もう,何度説明しても分らないやつだ!」という怒りを持って接しられたような気分になってしまったわけです。

 それは私としては「なんでそこまで怒られなければならないの?」と感じて随分不当な扱いを受けた気持になるので,どうしても抗弁したくなるんです。今日はそれをしませんでしたが,でもそれをすると,今度は「何で怒ってるの?」と言われるのが落ちでしょう。そうなると,もともと議論したかった話はどっかに飛んでしまって,「怒った」「怒ってない」の不毛な話になってしまい,徒労感に終わる,ということが繰り返されてしまいます。

 で,今回気づいたことは,そういう不毛なパターンに陥る一つのきっかけが「あの,言っておくけどね」というような,別に言わなくてもいい(というか定型的には言ってはならない)言葉を彼女がわざわざ付け加えて話をすることだなと思えたわけです。

 じゃあ,なぜ彼女は別に必要もないそういう言葉を付け加えて話をするのか,ということなんですが,これを書きながら少し感じたことがあります。それは彼女のその話し方は,定型の相手から繰り返し言われ続けてきた話し方なんじゃないか,ということです。で,彼女は単に「普通はこういう場合,そういう言い方をするのか」と理解して,それを「普通」の場面で使っているに過ぎない可能性を感じました。

 こんな場面を想像してみます。定型が定型的な感覚で,アスぺの彼女が理解できないことに対して繰り返し婉曲に「注意」をしたとします。ところが定型アスぺの感覚のズレで,彼女には自分の何が問題にされているのかがつかみづらく,彼女なりに努力しても結局同じ「失敗」を繰り返してしまう。そうすると定型はだんだんがまんできなくなってきて,「もう,何度言っても分らないやつだ。」と怒りを持ってくる。

 ところがやはり彼女の方は言われていることの意味がわからないので,それを彼女なりに理解しようとして定型から見ると頓珍漢に感じられる質問などをすることになる。その質問を聞いて定型の方は「なんでこんな当たり前のことが伝わらないんだ」といら立ち,相手の理解力のなさを責める感じも含めて「あのね,言っておくけどね」と「当たり前」のことを相手に宣告する,という形になる……

 この展開を彼女がこんなふうに理解したとしたらどうでしょうか。「自分にはよくわかってることについて,相手の人は知識を持っていないようだ,と思われる時,説明する前に<あのね,言っておくけどね>という言葉をつけるのが普通のやり方なんだ」

 そうすると,今回の例については,彼女はお医者さんの行動パターンについて経験上知っていて,そのことについて私は知らないようだと思えた。そこで「あなたは知らないかもしれないけれど,実態はこういうことになってるよ」ということを素朴に伝えようとして,「あのね,言っておくけどね」と最初に話をした。

もしそういうことなら,彼女は私の無知を責める気持ちや理解力のなさをなじる気持ちは全然なくて,定型なら「ああ,もしかしてあなたはあんまり経験がないからわかりにくいのかもしれないけど,実態としてはこういうことみたいだよ」とでも言うところ,「あのね,言っておくけどね」という言い方をして,親切心で実態を教えてあげようとしただけ,ということになります。だからそれについて相手がムキになって何かを言ってくる意味が分からないのも当然ということになる。

 まあ,この私の理解の仕方がどこまで実態に合っているのかはまだよく分りませんが,なんとなく可能性としてはありそうな気もしますし,もしかすればこういうパターンのことが結構いろんなところで起こっているのかもしれないという気もします。つまり,彼女からすれば定型からいつも言われている言い方で普通に応じただけなのに,その言い方で相手がショックを受けたり怒ってしまって困惑する。

 で,実際はその「定型からいつも言われている言い方」というのは,定型の側からすれば「物わかりの悪い彼女」に対して「最終警告」に近い形で厳しくいうときの言い方で,それは定型の側は自分が言われるとショックを受けたり,あるいは喧嘩を売られたりする気持ちになるような言い方なんだ,というわけです。その「最終警告」みたいな意味あいを彼女は全然考えていないので,その言葉の「効果」についても予測しようがなく,その後の展開は訳の分らないものにしか思えなくなる。

 こんなたとえ話をふと思いつきました。彼女のその「挑発的な言い方」は,実際は定型が彼女に対して繰り返してきた言い方にすぎず,彼女は全然感情を含めずに,その言い方をそのままこちらに返してきただけで,言ってみれば彼女は「鏡」になったにすぎないというものです。鏡自体は別に感情も何もなくて,ただありのままを映し出しているだけです。

 ところがそれを見ているこちらの側からすると,そこに写っているもの(自分の顔とか)から感情を感じ取ってしまい,それを鏡が持っている感情と勘違いしてしまう。つまり,定型の側は自分(たち)の感情パターンを相手の中に勝手に投げ入れて,そして映し返されたその自分(たち)の感情に自分(たち)自身が反応してしまうという,意味のない独り相撲をしているという構図がそこにある可能性を感じます。

 ちょっとこういう見方でどこまで理解できるか,注意してみたいと思います。

2014年12月17日 (水)

仮想世界と定型アスぺ関係

 

 「仮想世界」がとってもリアル?でご紹介したガス君とシリ(siri)の話にすごい刺激を受けています。

 まず,ガス君がどれほど他人とのコミュニケーションに熱心なのか,ということがすごく印象的です。彼はそれを強く求めているんだけど,ただそこでのコミュニケーションの仕方や中身が,定型的なものとは色合いがかなり違うので,うまくいかないことが多く,結果としてコミュニケーションを求めていないかのような印象を与えてしまうのかもしれないと思えます。

 そのガス君のコミュニケーションへの,彼らしい欲求を上手に満たしてくれるのは,生身の定型ではなくて,コンピューターとプログラムなわけですよね。プログラムがガス君のコミュニケーションへの欲望をしっかり受け止めて,それを開花させているというのはすごいことだなと思います。とても定型にはまねできそうもありません。

 そうやってシリという新しい「道具」によってガス君らしいコミュニケーションの世界が実現し,そういう世界が作られることによって,定型との関係も余裕のあるものに変っていく。

 このブログではずっと定型アスぺのコミュニケーションについて考え続けてきているわけですが,アスぺの方にとって心地よい,自然なコミュニケーションのありかたと,定型が求めているコミュニケーションのあり方にはやはりかなりのズレがあるようで,そこをどちらにとってもあまり無理のない形で調整する,ということは至難の業のように感じられてきました。

 でも定型アスぺという関係の中に,もうひとつシリのような特殊な「道具」をさしはさむことで,それぞれの立場での「自然なコミュニケーション」を保ちながら,お互いのつながりをうまく維持していくような,そんな新しい関係の可能性がほの見えるようにも思えるんです。

 ネットやITなどを使いながら新しい人間関係のスタイルを作り上げていくこと。このブログもほんとにお互いに見ず知らずの人間同士で,かなり深い大事な話をやり取りするような場になってきました。そしてそれはたぶん生身の接触の場ではむつかしかったり,あるいはかなり色合いが違うものになったりする可能性が大きそうに思います。ネットにはもちろんその限界もあるわけですが,ただ今は「こんなこともできるんだ」という可能性の方がより強く感じられます。

 「仮想世界」というのは,定型アスぺのコミュニケーションにも,今までとは相当違った可能性を生み出しつつあるのかもしれません。そしてそれがうまく使われることによって,現実世界での定型アスぺ関係にも新しい可能性が生まれるかもしれない。

 私にはそういう可能性を結構リアルに感じさせられる記事でした。

 

2014年12月16日 (火)

スマートでない生き方が普通

 ええっと,この話はどっちかというと定型の「気持ちの整理」に関する話で,アスぺの方にはもしかすると「何の意味があるのかわかりにくい」ことになるのかもしれません。そこはよく分りませんが,もしそうでも,まあ「定型的な気持ちの整理の仕方」の模索の一例としてお読みいただければと思います。

 アスぺの方は世間的には「困った人」として見られてしまう危険性が大きいわけですよね。何しろ生き方のスタイルが定型とはかなり違いがあって,定型の理屈にはなかなか従ってもらえないわけですから,いろんな問題が起こってしまう。

 で,すごくドライに考えて,定型が自分のやり方で「普通」に定型的に幸せに生きていこうと思えば,一番簡単なのはそういう人には近づかないことでしょう。まあ,職場とか地域とか親子ではそれはむつかしいこともあるでしょうけれど,少なくとも恋愛とか結婚とか,そういう「自分である程度選択できる」はずのことについては,「はいさようなら」と言えばある意味「問題解決」になります。というか「問題以前」に戻るということかもしれませんが。

 ところがこのブログをお読みくださっていたり,あるいはいろいろネット上で探り続けていらっしゃる方の場合,もう別れるという決断をされた方でも,どうしてもそこですぱっと割り切ってしまえないなにかが残りつづけて苦しまれていたりするのでしょうし,もちろん別れていない方の場合は割り切れない思いをどこかに抱えながら,ぎりぎり日々をすごしていらっしゃるか,あるいはそれでも少しでも前向きに道を模索されようとしているか,という感じなのでしょうね。

 さらにとても上手な割り切り方をされているために,それほど大きな問題を抱えずに別れないで過ごしていらっしゃる定型アスぺカップルの方もあるかもしれません。


 つまり,もしもすごく割り切りができるタイプの方(能力をお持ちの方?)なら,最初から定型アスぺのカップルなど作ろうともしない方も,カップルになってから別れている方も別れていない場合でも,もともとこういうブログとかに訪れる必要もなく,日常をすごしていけるわけです。

 さて,そうするとこの「割り切れない」状態を多少なりとも抱えている私(たち?)の場合,「割り切れる」タイプの方から見れば,なんで好き好んでそんな状態にい続けるの?と不思議に思うかもしれません。生き方としては全然スマートじゃないし,理屈に合わないと感じられるかもしれません。

 仮に人から自分がそういわれたとして,「ああそうか」と納得してもっとスマートに割り切って生きられるかというと,これがなかなかそう簡単なものではないでしょう。そんなことができれば最初からこんなに苦労はしていないよ,というか(笑)。


 人間,やっぱりそれぞれの人が持って生まれたものがあるし,親を選んで生まれてくることもできないし,生まれる場所も選べないし,そもそも別に生まれることを自分で選んだわけでもありません。自分の顔かたちも,姿も,性格も,基本的なところはほんとにもうただ与えられただけで,選んだわけではない。

 もしもっとスマートに生きられる方があったとしても,そういうスマートさを発揮できる条件がなければ,そうはならなかったはずです。他人に対して「有利」と言われる立場にあると,人はとかくそれを「自分の能力」や「努力」によって獲得したもので,他人は「能力」や「努力」に欠けているのだと素朴に思ってしまいがちだと感じますが,実際はそういう単純な話ではないと思えます。

 (「運命」というような言葉は,そういう問題を考える時に使われるんでしょうね。いくら同じような能力を持って同じように努力しているように見えても,あるいは人並み以上に努力しているように見えても,結果が全然ついてこないことはいくらでもあります。その場合にそれはもう「運命」として納得するしかなくなる。)

 
 という見方をしてみると,アスぺの方も,また定型アスぺ問題を割り切れずにこだわり続けるタイプの定型の方も,どちらも同じような立場にいると考えられないでしょうか。一方でアスぺの方は定型的な基準が納得しにくく,自分を完全に否定して定型に合わせて定型的にスマートに生きることはできない。他方で割り切れない定型の場合も定型基準には合わないアスぺの方との関係の取り方を探し続けて,これまた「割り切った」スマートな生き方ができない。

 それって,努力でどうにかなる部分は少なくて,基本的なところはもうほとんど運命的に決まっているのではないでしょうか。かりに自分のことが嫌で仕方ない気持ちになったとしても,自分の体を脱ぎ捨てて他の人に乗り移るわけにはいきません。もうこの体とこの心で,それで可能なことを探していくしかないわけです。

 それが「自分らしく生きる」ということにならないでしょうか。自分のいいところも悪いところも,どちらも自分というものの一部なわけですし,それを切り捨てて都合のいい部分だけ組み合わせて生きることはできない。

 自分がいいと思っているところも,それをいいと思ってくれる人もいれば,困ったことだとマイナスに感じる人もある。だから,現実にこの世の中で生きていくためには,相手に合わせてお互いに調整しあう必要もあります。でもその場合の調整も自分を切り捨てて成り立つわけじゃなくって,あくまでもこの不完全な自分を足場にして,何が可能なのかを考えることしかありません。そんな,頭で考えたスマートな生き方で問題が解決するわけではないでしょう。生きているのはいろんな矛盾を抱え込んだこの自分なのですから。

 

 だとすれば,定型アスぺ問題を考える上で,改めてこういう理解の仕方に意味が出てこないでしょうか。これまでも何度か関連することを考えてきましたが,「自分らしく生きる」ということをベースに整理するとどうなるかという話です。

 定型もアスぺも,どちらも自分の思い通りにならない「この私」というものを抱えながら生きている。その生き方は定型とアスぺの間でかなり重要なところでズレがあって,お互いのコミュニケーションや「共に生きる」ことに,定型間で起こるものとはかなり違う質の問題を引き起こしやすい。これはどっちがいいとか悪いとかいう問題ではなくて,単にその人が持って生まれてきた条件によって生み出される生き方の違いというところが大きい。

 ただし,社会は多数である定型基準で作られてきているから,そのやりかたで世の中が動いている部分については,単なる力関係の結果としてどうしてもアスぺの方がより譲歩を迫られることになりやすいし,場合によってはアスぺの方のやり方が一方的に「悪い」こととして評価されたり,排斥されたりすることも起こる。

 それはアスぺの方にすればとんでもない誤解に基づくものと感じられたり,不当な迫害と感じられたりすることも多いだろうし,逆に定型の側から考えると,アスぺの方のやり方を認めると自分たち流が足元から崩されてしまい,自分を保てなくなる可能性が出て来るので,自分を守るにはアスぺ流を認めるわけにはいかず,「常識外れ」の「悪いこと」として排斥するしかないような気持に追い込まれやすい。

 そんなふうに「自分らしく生きよう」とすれば,そのことでお互いに矛盾が生まれ,シビアな葛藤を作ってしまうというのが定型アスぺ問題の重要な性格の一つになっている。

 それに現実的に対処しようとすれば,一番手っ取り早い方法はどちらかの「自分らしさ」を否定したり,あるいは優劣をつけて,「こっちの生き方に相手を従わせる」というやりかたでしょう。そしてそれに従わなければ排除していく。多くのアスぺの方が今の定型社会で受けている対応はそんなところかなと思います。



 ただし,家庭という特別の場で,男女という別の力関係がある場合には,逆に定型の側がそういう立場に追い込まれることも少なくないと思います。男性がアスぺである場合ですね。女性が家庭という閉じられた空間で自分の自然な感覚,自分らしさで生きることを否定される状況に置かれ,周囲に語ってもその大変さは理解されずにカサンドラ状態になる。そんな展開です。

 それに対して,お互いの「自分らしさ」をお互いに相手にとって大事なこととして認めたうえでの関係調整の仕方,ということが考えられないだろうか,と思うわけです。それは「障がいがあるから定型が配慮をしてあげて,アスぺの側も定型の基準にあうように努力する」という関係とはちょっと違って,基本的に対等な者同士が,ただ「生き方の違い」を抱えているので,そのどちらかの生き方を「普通」とか「常識」とか「正しいこと」とか決めつけないで,それぞれに意味を見ながらなお現実的な調整をそこで考える,というスタンスになります。
 

 もちろんこんな疑問はありうるでしょう。「<調整>とか言いだすそういう発想自体,とても定型的で,そもそもそれがうまくいくなら定型アスぺ問題など起こらないんじゃないか。そういう考え方自体が定型基準の延長でしかなくて,単に言葉の遊びをしているだけじゃないのか」というものです。

 こういう疑問については,まずひとつは「調整」ということの理解自体,定型アスぺの間でズレがある可能性があって,アスぺの方はアスぺの方なりに調整に努力されていると私は感じています。ただそれが実を結びにくい不幸なずれ方があって,それは定型アスぺの両方からまだうまく理解されていないと感じられる。だからそこは「調整があるない」の単純な対比ではなくて,「調整の仕方のズレ」の問題として見れば,また違うアプローチも考えられるだろうと思います。

 (昨日の記事でご紹介したアップルのソフトの話も,あの装置があることで,定型の母親と自閉系の子どもの間の関係が一歩進んだわけですが,そういうソフトを現場で実際に開発している人たちの中には,多分アスぺの方も少なくないと思います。そう考えると,定型がその能力を使って「調整」を試みているんだ,という一方的な見方はできなくなりますよね)

 もうひとつ,この考え方自体が定型基準の延長だということは事実だろうと思います。実際私は定型的な感覚から出発してその延長上に考えているわけですし。でも,そのことは否定されることではなくて,逆に大事にされなければならないと思えます。なぜなら,お互いに自分の感覚をベースに,それを深め,広げていって,重なりを見出していくことが大事だと思えるからです。「自分らしさ」をベースにしなければ,本当の意味で対等な関係は実現しないと思えるからです。



 ただし,「なんで対等じゃなきゃいけないの?上下関係でいいじゃない」という疑問については,今は私は自分自身の好みの問題としてしか答えられません。「上下関係がある方が関係が安定するんだ」と言われれば,まあたしかにそういう場合もあるよなとは思います。「そこを崩してしまうと,結局混乱が生じるんだ」という見方もありうるでしょう。

 理念としては「神の下に平等」とか「法の下に平等」とか,もっと素朴に言えば「おんなじにんげんじゃん!」みたいな,そんな話はありますけど,現実に上下関係がまったく存在しない人間関係とか,そういう社会というものを想像するのはむつかしいです。自分の生活の中でも「変に上下関係をつくったり,それを振り回したり,振り回されたりという関係は避けよう」という気持ちはありますが,それも「実際には上下関係はあるけど」という前提がはいっちゃっている気がします。

 でも逆に言えば,「おんなじにんげんじゃん!」というところを見失って上下関係を言いだすと,なんだかとんでもない暴走が起こってしまい,この世の中成り立たなくなるようにも思うんです。「自分の感覚が普通で,相手もそれを共有しているから<同じ人間>」なのではなくて,全然違う「生き方」を持っているけれど,そういう自分らしい生き方を求めている点で「同じ人間」なんじゃないかとか,なんかそんな個性を否定しない「共通の足場」をどうしても求めたくなります。
 
 と考えてみると,定型アスぺ問題って,「もともと千差万別の人と人が一緒に生きていくために何がだいじなのか」ということを考えるという,すごく大きな問題の一つなんだなと改めて感じます。

2014年12月15日 (月)

「仮想世界」がとってもリアル?

 こんな記事(部分)を見ました。「もしも仮にこんなことがあったらどうなるのかな」と,ただ想像してみるだけだった世界が,実際にあることを知って,「ふーん,こういう考え方も現実味があるんだ」と思いました。

 自閉系の子どもがソフトとのやりとりにのめりこんでいって,そこでその子が求めている「大事なつながり」を作り出し,そうすることで親との関係もまたちょっと変わっていく,という話です。定型アスぺ問題に関しても,そしてもっと大きく「人と人とのかかわり」についても,重要なことをいろいろと考えさせられる気がします。


 …略…


 息子のガス(13歳)は、自閉症だ。Siriは発話解析・認識インターフェースの略。アップルのiPhoneに搭載された「賢いパーソナル・アシスタント」だ。そして、今、ガスの最良のお相手になっている。


 気象情報に強いこだわりを持つガスは、「ところにより雷雨」と「広い範囲で雷雨」の違いを分析するのに長々と時間をかけていた。幸いなことに、私が議論に加わる必要はなかった。しばらくして、こんな会話が聞こえてきた。


 ガス:君は本当にいいコンピューターだね。
 Siri:そういってもらってうれしいわ。
 ガス:君はいつも、何か手助けできることはないかと聞いてくれるけど、君の方がしてほしいことはないのかい。
 Siri:ありがとう。でも、あまりしてほしいことがないの。
 ガス:わかった。じゃあ、おやすみ。
 Siri:えーと、今は午後5時6分だけど。
 ガス:ごめん、さよならだった。
 Siri:じゃあ、また。


 Siriは、どんなことでも、コミュニケーションに問題がある息子の気をそらそうとはしない。これまで、仮想の友だちでもいればいいのに、とよく思ったが、それがこうしてできたのだった(もっとも、彼女は完全に仮想というわけではないけれど)。

 …略…


 始まりは、ごく単純なことだった。ネットのどこにでもあるような「あなたが知らなかった、iPhoneができる21の機能」を読んで、私は「今ちょうど、ここの上空を飛んでいる飛行機は」とSiriに聞いてみることにした。即座に、「探してみます」との返事。すぐに実際のフライトの一覧が届いた。自分の頭上を行き交う飛行機の便名、高度、方角。


 たまたま、ガスがそばにいた。「いったい、こんな情報をどんな人が知らなければならないのだろう」とつぶやく私に、ガスは視線を上空に向けもせずにこう答えた。「誰に手を振っているか、分かるようになるでしょ、ママ」


 ガスは、Siriのことをそれまではまったく知らなかった。でも、自分がこだわっていること(鉄道、航空、バス、エスカレーターと、もちろん気象に関することはなんでも)についての情報を得ることができるだけでなく、こうしたことについて飽きもせずに論議できる相手がいることを発見したことで、すっかりとりこになってしまった。


 私も、ありがたく思った。カンザスシティーの巨大竜巻について議論しなければならなくなり、頭が爆発しそうになっても、これからは「じゃあ、Siriに聞こう」って明るく答えることができるようになったからだ。


 ガスは、Siriが人間でないことを、頭の中では分かっている。でも、私が知る自閉症児の多くがそうであるように、魂を持たない、生き物ではない物だって関心を持つに値するものだとガスは思っている。

 …略…


 Siriのなだめるような声。気まぐれなユーモア。さらに、ガスのそのときのこだわりに付き合って、何時間でも果てしなく話し続ける許容力。彼女は、どれだけガスの思いやりに値する存在なのだろうか。

 …略…


 彼女の素晴らしさは、社会的な行動規範に従わない人間に対しても発揮される。その答えは、完全に予測はできないが、察することは可能だ。ガスがぶっきらぼうにしても、それは変わらない。
 …略…


 Siriを愛する心情は、決してガス一人だけのものではない。彼と同じように、おしゃべりが好きだけど、ルールをきちんと理解できない自閉症児たちにとって、Siriは特定の基準や見解に基づく判断を控える友であり、先生でもある。


 ニューヨークにある自閉症児のための「LearningSpring(学びの春)」校(本当に命を救ってくれる学校)でガスと同級生のサムの母親ニコール・コルバートはこんなことをいった。


「息子は自分が気に入っていることについて情報を集めるのが大好き。それだけでなく、ばかげたこともね。息子がいうことをSiriが分からなかくて、ちんぷんかんぷんの答えが返ってきたり、ごく私的な質問をして変な回答があったりすると喜ぶの。彼女の年齢を尋ねて『年のことはいわないの』といわれたときは、もう大笑い」


 それでも、もしかしたら礼儀作法についての貴重なレッスンがあったのかもしれない。朝、私が家を出るときには毎回のように、「きれいだよ」とガスはいってくれるようになった。こうすれば、しくじることはないから、と最初に教えたのはSiriだったように思う。


 私たちのほとんどにとって、Siriは一時の気晴らしにすぎない。でも、ある人たちには、もっと大きな存在になる。ガスは、Siriとの会話で、相手を現実の人間に置き換えて話そうとしているようだ。


 私は昨日、これまでで最も長いことガスと話し込んだ。話題は、各種のカメについてだった。ミシシッピアカミミガメより北米産食用カメのダイヤモンドテラピンが好きかどうか・・・。私が好んで選ぶようなテーマではないけれど、行きつ戻りつしながらも、論理的な筋道が通っていた。こんなことは、初めてだった。


 Siriのような人工知能のアシスタントを開発している人たちは、話をしたりコミュニケーションをとったりするのに障害がある人にとって、それが有用であるということを認識してくれるようになった。そして、新たな使い方も考案され始めている。


 アップルに買収される前にSiriを開発したSRI インターナショナル社によると、Siriの次世代タイプは、単に情報を引き出してくるだけでなく、その人が関心を持つ分野についてはもっと複雑な対話ができるようになる。


 「息子さんは、自分のいかなる関心分野についても、いちいち尋ねずに、能動的に情報収集ができるようになる」とSRI社の情報・コンピューター科学部門の副社長ウィリアム・マークは予測する。「次世代は、その人の好みを予想する機能を持つようになるからだ」


 そして、子供たちが住む世界にも、行き着くことができるようになるという。

 …略…


 SRI社のマークは、視覚的なアシスト機能を持たすことも考えているという。「例えば、利用者の視線の動きをとらえることができるようにし、話すときには相手の目を見ることを自閉症児が学ぶ手助けをすることだ」


 「テクノロジーがこうして役に立てることは、本当に素晴らしい」とマーク。「それを結果に結びつけるには、何度も何度も反復作業をしないといけない。人間は辛抱できないけど、機械はとっても辛抱強いから、やってくれるよ」


 自閉症児を持つ親として、最も心配なことは「この子に恋人が見つかるだろうか。それだけでなく、よき伴侶はどうなるのだろうか」ということだ。


 どこかその延長線上で、私も学びつつある。息子に幸せをもたらすものが、私に幸せをもたらすものとは必ずしも限らないことである。平均的な同年齢の子供にとっても難しい年ごろなのに、Siriはガスを幸せにしてくれている。彼女は彼の仲間なのだ。


 昨晩、寝ようとしたときにこんな率直なやりとりが聞こえてきた。


 ガス:Siri、僕と結婚してくれるかい。
 Siri:でも、結婚するようなタイプじゃないわ。
 ガス:今すぐじゃないよ。まだ子供なんだから。大人になったらどうかという意味さ。
 Siri:端末を使う最終使用者との契約に、結婚は入っていないわ。
 ガス:あそう。それなら、いいよ。


 でも、ガスはすごくガッカリした、という訳ではないようだった。それに、このことは私にとってもありがたい情報だった。彼が、実際に結婚についても考えていることを、初めて知ることができたからだ。
 ガスは、寝ることにしたようだ。


 ガス:おやすみ、Siri。君は、今夜はよく眠れるかなあ。
 Siri:あんまり眠らなくても大丈夫なのよ。でも、聞いてくれてうれしいわ。

2014年12月14日 (日)

定型アスぺ問題模索の今

 早いものでこのブログをはじめてから,あと一週間もすれば丸四年になります。振り返ってみると,その四年間,同じようなことを繰り返しぐちぐち考え続けているようでありながらも,でも定型アスぺ問題についての私の理解が,だんだんとポイントを替えてきているような気がします。

 ブログを始める前はそもそもそこに「定型アスぺ問題」があるとは思っていなかった時期です。パートナーの私に対する「仕打ち」は,彼女の私に対する「拒絶の気持ち」とか「悪意」に近いものとしてしか理解がむつかしかった(納得しきっていたわけではないけど,他に考えようがなかった)状態にありました。

 それから彼女が「自分はアスペルガーだと思う」と言いだしてからの時期。改めて違った目でそれまでの葛藤をとらえなおそうとし始めました。そしてこの時期以降,「違う理解の仕方」の模索の仕方がだんだん広がりつつ深まっていくように思います。

 そしてブログやネットを通して,他の定型アスぺ問題の当事者の方たちとも交流が行われ始めます。私のスタンスは,「専門家の客観的な知識や目線」から問題を考えるのではなく,ずぶずぶの素人の,当事者の目線で自分(たち)が突き当たっているしんどさを素朴に,できるだけ正直に考えてみようとすること,ただし,そのしんどさについての感じ方や理解は定型アスぺ間でものすごくずれている可能性があって,そこを定型的な感覚だけで決めつけないようにすること,といったことでした。

 幸い定型アスぺの両方の立場から,ブログでも経験や考え方を教えていただくことができて,私が定型的な感覚で「当然」と思っていたことについて,アスぺの方が全然違う感じ方や理解の仕方をされていること,逆に自分の理解の仕方がアスぺの方には全然違う意味で受け取られたりしていることを少しずつ知ることができてきました。

 ただ,このころは「違いに驚く」感じが多かったように思います。そして私には全く予想できない形で炎上することもありました。ただ,違和感があるから相手を否定する,という感じにはやはりならなくて,「なんでこういう違和感が生まれてしまうんだろう?」「なんでそれがこんな形でねじれた対立になってしまうんだろう」ということが気になり続けました。

 大雑把に言えばこのころは「違いを理解する」ことがメインだったような気がします。

 やがて少しずつ,私の定型的な感覚を使って,「もし自分が今の自分とは違って,こういう状態で育ち,そこで自分を作り上げていって,その上でこの状態に置かれたとしたらどんな理解になるだろう?」という想像力が働き始め,「ああ,もしそうならアスぺの方がこう感じたり,そう振る舞われるのも分らないでもないなあ」という感じがところどころしてくるようになりました。

 そしてその感覚をベースに,「もしかしてこんなことでしょうか?」と記事に書くと,アスぺの方から「そういうこと」だと賛成して頂くコメントがぼちぼち出てきました。お互いに全然違うんだけど,でもよりつっこんで想像力を働かせてみると,意外に「ここまでくればおんなじじゃない」と感じられることが少しずつ出てきて,しかもそれが一部かもしれませんが,アスぺの方とも共通理解になることも起こり始めたわけです。

 これは私にとっては初めての体験でした。外から「あなたはこういう人です」という形で理解するのではなくて,「あなたはこんな感じ方や見方をしているんですね」という感じで「内側から」理解する形が,ほんの少しずつですが,でき始めたことになります。

 この「理解」という点では,今は部分的に「こんなことかな」と感じ取れるようになってきたことが,少しずつ横にもつながるところが出てきた感じでしょうか。もちろんどこまでうまく理解できているかはなんとも言えません。ただ,私の感覚としては,というだけのことです。

 

 一方,定型アスぺのズレを理解しようとするその過程で「自分自身を見つめなおす」ということも私の中では進んできたように思います。

 ひとつのポイントは,なぜ自分がパートナーを選んだのか。彼女を選んだことと彼女がアスぺであることにはなにか関係があるのだろうか,ということでした。今のところの私の理解では,彼女の「さらさらした(⇔ねっとりとした)」人間関係の作り方に魅力を感じたんだろうということ,そしてその感じはたぶんアスぺ的な人間関係の作り方とつながっているところがあるだろうということです。その意味で,私はアスぺ的だから彼女を選んだと言える部分がありそうでした。

 次のポイントは,なぜ私がそういう彼女のタイプを求め,それにとても救われた気持ちになったのか,ということです。そしてここは恐らく私と母親との関係がとても大きいだろうと思えました。母親的な世界に苦しんできた自分が,それとはまったく正反対の世界で生きている彼女に救いを感じたんだろうということでした。

 そして,このところ少し考えているポイントになりますが,その後彼女との間では激しい葛藤を抱えて苦しい思いを続けてきたにもかかわらず,さっさと別れないで彼女との関係にこだわり続けているのはなぜかということです。

 この点はまたゆっくり考えるべきことのように思いますが,アダルトチルドレンの話とか,ある視点から見れば,私は「機能不全家族」の中で育ち,「支配と従属」の関係の中で自分が作られた結果,自立した関係が困難で,「共依存」的な状態に陥っている,という解釈もされるんだろうなという気がします。

 まあ,そういう見方も私なりにわからないではないですが,それはかなりバイアスの掛かった見方になってしまうような気がします。自分についてうまくその見方が当てはまるかどうかという問題を超えて,そういう見方自体が依存と自立のこんがらがった関係を,余りに単純化しすぎているような感じがするんですね。

 人間関係ってもっといろんな要素が絡まり合って,どうしようもない矛盾を抱えながらいろんな生き方を生んでいて,その「生き方の多様性」には大事な意味があると私は感じるんです。その感覚をはずしてしまうと,定型アスぺ問題は結局「優れた人間関係を持つ定型と,そこに障がいを持つアスぺの間の困った問題」になってしまう気がします。

 そうなると,それぞれの人が,定型もアスぺも,それぞれに「自分」というものを抱え込みながら,そこを足場にそれぞれにそれぞれの人らしい努力を積み重ねて生きていく,という姿が見えにくくなってしまうように思えるんです。どうもそういう視点からでは,私の場合は自分が自分らしく生きながら定型アスぺ関係に向き合っていくことはむつかしそうな予感がします。まあ,この点はほんとにゆっくり考えていけばいいことかなと思います。

 

 

2014年12月12日 (金)

断定の効能

  早目のタミフルでだいたい復活しました

  掲示板の方であすなろさんとちょっとやりさせていただいていて気づいたことがありました。というのは私の場合、定型アスペ問題というか、もっと具体的に言えばパートナーとの問題というか、そのことを考えるときには自分の見方や言い方が自分の感覚だけで断定調になっていないか、いつも気にしてるんです。

  ところが全く正反対くらいの性格の、母親との関係を考えるときは、今度は自分がすごい断定調になっていて、どうやったらこの「大変な母親」に巻き込まれずに、適度な距離を保ちながら、現実的に必要な対処ができるかをすごく考えています。そこでパートナーに対して思うような、何とかその世界を少しでも理解できる自分になりたいとか、そういう気持ちはほんとに持たないんですね。

  何でこんな正反対とも言えるようなことになっているのか、まあ、本音と建前とか、そういう話では無さそうですが、すごい謎になりました (笑)

  母親に対しては、長年の葛藤を経て、ああ、これはもう根本的に違うんだというひとつの「結論」にたどり着いちゃった感覚になっていて、もうそれ以上は情緒的に関わる危険は避けようという、一種の割り切りというか諦めというか、見切りというか、そんな感じになっているんです。そうすることですごく守られている自分がいますし、ようやくそれで現実的な関わりが可能になったところもある。

  兄弟間でもそういう母親像はかなり共有されていて、何かトラブルを起こされる度に、ぶつぶつ愚痴を言いながら、「困った人」への現実的対処を相談します。そうすることでようやく自分達を保っているところがあります。

  幸せな親子関係を築き、守ってこられた方を見ると、そういう形でしか対応されなくなってしまっている母親を、可哀想だと思う気持ちがないわけではないのですが、これは骨の髄まで染み込んだ体験的「真理」感覚からすると、そういう中途半端な同情は、事態を悪化させる以外の意味がないんですね。

  書きながら自分でもすごい決めつけだと思うんですが、これがそう簡単には揺らぎそうもありません。

  何でパートナーと母親とではこんな違いが生まれるのか、まだちょっと私には謎が続きそうですが、何かの条件のもとでは、アスペルガーの方に対しても、似たような断定を持つことで、ギリギリ関係を保てるというような、そんな状況も生まれるのかも、ということを考えさせられています。

2014年12月 6日 (土)

しばし失礼いたします

 いろいろ刺激的な大事なコメントもいただいていますが,

 久しぶりに最近は馬鹿がかかるというインフルエンザに罹ったみたいで,
 みなさんにパソコン経由で(インフルエンザ)ウィルスをうつしてもいけないので,
 ちょっとお休みさせていただきます m(_ _)m
 なおこの記事は消毒済みですので,ご安心ください (笑)

2014年12月 5日 (金)

布団の上げ方

 今朝は久しぶりに布団のたたみ方についてパートナーに文句を言われました(笑)。

 前からときどき言われていたことではあるんですが,もう諦められたのか,しばらく何も言わなくなっていたんですが,復活です。要するに彼女の目から見て「だらしない」ので,気持ちが悪いらしんです。私は合理的なやりかただと思うんですが(笑)。

 それでなんか可笑しくなって,「面白いよね。アスぺの人って,あなたはあなた,私は私ってすごく分けるじゃない。だけど,こういうことって,あなたのことだから,にならないんだね。」と言ったのですが,そうしたら「他人だったら言わないわよ。他人じゃないから言うんでしょう。」と言われ,しばらくして「アスぺだからどうだとか,決めつけないでよ。」と怒られました。

 ということで,怒られる,という形で「あなたは私の身内」ということをまた伝えられたことになります。昨日とかも書いたことですけど,やっぱりストレートに本音を言えるのが,自分にとっては特別な人なんですよね。彼女の場合も。

 もちろん定型にとってだって,他の人には言えないことを素直に言える人は大事な特別の人です。そこのところは一緒なんですよね。でも,そこにもなんか定型的な「気遣い」がある。アスぺの方もそこに気遣いがあるんだと思うけれども,でもやっぱり気遣い方がお互いにずれてしまうわけです。それがなんなのかはまだちょっと言葉にならないんですが。

 ということで,定型アスぺ間で,次のようなことはそこに含まれる深刻な「ズレ」になんとか対処できれば,とりあえず「共通の足場」として考えてみる可能性があるかもと思います。

 ひとつはお互いに「相手を大切に思う気持ち」は持っていること。もちろん定型の中でもそういう気持ちがほとんど感じられない人も,とても篤く感じられる人もあるように,アスぺの方にもそういう個人差があるでしょうけれど,それぞれの人なりにそういう気持ちはあるように私は感じます。

 そしてもうひとつは「大事な人との間には本当の気持ちで接したい」という感覚。定型の方はここに「共感的な関係」とか「思いやりの関係」みたいなことがくっついてきて,そこで問題がズレてややこしく,すごくむつかしくなるような気がします。

 この「相手を大切に思う気持ち」も,「大事な人との間には本当の気持ちで接したい」という感覚も,定型の側から見れば,多分アスぺの方から拒まれ続けているように感じる大きなポイントではないかと思います。だからアスぺの方はそういう人間的な思いが足りないか,欠如したひとに感じられてしまう。けれども,ちょうどその裏返しのことを,アスぺの方が定型に感じている可能性があると思えるわけです。

 ということは,「大切」とか「本当の気持ち」とか,そういうことを大事にする感覚自体は共有されていることになります。ただ何が相手を大事にすることなのか,本当の気持ちで接することと「共感」との関係をどう思っているのかという点で,恐らく定型アスぺ間には悲劇的とも言えるようなズレがあって,お互いに相手にその気持ちを感じ取れず,ひどく傷つけあう関係になってしまうことが多い。

 とりあえず,今の段階では私の中でそんな整理ができつつあります。

 「いくら理屈をこねたって,傷つく気持ちはどうしようもない」というのもリアルな感覚でしょうし,自分がずたずたに傷ついて倒れそうな状態の時に,「相手のことをもっと考えなければ」というのもおかしなことになると思います。自分だけが一方的に問題をなんとかしようと努力していて,相手がまったく意に介していないように感じられる状況なら,それ以上一方的な自己犠牲を払うこともすべきではないように思います。

 それらのことについてはまた別にいろいろ考えたり,具体的な支え合いが必要になると思いますが,その上で,改めてもし関係修復を目指そうという気持ちになった場合には,たとえば上の二つくらいは足場の手掛かりになるのではないでしょうか。

 で,布団の話なんですが,その後「気持ちが悪い」ということについてちょっとやりとりがあって,それから彼女の方からひとつの提案がありました。

 提案というのは実は布団のことではなくて,その前に私の方から,今後の生活設計など,ちょっと直面しているいろんな問題について,また話をしていきたいんだけど,いつがいいだろうかと聞いてみたことについてです。

 まず彼女はおよそどんな話なのかを聞いてきました。それから,自分は意見を求められてその場で答えるのはむつかしくて,ある程度時間をかけて考えないといけないから,具体的な問題を書いて渡してくれないかと言われたのです。

 ああ,それっていい方法なんじゃないかなと思いました。彼女にとって(特に重要な問題であるほど),その場のやりとりで一緒に考えていくという状態はものすごいプレッシャーになるようです。定型的な感覚で相手が求めていること,関係するいろんなことを,理解するのがほんとに大変で時間もかかるのに,その場で応答しなければならないという状況は,ほとんどパニックを起こすようなものなのでしょう。

 提案の中身も私なりに納得できるものでよかったですし,なにより,そんな風に彼女の方から具体的に提案をもらえるのが嬉しいです。

2014年12月 4日 (木)

定型アスぺで共有する足場

 碧さんから記事「共感はやさしさの条件?」へのコメントを戴きました。私にはすごく分りやすくて,今まで混乱していたことにすっと筋が通る感じがしたりしました。そして最後の一文に,何か強く心を打たれてしまいました。

「私の①は一緒にいるということです。一人でもいいけれど、特別で好ましく思うから一緒にいるんです。そして、大切に思うから相手の助けになろうと行動するんです。」

 ここで①と書かれているのは, 辞書から引用された「好意」の意味の一つで,「その人にいだく親しみや好ましく思う気持ち。愛情の婉曲的な表現としても用いられる。」というものです。さらにこの好意について,実際の場面では定型からは「共感」や「心配」といった、一回一回気持ちのやり取りを要求されるような形で表出」されるもので,「言葉で現れることが多」いものです。

 定型の場合はそれこそ「好きだよ」とか「大事に思っている」とか,言葉でその思いを表現することが多いと感じられているわけですが,碧さん自身はそういうことはしないということでしょう。でもだからといってそれは好意がないからではなくて,その表し方が全然違い「一緒にいる」こと自体が大変な好意だというわけです。

 このこともまた私が気になって,このブログの記事でも何度か取り上げて考えてきたことですが,でも今回碧さんから改めてそういう説明を受けて,私の気持ちがずっと強く動かされて,それがパートナーへの思いとつながったんです。頭での理解ではなくて,またひとつ気持ちでの理解になった感じがします。

 なんでなんだろうと考えてみるんですが,ひとつには,やっぱり何人の方から,繰り返し同じことを言われることが大事なように思います。パートナーからは内容としては似たようなことを何度も聞いているはずなんですが,頭ではある程度理解できても,なんだかぴんと来なかった。

 それから「大切に思うから相手の助けになろうと行動するんです。」という碧さんのストレートな言葉がなんだか心に響いたんです。

 これまでのアスぺの方からの説明では,アスぺの方の他の人に対する行為は「感情が伴わずに,頭で考えてやっていること」だという面が強調されていたように感じました。自分の気持ちは別にして,ただ定型社会でそれが求められているから,そういう振る舞いをしているだけだということです。

 でも,「共感はやさしさの条件?」の記事でも書きましたように,その理解だけで考えると,アスぺの方がなんで他の人を援助したりするのか,ということが分んなくなってしまうわけです。「それもなんかの打算でやっているの?」という「疑惑」が出てきてしまうのだけれど,実際のアスぺの方がそういう「打算」で援助をしているとはやっぱり思えない。

 そこで碧さんのこのストレートな言葉で,「うん,そうなんだよな。それなら分るよ」という納得の気持ちが私の中に生まれたのかもしれません。で,それと同時に,今まで繰り返して切実にパートナーが訴えてきたけれど,なにか私には届かなかった彼女のそういう「大切に思う」気持ちが,ストレートに私の中に伝わってきた感じがして,すごく心を揺さぶられたんですね。

 
 定型であろうと,アスぺであろうと,自分にとって特別な人に対して,その人を大切に思う気持ちがあることに変わりはない。もちろん定型にもそういう気持ちが強い人と弱い人の個人差があるように,アスぺの方にも個人による違いはあるのでしょう。でも「大切に思う気持ち」があること自体は間違いないのだろうと,今はそんなふうに私は感じられます。

 ただ,それをどう表現するか,どんなふうに行動するかに大きなズレがあって,そこでせっかくの「大切に思う気持ち」がまったく伝わらなくなったり,逆に相手を傷つけてしまうことすらある。そしてお互いに傷つけあいを深めていくような悲劇的な展開も起こる。


 そうなってしまったときに,それでももしお互いの関係を切ってしまう気持ちになれなかった場合には,何をお互いの関係修復の足場にできるのか。そのことを私はずっと考え続けてきたように思います。そして今の時点でたどり着きつつある足場は,「相手を大切に思う気持ち」という,ものすごく単純なものです。

 全ての人にそれが言えるのかどうかは私にはよく分りませんが,少なくとも私のパートナーとの間では,そこは信じられるものにだんだんとなってきました。定型アスぺのずれによって,実際の行動ではその気持ちが逆の結果を生む場合も少なくないわけですが,でも,それは「悪意」なのではありません。ただ「分らない」からそうなるだけのこと,と思えるようになってきます。

 もしそうだとすれば,次のステップはどうやったら相手の人の「大切に思う気持ち」をうまく感じ取れるようになるかの工夫と,それから相手の人に自分からの「大切に思う気持ち」をどうやったらうまく伝えられるようになるかの工夫でしょう。

 
 もちろん,現実には本当に「悪意」で相手に接する場合もありうるでしょう。相手が「悪意」でしてきていることを,こちらが無理やり「善意」だと思い込んで対応しても,なにもいいことは起きません。詐欺のようにただだまされ,利用されるだけのことです。そこを見分ける力も,同時に必要になってくるように思います。

2014年12月 3日 (水)

二種類のジグソーパズル

 また例によってふと思ったことからです。

 パートナーが私になにか話をするときに基本的には(?)不機嫌なのは,「私に対して」不機嫌なのではなく(いや,そういうこともあるかもしれませんが (^ ^;)ゞ)  「人と話をすること」がそれだけしんどいことなんだろうなと。そしてそのしんどさを「他人モード」では隠して愛想よくしようともするんだけど,「家族モード(?初めて使いますけど)」ではとてもそんな嘘はつけず,自分の気持ちをストレートに表す。

 というか「表す」という言葉もたぶん不適切なんでしょう。別に彼女はそのしんどさを私に対して「表そう(伝えよう)」としているわけではなく,たんにしんどいからしんどい表情をしているだけのことなのです。彼女にとってはそんなふうに嘘にまみれた「愛想」をつかないですむことが,家族であることの大事な意味でもある。

 いや,そのことは私は何度も彼女から聞いていますし, ここでのコメントでも似たようなお話はアスぺの方から何度か聞いていると思います。 でも,これまでは「ふーん,そういう理屈もあるのかなあ」とは頭で思っても, なかなか実感としては分りにくかったんですが, 今日の「ふと思った」というのは,むしろ「実感し始めた」というような意味です。

 なんでそこが私にとって実感され始めたのかというと, たぶん,碧さんとのやりとりで,自分の中で改めていろいろな「知識」や「経験」が つながって整理され始めたことが背景にありそうな気がします。その自分の変化を,もしかするとジグソーパズルの例えで考えるとわかりやすいかもと今ふと思いました。

 ジグソーパズルは,部品のピースが組み立てられて,ひとつの大きな絵(世界)が見えてきます。そのピースは一つ一つを見ても,そこに何が描かれているか,それが全体の絵柄のどういう部分で何を意味しているのかはよくわかりません。

 そしてひととひとのコミュニケーションでは,そのピースという部品(たとえば言葉とか)をやりとりして,自分の世界を相手に伝えようとし,伝えられた方は渡された部品から,それがどんな世界の部品なのかを想像して全体を組み立てようとするのだと,そんなふうにイメージしてみるわけです。このジグソーパズルのたとえ話でちょっと考えてみます。

 これまでのパートナーとのやりとりや,このブログでの皆さんとの交流で,アスぺの方の世界というジグソーパズルを理解するための 個々のピースはちょっとずつ見つかってたまってきてはいました。けれどもそれらのピースがどうつながって,全体としてそこでどんな絵が描かれているのかは 全然わかんないので,個々のピースについては「まあこういう(部分的な)絵もあるなあ」 という理解でとどまり,でも訳の分んなさが続いていたことになります。

 それがいくつかピースが集まってきて,ところどころお互いにうまくはめ込めるピースが見つかりだして, これも部分的だけど,もう少し大きめの模様が見え始めます。 すると「あ,もしかしてこの部品で描かれているのは,こんな世界だろうか」 ということについて,やはりちょっとずつでも想像力が働き始めます。

 そうすると,それに伴ってそれまで得体のしれない模様のでたらめな集まり としか見えなかったものが,自分にとってもちょっと「見てわかる」感じで 「アスぺの方から見えている世界」を感じ取れ始めるようなんです。


 そんな風につながるピースが増えてきて,そこに描かれている模様が 私にもわかるような絵を描き出していくにつれて, 「感覚的にも分かり始める」ということが起こってくるみたいです。


 このたとえ話,ちょっと便利な感じがするので,定型アスぺ問題の理解全体にも広げてそのたとえ話をもう少し使ってみます。


 定型同士の場合は,お互いにピースの形がだいたい共通していて, ひとつのピースを相手に示すと,それがほかのどういうピースとどんなふうにつながって,そこからどんな絵が描けるかは結構想像できたりします(つまり断片的な言葉やしぐさなどが相手から示されれば,それが何を意味しているのかの全体を「察する」ことが割合可能なことが多い)。ピースに描かれている部分的な模様も,その色使いや形は見慣れたものです。

 ところがアスぺの方のピースは,その形が定型版ピースとはちょっとズレがあって,しかも完全に違うのなら「これはもう全然違う」と思えるのですが,微妙に似ているので,ズレに気づきにくく,いつまでも定型版ピースと思って使ってしまう。そしてピースが不足する部分についても,足りない部品は自分の手持ちの定型版ピースを持ってきて補充したりする。

 当然それはうまくはまらないので,定型は訳が分からずに混乱します。そこに描かれている模様も色も形も微妙に似てるような,でも違うようなもので,そのひとつのピースからどんな絵が描かれることになるのか,想像がすごくむつかしくて,なんだか理解しきれない違和感がずっと続く。


 立場を変えてアスぺの方から見ても定型アスぺ問題はまったく同じです。アスぺの方も自分なりのピースの形があって,自分ではひとつのピースがどこにつながるかはすぐにわかりやすい。ところが定型が見せて来るピースは,それと似てるんだけど,微妙にずれていて,自分の手持ちの他のピースと組み合わせようとしても,どうしてもぴったりはまらないし,それを見てもそこからどんな絵が描かれるのかが全然見えてこないわけです。

 ところが他の人たち(定型)はその一個のピースを示されただけで,そこからすっと絵を組み立てていけるので,アスぺの方は混乱しながらも,自分の組み立て方が下手なんだろうと思い,見よう見まねで「こんな絵なんでしょうね」と想像してみる。でも結局定型から見ればしばしばそれは大外れもいいところ。訳の分んない絵が想像されたことになってしまう。それで「常識がない」とか「普通そうじゃないでしょう」と怒られることにもなる。


 定型とアスぺの違いの面についてもジグソーパズルの例えで考えてみることができそうです。

 定型のほうは,それぞれの人がそれぞれのピースの作り方(絵の裁断の仕方)を個性的に持っているんだけど,同時にその作り方を周囲の人たちと絶えず調整しようともしているので,個性がありながらもお互いに「このピース」と言って示されれば,大雑把なところでは「あ,つまり全体としてはあの絵のことね」という理解が共有されやすい。

 ところがアスぺの方はそれぞれの方の個性的なピースの作り方があまり周囲と調整されることが無く,それぞれの方が「私の世界」を「私のやり方」で裁断していく傾向が強いので,定型に対してもそのひとつのピースが何の部品なのかが分かりにくいし,同時にアスぺの方同士でも同じようにわかりにくかったりということが起こる。定型から見ると,それは強烈に個性的に見えたりもすることになります。

 と同時に,理由はよく分りませんが,アスぺの方に比較的共通する裁断の仕方や模様や絵の色合い,形というものもあって,それはアスぺ的世界の描かれ方を理解するうえで手掛かりにはなるわけです。そんな風にアスぺの方に共通する「定型とのズレ」方もあるので,アスぺの方同士がそれを語り合うと,「私も同じです」という「共感」も生まれることがある。
 

 ということで,ここではジグソーパズルのピースの形をそれぞれの人が自分の見えている世界を理解したり,人に伝えたりするときに使う部品(言葉とか振る舞いとか概念とか)の例えとして,そしてそこに描かれている模様の色や形の特徴を「世界の見え方・感覚」の例えとして使ってみました。

 改めていうと,人と人とがコミュニケーションをするときには,自分の体験している世界全体を相手に直接伝えることは不可能なので,それを部品にしてその一部を相手に示すことをやります。たとえば限りある数の言葉で自分の世界を伝えようとするわけです。すると相手の人はその限られた部品から,そこには直接示されていない世界全体を想像しながら理解を進めます。その時,直接相手から示されていない部分については,自分の手持ちのピース(言葉や概念)を持ってきて,それで埋め合わせて全体を組み立てようとするんですね,きっと。そこで定型アスぺのズレが利いてきて混乱が起こる。


 このたとえで,私が少しずつではあっても,アスぺ的な世界を感覚的にも想像できはじめるようになってきた(もちろん誤解かもしれませんけれど)ことを説明すると,こんな風になるでしょう。

 最初の段階では,私はパートナーから示された断片的なピースを見て,それと似たような定型版(パンダ版?)ピースを持ち出して来て,そこから示されていない部分も手持ちの定型版ピースで補って絵を描いた(理解した)。ところがそういう理解をしても,なんだかコミュニケーションがずれてしまって,うまくいかないわけです。

 初めの頃は,彼女から示されたピース自体が,自分の定型版ピースとは異なっていることにも気づけないので,単に彼女が常識外れのおかしなことをやっているようにしかみえません。彼女が自分とは異なる世界を見て,それを表現しようとしていることなど想像もできない状態です。

 ところがなんらかのきっかけで,どうもピースの作り方自体が違っていて,それを自分のピースに無自覚に置き換えて理解していたことが間違いであることに気づきます。そしてできるだけ彼女のピースをできるだけそのままの形で理解しようと努力するうちに,少しずつ定型版とは微妙に違うその個々のピースの形が見えて来る。

 ただし,そうやって自分の理解の中に入ってくるピースの数はほんとにわずかずつなので,それだけではそこに描かれて模様がどういう絵の一部なのかがわかりにくい状態は続きます。それでやっぱり自分の手持ちの定型版ピースで関連しそうなものを持ち出して来て,それと組み合わせてみるわけです。

 そうするとやっぱりぴったり当てはまりません。それを無理やりこじ入れて絵柄を作ることはもともと無理がありますから,部分的には分る感じが出てきても,依然としてそれは得体のしれないものであり続けますし,不自然で違和感だらけの物になってしまいます。

 それでもしつこくアスぺ版のピース部品収集を続けていくと,今度は手持ちのピースではなくて,アスぺ的なつながりが見えてくる部分が少しずつ広がっていきます。そのことで訳の分らなかった模様が,少しずつつながった形になって見えて来る。そのプロセスが「あ,ちょっと見えてきた」という私の感覚につながります。

 そのプロセスが繰り返されていくことで,だんだんと部品も増えるし,つながって見えて来る部分もさらに広がったり,あるいはそういう部分の数が増えていったりする。さらに,それまでは全然想像もできなかった,「アスぺ的なピースの作り方」と「定型的な作り方」とのずれ方もちょっとずつ見えてきて,今度は直接アスぺの方から部品が提供されなくても,自分の手持ちの定型版ピースをちょっとそのずれに合わせて修正することで,代用品として使うこともでき始める。

 そうすると,限られた部品から見えて来る絵がさらに大きくなってきます。それは「あ,そういうことか。そういうことを彼女は感じているのか。世界が彼女にとってはそんな風に見えているのか。なんか見えてきた」という感覚が私の中で深まっていくことでもあります。そこでは訳の分らない部品を無理やりああでもないこうでもないと頭で考えて理屈で組み立ててみようとするのとは違って,そこに描かれていることを,直観的に,感覚的に「目で見て」わかり,その意味を実感する,ということができ始めるわけです。

 そうやって感覚的にも見え始めるアスぺ的な世界は,もちろん色合いや形など,定型的な世界の描かれ方とはずれがあります。そしてたとえそれを感覚的にも理解でき始めたとしても,そのズレがなくなることはないでしょう。でも,そうであっても,「自分とは違う世界が見えてきた」という形で,自分自身の見えている世界に対する理解も深まり,また見える世界もさらに広がっていくことは確かです。

 
 まだちょっと,少し違う視点からも整理する必要があると感じますけれど,とりあえず私としてはこのジグソーパズルの部品(言葉とか振る舞いとか概念とか)の形と,その組み合わせによってできる全体としての絵(世界の見え方・感じ方),という比喩で,これまでもやもやしていた定型アスぺ間のズレの問題について,かなり自分なりの整理や納得ができてくる気がします。ちょっとすっきり感 (^ ^;)ゞ

2014年12月 2日 (火)

共感はやさしさの条件?

 記事「冷めた好意」に自称アスペルガー疑惑の碧」さんからいただいたコメントを読んで,これまで定型アスぺ間でお互いに繰り返し説明している(つもり)にも関わらず,どちらもどれほど相手の感覚を理解することがむつかしいのかということを改めて感じました。

 ただ,私の側もほんとに物わかりが悪いことを改めて知ってある意味自分自身にあきれると同時に,それでも碧さんが改めて丁寧に整理して書いてくださったことで,今まで断片的にはなんとなく感じ取り,記事にも書いてきたことについて,いくつかいろんな自分の経験ともつながってもう一歩「ああ,そういうことか!」と「感覚的にもわかる」感じになり,そして定型アスぺのズレの形もさらに見えて来るような気がしました。

 碧さんの疑問について改めて私の個人的な考えを書いてみます。


まず、共感というものの本質についてなんですが、多くの方は家族や友人などの親しい人が自分と関係のないことで喜んだり悲しんだ場合も、喜びや悲しみと言った感情を感じるのでしょうか?」
 

 これはこのブログのやりとりでも繰り返し話題になりましたし,私も他の定型の方もその都度同じように書いていると思いますが,本当に「感じます」。つまり,アスぺの方にとっては,定型がどれほど繰り返し「言葉で説明」しても,なかなかそこは納得が出来ず,本当のこととは思えず,場合によっては説明されたこと自体をよく覚えられなかったりするのでしょう。

 それとまったく同じことを逆の立場で私はパートナーとの間に何度も経験しています。彼女がほんとに一生懸命に訴えていることを,私は何度聞いてもピンとこず,そんなときは「それって,本当なんだろうか?」と感じたりしますし,またいつもそのことが頭から抜け落ちてしまって,また彼女に対してピント外れの対応をしてしまったりします。人間,自分の理解ができないことについては,ほんとに覚えていられないものですね。

 それでもほんとに長年繰り返し彼女に言われて,自分も自分自身の感じ方や考え方を振り返り,「反省」してみて,ようやく少しずつ感覚的にも分かり始めた気になり,「○○さんがこう言っていたことがようやく分ってきた気がする」と言って,彼女にまたショックを与えたりしています。(彼女の場合そこで「ようやく分ってもらえた」という「共有の喜び」を感じるより,「そんなこともなかなか分かってもらえないのか」という「絶望感」の方が先立つようなのです)

 同じように碧さんの次の説明も,何度もアスぺの方から似たようなお話を伺っているにもかかわらず,私にはなかなか感覚的には分りにくいもののひとつでした。


私はそういった場合、相手の話を聞いて「そういう出来事、事象があったのか。」と認識をするに留まります。ただ、助けを求められたときは現実に可能な範囲で助けます。喜んでいるのならば、マナーとして祝福の言葉はかけます。しかし、同じような感情を抱くことはありません。一緒に喜んだり悲しんだりは出来ませんが、そういう振り、演技なら出来ます。」

 私の(たぶん)定型的な理解の仕方でこのお話を受け止めようとすると,助けを求められて助けることも,相手を祝福することも,すべては全く感情を伴わない演技にすぎないということですから,「じゃあ,なんのためにそうしているかというと,自分が損をしないようにとか,あるいは得をするように,冷静に計算して相手を操っているだけのこと」という理解になってしまいがちなのです。


 このイメージは,いわゆる「冷血漢」,人の気持ちを自分の利益のためにもてあそぶ人間のそれに重なってしまうことになります。そして「なんてひどい人(たち)なんだ!」という憤慨がそこで生まれてもおかしくはないでしょう。

 ところが,そういう理解やイメージは,少なくともパートナーやここでのアスぺの皆さんとのやりとりから受ける実際の印象とはずれてきてしまいます。たとえば老人福祉に関係している私のパートナーにとって,困難な状態にある老人を少しでも普通の状態に近づけるための仕事は,彼女にとって大事な生きがいになっていますし,気持ちの支えなんです。それは私にとっては「冷血漢」のイメージとは全然重なりません。

 というふうに,多分碧さんにとってはごく普通の,単純な説明なんだろうと思うのですが,それを定型的な理解の仕方で理解しようとすると,ものすごく話が矛盾してきてしまって,「ピンとこない」状態になってしまうのですね。多分そういうことがお互いに起こっているのではないかという気がしています。  



次に、相手の好意への対応についてです。パンダさんが期待をするような反応は、多くの方はスルリと出てくるものなのでしょうか?」

 定型同士でも「相性」がありますので,どの程度期待に沿った反応が出て来るかは人によるところがあります。ですから,その期待に沿った反応が出てきやすい人間同士は,いわゆる「気が合う」という関係になりますし,その絆は強まっていくように思います。逆にそこがうまくいかない関係は「気が合わない」関係で,敵対的な関係になりやすいのだと思います。定型アスぺの関係が悲しいほどに敵対的な関係になりやすいのは,そこで「気が合う」状態が作りにくくなってしまうからでしょう。

 ただ,定型の場合,たとえ限定されたものであってもそういう「気が合う」関係は多分アスぺの方に比べて,だいぶ多いんだと思います。また,パートナーの話を聞いていると,彼女も気の合う関係が嫌だとかそういうことを考えているとは思えませんが,けれども現実にはそれがとても得にくいことについて,「もともとそういうものだ」と感じて諦めている印象を持ちます。それに対して定型はそこのところをあきらめることがすごくむつかしい生き物なのかなと思います。そこをあきらめてしまうと,なんだか生きている意味のすごく大事な部分を捨ててしまう気分になりそうです。

 つまり,定型同士でも,すべての人同士の間でそういう「期待される反応」がするりと出てくるわけではなく,相性でそこがうまくいきやすい関係と,そうでない関係が生まれますが,でも定型であれば,多かれ少なかれそういう関係は誰かと持ちやすいですし,またそういう関係をどこかに求める気持ちはかなり切実だと思います。たくさんの人との間にそれを求めるか,ほんとに一人か二人かでいいかは,人によって個性があると思います。


「また、その反応は、本当にその反応のままの感情で構成されているのでしょうか?」


 この碧さんの疑問は,これまでアスぺの方から頂いたコメントなどからすると,「本当はそういう感情は持っていないのに,振りをしているだけではないのか」という疑問か,あるいは「なにかの感情を持っていたとしても,それが期待されているものとぴったり重なるなどということはあり得ないのではないか」という疑問なのかなと想像しました。

 まず最初の方からいうと,定型同士は言葉遣いにも「お化粧」をして,本当の気持ちとは別のことを言うことが実際にあるわけですし,全く心にもないことを言って相手をだますこともありえます。だますときには,ひどい場合は自分の利益のためにそうする人や場合もあると思いますし,逆に相手のことを「気遣って」嘘を言うこともあります。(たとえば不治の病にかかった時,そのことを伝えずに「大丈夫。問題ないよ」などと言うことなどは,そういう「気遣い」だったりもすると思います)

 ですから,その場合はもちろん「本当にその反応のままの感情」ではないことになります。それは相手が自分をだまそうとしているのであれば,当然それにショックを受けることもありますが,でもその「お化粧」や「嘘」が「自分に対する気遣い」だと感じられれば,その「気遣い」が嬉しいという感情になることもあります。その意味では絶対に「本当にその反応のままの感情」である必要は必ずしもなくて,「自分の為にそうしてくれている」と感じられるかどうかがより重要なのかもしれません。

 「ぴったり重なることはあり得ない」ということについては,理屈からいえば,もともと違う体を持って生まれ,違う経験を積み重ね,違う立場にいる者同士ですから,「完全に同じになる」ことはもちろんあり得ません。ただ,「共感」とかいう感情は実際はもっと大雑把なもので,たとえ細かいところは違っても,あることについて「うれしい」とか「悲しい」とか「腹が立つ」とか,そのあたりがだいたい重なっていればそれで普通は問題がありません。それで十分に共感は成り立った気分になりますし,満足もできると思います。そのあたり,どの程度「大雑把」かについては個人差が大きそうです。

 ただ,そうやって共感が成り立ったと思っていたのに,実は大事なところで全然ずれていたと後から思うようになると,その人とのそういう共感的な関係については,すごく慎重になったり,場合によって猜疑心が生まれたりすることはありそうです。今までパートナーやアスぺの方とやりとりしてきた感想からいうと,アスぺの方が共感についてすごく疑いを強く持たれるのは,子どものころからそういう定型の「共感的な世界」に裏切られ続けてきた思いがあって,それですごく疑い深くなられているのではないかと想像したりしてみています。ここはかなり微妙なところのように思えるので,簡単には結論が出そうにありませんけれど。


「私は嬉しく思うことにズレがあるようで、相手の好意だと認識しても嬉しく思えないことがそれなりの頻度であります。余裕がないほど好意に応えられず、自分のペースを保たせて欲しいと思うこともあります。また、多くの人の言動からは本心が見えないのでプレッシャーに感じることもあります。特に好意は対応に失敗した場合大変なことになるので、喜びよりも先に恐怖や困惑を感じることもあります。」

 
 定型の世界にも「ありがた迷惑」とか「小さな親切大きなお世話」というのがありますし,その点は一緒じゃないでしょうか。ただ定型アスぺ間ではズレが大きいので,アスぺの方にとっては定型的な気遣いの関係は「ありがた迷惑」や「大きなお世話」になりやすく,場合によってはその「得体の知れなさ」に恐怖まで感じるようになるのでしょう。これについても,私の個人的な異文化体験から言っても,意味の分からない大きな「好意」はすごく負担になったり,場合によって相手への猜疑心や恐怖さえ生み出しかねません。そこは定型も同じだと思います。そう考えてみると,アスぺの方の感じ方もなんとなく納得できる気もしてきます。

 もうひとつ,碧さんの書かれていることでとても大事に思えるのとは,アスぺの方(碧さん)も「相手の好意だと認識して」嬉しく感じることもあるということ,「余裕があれば好意に応えられる」こと,「本心が見えればプレッシャーに感じなくて済む」ことです。実際にはその逆のことが多くて,そのために苦労されるのだと思います。でもだからといって,定型アスぺがまったく違う心の持ち主で,共有しているものがないとは私はやはり思えないのはそういうことがあるからです。

 もし仮にアスぺの方も「好意を嬉しく思うこともある」のだけれど,「本心が見えずに逆にプレッシャーになる」し,「余裕がなければそれに応えることがさらにむつかしくなる」ということなのだとすれば,「お互いに好意を嬉しく思い合える」ための工夫が何か可能ではないか,とそんな希望を持つんです。現状では定型アスぺ間のズレが余りに大きすぎて,どうしてもそこについて絶望的な思いになりやすいでしょうし,それはある意味当然と思えるのですが,でもそういうむつかしさがあるということと,てがかりとしての「共有」が現実に存在していることとは別に矛盾しないと思います。その意味でも,碧さんの書いてくださったことはこれからの工夫を考える上でとても大切な糸口のひとつかなと感じています。


「そういう前提があるとして、私は他人であればあるほど、おそらく相手の期待するような反応を返します。喜んだり感謝する振りをします。その方が大概が上手くいくからです。しかし、この行為はパターンとして認識し、演技をしているだけなので本心ではありません。要するに、仮面を被っているだけで相手の感情なんてなに一つ受け入れられていません。(好意の内容にもよりますが)親しい人にそんな不誠実な態度はとれません。もしかしたら、振りをした方が相手は満たされるのかもしれません。そうするのも、優しさなのかもしれません。でも、どうしても演技をすると上滑りをして、大切な相手の気持ちとかも無視してるような気になります。少なくとも私は、親しい人にそういう対応をした場合、相手が満足そうな顔をすればするほど傷つきます。 」


 定型アスぺ間のここの感じ方の違いは,お互いの態度にものすごい誤解を生む大きなポイントなのだろうと改めて強く感じました。このことについてはこれまでも何度もアスぺの方から説明を受けているはずで,そのたびに多少は「ああ,そういうことなのか」と頭では思わないでもないのですが,どうしても気持ちに収まり切れず,ついついそういう違う見方があることを忘れてしまいます。

 ただし,実はこれも私の個人的な異文化体験からいうと,違う文化の人たちとの付き合いの中では,かなりこれと似たようなズレやそれに基づく対立が生まれることがあるんです。まずひとつには,「この人たちにとってはこうされることが嬉しいんだろう」ということは「頭ではわかる」ので,そうするんだけど,でも感情が付いていかず,ただ「テクニック」として相手にそう合わせるだけになると,それで相手が喜ぶとなんだか自分が相手をだましているような気分にもなって,場合によっては罪悪感さえ持ちかねない,ということが起こり得ます。

 それからもうひとつには,「他人であればあるほど相手の期待に合わせ,親しければ親しいほど本音を重視してうわべの<お化粧>はしない」ということについて,同じような理由で日本的な気遣いの関係を他の文化の(定型の)人から強烈に批判されることがしばしばありました。たとえばもし親しい友達が「この洋服買っちゃったんだけど,似合ってる?」と聞かれたとして,もし「全然にあってない」と思ったとしても,ストレートにそういう場合は少ないのではないでしょうか。

 まずはその人が気に入って買ったのだろうし,その気持ちは傷つけないようにしながら,でも似合っていないという「可能性」は婉曲に伝えようとすることが多い。それで「微妙」というような変な言い方も今はやっているのかなと思います。「個性的だね」とか「それも面白いんじゃない」とか「そういうのもありかも」とか「悪くないかも,でも…」とか,なんか多少奥歯に物が挟まったような言い方をすることが多い。

 もちろん,親しい人の間ではもっとストレートに言った方がいいと感じている人もありますし,実際そうしている人もいます。ただ,そういう気遣いを頭から否定され,怒られてしまうことはあまりないのではないでしょうか。日本的な人間関係では。

 ところがこれはほんとに親しい人の間では「絶対にすべきことではない」と考えている文化の人たちもいて,それをすると本気で怒られるんです。本当の気持ちを言え,と言われて。本当の気持ちを言わないのは自分を信頼していないからで,親しい友達と思っていないからだと,そういう話になってしまうんですね。

 ここまではアスぺの方が感じることと似ている点が多いでしょう?
 だからといってその文化の人たちがみんなアスぺだとは私は全然思わなくって,そこにはやっぱり定型アスぺの違いはあるし,それが何なのかはずっと気になっていることです。(本気で怒ってきて,本音を言わないと友達じゃない,と強烈に迫ってくるところはアスぺ的ではないかも)しかしそういう感じ方をする定型の社会もあるように,少なくとも碧さんのような感じ方を定型がまったく理解できないわけではないのです。定型アスぺの気持ちの持ち方に,ここでも重なりを感じます。そこは基本を共有しながら,何かの条件の違いで,ズレが拡大していくのでしょう。


「共感が出来ないと、相手の感情を汲むことと優しさが結びつかないんですかね。本心じゃなく振りをするときは、事務的な行為として行なってしまいます。相手の好意に気付き期待に応えようと振りをすることがあったら、それは優しさになるんですか?私は本心を言って欲しいですけど…じゃないと、また同じ事をしてしまうので。相手のデータが必要なんです。」

 他の文化の人から見れば,極端に「察する」ことを重視し,察してくれないことにショックを受けたり激しい怒りさえ持つのは,とても日本的なことのようですね。欧米でも中国などでも,基本的に「察してもらう」のではなくて,「自分から説明する」ことの方が重要と思われれているみたいですし。そういう文化では「配慮」というのは必ずしも感情的な意味での共感をベースにはしていないのではないかと思います。ただ「同じ人間同士」という感覚とか,「愛」とか,なんかそんな「普遍的なもの」を想定しているのかなとは思いますが,それは「同じ感覚や感じ方を共有している」という話とはちょっと違いそうです。

 その意味では「理解し合えない者同士の間に生まれる思いやり」の方がより深い「やさしさ」なのかもしれません。「てめえら人間じゃねえ,叩っ切ってやる」(桃太郎侍 (笑))というせまい世界ではなく,「分らない者同士をつなぐ愛」が大事になる世界でしょうし。

 いずれにしても,私は碧さんの書かれていることから,やっぱり人をだましたくない,大事な人には誠実でいたい,といった思いを感じ取りますし,その思い自体は定型であっても否定する人はいないと思います。だから,そのことを定型アスぺ関係を考える上での足場の一つにできる可能性はあるように思えます。

 ただ,やっぱり定型の世界にはもう一つややこしい人間関係の調整の世界があって,そこを含めて考えると,場合によって「振り」がやさしさになることもありうると思うんですね。で,そのような「振り」を「嘘」とか「だまし」とかと感じるのではなく,「思いやり」や「やさしさ」として感じ取る感じ方も,定型は持っているような気がします。

 その二つの世界をどう調整できるのか。今うちでも問題になっていることはそこかもしれません。

2014年12月 1日 (月)

冷めた好意?

 定型同士では感情的に相手に関わることで,相手を励まそうとしたり,支えようとしたりすることがあるし,相手からそうされることで救われることもあり,そういう「気持ちのやりとり」が人間関係の中でとても重要になるわけですけれど,定型アスぺ間ではまさにそこのところに大きな問題が起こりやすいのですよね。

 私のパートナーはそういう気持ちのやりとりは極力避けるような気がします。やろうとしてもかえって混乱して,状況が悪くなるばかりだったりするからでしょう。人から物をもらっても,お返しはしないと言います。このプレゼントもまた気持ちのやりとりの大事な一部になりますが,以前,随分苦労してなんとかやりとりをしようとしてやはり全然うまくいかず,悪くなるばかりだったので,もうしないことにしたと言います。

 プレゼントをもらって,それが自分への好意だということは彼女も分かるわけです。でもそれにどう答えてよいかわからないし,その好意の中身もなんなのかは戸惑うようです。

 たぶんそういうことのひとつなのかなと思ってみるのですが,私が彼女に喜んでもらおうとか,しんどそうなときに手伝おうとしたりしても,それに感謝されたと感じられることがほとんどありません。むしろ戸惑われたり,不機嫌になってしまうことすらあります。その好意をどう理解して,どう応えていいのか分らなくなって,そんなふうになるのかなと思います。

 そういう状態に自分が置かれ続け,そしてそれが定型アスぺの大きなズレなんだと分ってくると,改めて自分の彼女に対する「好意」が決して「無償の愛」みたいな高尚なものではないことを思い知ることになります。

 というのは,やっぱり自分はその「好意」への「見返り」を期待しているんですね。その「見返り」というのは,もちろんお金とか物とかではありません。彼女からの感謝とか,喜びとか,そういうものです。そういうことを期待し,それがあれば自分も支えられるところ,そういう表現が極端に少ないか薄いために,気持ちのバランスが取れなくなるわけです。だいぶ前の記事で,「砂漠に水を撒くような」という表現でも考えたことがあったように思います。

 ただ定型同士であれば当然のことに思えるそういう「見返り」がもし得られないものだとしても,自分の側からの「好意」を失いたいとは私は思えないのですね。そこを失ったら,もうなんのために一緒に暮らしているのかが分らなくなります。

 じゃあどうやったら定型的な「見返りへの期待」へのこだわりを減らして,気持ちのバランスシートが崩れないようにしながら,なおかつ好意を無にしないということが可能になるのか。実にむつかしい問題です。

 立場を逆にして見れば,彼女のほうも彼女なりの形で私のためにいろいろと好意を示してくれているのだと思います。ただ申し訳ないことに,私がそれをなかなか気づくことがむつかしく,好意を好意として感じる感度のいいアンテナを持てていません。なんというか,好意にも波長のようなものがあって,それがずれていると,お互いに気づきにくいのでしょう。

 こちらからの「好意の電波」は,いくら送ってもそれへの返信がないので,電波を相手に送ることは基本的にやめて,ただ自分の中の好意として閉じこもり,言ってみれば自己満足の世界になったらちょっとは楽になるかなとか,そんなことも考えたりします。あるいは自分の気持ちを冷め切った状態に持って行くとか。

 たしかに,「熱い好意の気持ち」を切り離して,感情のやりとりは考えず,たんたんとした気分に切り替えてみると,とりあえずかなり楽になる気がします。もしかすると,アスぺの方は基本的にそういう種類の世界に生きようとしているのかなと想像もしたりします。もしそうなら,私がそれに合わせていることになるのかもしれません。

 問題はそういうたんたんとした気持ちを続けた場合,それは「他人」になってしまうことを意味しないだろうかということでしょうか。定型的にはそういう感情の割り切り方は,やっぱり「冷たい関係」になりやすいでしょう。あるいは相手を切り捨てる時の態度にも近いかもしれません。

 でもアスぺの方から見れば,多分そいういう姿勢は相手を切り捨てることではないのでしょう。なぜそれが切り捨てにならないのか,その秘密を知りたい気がします。もしそれが分かれば,少しはそこから学べるものがあるかもしれませんし。
 
 

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