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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年11月 9日 (日)

アスぺ的共感?

 相変わらず私の行動はパートナーの感覚からずれることが多いようで,しばしば「問題点」を指摘されるんですが(それでもだいぶ我慢してくれている部分があるようです),今朝もそういうことを言われて,ふと「いやあ,ほんとにたいへんだよね」(だったか,あ,言葉を忘れてしまった (^ ^;)ゞ)とか言ったら,しみじみと,という感じで「ほんとだよ」と言われました。

 で,ふと気が付いたら,これって一種の「共感」とは言えないでしょうか。もちろんちょっとこんがらがっていて,彼女がこの私について困っていることについて,私が彼女に「共感的」な言葉を言って,それについて彼女がわしのその「共感」に「共感」したというわけですから。

 なんかそういうことが成り立つ条件をもうちょっと考えないとむつかしい感じがしますが,ちょっと気になるひとつの手がかりです。

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コメント

トマトです。

期待してないときの、ASの人からの「共感的な言葉」は、嬉しいものです。

定型同士なら当たり前の返事が、改めて価値あるものとして感じられます。

その直後の「共感できて嬉しい」が共有できなかったりするので、独りで喜びをかみしめたり、その独特の気持ちを理解してくれる定型の人と共感したりして、
「その後」の感情処理をしなくてはならないのが特徴的だと思います。

トマトさん

最近ふと考えることのひとつですが、相手が自分の期待するコミュニケーションが全くとれない状態にあったとしたら、例えば植物状態とか、そこでもなお「気持ちを通わせる」ということがなにかの意味でありうるんだろうかということです。

もちろんテレパシーとか、そういう話ではないんですが、例えば亡くなった方とでも、お墓でとか、位牌にとか、遺影とかに語りかける人もありますよね。別に本当に亡くなった方が返事をするわけはないのですけれど、気持ちの上では語り合いに近い状態があるのかなという気もしますし、それで支えられるものもあるのでしょう。もしそれがないのなら、お墓には意味がなさそうですし。

もしそういう極端な状況でも人が人に支えられることがあるのなら、定型アスペ間ではもっと大きな可能性はないだろうかとか、ちょっとそんなことを考えてみるんです。

実際には亡くなった方の場合は何も反応がないからこそ、自分の思いを投げ掛けやすいのかも知れず、逆に定型アスペ間では相手が自分の期待とはずれることを返してこられたりするわけですから、かえって難しい面もあるとは思いますが……。


まあ、なんとなくの話です (゚ー゚;

むっちゃ横からですが…

 お墓の事…
【気持ちの上では語り合いに近い状態があるのかなという気もしますし、それで支えられるものもあるのでしょう。もしそれがないのなら、お墓には意味がなさそうですし。】

 これ、まさにそういう意味で「お墓に意味がない」と感じている私です(笑)。
 お墓、なくても(死者に思いを馳せるとか、一方的なことなら)できるし…。
 ということは
 お墓参りする人にとっては、「そこい相手がいる」と微かにでも信じているところがあるんだろうなと思うんですよね。
 if、みたいなものかもしれませんが。
 植物人間に語りかけたりするのは、実際そこにいるし、だからこそ「きっと届く」と信じられるからだろうなと自分も想像できるので…。
 逆に言うと、欠片も信じてないのにお墓参りに行くのは、習慣でしかないと思うし、そういうのとっても馬鹿馬鹿しいなと自分なんかは思ってしまいます(良くない考えなのでしょうが)。

 話が飛びましたが…
 定型アスペの関係で言うと、
 やっぱり「相手に届くと信じている」のでしょうね
 もしくは、「届くと仮定」して話が出来る、のかな。
 信じられなくなったら、仮定をしなかったら、話すことは終わるんだろうな。
 届くわけがない、と思ってたら、しませんものね。

 話しかけたり共感を求める事を積極的にしない、ということが
 「できるわけがない」と思ってるから、であれば、
 学習したことなのか、信じる力が元々あまりないのか。
(あるいは定型には根拠のない「信じる力」が多くありすぎるのか)
 どっちでしょうね…

 ときどき、
 墓参りをしない事を責めてくる相手に
 なんでそんなに墓参りを大事にしているのだろう、と不思議におもいます。
 死んでるものを大事にするのに意味があるのかというと、ないと私は思うし、
 自分がしたければ自分だけしたらいいし、
 みんながすべきと言うのだったら、それは思い込みだろうと思うんですよね…。
 届くわけもないのに、ですよ。まさに。誰が喜ぶって、相手はいないのに、と。
 自己満足じゃないの?とか、思ってしまいます…(そして事実それならそれで良いし、ただ人に強要することではないなと)。
 そうじゃなきゃ、「大事だ」と思い込んでるだけかな、って……。

 話を全然違う方向に持っていってすみません。
 自分はどの立場なんだと(笑)
 多分ちょっとずれた定型、あたりなんでしょうね。

ままさん

>定型アスペの関係で言うと、やっぱり「相手に届くと信じている」のでしょうね もしくは、「届くと仮定」して話が出来る、のかな。 信じられなくなったら、仮定をしなかったら、話すことは終わるんだろうな。 届くわけがない、と思ってたら、しませんものね。

 ここは私もそう思うんです。
 相手に話しかける以上,相手がそれを聞いて,なにか理解するんだろう,
 と思っていることは大前提だと思うんです。
 もしそれがないのなら,その人は独り言を言っているだけですものね。

> 届くわけもないのに、ですよ。まさに。誰が喜ぶって、相手はいないのに、と。 自己満足じゃないの?とか、思ってしまいます…(そして事実それならそれで良いし、ただ人に強要することではないなと)。 そうじゃなきゃ、「大事だ」と思い込んでるだけかな、って……。

 この「自己満足じゃないの?」というところ,たとえば死んだその人が喜ぶわけじゃないという意味ではそうだと思います。

 だいぶ前に浄土真宗の人に面白い話を聞いたんですけど,法事とかを「死んだ人のためにやる」というのは間違いなんですって。なんでかというと,死んだ人のために自分がなにかできるなんて,あり得ないというわけです。じゃ,なんで法事をやるのかというと,亡くなった人を機縁にして,生きている人が集まって自分たちを確かめるためにやるんだというんです。

 で,なるほど~と感心したんですが,その意味では「自己満足」というのは,個人の満足ではなくて,そこに集まった人たちの「共通の満足」につながるわけでしょう。定型的にはそういうことになりそうです。

 もちろんその共通の満足の仕方だって,人さまざまなわけですし,ままさんがおっしゃるように,特定のやり方を無理やり押し付けられるのはたまりませんよね。その人その人の素直な気持ちで故人を偲ぶことが大事なように私は思います。

 まあ,いずれにせよ,定型の場合は「故人を偲ぶ」ということについても,人と共有したいという思いを持つ場合が多いのかもしれませんね。

パンダさん

 うーん、なるほどお…。

 【「故人を偲ぶ」ということについても,人と共有したいという思いを持つ場合が多いのかもしれませんね】

 そう思うものなのですね…。
 あー… でもそういうこともあるような気はしますね…。
 経験がないだけで(笑)。

 こう、お葬式とか、お墓参りとかで、
 「本当に」故人を偲んでる人がどれくらいいるんだろう、とか、思っちゃうんですよね…。ははは。
 面倒とか、忙しいのにとか、お金が…とかいう話しか聞いたことがなくて(もしくはそれが本当だと自分で思っていて)、そういうイメージでしか見られてないかもしれないです。
 人が集まっても、よく知らない人ばかりだし、
 気を使うばっかりで、面倒だなという気持ちしかないです…。
 うーん…。
 みんな、本当は面倒なだけだけど、
 「それをいっちゃあおしまい」だから言わないだけなのじゃないかなあ…。
 自分には、「しなきゃいけない、するのが当たり前だからやってる」だけで、大して理由とかは考えてなくて(またたぶん苦でもなく)、っていう感じに見えます。
 これをすることのメリットは本当にあるのかなあ。とか、思ったりして…。
 ああ、あるとしたら、
 自分が死んだときに「こうやってみんなが悲しんでくれる」という想像ができるってことでしょうかね…。
 それこそ空しいですが…。

 誰かと共有。
 分かるような、分からないような、です…。
 遺体を見て、ああこれもう生きてないや。とおもうと、葬式も何もかもが馬鹿馬鹿しくなっちゃうんですよね…。
 泣いてる人を見ても気持ちがすっと冷めちゃって。何悲しんでるんだろう、フリなのかな、とかまで思っちゃう。
 そんな気持ち、誰かと共有できる気もあまりせず。
 押し付けられ感しかないのですよね…。
 
 自分の子とか、大事な人が死んでしまったら、そのときには分かるかもしれません。

 こういうことばかり言って…、嫌な気持ちにさせていたらすみません。
 わざとではなくて、一応思ったまんまなのですが…、
 想像力が足りないだけなのかもしれません。(よく言われます・汗)

ままさん

> 面倒とか、忙しいのにとか、お金が…とかいう話しか聞いたことがなくて(もしくはそれが本当だと自分で思っていて)、そういうイメージでしか見られてないかもしれないです。

 ここはもしかすると定型ワールドなのかもしれませんが,面倒とか,忙しいのにとか,そういう気持ちを持つことも嘘ではないし,でも故人や遺族を悼む気持ちも嘘ではないし,その両方の気持ちの割合みたいなものは故人との関係の深さでいろいろでしょうけれど,どっちも持つことは多かれ少なかれ多くの人はあると思います。

 そういう「どっちもあり」の矛盾したような,割り切れないような気持ちの持ち方というのが,もしかするとアスぺの方にはすごくわかりにくいのかなと思うんです。それで定型は本音と建前が違うと強く感じたり,嘘をついているように見えたりとか,そんなふうに見えるんじゃないでしょうか。

 これもたしかに本音と建て前というのはあるのはありますし,嘘をつくこともありますし,そういう理解は全く誤りというわけではないんだけど,同時にあるときには本音が建て前と入れ替わってしまうようなそんなことも起こったりしますし,AかBかというより,AとBとの間でその都度揺れ動いている感じがあるんですね。
 
 たぶん欧米の人とかは,わりとAかBかをはっきりさせようとする傾向があると思いますけど,それでも両にらみということはいつもやっているような気がするし,日本ではそこはすごくあいまいにして,AかBかは相手との関係でその都度バランスを考えて調整しようとする傾向が強いように思います。

> 泣いてる人を見ても気持ちがすっと冷めちゃって。何悲しんでるんだろう、フリなのかな、とかまで思っちゃう。

 定型的な「裏表」を繰り返し感じられたとすれば,冷めてしまうのも無理はないかなという気もします。泣いているのを見ても,ほんとは違うんじゃないの?とか疑いたくなりますよね,きっと。

 あと,定型の場合,はじめはそんなでもなかったのに,泣いているうちに本当に悲しくなってきてしまう,ということもあるように思います。最初はある意味,お付き合いで(?)泣いていたのに,そのうち,本気で一緒に泣いちゃうという。お互いに感情をあらわしあっているうちに,その気持ちを高めあってしまうんでしょうね。これも「建前」がいつの間にか「本音」になってしまう,というような例の一つかもしれません。やっぱり定型はお互いの感情表現ですごく揺れ動く傾向が強いんでしょう。

>こういうことばかり言って…、嫌な気持ちにさせていたらすみません。

 こう書いていただいて,自分の中に起こっている変化を感じたんですが,以前なら,「なんでそんな冷たいような,皮肉なような見方しかできないんだろう?」と思ったと思うんです。でも今は「ああ,なるほど,そんなふうにみえるんだろうなあ」という感じがして,私は全然「嫌な気持ち」にはなりませんでした。むしろ「なるほどね」という「納得感」のほうが強かったです。

 

 

パンダさん

 お返事ありがとうございます。

 そうか……、
 面倒っていう気持ちも、故人を悼む気持ちも、「どっちもある」
 つまり私が感じていたことも(やっぱり)本当、だけど、(ほっとしました…)
 両方、持っている、ということなのですね。

 私も
 卒業式のときとか、別れの場面で、泣いたことがあります。
 けれど、そのあとすぐに、ああ、また雰囲気に呑まれてしまったなと思うし、
 実は全然悲しくもなんともなかったことに気付いて、馬鹿馬鹿しいなと思うのです。自分が。
 悲しくないのになんとなく流されたんだなと。
 泣いておいたほうがいいと思って「装った」のだな、化粧したのだなと。
 そういうこともあって、「みんなもそれが装いだと分かってるくせに…」と思ってしまうんですよね…。

 どうなのでしょう、
 アスペの方は、まず装うことをしないのかなと。思ったりしますが、
 でも、
 確かにおっしゃるとおり、【「どっちもあり」の矛盾したような,割り切れないような気持ちの持ち方】というのが、どうやら自分には分かりづらいようです…。
 きっとこっちだ、と、取捨択一してる感じがあるような気がします。
 極端な部分があるのかもしれないですね。
 お話していただいて気付きました、ありがとうございます。

 本音と建前はなかなか、昔からずっと分かりづらい問題です。
 よく例として挙げられるような、「太った人に太ってると言う」なんて極端なことはないですが。
(あれ、本音と建前とは関係ないかな…)
 それか、もしかしたら、
 自分もできているのに、(つまり本音と建前を入れ替えたりしているのに)、
 相手にされると気付けない、とか、そういうものがあるかもしれません。

 なんだか、いろいろ、こうだと思うのに、本当かな、と思っていたことを確認できました、
 感謝いたします!
 やっぱり、「面倒と感じてはいる」んですよね。
 それでも悲しいのも本当、なんですね…。
 やっぱり、「はじめはおつきあい」なんですね。
 でも、泣いてる内に本当に悲しくなるんですね……。
 
 最後の一言も、とてもありがたいです。
 やはり、多くの人にとっては(そう、「やっぱり」)
 こういうことを言われるのは不快なのですよね?
 夫も、こういう話をすると嫌がるのです。親もですが…家族だから、思うとおり話そうとしてると、たいてい嫌がられるので…。
 なんでかなあと思っていたのですが、
 普通はこういう見方はやっぱりしないのですね。
 それは、やっぱり、
 「それだけじゃなくて(それもあるけれど)、いろいろなことについて本当に気持ちが伴っている」
からだし、それが当たり前だから。
 なのに、そこを見ようとしないで、ひねくれた(耳に良くないような)ことばかり言うから、嫌がられるのですね。
 そういうことが、周りには、「分かってるはずなのにわざと見ないフリをしている」=「子供っぽくひねくれている」ように見えるのですね。
 私は、気持ちが伴っていると信じられない、というのは、曖昧なもの、矛盾してるものを一緒に持つということがうまく理解できないから、かな…。
 やっぱり、どこかずれてるのだな、ということと、その形が、少し分かった気がします。
 ありがとうございます!
 
 長々とつきあわせてすみませんでした。
 いろいろ勉強になりました!
 また覗かせていただいて、ゆっくり勉強していきます!

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