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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年11月19日 (水)

ズレとして見ることの希望

 人は自分が今生きている足場をできるだけ崩したくないわけですよね。その足場をさらに広く確かなものにして,いろんな意味で豊かになりたいとは思うでしょうけれど,逆にたとえその足場で苦しんでいたとしても,それを崩そうとはなかなかしない。もしかすれば,苦しい状態にあるほど,「これ以上苦しくなりたくない」という思いから,その足場に必死でしがみつくこともあるように思います。

 それは人が生きていくうえではなんの不思議もない,普通のことなのでしょう。そしてこのことについては定型だろうがアスぺの方だろうが,基本的には同じだろうと思います。

 人が生きていくときには,どれほど「自立」した人であっても,絶海の孤島で一人自給自足で生きるのでなければ,他の人とかかわりながら生きることは避けられません。ですからそこにはどうしても「共通の足場」が求められることになる。

 でもひとはひとりひとりが個性的で異なっていますから,お互いの足場が完全に同じになってしまうことはあり得ないでしょう。だからお互いの関わりにズレが目立ってくると,ちょっとずつ足場を調整することもするし,そもそも足場が共有されやすい人に親しみを感じたり,求めたりするのだと思います。

 自分が余り関わらなくても済む相手であれば,足場の共有がむつかしいと思えば,適当に距離をとってズレから来るいろんなトラブルをできるだけ避けることはできます。でも親子のようにそう簡単にはかかわりを切れない関係だったり,恋人や夫婦のように自分の人生をかけるような関係に一旦入ってしまった場合,それはとてもむつかしいことになります。

 ある意味興味深いことに,人はどうやら他の人も自分とそんなに極端には違わないだろうと,そういう思い込みをまずは持っているようです。定型に比べると,アスぺの方は「自分は自分」という思いが強く,「みんな一緒」という考え方には強い違和感を抱かれるのだと思いますが,それでもここでのコメントのやりとりなどでもはっきり分かるように,「まさか定型がそういうところで自分たちとは全く違う見方をしていたとは思わなかった」と驚かれることは少なくありません。ということはつまり「そこは同じだろう」と暗黙の裡に思われていたわけですね。ただ定型に比べれば「違い」をより強調する見方をされることが多い,ということに留まり,その意味では五十歩百歩です。

 そんなふうな思い込みを持つことも,自然なことと言えば自然なことで,足場が共有されているだろうと思うからやりとりをしようと思うわけで,逆に言えばやりとりをしようとすれば,どこかで足場が共有されているのだと思わなければならない,そんな仕組みになっているのだと思います。

 定型アスぺ問題は,そういう「共有されている」はずの足場に,思いもしなかったズレが潜んでいることで起こることです。自分の足場が否定されるような,予想もしないことの連続に,お互いに傷つくのです。

 ところで,ある相手の人と,どこまで足場が共有されているのか,どこでそれがずれるのかということを,あらかじめ完全に理解していることは実際にはあり得ません。というか,完全に理解することなど,一生かかってもないでしょう。全知全能の神さまじゃないんですから。だから,ひとがひとに関わるというときには,いつでも常に「きっとここは共有されているだろう」という思い込みや期待,予想という「賭け」の部分がなくなることはないわけです。

 それは「賭け」ですから,あたることも外れることもある。ひとは人生経験を積んであまり大負けしないように,できれば儲けられるように,より安全で上手な賭けをするようになるでしょうけれど,どんな天才ギャンブラーだって,絶対に負けない人はいないのと同じで,その賭けが当たるかどうかは結果が出るまでわかりっこないのです。

 相手を「信じる」というのも,相手に自分の運命を「かける」ということですよね。もし相手のことが完全に分っているのなら,別に「信じる」などということをしなくても,事実に基づいて冷静に判断すればいいことです。それが不可能だから,不確かな部分を含んでそれでも「信じる」ということをするわけです。

 定型は相手に「信じているからね」と言ったりもしますが,その意味ではそれは相手にプレッシャーをかけて安心するための手段の一つになります。そこはアスぺの方に定型的な態度が嫌われやすいところかもしれません。アスぺの方にとっては定型が自分に何を期待しているのかがわかりにくいので,そこを「信じている」と言われたって,何をどうしていいのか戸惑うしかなく,そして「こういうことを望まれているのかな」と思ってやっても,それが定型に受け入れられずに逆に「裏切られた」と言われてしまうことが重なり,「信じる」という言葉ではただわけのわからないプレッシャーだけが残るだろうからです。

 そんな風に「信じる」という態度をどれほど取ろうとするかについても定型アスぺで違いがありそうですが,それでも私のパートナーも,定型的な裏切りに出会って「もう信じられない」と言うことが時々あります。逆に言えば暗黙の裡に「信じていた」わけでしょう。そこでも五十歩百歩と言えそうに思います。
 
 ひとがひとと生きていくうえでは,どうしても足場の共有が必要で,でも足場がどこまで共有されているかは予め完全にわかることは不可能で,だから多かれ少なかれ思い込みや「予想」をするしかなく,その意味でひととのかかわりは常に「賭け」の要素を持っているし,その点で定型アスぺにかなり大きな姿勢の違いはありつつも,大きく見ればその違いは五十歩百歩にとどまり,基本は一緒だろう,ということになります。



 そういう思い込みを持った定型アスぺがたとえばカップルとなり,だんだんとお互いのズレが積み重なっていきます。もちろん定型同士のカップルだって相手を深く知れば知るほど,最初は気づかなかったズレにだんだん気づいていくことになりますが,やはり定型アスぺのカップルが出会うズレはちょっとレベルが違う。なにしろ定型同士なら通用するだろうようなずれの調整の仕方が,ことごとく歯が立たないようなズレに直面するわけです。

 定型アスぺの親子でも同じようなことは言えるでしょう。定型の側は他の定型との関係で身につける調整の仕方を使ってアスぺの方とのずれをなんとかしようとする。仮に赤ん坊のころからアスぺの方に育てられたとしても,アスぺ流の調整の仕方では解決できないものを,定型の子供は生まれながらに持っているのでしょう。アスぺの親との間で満たされない調整の仕方については,定型の子供は他の定型とのやり取りの中で身に着けていくのだろうけれど,それがアスぺの親には通用しないわけです。そして大きくなればなるほど,そのずれの蓄積は重大になっていく。

 どちらにしても,定型アスぺ間では,自分の足場と相手の足場のズレがだんだんとあらわになり,お互いに自分流のやり方でそれを調整しようとするんだけど,定型流の調整の仕方はアスぺの方にはまったく通用しないことが多く,逆にアスぺ流のそれは定型には通用しないことが多い。もうお互いの足場を調整するというレベルでは全く追いつかない事態になっていきます。

 そうすると,それでも関係を何とかしようとすれば,結局自分の足場そのものを崩していくか,相手の足場を崩して従わせようとするか,そういうことしかなくなってしまいます。

 最初にも書きましたが,これは普通のひとの生き方にとっては全く異常な事態です。自分を支えている足場を自分で崩したり,人に崩されたりするわけですから。あらゆる意味で深刻な危機的状態になるのはごく当たり前のことになります。そしてそれは定型もアスぺの方も,どちらにとっても同じことです。

 どうして定型アスぺのカップルや親子で,ほんとうに悲劇的なことが起こりやすいのか(絶対に起こるとは私は言えません。上手にそこを乗り越えている人もきっといるだろうと思います。ただ,そうなりやすいという意味です),どうしてそこまで危機的な状況になってしまいがちなのか,ということについて,とりあえず今の段階では私の理解はそんなことになりそうです。



 ここで私がこだわっていたことの一つは「障がいの有無」というある種の「上下関係」を考えずに,お互いの生き方の「ズレ」という見方から,お互いの努力がかみ合わない状態の悲劇として見てみるということです。定型優位の社会では,世の中の仕組みは定型的な生き方をベースに作られて行きますから,社会的な上下関係としてはどうしてもアスぺの方は「下」に位置づけられがちになりますし,その枠組みの中で「援助」を考えれば,どうしても問題をアスぺの方の「障がい」が原因で定型的に生きられないことの問題という形で理解するよりなくなっていきます。

 この「障がい」の問題として見る見方は,今ある現実の社会の中で,アスぺの方がなんとか生きていき,そして定型が自分の足場を根本から崩さずに生きていくうえではどうしても必要な見方の一つだろうと思います。そういう見方で対処することの現実的な必要性はとても大きいでしょう。

 ただ,その見方だけでやりきれないのが,「家族」という問題になるんじゃないかなという気がするんです。どこかで認知症の方を抱えた家族の問題にもつながりそうに思いますが,ある見方から見れば明らかに「障がい」の問題として処理されるようなことが,家族の一員同士の関係として見れば,どうしてもそれでは収まり切れないものがあるからです。

 認知症の老人を抱えた家族にとって,多分むつかしいのは,そこに生きている認知症の老人は,決して単なる「認知症の老人」なのではなく,何よりもまずそれまで自分と大事な時間を共に生きてきた,ひとりの人間なのです。基本にあるのはあくまで人と人とのかかわりで,「認知症の老人」とのかかわりではない。人と人とのかかわりの思いの上に,新たに「認知症」という問題が加わる形なのです。

 さまざまな葛藤もふくめ,人と人としての深いかかわりを持ち続けてきた相手について,「それは障がいや病気が原因なのだから,そういうかかわりを求めても意味はない」という割り切り方は,そう簡単にできるものではありません。そういう割り切り方は,自分がそれまで大事にしてきた「人と人とのかかわり」を切り捨ててしまうことにもなりうるからです。つまりそれだと単に「他人」になってしまいかねないわけです。

 そのことを避けるために,私は定型もアスぺも,同じ「人」としてその困難な状況をなんとか良くしようと努力してきた,そういう「生き方」の問題を見つめようとしてきました。繰り返しになりますが,定型アスぺ問題はどちらかの「障がい」によって説明されるのではなく,お互いの生き方,その中でなんとかよりよく生きようとする努力の悲劇的なずれによって生み出される問題だと考えてきたのです。

 
 まだまだ入り口に過ぎないと思いますが,それでもようやく私としてはアスぺの方の必死の努力の形をすこし感じ取れ始めたという気がします。そしてその努力がどういうところで定型の努力とずれてしまうのかについても,少し見え始めた感じがしています。

 もちろんその私の見方自体がまた定型的な偏りを持っているでしょうから,果たしてそれがどの程度アスぺの方にとっても納得のいくものになっているのかはわかりません。単に定型的な思い込みの世界という可能性もいつでもあります。実際,私の話はなおパートナーにはわかりにくいと言われますし,単に言葉のやりとりの問題には収まらないことですし,まだまだ隔たりは大きな感じがしています。

 それでも,お互いに苦しみあいながら,お互いに自分の足場からであっても努力しあっている姿を,お互いに感じ,受け入れあうことができれば,そこで変わってくるものもあるように思えます。相手に不必要な「悪意」を感じることは少なくとも減るだろうと思いますし,場合によっては改めて「好意」に気づけるかもしれず,そこから別の新たな信頼への気持ちが生まれる可能性も感じるからです。たぶんそれは隔たりは隔たりとして残しながら,なお人と人としての関わりも失わない道につながるのではないか。そんな「希望」を持って,また少しずつ考えていきたいと思っています。

 
 

 

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コメント

はじめまして。

婚約者がASではないかと思っています。(約1年のお付き合いです。)

彼に好きなタイプを聞くと
いつも、「優しい人」と言っています。
「99%の女性は優しくないから嫌い」と言っていて、
はじめは、女運が悪かったのかな?と思っていましたが、
だんだんそうじゃなく、
彼自身が女性と衝突、というか、
うまくやっていけなかったんだろうなと思うようになりました。
思っていることを悪気なくズバズバ言うので
何度も傷付いて涙しました…。
それでも、彼のいいところを見たり、
本質をしりたいとこれまでずっとやってきました。

私自身の家族にも、
もちろん婚約者にもほんとうのことは言えずに、
ずっとどうすればいいのか悩んでいます。

私自身、抑鬱状態になったことがあったり、
友人に過食嘔吐の女の子がいたりしていて、
精神的な問題や障害には寛容な方だと思います。

それでも、実際に結婚を目前にすると、
いろんな覚悟ができずに、苦しい気持ちでいっぱいです。
ふたりだけの関係ならまだやっていけるかと思うのですが、
子どもへの遺伝のことを思うと、
子どもを生むのもこわいです。
(でも、彼はすごく子どもを欲しています。)

理解しあえないことや辛いことがあると
いっそ、別れた方が楽になれるのかな、と思うこともありますが、
好きなところもいろいろあるので、
別れようと思っても、
心がすぐに揺れてしまいます。

そんなふうに、情緒不安定な日々をすごしていましたが、
このブログを読んで、少し救われた思いがしました。
ASと定型がうまくやっていくやり方、
お互いの見え方が、
他のサイトより理解しやすかったです。

この先、どうなるかわかりませんが、
これからも拝見させていただきます。

なんだかなにが言いたいのかわからず、
支離滅裂になっちゃったかもしれません。。。

ルルさん

 はじめまして,どうぞよろしくお願いします。

 結婚すべきかどうかという悩みは何度かコメントでも書かれる方がありましたが,
 そのたびにどうお返事すべきか考えてしまいます。
 定型アスぺのずれを抱えながら生きるって,ほんとに大変だと思うし,
 「がんばろうね!」ということばを飲み込んでしまうんですね……

 ただひとつだけ,これは言えそうに思えることがあります。
 結婚を決められる場合には,定型アスぺのズレがあることを
 お互いに理解しあった方がいいだろうということです。
 一人でその問題を抱えられると,本当に大変になります。
 できるだけ周りにも理解者がいる方がいいし,
 場合によっては自助グループへの参加なども視野に入れておいた方が
 後々助けられることもあると思います。

 とにかくもしむつかしい状態になってしまったら
 一人で抱え込まないことが大事かなと。
 いろんな人に支えられ,いろんな知恵をもらいながら
 ひとつひとつ乗り越えていくことが大事かなと思います。
 
> この先、どうなるかわかりませんが、
> これからも拝見させていただきます。

 このブログの皆さんからのコメントや
 「アスぺと定型掲示板」のほうにも
 沢山の方のいろんな経験が語られていますので,
 どうぞゆっくりご覧になって下さい。
 ほんとは彼氏とも一緒に見られるようになるといいですけどね。
 
 

パンダさん、お返事ありがとうございます。

> ただひとつだけ,これは言えそうに思えることがあります。
 結婚を決められる場合には,定型アスぺのズレがあることを
 お互いに理解しあった方がいいだろうということです。

というのは、すごくよくわかります。
パンダさんと奥様のことを見ていても理想の関係だなと思えます。
もちろんふつうのカップル同士とは苦労の仕方が違うと思います。
それでも、苦しさや悲しみはは軽減される気がします。

私は30代、彼は40代で、歳の差10歳です。
そして、彼は頭もよく、いい大学も出ているし、
エリートと呼ばれる分類だと思います。
仕事では、まわりの人と意見が合わないといつも愚痴っていますが、
それは、まわりのレベルが低いからだと彼自身思っています。
友だちはいません。
彼はまわりや私と意見がちがっても、受け入れません。
いつも、すべて、自分が正しいと思っています。

本人はもとより、彼の家族も、
彼がASであるという事実をしらないだろうし、
受け入れがたいことだろうなと思います。。。
そんなだから、
伝えることはすごく難しいだろうし、
知らずに生きていく方が、
彼自身は幸せなのかもしれないと思ったりもします。。。

いろいろ、貴重な意見ありがとうございました。
スマホから見ていたので、掲示板の存在を知らなかったのですが、
皆さんのコメントを含め読んでみたいと思います。

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