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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年11月14日 (金)

感情とことば

 前の記事「涙は化粧か」に引き続き……

 定型アスぺのコミュニケーションで起こる葛藤について,ことばと感情のつながり方が違う,ということが大きな原因なんだろう,ということを考えてみています。

 そう考えるとまたわかりやすくなるように思えることに,アスぺの方の発言がときどき定型の気持ちをすーっと冷たくするように感じられてしまう,ということがあります。定型にとっては言葉は「事実」を伝え合うだけの意味ではなくて,それにかかわる様々な感情を伝え合うことに大きな働きがあります。そうやってお互いの感情を言葉という道具で伝え合って,調整しあうことをよくやるわけですよね。

 でもアスぺの方はたぶん言葉はほんとに事実を語り合うためのもので,そこに感情的な要素はあまり入ってこないのではないでしょうか。

 そうすると,定型的な感覚で,気持ちを調整しようとしたり,高めあったり,慰め合ったりするために「熱い」言葉をやり取りしているときに,すっと化粧っ気のない「生の事実」を伝える「冷めた(冷静な)」言葉がアスぺの方から投げ込まれることになります。

 定型の場合は言葉で感情を調整しようとしますから,いろんな意味で言葉にお化粧をすることになります。相手の感情にとって受け入れやすい表現を探すとか,気分を高めたり,鎮めたり,応援したり,そういう「効果」があると感じられる言葉遣いをするでしょう。それが話し方についての「気遣い」ということにもなります。その「気遣い」をあえて否定した言葉遣いをするときは,相手と敵対的な関係になるときです。

 ところがアスぺの方にとっての言葉には,感情的な色合いがとても薄く,ほんとに中性的な「事実」として感じられるものだとすれば,言い方にお化粧を施すことはこれはむつかしいことになります。言い方に気遣いを求められても,何が気遣いになるのか,それを判断する手掛かりがほとんどない状態に置かれてしまうわけです。

 もしそういうことなら,アスぺの方が正直に事実をもとに話をしようとすると,お化粧をしながらなんとか感情状態を調整しようとしている定型にとっては,その「努力」を頭から否定されたことになる場合が出てきます。そして定型もそういうときは多少無理して(頑張って)お化粧していたりもしますから,それを無視されたような言葉に出会って一挙に白けてしまうか,あるいは自分たちの努力を否定するものとして怒りを生むか,そんなことになってしまいやすいでしょう。

 

 このブログでアスぺの皆さんともやりとりしていてときどき感じるのですが,言葉の使い方に場合によって微妙にわかりにくさを感じる時もありますけれど,基本的にはとてもスムーズに自然にやりとりができて,かえっておどろいたりもします。炎上の時に目立つように,そこに強い感情が絡んでくると,ほんとに途方に暮れるような感じにもなりますが,冷静にやりとりが進んでいるときはほんとにスムーズな感じがする。

 そんなふうに定型から見て,普通の会話では全然普通に見えて,違和感を感じることも少なく,そこにズレが隠れているなんて思いもしないんでしょう。だから感情がからんだ会話についての暗黙のルールも共有されていると定型は勝手に思い込んでしまいます。

 ところが時々,その暗黙のルールが堂々と破られてしまう出来事にであって,定型が混乱するわけです。一度や二度ならちょっとした不注意でと見過ごしたとしても,それが何度も繰り返されると,「これはわざとそういう言い方をしているんだろう」と考えてしまうようになる。もしわざとそうするのなら,それは自分(たち)に対して敵対的な気持ちで接してきていることになります。そんな理解しかできなくなるんですね。定型の方は,多分。

 それで,言葉に感情をのせて,お化粧してそれをお互いに調整しあう,という感覚は薄いアスぺの方は,その定型の反応を見て,こちらも訳が分からなくなるわけです。相手が怒っているのは分るけど,理由が分らない。でも,定型の方が圧倒的に多数派ですから,自分のやり方が正しいとは言えず,必死に相手にあわせるよりなかったりする。でもその合わせ方を理解する手掛かりが乏しいので,形だけの「見様見真似」にならざるを得ず,その結果かえって定型の側の怒りに火を点けたりすることにもなる。

 こういう状態になっている時,定型の側も,アスぺの方の側も,お互いに何がずれているのか分っていないわけです。だから何をどうしていいのかもお互いにわからない。そういう状態で自分のやり方でなんとか関係を修復しようとしても,その修復の仕方は相手には通用しない。そして結局そのことでますます関係を悪くすることにしかならなかったり,ほとんど泥沼の状態になっていくこともある。なにしろやってることがずれてるわけですから,自分が期待する効果を持てないわけですよね。

 その結果ははっきりしています。頑張れば頑張るほど,激しく消耗したり,怒りが爆発したり,自信を失ったり……というお定まりのコースが待っていることになるわけでしょう。


 とりあえずそんなふうに考えてみましたが,ただひとつ忘れてはいけないように思うことは,アスぺの方の言葉が単純に「感情がない言葉だ」という話ではないだろうなということです。怒りの言葉とか,悲しみの言葉とか,喜びの言葉とか,そういうものはアスぺの方にも間違いなくあるでしょう。私はそう感じます。

 ただ,そういう感情を伴う言葉がどんなときにどんなふうに使われるのかに,定型アスぺの間のズレがあるのかもしれません。そして少なくとも定型的な感情調整に使われるような言葉の使われ方は,アスぺ語(?)の文法にはあまりないのではないでしょうか。それで定型が感情調整のための言葉を使うときに,感情をさしはさまない「冷静な」とか「冷めた」とかそういう言葉を使われる。……という言い方の方がもう少し実態に近いのかな。

 ああ,もしかするとこんな言い方はできるかも。アスぺの方は基本的にはあまり言葉に化粧をせず,素の状態で表現をされるとすれば,感情に関する言葉もそういう素の表現に近くなる。それに対して定型が感情調整のために言葉を使うときは,たっぷりと化粧をした言葉でやり取りをすることが多く,そこに素顔のアスぺの方の言葉が入ると混乱する。

 どちらも言葉に感情が絡んでいるけど,絡み方がかなり違うということかも。

 まだ整理しきれない感じがありますし,いろいろ考えなければ分りませんが,いずれにせよ定型アスぺのズレを考える時,この感情とことばの関係というのは,相当重要な意味を持っているのではないかと,そういう思いを深めつつあります。

  

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コメント

こんにちは。
 取り上げて、考えてくださったこと、大変嬉しく思います。ありがとうございます。

 すみません、
 なんだかすごく考えさせられることが多くて、
 なかなかまとまらなくって…。

【アスぺの方は感情的な部分は切り離した形で過去の体験を言葉にする傾向がある】
 のだとしたら、
 そういうことなのかもしれないなあ、と、思いました。
 自分の例に対して改めて使われることで、これがそれにあたるのか、と気付いた感じです。
 今まで何度か聞いた気がするのになあ…。
 
 感情を一緒にして話されると、なんだかおかしいな、という気がすること、確かに多いです。
 好きでも触られたくない、というのは、わが子に対しても感じることがあって(そのときの気分によりますが…手をつなぐのも無理なときがあり、普通でも一瞬はなしてから「よし、つないであげなくちゃ」と少し意識しないといけないことが多いです)、
 そこを同じように感じられるのは、なんだか難しいなあ、傷つけてばかりなんだろうなあ、うまくいかないなあ、とよく思います…。
 関係ない、と考えたほうが、自分についてもしっくりきます。
(もちろん伴うこともたくさんあると思います、私も悲しいときに泣きますし)
 でも相手にそれが伝わらないんじゃなあ…。

 実はこのお話をコメント欄でさせていただき、お返事をもらったとき、
 同時に自分の中で、自分の問題として思い出したのが、
「空気に飲まれるのを拒否することがある」性質なんですね。
 あくまで「ことがある」なので、いつもではないんですが…。
 感情だけで動かそうとする行為を不当に感じますし、乗りたくないなって思ってしまいます。
 (自分の場合は、自分の気持ちが乗りさえすれば同じように話せるんですが…)
 事実と違う、とかそういうところがものすごく気になるんですよね。
 そんなことを言っても無駄だ、と思ってしまう、とか…。
 私はそう思わない、とかですね。
 比較的、気持ちが乗りにくいところがあるのかもしれませんね。
  
 そして
【お化粧をしながらなんとか感情状態を調整しようとしている定型にとっては,その「努力」を頭から否定されたことになる場合】
 こう表現されたことについて、
 確かに、相手が「なんでかわからないけど」怒った、ときって、
 そういう事情がありそうな気がするなあ、と、思いました。
 本当、「こっちはこんなに気遣ってやってるのに」っていう、そういう怒りを感じて、
 そんなことで怒るなら、気遣わないでくれたほうがよっぽどいいわ、と思うんですよね…。
 そんな努力何のためにしてるの?は、自分がよく思ってることです。
 本当に分からなくて…。
 しかもそのために怒られるとか……釈然としません。
 でも、
 私たちが「どうしてもスルーできず事実を言ってしまう」ように、
 多くの人は、「どうしても化粧して感情状態を調整せずにはいられない」のかなあ……。
 化粧をするかしないか、の表現、
 結構広がりましたね…!
 私には分かりやすい気がするのですが、
 他の方はどうなのだろう…。
 アスペの方はどうなのだろう…。

 なんだか
 私ここでアスペ的という感じで受け入れていただいて、自分も「あるかも」なんて言ってますが、
 この後半部分はだいぶ自分とは違っていて、
 いや、アスペと似て非なるものかもしれない(ADHDとか?)、とも思っているので、すみませんはっきりせず…。

 自分はすごく感想文を書くのが得意で(子供の頃からです)
 思ったことならこの通りいくらでも書けてしまいます。(語彙が少ないのは置いといて…)
 むしろ私の周りを見ると、
 自分の思ったこと(本を読んで何についてどう思ったか、など)を言葉にするのが難しい人が多いものだなあ、とよく思うのですが。

 パートナーさんの蓮の花の例、
 私だったら自分がどうしてそこに連れて行ったか、どう感じたかを逐一説明し、相手がどう感じたか感想をしつこく求めます……。
 押し付けられるのも嫌いだし、押し付ける気はないのですが、自分の意見は知ってほしい。
 その上で、「あなたはどう思うか」を聞きたい。そう思います。同じ部分や違う部分を知りたいのです。よく分かりたいから。
 つまらないならつまらないでなぜつまらないかま知りたいのです。身近な人だから共有したい。
 嫌がるのだということを学習したので、控えていますが…。(つまり昔はやってました…)

 そういう例を見ると、まるで真逆ですよね。
 タイプが違うだけなのかな?
 親に押し付けられなかったためなのかな(うちの親は押し付けない代わりに反応自体があまりなかったのです)。
 全然違った…みたいにならなければいいのですが…。

ままさん

> 本当、「こっちはこんなに気遣ってやってるのに」っていう、そういう怒りを感じて、 そんなことで怒るなら、気遣わないでくれたほうがよっぽどいいわ、と思うんですよね…。 そんな努力何のためにしてるの?は、自分がよく思ってることです。 本当に分からなくて…。 しかもそのために怒られるとか……釈然としません。

 この感じ,私もあるアスぺと思しき方について,すごくリアルに感じたことがあります。やっぱりそういう感じで対応してこられるんです。うーん,そうなんですね……やっぱり。


> そういう例を見ると、まるで真逆ですよね。 タイプが違うだけなのかな?

 そもそも私の書いていることは,ものすごく限られた体験やお聞きした話で考えていることにすぎませんので,同じアスぺと言ってもほんとに個性豊かなみなさんにどこまで当てはまるのか,全然わかりません。場合によってはすごく偏った一部に関しての見方になっちゃっているかもしれませんし。

 ままさんからいただいたように,いろいろ「ここは自分は違うけど」みたいなことも教えていただいて,柔軟に考えていきたいですね。

 それにしても「身近な人だから共有したい。」と書かれている感覚については,これまでこのブログのやりとりの中では,アスぺの方にはそういう感覚がかなり希薄なのでは,という話もあったと思うので,そうでないパターンがあるということだと,とても興味深いです。個性の問題なのか,育ちの問題なのか,場合の問題なのか……

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