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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年11月 5日 (水)

申し訳ないケドうれしい

 子どものことでちょっと「ああ,よかったなあ」と思えることがあって,そうするとついついパートナーにそのことを喜んで話したくなるんですが,やっぱりぶすっとした顔でそっけなく「ああ,そう」というだけでおしまいになります。

 彼女にすると,子どもについてはほんとにつらい思いを抱えていて,安易に(?)「喜ぶ」とか,そういうことにブレーキがかかってしまうのかもしれません。そうすると,子どものよかったことについて伝えても,「だからなんだっていうの?」とか「それで私にどういう感想を言ってほしいわけ?」という気持ちになるのかもしれません。それはある種の「困惑」なのかもしれないし,あるいはそれ以前に,そんな状態になるのを避けて,「考えない」「感じない」ようにしているのかもしれない……などと想像してみます。

 実際の彼女の気持ちはわかりませんけれど,少なくともその応答の仕方とかを比べると,なんか,感じ方とか受け止め方とかに,やっぱり大きな違いを感じます。

 私の場合,やっぱり子どもには苦労をかけたという気持ちはすごくあって,自分がうつ状態になった一番のきっかけはそのことにあったわけですけれど,「それでも」というか,「それだからこそ」というか,子どもがその苦労の中でもひとつひとつ自分の道を切り開いていっている姿を見て「ああ,よかった!」と嬉しくなるんですね。

 それは別に,自分が子どもに苦労をかけた,ということへの申し訳なさを忘れてしまうことでもないし,ごまかすことでもない(つもり)です。でもそれはそれとして,というかそれだからこそというか,「よかったな」という思いもまたひとしおなんでしょうね。

 そのあたりの感覚に,なんかすごい違いがあるのかなという気がします。

 なんというのか,もしかすると定型は人間関係でマイナスのことがあっても,そのことをプラスにつなげるようなとか,あるいはプラスとマイナスを合わせて人間関係を積み重ねていこうとするというか,そんな「しぶとい」というのか「ずぶとい」というのか「たくましい」というのか「ずうずうしい」というのか……,とにかくそんな生き方を結構するのかもしれません。

 それに対して,少なくとも彼女の場合はなにかマイナスのことがあると,それはもうただマイナスとして抱え込むしかなくなる,そんな感覚がもしかするとあるのでしょうか。

 もしそうだとすれば,人間関係について「修復する」ということがほんとにむつかしくなりますよね。人間関係なんて,失敗がないことはあり得ないですから,大事なのは「失敗しない」という不可能を追及することより,むしろ「修復する」ことだとも言えなくもないでしょう。

 そしてもしそうだとすれば,年月が経つほどに自分の世界に閉じこもっていくよりなくなったり,どんどん人間関係がちいさくなったとしても,それは無理もないという気もします。人との関係で自分が傷ついたり,人を傷つけたりすることに苦しい思いをして,しかもそれをどう修復していいのかも見えない状態に置かれてしまったときには,ただ自分の世界にこもることでそれ以上の傷を避けようとしたとしても,ある意味当然かも,と思うわけです。

 ま,例によって勝手な私の思い込みの想像なので,「ほんとにそうなのかな?」という保留付きですけど (^ ^;)ゞ

 

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