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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年11月16日 (日)

定型アスぺが共有する「お化粧問題」

 アスぺ父を持つ娘さんのほんとうに厳しい体験を拝見していて,ここで「お化粧」というたとえで考えてみたことの根の深さを感じています。

 アスぺの方は定型社会の人間関係に使われている「お化粧」が理解しにくいし,嘘っぽく見えるし,見よう見まねで仕方なく「お化粧」(仕事モードとか他人モードとかも言ってきましたが)をしても,やりかたがよく分らなくて結局怒られたりして,その「定型的お化粧」にものすごく苦労をされている。

 他方でアスぺ父を持って苦しめられてきた娘さんは,その厳しい状況の中で何とか(私の印象では)真実を求めようと痛々しいまでにもがき続け,そしてその必死な思いはこれもまた世の中的には「正しいお化粧」とされるものからは全く外れた生き方にならざるを得なかったのですよね。

 ふと思うことですが,カサンドラに苦しむ方も,必死にパートナーに求めようとする「真実の思い」が認められず,そのことのつらさを周囲の人からも理解されずにいる状態なのかなという気がしますし,アスぺ父を持つ娘さんも家族への「真実の思い」を必死で貫こうとして苦しみ続けてこられた。そしてたとえば私のパートナーも,やっぱりお化粧の世界では認められない「真実の思い」を私に伝えようとして理解されず,それでも必死で生きているのです。

 そう考えることができるのだとすれば,そうやってアスぺ定型問題の周囲で苦しむ人々は,アスぺ定型の違いを超えて,随分と同じような苦しみを苦しんでいる,という見方もできないでしょうか。

 片や定型的なお化粧の世界に生きられないことに苦しみ,片や自分の持つ定型的なお化粧の世界ではパートナーと生きられないことに苦しみ,悩み続け,もがき続ける。どちらも同じ問題を,ただし「裏と表から」悩んでいると言えないでしょうか。

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コメント

>同じ問題を「裏と表から」悩んでいる。

すごい。
「ああ!そういう事なのか!!」と納得しちゃいました。

大きな気づきだと私も思います。

コクーンさん

 そうですか。コクーンさんもそんな風に感じられましたか。

 この話,どこまで言えるんでしょうね。それと,アスぺの方からも
 同じように感じられるんでしょうか。そのあたりは結構気になるところです。

 「なんでも共有しようとするな!」とか怒られたらどうしよう (^ ^;)ゞ

掲示板のほうで、先にお世話になっております。あすなろです。

お葬式のお話で、思い出しました。
息子(ASD)が幼稚園のとき、私の父が亡くなり、息子が異常なくらい泣いていました。
それも、身内が付き添う三日間。母がさすがに苦笑いしながら、『泣き屋さん(むかし、お葬式で泣くのを生業にしていた人がいたそうで)いらないね』と言っているほど。
息子と父とはほとんど接する機会が無かったのですが。
私の動揺を感じ取ったのか、周囲の『哀しい雰囲気』に『恐怖』に近いものを覚えたのか?

息子は飼っていたハムスターが死んだときも、三日間泣き通しでした。1ヶ月くらい、思い出すたびに泣いてました。

一方、夫は父が亡くなった一報を告げたとき、
『ああ、親父(夫の父)だと思って驚いたじゃないか(つまり、夫の父じゃなくて良かった)』と。

娘(ASD)が以前、とつぜんおいおいと泣き出すので、何があったの?と聞くと、大好きな曲に感動して泣いていると。
しかも、何度も同じ曲で号泣するのです。

幼いASDたちを見てきて思うのは、彼らはすごく感情の揺れが極端だなと。
特に『恐れ』がいちばん強かったですね。
楽しさや悲しさの表現もとても大胆。
そして、記憶力がとてもいいので、いつまでも色褪せない。
それが苦しさとも直結しているようでした。

息子は思春期になって、誰からも距離を保つ『技術』を身に付けて楽になったようです。
周囲が盛り上がっていても、喧嘩になっていても、ひとり我関せず。それが孤立にならない程度に適度に付き合うという、かなり高度なコミュニケ―ション術も身につけたようです。

おそらく無防備だと、アスペは定型の比でないほど感情に翻弄されてしまうのかなと思います。そこで、自分の向けるベクトルの数を限定しているのかなと、夫や子どもたちを見ていて感じます。

パートナーさんの蓮の花のお話。
私はすごく強い『感動』を感じました。
本当に美しい物を見たとき、どんな言葉で表現しようとしても、陳腐になってしまうような気がしませんか?本当に感動しているときは言葉になりません。
感動を共有できると思ったパンダさんにだけ、黙って教えてくださったんじゃないかな?

あすなろさんのかかれてる
「無防備だと・・・感情に翻弄されてしまう」
 自分にはちょっとしっくりくるところがあるかも…。

 まあ自分は、記憶力は悪いほうですが…ははは。

こんなところですが
パンダさん、
 前記事の、二つの「無限」のたとえ、
 とてもよかったです。たとえがわかり易いし、そういう考えもできるのか、と。

> 「なんでも共有しようとするな!」とか怒られたら・・・

そうなんですよね。私もそれを思い始めてたんです。
でも、我が家の場合、現在怒っているのは私なんですが・・・。

昔は共有したいと思っていたのに、今はその逆なんです。

彼が、独学で本などから身につけたその場を共有するための化粧が、子供が成長して思春期を迎えている今の時期に合わない。化粧直しがないので、娘たちは小さい子扱いされるのが嫌でたまらないようです。進歩がない。

ずれている共有をされると、鬱陶しくてたまらなくなるのですが、彼は自分が努力しているという思いがあるからか、私や娘たちの気持ちを伝えても、意固地になるばかりで引き下がらない。

努力を認めて欲しいというのがあるのでしょうが、間違った努力をどう認めたらいいものか・・・

わが子へなら、たとえ間違った努力だったとしても、認め受け入れた上で、そうじゃないんだよと諭すことができるのだけど、既に大人であり、彼のプライドもあり、諭す言葉が彼には響かない。

いっそ、共有できないままでいた方が良かったのかもとさえ思ってしまう・・・。

続きです。

定型の身勝手さか・・・と自分の都合で考えているのでは?という思いに駆られることもあり、アスペの方を一方的に責める気になれないでいます。

裏と表で悩んでいると気づいても、相手の見方に合わせることもできず、自分の見方に引き入れることもできず・・・、せめて歩み寄れることができればと思うのだけど、歩み寄るためには、コミュニケーションが必要ですよね。そのコミュニケーションが上手く噛み合わないのが、最大の問題なんですよね。

仮に、お互いが、自分自身の個性を正しく理解し、相手との違いも受け入れることができれば、「なるほど・・・」と徐々にでも距離を縮めることができるのかもしれないけれど、一方的なままではどうにもならない。

自覚もなく、相手との違いを受け入れることができない人間関係の深刻さが、浮き彫りになってきてる気がします。

あすなろさん

 無防備の話はとても大事なポイントのような気がします。
 無防備だから深く傷つきやすく,それに対する反応も強くならざるを得ないとか,
 そんなことがあるんじゃないでしょうか。
 なぜ無防備になるのかはいろいろ考えないと分らないですけれど,
 アスぺの方がとても純粋に感じられることがあるのも,
 そのあたりに関係するような気もします。

 蓮の花の話については,強い感動というよりも
 当時の私の印象では静かな,淡くもある,でも深い思い,という感じがしました。
 私はどちらかというと(言わなくても?)大げさに感動したり
 そのことを表現したりする方なので,ほんとに正反対です (笑)

 でも,長く心に残るのは,もしかすると大げさな表現よりも
 そういう静かな思いなのかもしれないですね。


ままさん

 無限の話,お気に召したようでうれしいです (^ ^)v
 無限の話はほんとになんだか不思議で面白い。
 
 たとえ話も,伝わりやすいもの,伝わりにくいもの,いろいろありそうですね。
 無限の話がなぜつたわりやすかったのかはちょっと興味があります。
 他の方にとってどうかもわかりませんけど。


コクーンさん

 共有の話,なんかお化粧にも「賞味期限」があるのかなあと思いました。
 お子さんが小さい頃は,多分まあそれなりに賞味の範囲だったのかも。
 それがいつどうして「期限切れ」になるのかについては
 なかなか共有がむつかしいのでしょうか。
 定型の世界はほんとに「調節調節」の世界なんでしょうね。

> 歩み寄るためには、コミュニケーションが必要ですよね。そのコミュニケーションが上手く噛み合わないのが、最大の問題なんですよね。

 ここはある意味定型アスぺ問題の本丸のような印象を私は持っています。
 かみ合わない理由に定型アスぺ問題があるんだと,
 そういう理解が共有され始めると,事態はだいぶ変わると思うんですが,
 どうやったらそこに至れるのか,それぞれのみなさんの御事情もあるでしょうし,
 ほんとに難問だと思います。
 

 

パンダさん

 無限の話のたとえがいいなと思った理由は、
 えっと、個人的な感想になりますが(というのはいつもの事でした…)

 これたぶん、興味の範囲の広さと狭さと似たようなことなのかなって思って。

 自分は興味の範囲が狭いのが悩みなんですが
(といっても、悩んでもどうしようもないんですが…)
 よく
 広ければ浅く、狭ければ深い。みたいな言い方をしますよね。
 でも
 「広くて深い」人がたしかにいて。できる人、特別な人、だと思いますよね。
 そうしたらその逆に、
 「狭くて浅い人」もいるに違いないし、自分はそうだとしか思えないし、
 それもまた特殊な、劣ってる人なのかな。とか思うことがあるのです。
(これはむしろ自分がアスペでもなんでもない場合に当てはまるだろうと思っています)

 けど
 このたとえ。
 まず自分は、1と2の間にも無限がある、という発想があまりなくて、素直に驚きました。
 そういうことって気付きにくいだろうし、
 多くの人は見ない、見る必要性も感じないだろうなあ、と思って、
 そこで、あっ、と思いました。
 広さや深さは、多くの人の持つ価値観から客観的に評したもので、
 すると「狭くて浅い」は劣ったように見えるけど
 その狭くて浅い中の、無限を、同じように見ているとしたら、
 たとえ大勢の人にとって価値があることでなくても、劣っているわけではないのかな、と 
 そう思えたのです。
 それで、好きだな、と思いました。

 良く思うのです。
 同じ時間を同じ場所で生きてきたはずなのに
 どうして、大勢の人が見ているものを私は見ていないできてるのだろう。
 みんなが分かることが分からないのだろう。
 同じ時間が流れているはずなのに、私は何をしていたんだろう?
 本当に不思議で、そしてそれを意識すると、落ち込みます。
 自分はそれでも、何か価値のある別のことをしていたのだと、
 狭い分深いはずだと、
 昔は信じていたのですが(笑)。
 今は、「狭い=深い」は嘘だ、とはっきり思っていますから(上記の通りです)、
 落ち込むしかなかったんです。が、
 価値が分からないようなことでも無駄に過ごしたわけでなかった、と考えると
 ちょっとだけほっとしました。
 一応ちゃんとその時間は懸命に生きてきたのかなって…。

 いやわかりませんけどね。
 そうだと思いたいのですね。
 うまく自分の生き方をこれでよかったと肯定できる口実を見つけた感じのような…
 なんだか表現がむちゃくちゃですみません。
 そういえるほど本当にちゃんと生きてきたのか、正直分かりませんが。
 
 というかズレたものを受け取っていたらすみません!

ままさん

 そんなふうに素的に読み取っていただいたんですね。
 なんだか気持ちがほんのり潤うような思いがしました。

 だれもがみんな,そういうひとりひとりの大事な時を
 そっと過ごしているんですね。
 ただ,ほとんどの場合,そのことが見過ごされているだけで。

 うーん,今目の前にあるこのみかんにも
 無限の世界があるわけか…… ナドト

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