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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年11月

2014年11月28日 (金)

憎しみが自分を蝕むという話

 

アスぺ父を持つ娘さんが「『親に愛されてない』と思うより『親を憎むこと』のほうが辛い」と書かれていて,「憎しみ」ということについて思い出した話がありました。

 別にアスぺ父を持つ娘さんがヤクザさんとの関わりを持たれていたことを書かれていたからではないのですが,最近やくざ屋の親分さんが被害者となったひどい冤罪事件についての本をたまたま読みました。

 本で読む限りでは,殺人事件で逮捕された子分が,親分への恨みを利用される形で,警察にうその供述をして親分から命令されたという話にしてしまい,一切の証拠もなく,むしろアリバイとか関与を否定する事実がたくさんあり,最終的にはその子分が嘘に耐えられなくなって,自分が嘘の証言をしていたと繰り返し裁判所に訴えたにもかかわらず,それらはすべて無視されて,その子分のかつての証言だけを証拠として,殺人犯として20年の刑務所暮らしをさせられた人の話でした。

 その親分さんが憎しみについて語っていて,「憎しみは自分自身を蝕んでしまう」と言って,憎しみに身をゆだねなかったそうです。ただ,でたらめな捜査と裁判に,刑務所ではひたすら体を鍛えながら,強い怒りを持ってずっと冤罪を訴えて戦い続け,出所後も再審請求を続けているとのことです。

 冤罪事件についてはなんでそんなでたらめなことがまかり通るのか,ほんとに驚くような事実が明らかになりつつ今でもときどきニュースになるのを見ます。もしその親分さんの事件も冤罪なら,どんなに深い恨みや憎しみを抱いても全然おかしくないと思えるのですが,でもそれは自分自身にとってよくないというわけですね。

 ちょっと忘れてしまいましたが,似たようなことを他の人の話としても聞いたことがある気がします。同じマイナスの感情でも,怒りはある意味その人を健康に保つこともあるのに,憎しみはそのひと自身をむしばんでしまう。なんか考えさせられます。

 定型アスぺ関係は,ある意味簡単にそういう「憎しみ」を生み出してしまう条件をたっぷり備えた関係でしょう。憎しみによってぎりぎり自分を支える場合もあると思います。それはいい悪いの話で簡単に割り切れるものはないでしょう。ただ,それが結局は憎しみを抱く人自身をむしばむのだとすれば,なんとかそこを回避する道がないものかと思います。

 

2014年11月27日 (木)

負の共有?

 話の流れの中で,パートナーが苦しければ私も苦しく,嬉しければ自分も嬉しいという,そういう気持ちなんだと言ったのですが,彼女には「それってまるで宮沢賢治じゃない」とちょっと笑って言われました。

 彼女としては,宮沢賢治の詩などに書かれる世界は,お話の世界でしかないのか,ほんとにリアルにそういうことを考えたり言ったりする人がいると知って,「へえ,そんなことが本当にあるんだ」とある意味驚き,そういう感想になったのだそうです。

 「感激」の押し売りをする気持ちはもちろん全くないのですが,私なりに精いっぱい大事な思いを伝えようとしているときに,その私の思いは完全に置き去りにされる形で面白がられるということについて,やっぱりショックを受けてしまいます。

 そしてそのことを伝えると,こんどは彼女の方がショックを受けて,「自分が何を言ってもあなたを傷つける。やっぱり自分はそういう人間なんだ」と言ってすごく落ち込むんです。落ち込んでほしいわけではないし,罪悪感を感じてほしいわけでもないし,ただ多少なりとも分ってほしいだけなのですが,そうならないむつかしさですね。

 なんなんでしょう。問題を共有して一緒にどうしたらいいのかを考えたいときに,その問題の指摘が最終宣告のように受け止められ,その先がなくなってしまうことのしんどさでしょうか。「じゃあお互いにどうしたらいいんだろう」という話にならないことの辛さですね。問題解決を探ろうとする試みが,まったく逆に彼女を絶望的な気持ちにしてしまうことの耐え難さでしょうか。

 「自分が何を言ってもあなたを傷つける。やっぱり自分はそういう人間なんだ」という気分は,私もまったく同じになります。本当に少しでも幸せになってほしいと思って言ったりしたりすることが,まったく逆の結果になってしまう……。その限りではお互い同じなのかも。

 

2014年11月26日 (水)

伝わらない思い

自分が伝えたいと思っていることは全く伝わらず、いつも得体の知れない応答が返ってきて、自分は拒絶されたり、非難されたり、攻撃されたりする。自分の言うことは全然違う意味に受け取られるのだけれど、そういうことが繰り返されると、もう自分が本当は何を言いたかったのかさえ分からなくなってしまう……。 これは私のパートナーとの話で、彼女が憤って、というよりもう憤る力さえなくなってため息のように語ったことでした。細かい言葉使い等は不正確ですが、趣旨は大体そんなことで多分大きな間違いは無いように思います。 定型の皆さんはこの言葉をどんな風に思われるでしょうか。私が今感じるのは、立場を替えて、定型の側から見ても、定型アスペ間では大体同じことが起こっていて、アスペの方に対して似たような思いを持つことがある、ということです。 ただ、定型の側は多数派ですから、自分の感覚は「常識」だし「普通」のことで、自分の理解がおかしいとは思いにくいのに対して、アスペの方の側は、孤立する可能性が高いので、自分の理解自体に自信を持ちにくくなりやすいという違いはあるかもしれません。でもその点を差し引いて考えれば、「ほとんど同じじゃん」 と私には思えてしまうんです。

2014年11月25日 (火)

生み出される新たな常識

コクーンさんも書かれていましたが、AS-Pさんと他の皆さんとの掲示板でのやりとりとか、考えてみればすごいことが実際に起こっているわけですよね。 例えばアスペ父を持つ娘さんとAS-Pさんが協力し合うことなんて、この問題に苦しんできた定型アスペ間では、良い意味で「常識を越えた」出来事じゃないでしょうか。 人は常識とか「普通」とかに縛られて生きていますけど、同時にたとえ定型アスペ間であっても、そこに新しい常識を生み出す可能性もみんなが持っているのかもしれないと、ちょっとそんなことを感じ始めています。

2014年11月24日 (月)

変らないのに変る

 親の介護でまた実家に行っていたのですが,人生最後の道行きに来て,数か月前まであの壮絶な,まるで日々が戦場だった両親の関係が劇的に変化してきていることに,心から驚いています。

 友達などに聞くと,家庭というのは安らぎの場で,一番気持ちが落ち着く安心できる場所だと言われたりします。ああ,そういうものなのかと,すごく素朴にひたすら驚いてしまうのが私なんですね。私の場合は家庭は戦いの場であり,ある意味命がけの攻防が繰り広げられ,そこでどう生き抜くかということこそが「生きる」ということの意味なのだと,無意識で思っていたりしたものですから,そうじゃない人たちがたくさんほんとにいるんだと知って,「すごい!」とある種感動してしまいます。

 またこちらのほうは感動というより,痛みを覚えた話ですが,昔,あるカウンセラーの方の講演を聞いたことがあります。その方は子ども時代を本当に幸せなひと時として,疑いもなく聴衆に語り掛けられていて,それに驚いたんですね。その方は有名な方で,共感能力も抜群。私もほんとにすごい人だなあと感じる方でしたけど,その言葉に傷つく思いをする人間がいることには気づかれていないようでした。

 私は「安らぎの家庭」にそんな驚きなどを感じてしまうような人間に育ったわけですが,まあそれだけ両親がそれぞれに強烈に「個性的」で,およそ理解しあうことなど不可能という感じでした。お互いにひたすら傷つけあうような関係だったわけです。しかも母親はそれなりにある種の「パワー」もあって,揺れ動く自分の感情によって周りを激しく巻き込む「能力」も持っています。

 対する父親の方はいわゆる自閉系の方とはちょっと違うようにも感じるのですが,しかしほんとに人間関係というものが分らない人で,世渡りも下手ですし,その分ひたすら得体のしれない頑固さで身を守ってきました。母親の激しい攻撃にも,とにかくその頑固さと暴力的な感情の爆発で対応してきた人です。

 老境に達してその二人の関係が少しはおだやかになるかと思いきや,相変わらずいつも激しいことばの応酬です。ときどき様子を見に行ってまたその状況を体験すると,「ああ,自分はこんな状況で育ったんだ」と改めてそれまでの自分の生きてきた過程を少し客観的に知ることになり,我ながら子供時代の自分自身がかわいそうにも思いました。またこういう育ち方をすれば,自分がなんとも生き方の下手な人間になるのも無理はないと,そんな「言い訳」を見つけてかすかな「安らぎ」を感じる皮肉もありました。

 この春にはいよいよ父親の最後も見えるようになり始め,どうやってその最後の道を支えるかを考えなければならない状態になりました。母親の精神的な混乱には一層の拍車がかかり,それに対応するのは大変でした。

 さすがに長年の経験で,そういう母親への対処の仕方もある程度は身についてきましたので,激しく振り回されながらも,なんとか現実的な対応はしてきました。しかし私に考えられるのは,なんとか母親も体を壊さずにいられ,父親が「物理的には」静かな最後を迎えられる条件を整えることまででした。二人の関係をどうこうなど,およそ空想してみることすら不可能でした。

 これも私からすればほんとに「身勝手」と思える経過で,両親は勝手に遠い場所に終の棲家を作ってしまっていまい,「あなたたちには一切迷惑をかけない」などと豪語していました。でももちろん体も弱って老老介護状態になれば,そんなことが通用するはずもなく,結局遠方まで私の兄弟でかわるがわる駆けつけるよりなく,そして介護の皆さんの力をお借りするしかなくなります。

 ところが母親はそういう「援助者」を巻き込んで混乱状態を作り出したり,時に精神的に激しく傷つけたりするタイプの人です。その上援助をしようとする人たちの間に混乱を引き起こして対立させかねないのです。これまでもそういうトラブルを繰り返してきましたので,そうならないような「援助」の形を私たちは模索しなければなりません。たとえお医者さんでも母親のような(しかもかなり強烈な)タイプを経験したことのない方にはあの「巻き込み力」に対応しつつ援助者同士の協力関係を見失わず,現実的に振る舞うのは並大抵のことではありませんので,そこへの配慮や対応も欠かせません。

 そういう困難を抱えて,さらにこれまでもどうしようもなかった両親の関係を,最後の時にそれ以上どうにかしようということなど,想像もできなかったわけです。

 ところが意外なことが起こりました。母親の主観的な「善意」に基づく激しい抵抗をなんとかなだめつつ,介護の皆さんや医療関係の皆さんなどと相談しながら,もはや限界を超えていた家での老老介護をやめて,なんとか施設にお世話になることができたのですが,そこで変化はまず父親に起こりました。

 それまでもう余命1か月は無理という感じだったのが,だんだんと元気になり,目にも力が戻ってきて,食欲もしっかり戻ったのです。もう最後の見取りを施設で行うために受け入れると考えていた施設付きの医者は「話が違うじゃないか」と憤慨(?)するほどでした。そしてあれほど頑固で周囲を困らせていた父親が,なんと施設の中では職員の皆さんに対しても基本的には協力的で,「静かに状況を受け入れる」という姿勢になったのです。

 その様子を見て,夫婦関係の困難がどれほど父親を心身ともに追い込んでいたかが分かりました。母親の方は自分の熱い「善意」で,父親を家に取り戻そうと繰り返ししていましたが,当初は「自分の家で最期を」ということに強くこだわっていた父親の方は別に家に帰りたいとは言わなくなりました。施設の方が楽だと思ったんでしょうね。

 今回私が駆け付けたのは,またもや母親が不安から動揺して一時帰宅の父親をもう施設に帰さないなどと言いだしたからです。幸いケアマネさんの素晴らしい対処でとりあえずは収まったのですが,一度私も行ってその後のケアをする必要を感じたのでした。

 そうやって母親の愚痴を1日半ほどいろいろと聞いたあと,二人で施設に父親を見まいに行き,改めて父親が落ち着いてマイペースでしっかり食事をとっているのに付き合いながら,母親ともその場で話をしていました。そして改めて私がここは父親の「マイペース」へのこだわりが結果的には尊重されるような施設なんだね,という話をし,それが父親にとっても心地よいんじゃない?と母親に聞いてみたんです。

 すると,母親が素直にそれを認め,「自分の感覚でここはだめだと思っていたけど,この人のこだわりには合っていたのかもね」と言いだしました。そしてさらに,今まで自分(母)と父親はどうしてこんなに違う人間なのかと思っていたけれど,そういうこだわりということではすごく似てたのかも,というのです。それまで母親はそんなふうに自分と父親との関係を客観的に見ることが決してできなかった人でしたので,内心驚きながら,「そうだね。こだわりの中身は全く違うんだけど,こだわりぬく点でほんとに一緒だね」と答えました。母親はうなづくような感じでした。


 そのあと,私はもう少し話が先にいけるだろうかと思い,最後の見取りについてはどうするかまた考えることとして,今は父親はこの施設にお願いして,母親はそれに甘えて自分の体をケアしたり,自分自身を大事にさせてもらっていいのではないか,と話してみたのですが,それにも納得した様子でした。

 まあ,今はそういっても,また何かのきっかけでまったく正反対のことを強烈に主張し始めて周りを振り回すとか,そういうことはこれまでも延々と繰り返されてきたことなので,今回のことでこれからそのままうまくいくという安心はしていませんが,ただ,一時的にせよ,そこまで自分の見方を大きく変えてみる,ということはほとんどなかったように思うので,そのことはとても心に残りました。

 父親にしても母親にしても,その強烈な頑固さや「身勝手」さを生み出している根っこの性格は今もまったく変わっていません。ところが介護の方や施設の方にうまい具合に間に入って頂ける形になり,両親の間に一種の距離を作ることで,お互いの関係が変り,その「頑固さ・身勝手さ」の現れ方が全然変わったのだと思うんです。それはいい意味でそれぞれが自分の持って生まれた性格を無理なく発揮できる環境を作り,そのプラスの変化をお互いに感じられるようになってさらに気持ちに余裕を生み出し,安心して自分に戻れるようになる。

 ある意味本人たちの中身は全然変化していないんだけど,でも具体的に生きていくうえでは大きな変化が今は起きているともいえます。

 定型アスぺの関係でも,持って生まれた「定型」という枠組みも,「アスぺ」という枠組みも,変わりようのないものでしょう。でもそれがある関係の中に置かれたとき,そこに大事な変化が起こる可能性を感じます。そして私の両親の例から考えても,多分その変化には,距離をとって関われる第三者の方たちとの関係がとても大事になるような気がしています。そこでカギになるのはどういう関係なのかはまだ私にはよく分らないのですが。

2014年11月23日 (日)

くぼみ=あばた? えくぼ?

私は自分の子どもに大事なことを色々教えられることが多いのですが(って、立場逆!? (笑)) 、先日「へぇ!!」と唸ってしまったのは、嫌いで食べられなかった食べ物を普通に食べられるようになった話でした。なんかある種のコツをつかんだらしいのです。

そのコツというのは「注目のポイントを変える」、というようなことらしいんですね。

自分自身を振り返って考えてみても、子どもの頃嫌いで食べられなかったものが、大人になったら食べられたり、時にはむしろ好物になっちゃったりすることがあります。例えばビールとか、大人は何でこんな苦い変な味を嬉しそうに飲むんだろうと、不思議に思いながら飲んでいた(あれ?)のが、そのうちにその旨さを感じるようにいつの間にかなっていました。

当然、ビール自体の味は同じです。苦いということも同じように感じていて、別に苦味を甘味に感じるようになった訳じゃありません。でも子どもの頃は不味く感じていたその味を、旨く感じるように変わったんですね、自分の方が。ビールが変わったんじゃなくて。そして子どもの頃は気づかなかった、例えば「喉ごし」とか、注目のポイントがいつの間にか変わっています。

私の場合は、意識しないで「いつの間にか」変わっていたわけですが、どうやら私の子どもは意識的にその注目のポイントを変えるらしいんです。そうすると、以前は気づかなかった「楽しみ方」が見えてきて、嫌っていたポイントにはあんまりとらわれなくなるんだそうです。

それを聞いて私は「それって、大発見じゃん!!」と感動してしまいました(笑) 、

パートナーと知り合った頃、当時は気づいていませんでしたが、極端にこちらの内面に自分の都合で入り込んできてかき回す母親に苦労していた私は、パートナーの距離の取り方にものすごくひかれたんですね。変に内面に踏み込んでこない関わられ方が凄く私の救いになった。そして多分、親とのとても厳しい葛藤を経てきていることも、私の側からは共感のポイントだったように思います。

ところが時間がたち、今度は自分たちの子どもを巡る彼女との葛藤の積み重ねなどを経て、今度はその同じ距離感が、「非共感的」とか「拒否的」とか、別のイメージで捉えられるようになっていったらしく、「救われる」どころか「苦しめられる」理由に見えてきてしまったわけです。

ビールが好きになったのとはちょうど逆向きのような変化ですよね。彼女の基本的な距離感は多分以前から一貫しているんでしょうが、ただ私の方の受け止め方が変わったんでしょう。そう言えば「あばたもえくぼ」といいますが、「えくぼもあばた」になっちゃうのかも。あるいは同じ「くぼみ」があるときは魅力的なえくぼに、そして別の時には嫌なあばたに見えるというような感じかな。

で、私の場合は、そういう変化は今こうやって改めて振り返って考えられるようになるまでは、ほぼ無意識に起こって来たもので、自分自身の力ではどうすることもできなかった訳です。ある意味もう逆らいようのない運命のようなものだったのかも知れません。

でも、子どもの「嫌いだったものを食べられるようになる意識的な工夫」の話のように、もしかすると意識して注目のポイントを変えてみるなどの工夫によって、マイナスのイメージでしかとらえられなくなっていることについても、多少なりとも柔軟な感じ方が可能になるかも知れません。

まあ、まだ頭で考えてみた可能性の話で、実際はどこまでそうなのかはわかりませんけど。でもちょっと注目してみる価値はありそうです。

2014年11月22日 (土)

頭と気持ちの葛藤

 例によって「ふと思い出したこと」です。

 朝起きてパートナーに「おはよう」と言うんですが,先に起きている彼女はこちらと目を合わせることもなく,暗い顔(に見える)をして,何も言いません(聞こえません)。それで私の気持ちがちょっと暗くなり,自分は嫌われているのかなあとか,自分が彼女に悪いことをしているのかなあとか,自分は彼女の力にはなれないのかなあとか,そんな「気分」に一瞬なるんですね。

 で,以前,その彼女の表情や態度のアスぺ的な意味が全然分からなかったときは,他の出来事とも重なり,そういう「気分」はどんどん積み重なって,ほんとに深刻になってしまいました。でも,今はすぐに「あ,違うんだよね,これは。」と頭で軌道修正をすることができます。

 この軌道修正も最初はすごくむつかしくて,なにしろ感覚的には圧倒的に暗いマイナスのイメージが押し寄せて圧倒される感じになりますから,「いやこれはちがうんだ」と「頭で考え」ても「でもこのくらい顔と返事のなさ」に彼女からの拒絶感をどうしても感じてしまう気持ちと頭が,完全にちぐはぐになってしまって,しんどいわけです。

 それでも少しずつそういう軌道修正に慣れてきて,「あ,違うんだよね,これは。」と考えるのも早くなるし,それ以前に,まず「きっと彼女は今日も暗い顔で返事もしないだろうな」という「予想」をあらかじめして,「それは僕へのマイナスのメッセージではないんだ」という「心構え」を持てるようになりますから,それを実際に見たときのダメージも少なくなってきます。

 それはそうなんですが,でもやっぱり彼女の表情から与えられる印象の力は強いですし,頭では「そうじゃないんだ」と考えても,どこかで「ほんとかなあ」という気持ちが消えてしまうことはありませんでした。そんなとき,アスぺの方たちとのやりとりがまた少しずつ私の受け止め方を変えていきます。

 私がそのことについて「ほんとかなあ」という感じを持っていたのが,「ああ,ほんとなんだ」と思えるようになったのは,かずきさんの次のコメントを読んだ時でした。

「また、朝のやり取りも、「人と関わるモード」というのをOFFしてしまうと、私の場合もそうなる気がしました。寝ているときは完全に一人な世界なわけですし、起き抜けから「他人(と関わる)モード」を展開するのは厳しいものがありますので、私の寝起きは時間がかかります。PC立ち上げに時間がかかる感じです。ましてや、先に起きて過ごしていた一人の時間を唐突に終わらせられる(立場的に)とするとちょっと抵抗したくなります。私は同居なので、部屋を出たら即「他人モード」にしなくてはいけなくてその為の起動時間が長く必要で、誰よりも遅く起きるダメ妻&母です。(苦笑」

 

 私にはこのPC立ち上げにかかる時間という比喩がすごくヒットして,「なるほど!」と感じてしまったんですね。というのは,それまでも自分自身が朝起きて頭がはっきりするまでの間の体験を,なんだかPCの立ち上げをしている時間みたい,と思ったことがあったからです。

 眠っていてすっかり意識のない状態から,なんとなく周囲のもの音とかで起こされ始め,布団の中にいることに気づき始め,あ,今何時だろうとか思い始め,自分は何をしなきゃいけないのかと考え始め……といったことをだんだんと思うようになって,頭がはっきりしてくる。たまに出張とかでホテルで目が覚めたりすると,「あれ,ここはどこだっけ?」と迷い,そのうちに「ああ,今家じゃないんだ」とか気づき,といったことも起こる。ちょっとずつぼーっとした意識がはっきりしてくるその感じがPCが少しずつソフトを読み込んで立ち上がっていくイメージに重なってきて,面白いなあと思っていたんです。

 その自分自身についてのイメージに,かずきさんの説明がピタッと当てはまってきたんですね。それで「あ,そういう感じならなんとなくわかる」と思ったわけです。

 ちょっと古い話ですが,アップルのパソコンでウィンドウズを動かすソフトというのもありました。アップルのパソコンでウィンドウズを動かして,そのウィンドウズでウインドウズのソフトを使えるようにするわけですが,パソコンとしては余分な仕事をたくさんしなければならないわけですから,ウィンドウズのモードに入るまでに時間もかかるし,仕事としてもすごく負担が大きいわけです。要するにそんなイメージです。

 アスぺの方の「自分モード」はアップルパソコンのようなもので,定型のやり方はそこでは通用しない。で,アスぺの方が定型のやり方を受け入れるには,その「自分モード」の上にもう一つ「他人モード」を立ち上げないといけない。つまりウィンドウズを立ち上げる必要です。そういう比喩が私にはなんか「ぴんときた」んですね。

 それで「ほんとかなあ」という印象が「ああ,ほんとなんだ」という印象にかわった。(ただ,今のところは彼女の表情を見て,一瞬反射的に気持ちが暗くなること自体は残り続けています)

 ……,と前置きが長くなりましたが (笑),以下は「ふと思ったこと」です。

 あるところでは「はい」という返事をするときに,首を横に振り,「いいえ」の時は首を縦に振るんだという話を誰かに聞いたかテレビでみたことがあります。これ,日本に住んでいる人からすれば,すごい混乱しますよね。事前に説明を受けていれば「今この人は首を横に振ったけど,これは拒否してるんじゃなくって,OKのサインなんだ」と,頭で一生懸命翻訳して「ああよかった」と思うでしょうけれど,説明が無ければ大混乱は確実ですし,説明を受けてからも,ずっと一瞬の混乱やある種の気分的な葛藤は残り続けるでしょう。

 そういうことを経て,それでも長いことそういうやりとりをしていけば,まあそれでも慣れていくのかなあと想像してみます。

 で,考えてみると,こういうのって,いわゆる異文化のところにいくと,よく起こる問題ですよね。もう骨身にしみついた感覚のズレで,こまってしまう。

 たとえばこれも昔本で読みましたけど,遺体を砕いて鳥に食べさせる「鳥葬」というやり方があるそうですけど,もうびっくりでした。まず自分の身内の遺体を砕くことがショックですし,鳥に食べさせるのもショックですし。

 でも,その人たちにとってはそれは「手厚いお葬式」の一部なんでしょうね。それがなくなった人への「思いやり」でもあるんでしょうし,自分も将来そうされることを願っているんでしょう。いやあ,まいったなあという感じでした (^ ^;)ゞ

 そこでふと振り返って考えてみると,日本では火葬をして,そのあと親しい人がそのお骨を拾い集める,ということを火葬場でやります。これなんか,私はなんの抵抗感もなくやってしまうわけですが,欧米の人かなんかがそれを見てすごいショックを受けていたという話も聞いたことがあります。(その割にはヨーロッパに行くと沢山の骨で飾った「骸骨寺」みたいなのがあって,見てびっくりですから,なんのこっちゃと思いますけど(笑))

 

 そういう「頭じゃわかるけど,気持ちがついていかない」というずれを持った人間同士が,どんなふうにお互いのやり方を認めてうまく一緒に生きていけるのか,ということが文化の違う人同士の間では大きな問題になるんだと思いますが,定型アスぺ間の問題も,そういうところがあるんだなあと改めて思いました。

 もしそうだとすると,定型の側の「理解」の進み方にはこんなステップを考えることができるかもしれません。

 まず最初はお互いの感覚の違いに全然気づけなくって,ひたすら自分の感覚で相手を判断してすごいショックを受けてしまう段階。

 次に「どうもこれは同じことについてかなり違う感覚を持っているらしい」と気づき始め,一体それは何がどう違うんだろうかと考え始める段階。

 それから少しずつ違いの中身が見え始めて,自分の感覚ではこれは判断しきれないなあと思うようになるけど,でもなんで相手がそんなふうに感じてそんな風に行動するのか,まるで異星人にしか見えない段階。

 そしてどうやら相手には相手の「これがいいやり方だ」という,すごい違う価値観の持ち方があることに気づき始めて,自分の価値観を押し付けにくくなる段階。この段階位になると,「頭じゃわかるけど気持ちが付いていかない」という葛藤の問題が結構深刻になるかもしれません。

 その次に「あれ?この相手の感じ方や行動の仕方って,自分の経験で言えば,こんな時に感じることやすることと似ているな」と気づき,自分の経験を手掛かりにして,相手の感じ方をなんとなく感じ取れるように思えることが出て来る段階。部分的ですが,それまで訳の分らなかった相手の世界に,ちょっと「共感的」な理解ができ始めます。

 さらにそれまでバラバラに,部分的に共感的な理解ができ始めたいくつかのことがなんとなくつながって見えてきて,それがひとつの「合理的」な生き方として少しずつ説得力も持ってくる段階。

 

 まあ,これは私自身の個人的な体験を整理しただけですので,どこまで他の定型の方にも通用するのかはわかりませんし,さらにはアスぺの方にはどうなのかはもっとわかりません。「自分の経験を手掛かりに,相手の感じ方をなんとなく感じ取れるように思える」といっても,それはあくまで定型の私の感じ方なわけですから,どこまでほんとに通用するのかはアスぺの方に聞くよりありません(今のところは「そんな感じ」と言ってもらえることが割とあったようには思いますが)。

 それから,私の現状は上のようなステップで,アスぺの方の生き方がある種の説得力を持って感じられ始めたところまでに留まっていますけれど,今のところはこれで頭打ちという感覚はなくって,その先もありそうに思います。ちょっとずつ模索し始めている感じです。さてこれからどうなっていくのでしょう。


 

 

2014年11月21日 (金)

一方的な「共感」

 このところ皆さんとのやり取りや掲示板での展開などを見ていて,これまで自分の中でなんとなくもやもやしていたことが何か整理されてきた部分を感じ,それを言葉にしてみています。今日も引き続きそんな私の勝手な思い込みの話です。



 ふと思ったのですが,定型の「相手の喜びは自分の喜び」「相手の悲しみは自分の悲しみ」という,いわゆる共感的なつながり方は,もしかすると定型がアスぺの方と関係を持つときにも結局重要な足掛かりになるんじゃないでしょうか。

 もちろん,定型アスぺ問題は,定型がそういう「共感」を求めても,まったく無関心に対応されたり,むしろ迷惑がられたりなど,繰り返しうまくいかないところから起こるものがたくさんあるし,ある意味定型にとってはそこが一番つらいところでもあるわけですよね。「共感」による「喜びの共有」がほんとにむつかしい。

 そこでまたふとこんなことを思ったんです。「共感って,相手がどう応じるかに関係なく生ずることもあるよな」ということです。たとえば……

 アスぺの方がどこまでどうなのか,ちょっと今分らないのですが,少なくとも私の場合,赤ちゃんが嬉しそうな表情をしたり,声をたてて笑ったりすると,なんで嬉しいのかとか,そんなことは全然考えもしないでただ嬉しくなります。それは他に何もいらなくて,ただそれだけで自分が心地よくなる。

 大人同士でも,親しい人が嬉しそうにしていたら,何が嬉しいのか分らなくても,なんとなくこっちも嬉しくなってしまうことがよくあります。で,そのあとで「どうしたの?なんかいいことあった?」とか原因を聞いて,それを聞いて自分もまた嬉しくなることがある。

 こういうとき,相手の人が自分の喜びを見てさらに喜んでくれたりすれば,お互いの喜びはさらに増していくわけですが,そういうこととは関係なしに,まず最初に相手の嬉しそうな姿を見ただけで嬉しくなるということがあるわけです。


 ただ,見ず知らずの人がまったく理由が分からない状況で,一人で大声で笑い続けているような場面にもしであったとしたら,そういうときは嬉しくなることはまずまれで,むしろ緊張したり,警戒したりするように思います。

 なんで同じ大人でも,親しい人の喜びには理由が分からなくても「共感」してしまい,見ず知らずの人だとそれがないのか。こんな例を考えてみるとわかりやすくなるかもしれません。

 ある,明らかに自分に敵対する人がいたとします。極端な話,自分を苦しめることを喜びとしているような,そんなふうに思える人とか,これも極端ですが映画のシーンで言えば,自分を殺しに来た人間だとか,そんな人です。その人が嬉しそうにしているのを見る。これは共感しにくいですよね。

 なんでかと言えば,たとえばその人が嬉しいことは私の不幸である可能性が高いわけですし,「嬉しそうに自分を痛めつける」とか「喜んで自分を殺しに来た」という理解が成り立つような場面になるわけです。これは共感などしている場合ではなく,寒々とした思いになるか,怒りに震えるかして身を守るしかありません。

 自分が仲間外れにされた状況で,みんなが笑っている時も同じようなことになるでしょう。みんなが自分を無視して笑っていることは,自分がのけものにされたことを意味しているわけですから。

 つまり,安心できるような場合に,そういう「共感」は起こりやすいわけでしょう。なにか危険が待ち受けているかもしれないような状況では,共感などしている余裕はありません。(そう考えると,定型的世界がほんとに理解しにくくて,一体何が起こるかわからず,いつも緊張していなければならないような状態に置かれやすいアスぺの方の場合,「共感などしてられない」ということになっても不思議ではないわけですね。もともと「共感しにくい」ということがあるのかもしれないけれど,それだけではないような気がします)

 というわけで,「安心できる状況では」という限定がもしかするとつくかもしれませんが,何にしても定型は相手が嬉しそうにすればそれで嬉しくなってしまうということがあります。(ああ,でも今思い出しましたが,私のパートナーも,自分のやったことで相手が喜んでくれればうれしくなるということはやっぱりあるんですね。逆に自分がやったことで相手が苦しむと辛そうです。定型の場合とそれが同じことなのか,ちょっと今は何とも私にはわかりませんが,その辺りも微妙に定型アスぺで共通する部分かもしれません。)


 さて,そうだとすると,そういう素朴な自分の姿に立ち戻って,「原因はともあれ,とにかく相手が喜んでくれれば自分は嬉しい」という形で定型的に「共感」の喜びを感じ取ることはもしかして本当はできるんじゃないかと思えたわけです。まあ簡単に言えば「どうやったらしんどい思いをしているパートナーが喜んでくれるんだろうか」ということでしょうし,「もし喜んでくれたら素朴に嬉しいのになあ」ということなんでしょう。とにかくいろいろつらそうなので。


 とはいえ,実際にはそういう共感の喜びも感じにくい状態に定型の側は追い込まれてしまっているかもしれません。ですから,その問題をなんかの形でクリアできなければ,定型の側が定型アスぺ関係で「一方的な共感」に素直に喜びを感じられるようにはならないように思います。それはまたちょっと改めて考えてみたいと思います。
 

 

2014年11月20日 (木)

努力が認められない

 何か解決しなければならない困難を抱えてしまったときに,定型がアスぺの相手の方も含めて一緒に問題を考えようと真剣になっているときに,その「一緒に真剣に」という感じがうまく共有されず,話がむつかしくなってちょっと考え込んでる時に「もう疲れたから」とか言ってすっと去って行かれてしまったり,自分の趣味を始められたりして,定型の側がショックを受ける,というようなことはないでしょうか。私はそういう感じのことがしばしばあって,定型アスぺ問題に気づかないときはもちろん,気づいてからも,なんでちゃんと問題を共有しようとしてくれないのか,と感じて自分の気持ちの処理に困ることが繰り返されました。

 もし自分が彼女の立場であれば,可能な限り一生懸命一緒に問題を考えようとするし,そこで解決が見つからない時も,「むつかしいね。どうしたらいいんだろうね」と言い合ったりします。そういうことの意味は,「今は一緒に考えても答えがまだ見つからないけれど,これからも一緒に考えていこう」という気持ちをお互いに確認することだったりするのでしょう。

 そういう展開が無くて,なんだか「疲れた」とか「明日の仕事があるから」とか,いきなりという感じで自分の都合を一方的に言い渡されて話を断ち切られる,という感じになってしまったり,まるで関係ないことを始められてしまって「そのことは私は興味ないし,関係ないよ」と言い渡されてしまったような思いになったりするわけです。

 これも定型的に見ればいわゆる「共感的な関係を作ってくれない」冷たい態度,という受け止め方をする例になるんでしょうね。

 ただ,彼女がふざけているのかとか,問題をまともに考えようとしてくれないのかとか,そういうふうに考えてみると,それはなんとなくそうじゃなさそうな気がしていたわけです。彼女は彼女なりに頑張って相手をしてくれるんだけど,すぐに疲れてしまったり,我慢が出来なくなって,もう考えられなくなってしまうのではないか。そしてそうなると,もうそれ以上相手の気持ちへの配慮もできず,「お化粧」抜きで,「正直に=露骨に」自分のしんどさを言って終わりにしてしまう,ということなんだろうか,とか考えていたわけです。

 でも,なぜかわかりませんが,もしかしたらそれはちょっと違うのかもしれない,と思いました。そして自分の中の定型的な感覚を使って,定型的な想像力を働かせて,そんなふうに彼女がなるときの「気持ち」をもう少しつっこんで考えてみたわけです。

 もし自分がなにかの困難に突き当たって不安に思い,誰かに助けを求めたり,相談したりしたくなったとします。ところが周囲の人たちは全然自分の言うことを理解してくれません。一応なんらかの対応をしてくれたとしても,どれも的外れな感じで,全然自分の不安を解決してくれない。

 そういう状態が,生まれて以降,ずっと繰り返され続けたとしたら,自分の気持ちは伝わらないのが普通のことで,人に相談してその言葉で自分の不安が収まったりすることはないのが当たり前,という感覚にならないでしょうか。

 それが自分にとっての当たり前,常識になったとすれば,何か問題を抱えた時,不安に思う気持ちに対処できるのは自分だけということになります。そこで人に何かを求めることはほとんど意味がない。具体的な問題について,技術的な解決ができることであれば,それは一緒に考えて解決が見つかることもあるし,そうするけれど,「気持ちの整理」とか,そういうことは各人それぞれの課題で,人は自分に何の助けにもならないし,自分も人に何の助けにもならない。それが当たり前になるかもしれない。

 もしそういう感覚が普通になったとしたら,定型の相手から何か相談を持ち掛けられたとして,それが自分にも関係していれば特に,一緒に問題を考えることはするでしょう。それはあくまで「具体的な対処の仕方」について,技術的に現実的に考えることです。

 けれども定型の側は,そのことはもちろん必要だとしても,それだけではなく,問題に対処するための「気持ちの整理」のようなものに多かれ少なかれこだわります(もちろん人によってそこへのこだわりの強さは様々に個性があるでしょうけれど)。そしてその「気持ちの整理」の中には,人間関係の調節みたいな要素がすごく入ってくる。

 そうすると,アスぺの方からすれば,そこはそもそも相談によってどうにかなる話ではないところになります。そこは自分で解決するしかないのです。

 それでも相手が真剣に相談してくるから,一応は頑張って考えてあげようとはしますが,やはり意味あるやりとりにはならず,訳の分らない問題が繰り返し訴えられて,ほんとに困ってしまって,お手上げ状態になる。頭は空回りするだけだし,ただ疲労がたまっていくだけです。(訳の分らない高等数学の問題を無理やり「解け,解け」と言われ続ける状況をちょっと想像したりします)

 そうやって相手のためにお付き合いはしてみるものの,そのことに大きな意味も感じられず,相手が考え込んでだまってしまったら,なんだかわからないけど,これで一応一段落かと思い,疲れたからもう休むと言ったり,あるいは自分の趣味で自分の気分を立て直したりする。自分はできる限りのお付き合いをしてあげたのだし,それで精いっぱいの誠意は示したわけです

 ところが定型からは自分のその努力が認められないで,「一緒に考えてくれない」とか「冷たい」とか,ひどいときには「ふざけている」とか「馬鹿にしている」と言われる。いったいこの人は何を言っているのかとまた訳が分からず,ショックを受ける。

 もしかすると,そこにはそんな展開があるんじゃないでしょうか。例によって定型パンダの勝手な想像ですが……

 

 

2014年11月19日 (水)

ズレとして見ることの希望

 人は自分が今生きている足場をできるだけ崩したくないわけですよね。その足場をさらに広く確かなものにして,いろんな意味で豊かになりたいとは思うでしょうけれど,逆にたとえその足場で苦しんでいたとしても,それを崩そうとはなかなかしない。もしかすれば,苦しい状態にあるほど,「これ以上苦しくなりたくない」という思いから,その足場に必死でしがみつくこともあるように思います。

 それは人が生きていくうえではなんの不思議もない,普通のことなのでしょう。そしてこのことについては定型だろうがアスぺの方だろうが,基本的には同じだろうと思います。

 人が生きていくときには,どれほど「自立」した人であっても,絶海の孤島で一人自給自足で生きるのでなければ,他の人とかかわりながら生きることは避けられません。ですからそこにはどうしても「共通の足場」が求められることになる。

 でもひとはひとりひとりが個性的で異なっていますから,お互いの足場が完全に同じになってしまうことはあり得ないでしょう。だからお互いの関わりにズレが目立ってくると,ちょっとずつ足場を調整することもするし,そもそも足場が共有されやすい人に親しみを感じたり,求めたりするのだと思います。

 自分が余り関わらなくても済む相手であれば,足場の共有がむつかしいと思えば,適当に距離をとってズレから来るいろんなトラブルをできるだけ避けることはできます。でも親子のようにそう簡単にはかかわりを切れない関係だったり,恋人や夫婦のように自分の人生をかけるような関係に一旦入ってしまった場合,それはとてもむつかしいことになります。

 ある意味興味深いことに,人はどうやら他の人も自分とそんなに極端には違わないだろうと,そういう思い込みをまずは持っているようです。定型に比べると,アスぺの方は「自分は自分」という思いが強く,「みんな一緒」という考え方には強い違和感を抱かれるのだと思いますが,それでもここでのコメントのやりとりなどでもはっきり分かるように,「まさか定型がそういうところで自分たちとは全く違う見方をしていたとは思わなかった」と驚かれることは少なくありません。ということはつまり「そこは同じだろう」と暗黙の裡に思われていたわけですね。ただ定型に比べれば「違い」をより強調する見方をされることが多い,ということに留まり,その意味では五十歩百歩です。

 そんなふうな思い込みを持つことも,自然なことと言えば自然なことで,足場が共有されているだろうと思うからやりとりをしようと思うわけで,逆に言えばやりとりをしようとすれば,どこかで足場が共有されているのだと思わなければならない,そんな仕組みになっているのだと思います。

 定型アスぺ問題は,そういう「共有されている」はずの足場に,思いもしなかったズレが潜んでいることで起こることです。自分の足場が否定されるような,予想もしないことの連続に,お互いに傷つくのです。

 ところで,ある相手の人と,どこまで足場が共有されているのか,どこでそれがずれるのかということを,あらかじめ完全に理解していることは実際にはあり得ません。というか,完全に理解することなど,一生かかってもないでしょう。全知全能の神さまじゃないんですから。だから,ひとがひとに関わるというときには,いつでも常に「きっとここは共有されているだろう」という思い込みや期待,予想という「賭け」の部分がなくなることはないわけです。

 それは「賭け」ですから,あたることも外れることもある。ひとは人生経験を積んであまり大負けしないように,できれば儲けられるように,より安全で上手な賭けをするようになるでしょうけれど,どんな天才ギャンブラーだって,絶対に負けない人はいないのと同じで,その賭けが当たるかどうかは結果が出るまでわかりっこないのです。

 相手を「信じる」というのも,相手に自分の運命を「かける」ということですよね。もし相手のことが完全に分っているのなら,別に「信じる」などということをしなくても,事実に基づいて冷静に判断すればいいことです。それが不可能だから,不確かな部分を含んでそれでも「信じる」ということをするわけです。

 定型は相手に「信じているからね」と言ったりもしますが,その意味ではそれは相手にプレッシャーをかけて安心するための手段の一つになります。そこはアスぺの方に定型的な態度が嫌われやすいところかもしれません。アスぺの方にとっては定型が自分に何を期待しているのかがわかりにくいので,そこを「信じている」と言われたって,何をどうしていいのか戸惑うしかなく,そして「こういうことを望まれているのかな」と思ってやっても,それが定型に受け入れられずに逆に「裏切られた」と言われてしまうことが重なり,「信じる」という言葉ではただわけのわからないプレッシャーだけが残るだろうからです。

 そんな風に「信じる」という態度をどれほど取ろうとするかについても定型アスぺで違いがありそうですが,それでも私のパートナーも,定型的な裏切りに出会って「もう信じられない」と言うことが時々あります。逆に言えば暗黙の裡に「信じていた」わけでしょう。そこでも五十歩百歩と言えそうに思います。
 
 ひとがひとと生きていくうえでは,どうしても足場の共有が必要で,でも足場がどこまで共有されているかは予め完全にわかることは不可能で,だから多かれ少なかれ思い込みや「予想」をするしかなく,その意味でひととのかかわりは常に「賭け」の要素を持っているし,その点で定型アスぺにかなり大きな姿勢の違いはありつつも,大きく見ればその違いは五十歩百歩にとどまり,基本は一緒だろう,ということになります。



 そういう思い込みを持った定型アスぺがたとえばカップルとなり,だんだんとお互いのズレが積み重なっていきます。もちろん定型同士のカップルだって相手を深く知れば知るほど,最初は気づかなかったズレにだんだん気づいていくことになりますが,やはり定型アスぺのカップルが出会うズレはちょっとレベルが違う。なにしろ定型同士なら通用するだろうようなずれの調整の仕方が,ことごとく歯が立たないようなズレに直面するわけです。

 定型アスぺの親子でも同じようなことは言えるでしょう。定型の側は他の定型との関係で身につける調整の仕方を使ってアスぺの方とのずれをなんとかしようとする。仮に赤ん坊のころからアスぺの方に育てられたとしても,アスぺ流の調整の仕方では解決できないものを,定型の子供は生まれながらに持っているのでしょう。アスぺの親との間で満たされない調整の仕方については,定型の子供は他の定型とのやり取りの中で身に着けていくのだろうけれど,それがアスぺの親には通用しないわけです。そして大きくなればなるほど,そのずれの蓄積は重大になっていく。

 どちらにしても,定型アスぺ間では,自分の足場と相手の足場のズレがだんだんとあらわになり,お互いに自分流のやり方でそれを調整しようとするんだけど,定型流の調整の仕方はアスぺの方にはまったく通用しないことが多く,逆にアスぺ流のそれは定型には通用しないことが多い。もうお互いの足場を調整するというレベルでは全く追いつかない事態になっていきます。

 そうすると,それでも関係を何とかしようとすれば,結局自分の足場そのものを崩していくか,相手の足場を崩して従わせようとするか,そういうことしかなくなってしまいます。

 最初にも書きましたが,これは普通のひとの生き方にとっては全く異常な事態です。自分を支えている足場を自分で崩したり,人に崩されたりするわけですから。あらゆる意味で深刻な危機的状態になるのはごく当たり前のことになります。そしてそれは定型もアスぺの方も,どちらにとっても同じことです。

 どうして定型アスぺのカップルや親子で,ほんとうに悲劇的なことが起こりやすいのか(絶対に起こるとは私は言えません。上手にそこを乗り越えている人もきっといるだろうと思います。ただ,そうなりやすいという意味です),どうしてそこまで危機的な状況になってしまいがちなのか,ということについて,とりあえず今の段階では私の理解はそんなことになりそうです。



 ここで私がこだわっていたことの一つは「障がいの有無」というある種の「上下関係」を考えずに,お互いの生き方の「ズレ」という見方から,お互いの努力がかみ合わない状態の悲劇として見てみるということです。定型優位の社会では,世の中の仕組みは定型的な生き方をベースに作られて行きますから,社会的な上下関係としてはどうしてもアスぺの方は「下」に位置づけられがちになりますし,その枠組みの中で「援助」を考えれば,どうしても問題をアスぺの方の「障がい」が原因で定型的に生きられないことの問題という形で理解するよりなくなっていきます。

 この「障がい」の問題として見る見方は,今ある現実の社会の中で,アスぺの方がなんとか生きていき,そして定型が自分の足場を根本から崩さずに生きていくうえではどうしても必要な見方の一つだろうと思います。そういう見方で対処することの現実的な必要性はとても大きいでしょう。

 ただ,その見方だけでやりきれないのが,「家族」という問題になるんじゃないかなという気がするんです。どこかで認知症の方を抱えた家族の問題にもつながりそうに思いますが,ある見方から見れば明らかに「障がい」の問題として処理されるようなことが,家族の一員同士の関係として見れば,どうしてもそれでは収まり切れないものがあるからです。

 認知症の老人を抱えた家族にとって,多分むつかしいのは,そこに生きている認知症の老人は,決して単なる「認知症の老人」なのではなく,何よりもまずそれまで自分と大事な時間を共に生きてきた,ひとりの人間なのです。基本にあるのはあくまで人と人とのかかわりで,「認知症の老人」とのかかわりではない。人と人とのかかわりの思いの上に,新たに「認知症」という問題が加わる形なのです。

 さまざまな葛藤もふくめ,人と人としての深いかかわりを持ち続けてきた相手について,「それは障がいや病気が原因なのだから,そういうかかわりを求めても意味はない」という割り切り方は,そう簡単にできるものではありません。そういう割り切り方は,自分がそれまで大事にしてきた「人と人とのかかわり」を切り捨ててしまうことにもなりうるからです。つまりそれだと単に「他人」になってしまいかねないわけです。

 そのことを避けるために,私は定型もアスぺも,同じ「人」としてその困難な状況をなんとか良くしようと努力してきた,そういう「生き方」の問題を見つめようとしてきました。繰り返しになりますが,定型アスぺ問題はどちらかの「障がい」によって説明されるのではなく,お互いの生き方,その中でなんとかよりよく生きようとする努力の悲劇的なずれによって生み出される問題だと考えてきたのです。

 
 まだまだ入り口に過ぎないと思いますが,それでもようやく私としてはアスぺの方の必死の努力の形をすこし感じ取れ始めたという気がします。そしてその努力がどういうところで定型の努力とずれてしまうのかについても,少し見え始めた感じがしています。

 もちろんその私の見方自体がまた定型的な偏りを持っているでしょうから,果たしてそれがどの程度アスぺの方にとっても納得のいくものになっているのかはわかりません。単に定型的な思い込みの世界という可能性もいつでもあります。実際,私の話はなおパートナーにはわかりにくいと言われますし,単に言葉のやりとりの問題には収まらないことですし,まだまだ隔たりは大きな感じがしています。

 それでも,お互いに苦しみあいながら,お互いに自分の足場からであっても努力しあっている姿を,お互いに感じ,受け入れあうことができれば,そこで変わってくるものもあるように思えます。相手に不必要な「悪意」を感じることは少なくとも減るだろうと思いますし,場合によっては改めて「好意」に気づけるかもしれず,そこから別の新たな信頼への気持ちが生まれる可能性も感じるからです。たぶんそれは隔たりは隔たりとして残しながら,なお人と人としての関わりも失わない道につながるのではないか。そんな「希望」を持って,また少しずつ考えていきたいと思っています。

 
 

 

2014年11月18日 (火)

家族の中の幸せ

 なんだか考えてみればあまりに当たり前にも思えることにふと気が付きました。

 ここでコメントを下さる方の多くは女性の方のようなので,どこまで男性についてそれが言えるのかはちょっと分りませんし,定型アスぺの間でも個人差にはとどまらないニュアンスの違いみたいなものがあるかもしれませんけれど,それでも多かれ少なかれみんなが苦しんでいるのは「家族の中での幸せ」という問題なんだなあ,ということです。

 何をいまさら,馬鹿じゃないの!というあきれた声も上がりそうですし,逆にそういう見方は問題の広がりや大きさを見失っている,という逆のお叱りもありそうな気がしますけれど,とりあえず今の段階での私の素朴な感覚としては,そういう言葉が一番しっくりくる感じがします。

 私のパートナーは家族に重度の障がい者を抱えてずっと苦労してきましたし,そういうこともあって高齢者のケアに関わる仕事が彼女の支えになっています。高齢者をめぐっては単に身体的な問題ではなく,その方の抱えてきた家族問題があらわになってきて,対応をむつかしくするようですが,そんないろんな困難を抱えて「普通の生活」が出来なくなっている人に手を貸して,すこしでも「普通の生活」に近づくようなお手伝いをしたいと思っているようです。

 その彼女にとっての「家族」は,お父さんが高機能の自閉症だったこともあって,「暖かい思いやりの交わされる団欒の家庭」というイメージにはなりません。ただ,必死の思いで日々を生き抜いてきたつながりです。そうやって日々を成り立たせていくことが,本当に大事なことで,その大事なことを一緒にするのが「家族」という特別な存在です。

 ですから,彼女にとっての私は,私が期待するような「愛する夫」という甘いものではなく,「家族」なんです。彼女は彼女なりに私のことをいろいろ考えてくれますが,それは「愛するが故」というような甘いものではなく,「家族」だから当然のことなのです。彼女は彼女なりに子どものことを本当に心配して子育てをしてきましたが,それも「家族」として当然のことなのです。

 その「家族」のイメージは彼女にとって揺るぎのないものだったと思います。私は彼女の子どもとの関わり方について「その接し方は子どもにはよくない」と感じ,「かわいそう」だと思い,何度もそれを伝えようとしてきて,ほとんどまったくと言っていいほどにそれが伝わらずに呆然としたのですが,彼女はその子育てを楽しみ,そこに喜びも感じていたようです。だから,私がそれ以上に何を文句を言ってきているのか,意味が分からなかったのでしょう。

 彼女にとって家族として本当に必要なことはそこで満たされているはずだったのです。そうやって一生懸命やっているのに,私がなぜそこに文句をつけるのか,なぜ自分の努力を認めてくれないのか,そのことには傷つき続けただろうと思います。

 私との関係でも彼女は「家族として」一生懸命に対応してくれた。ただそれは私が求めていたものとはずれがあり,逆に私が長期の出張から帰ってくると一種のパニックのように「拒絶的」な態度になってしまったり,私からすれば精神的に否定されながら,事務的に事をこなしているだけのような印象になってしまいました。

 それで私は不満を語らざるを得なくなる。でもそれは彼女の家族のイメージからすれば,得体のしれない非難です。こんなにも誠実に,こんなにも一生懸命頑張って家族を支えてきているのに,自分はなぜそれを認めてもらえないのだろうか。今思えばそういう意味のことを,彼女は繰り返し語っていました。

 私が子育てで大事だからと彼女に伝えようとしたことは,たとえば子どもの笑顔を大切にすると言った,私にとってはなんのむつかしさも感じないようなことです。子どもが寝る時に子どもにせがまれて布団の中で絵本を読んだりでたらめの「創作物語」を語って聞かせる。我ながらへたくそだなあと思うそんな話でも,子どもはすごく楽しみにしてくれる。そういう至福の時に,冷たく「もう遅いから早く寝なさい」と怒ったように言われる。

 私は訳が分からず,彼女は私と子どもが仲良くしていることに嫉妬しているんだろうか,とさえ考えてみました。でも違うんですね,たぶん。彼女にとってちゃんと規則正しく生活することはとても大事なことなのです。いつまでも話し込んで起きていることは子どもにとって良くないことなのです。その彼女にとって一番大切なことを無視する子育てを彼女がみとめられないのも当然かもしれません。

 正直なところ,自分のことだけでなく,子どものことを考えて離婚をすることも何度も考えました。でもその子どもがひしと母親にしがみつく姿を見ると,それはできませんでした。子どもはやっぱり母親を求めていたんです。だから私はそれを引き離すことはできなかった。

 その結果,子どもの中にたまっていた矛盾が思春期に吹き出してきます。そういう展開になる不安を感じ続けていたために,実際にそうなって私が子どもに対して感じた罪悪感は本当に深いもので,初めて鬱になりましたし,パートナーはなぜそんな展開になったのか訳が分からずに苦しみ続けました。

 こんなにも誠実に子どものために一生懸命にやったつもりが,子どもに本当に苦しみを与えてしまったと感じて,彼女の受けた衝撃はたぶん計り知れないものです。そして私に対しても,まったく意図しない苦しみを与えてきたということで,彼女は打撃を受けています。アスぺ定型のずれを知ることは,私たちの関係を劇的に変えましたけれど,しかし彼女にとって,「じゃあどうすればいいのか」は見えてきません。「結局自分がアスペルガーだからいけないんだ」という思いから逃れられないようです。

 いろんな言葉で,そういうことじゃないんだ,と伝えようとするのですが,彼女の受けたダメージに届くものが私にはまだ見つかりません。

 カサンドラに苦しむ方も,なんでお互いが幸せになるためにこれほどの誠意を尽くして訴えても相手に伝わらないのかという思いを抱え,その苦しみを理解されないことに苦しんでいるというところがあるのではないかと想像しますし,アスぺ父を持つ娘さんが自分の身を痛めつけながら家族の幸福を願い続けたにもかかわらず,むしろどんどん状況が厳しくなっていって,得られたのは今は「苦しみという代償」としか思えないものだったり……

 アスぺ父さんも,多分自分にとっては理解できない周囲からの「迫害」や「拒絶」を,激しく暴力的に攻撃的に跳ね返して身を守ろうとされているのでしょうね。彼なりに大事な娘に「生きる道」を教えながら,それも受け入れられない事態に皮肉な態度で対処するしかない,そんなイメージを抱きます(ここは定型アスぺの感じ方のズレも絡みそうですから,むつかしいところですが)。

 すでに離婚をされた方も,ご自分がお互いの幸せを願ってあれほどの努力を積み重ねたのに,それがほんとうに悲しい結末にならざるを得なかったことに,どうにも気持ちの整理がつきかねる場合もあるのだと思います。何で自分がそんなにも苦しめられなければならなかったのか,そこに納得のいく答えが見つからない。本当に他の道はなかったのかについても割り切れる思いに至らない。

 そんなふうに考えてみると,みんな身近な人,特に「家族」と幸せに生きたいという願いを持って,それゆえに苦しんでいるのかなと思えます。その点ではたぶん定型アスぺのカップル間に大きな違いはない。ただ家族に何を求めているのか,何によってそれが得られるのかについてのイメージや感覚に大きなズレが隠れていて,結果としてお互いの心が傷つけられ,反目が生まれ,さらなる傷つけあいにも発展してしまうのかもしれません。

2014年11月16日 (日)

定型アスぺが共有する「お化粧問題」

 アスぺ父を持つ娘さんのほんとうに厳しい体験を拝見していて,ここで「お化粧」というたとえで考えてみたことの根の深さを感じています。

 アスぺの方は定型社会の人間関係に使われている「お化粧」が理解しにくいし,嘘っぽく見えるし,見よう見まねで仕方なく「お化粧」(仕事モードとか他人モードとかも言ってきましたが)をしても,やりかたがよく分らなくて結局怒られたりして,その「定型的お化粧」にものすごく苦労をされている。

 他方でアスぺ父を持って苦しめられてきた娘さんは,その厳しい状況の中で何とか(私の印象では)真実を求めようと痛々しいまでにもがき続け,そしてその必死な思いはこれもまた世の中的には「正しいお化粧」とされるものからは全く外れた生き方にならざるを得なかったのですよね。

 ふと思うことですが,カサンドラに苦しむ方も,必死にパートナーに求めようとする「真実の思い」が認められず,そのことのつらさを周囲の人からも理解されずにいる状態なのかなという気がしますし,アスぺ父を持つ娘さんも家族への「真実の思い」を必死で貫こうとして苦しみ続けてこられた。そしてたとえば私のパートナーも,やっぱりお化粧の世界では認められない「真実の思い」を私に伝えようとして理解されず,それでも必死で生きているのです。

 そう考えることができるのだとすれば,そうやってアスぺ定型問題の周囲で苦しむ人々は,アスぺ定型の違いを超えて,随分と同じような苦しみを苦しんでいる,という見方もできないでしょうか。

 片や定型的なお化粧の世界に生きられないことに苦しみ,片や自分の持つ定型的なお化粧の世界ではパートナーと生きられないことに苦しみ,悩み続け,もがき続ける。どちらも同じ問題を,ただし「裏と表から」悩んでいると言えないでしょうか。

2014年11月15日 (土)

二つの無限

  今日は今遠方にいる子どもからSkypeがあって母親と話したいということでした。ちょっとホームシックなだけというのですが、これまで本当に大きな葛藤があったので、そんな風に話したい気分になってくれたことがまず嬉しかったです。

  最初は5分ぐらいと言っていたのですが、そのあと結構長いこと話をしていて、パートナーの表情も穏やかで微笑みもみられたのがさらに嬉しかったですね。

  多くの家庭では何のこともないひとこまなのかもしれませんが、私には本当に心に染み入るようなひとこまです。これからもいろいろあるでしょうけれど、それでもこういう時間が成り立つようなところまでは何とか来たんだなあと、そんな感慨があります。

  そう言えば「無限」の話って、数学苦手の私でも面白いと思えるんですが、1、2、3、4、5、…と数を大きくしていけば、どこまでも無限に大きくなりますよね。ところがちょっと注目するところを変えて、1と2の間を見て、その半分の点(1.5)、その半分の点(1.25)、さらに半分(1.125)また半分(1.0625)…… と細かくしていっても切りがありません。1と2の間にも無限が、それも無限種類の無限がある。

  なんだか不思議な感じがして面白く思うんですが、自分の生きている世界もそういうところがあるような気がします。世の中の大きな動きには目が向きやすいかもしれませんが、一人の人と人とのほんの小さなやり取りのなかにも何か無限を感じさせるものがある。

  これまでの自分は大きな無限の方に目が向き勝ちで、目の前の世界の無限をちゃんと感じ取れなかったような気がします。

  そう思うと、老人のケアにか変わる仕事を大事にしているパートナーが、ときどきわたしの感覚に違和感を言っていたことの意味が、何となくわかる感じもしてきました。もしかすると彼女は目の前の無限の世界に目を向け続けてきたのかも。

2014年11月14日 (金)

感情とことば

 前の記事「涙は化粧か」に引き続き……

 定型アスぺのコミュニケーションで起こる葛藤について,ことばと感情のつながり方が違う,ということが大きな原因なんだろう,ということを考えてみています。

 そう考えるとまたわかりやすくなるように思えることに,アスぺの方の発言がときどき定型の気持ちをすーっと冷たくするように感じられてしまう,ということがあります。定型にとっては言葉は「事実」を伝え合うだけの意味ではなくて,それにかかわる様々な感情を伝え合うことに大きな働きがあります。そうやってお互いの感情を言葉という道具で伝え合って,調整しあうことをよくやるわけですよね。

 でもアスぺの方はたぶん言葉はほんとに事実を語り合うためのもので,そこに感情的な要素はあまり入ってこないのではないでしょうか。

 そうすると,定型的な感覚で,気持ちを調整しようとしたり,高めあったり,慰め合ったりするために「熱い」言葉をやり取りしているときに,すっと化粧っ気のない「生の事実」を伝える「冷めた(冷静な)」言葉がアスぺの方から投げ込まれることになります。

 定型の場合は言葉で感情を調整しようとしますから,いろんな意味で言葉にお化粧をすることになります。相手の感情にとって受け入れやすい表現を探すとか,気分を高めたり,鎮めたり,応援したり,そういう「効果」があると感じられる言葉遣いをするでしょう。それが話し方についての「気遣い」ということにもなります。その「気遣い」をあえて否定した言葉遣いをするときは,相手と敵対的な関係になるときです。

 ところがアスぺの方にとっての言葉には,感情的な色合いがとても薄く,ほんとに中性的な「事実」として感じられるものだとすれば,言い方にお化粧を施すことはこれはむつかしいことになります。言い方に気遣いを求められても,何が気遣いになるのか,それを判断する手掛かりがほとんどない状態に置かれてしまうわけです。

 もしそういうことなら,アスぺの方が正直に事実をもとに話をしようとすると,お化粧をしながらなんとか感情状態を調整しようとしている定型にとっては,その「努力」を頭から否定されたことになる場合が出てきます。そして定型もそういうときは多少無理して(頑張って)お化粧していたりもしますから,それを無視されたような言葉に出会って一挙に白けてしまうか,あるいは自分たちの努力を否定するものとして怒りを生むか,そんなことになってしまいやすいでしょう。

 

 このブログでアスぺの皆さんともやりとりしていてときどき感じるのですが,言葉の使い方に場合によって微妙にわかりにくさを感じる時もありますけれど,基本的にはとてもスムーズに自然にやりとりができて,かえっておどろいたりもします。炎上の時に目立つように,そこに強い感情が絡んでくると,ほんとに途方に暮れるような感じにもなりますが,冷静にやりとりが進んでいるときはほんとにスムーズな感じがする。

 そんなふうに定型から見て,普通の会話では全然普通に見えて,違和感を感じることも少なく,そこにズレが隠れているなんて思いもしないんでしょう。だから感情がからんだ会話についての暗黙のルールも共有されていると定型は勝手に思い込んでしまいます。

 ところが時々,その暗黙のルールが堂々と破られてしまう出来事にであって,定型が混乱するわけです。一度や二度ならちょっとした不注意でと見過ごしたとしても,それが何度も繰り返されると,「これはわざとそういう言い方をしているんだろう」と考えてしまうようになる。もしわざとそうするのなら,それは自分(たち)に対して敵対的な気持ちで接してきていることになります。そんな理解しかできなくなるんですね。定型の方は,多分。

 それで,言葉に感情をのせて,お化粧してそれをお互いに調整しあう,という感覚は薄いアスぺの方は,その定型の反応を見て,こちらも訳が分からなくなるわけです。相手が怒っているのは分るけど,理由が分らない。でも,定型の方が圧倒的に多数派ですから,自分のやり方が正しいとは言えず,必死に相手にあわせるよりなかったりする。でもその合わせ方を理解する手掛かりが乏しいので,形だけの「見様見真似」にならざるを得ず,その結果かえって定型の側の怒りに火を点けたりすることにもなる。

 こういう状態になっている時,定型の側も,アスぺの方の側も,お互いに何がずれているのか分っていないわけです。だから何をどうしていいのかもお互いにわからない。そういう状態で自分のやり方でなんとか関係を修復しようとしても,その修復の仕方は相手には通用しない。そして結局そのことでますます関係を悪くすることにしかならなかったり,ほとんど泥沼の状態になっていくこともある。なにしろやってることがずれてるわけですから,自分が期待する効果を持てないわけですよね。

 その結果ははっきりしています。頑張れば頑張るほど,激しく消耗したり,怒りが爆発したり,自信を失ったり……というお定まりのコースが待っていることになるわけでしょう。


 とりあえずそんなふうに考えてみましたが,ただひとつ忘れてはいけないように思うことは,アスぺの方の言葉が単純に「感情がない言葉だ」という話ではないだろうなということです。怒りの言葉とか,悲しみの言葉とか,喜びの言葉とか,そういうものはアスぺの方にも間違いなくあるでしょう。私はそう感じます。

 ただ,そういう感情を伴う言葉がどんなときにどんなふうに使われるのかに,定型アスぺの間のズレがあるのかもしれません。そして少なくとも定型的な感情調整に使われるような言葉の使われ方は,アスぺ語(?)の文法にはあまりないのではないでしょうか。それで定型が感情調整のための言葉を使うときに,感情をさしはさまない「冷静な」とか「冷めた」とかそういう言葉を使われる。……という言い方の方がもう少し実態に近いのかな。

 ああ,もしかするとこんな言い方はできるかも。アスぺの方は基本的にはあまり言葉に化粧をせず,素の状態で表現をされるとすれば,感情に関する言葉もそういう素の表現に近くなる。それに対して定型が感情調整のために言葉を使うときは,たっぷりと化粧をした言葉でやり取りをすることが多く,そこに素顔のアスぺの方の言葉が入ると混乱する。

 どちらも言葉に感情が絡んでいるけど,絡み方がかなり違うということかも。

 まだ整理しきれない感じがありますし,いろいろ考えなければ分りませんが,いずれにせよ定型アスぺのズレを考える時,この感情とことばの関係というのは,相当重要な意味を持っているのではないかと,そういう思いを深めつつあります。

  

2014年11月13日 (木)

涙は化粧か?

 ままさんとお葬式で悲しむのは振りなのか本当なのか,ということのやりとりをしていて,私は悲しい気持ちもほんとうだし,めんどくさいと思う気持ちも本当だし,矛盾している気持をどっちももっているんじゃないか,ということを書きました。

 そしてこのどっちつかずのどっちもありの矛盾した気持ちを抱えながら,状況に合わせて揺れ動く傾向が定型にはとても強いのにたいして,アスぺの方はAかBかにはっきりさせる傾向が強いんじゃないかと考えてみたわけです。その説明はままさんにはわかりやすいところもあったようで,それでこんな体験を書かれています

「 卒業式のときとか、別れの場面で、泣いたことがあります。 けれど、そのあとすぐに、ああ、また雰囲気に呑まれてしまったなと思うし、 実は全然悲しくもなんともなかったことに気付いて、馬鹿馬鹿しいなと思うのです。自分が。 悲しくないのになんとなく流されたんだなと。 泣いておいたほうがいいと思って「装った」のだな、化粧したのだなと。 そういうこともあって、「みんなもそれが装いだと分かってるくせに…」と思ってしまうんですよね…。」

 これを読んですごく面白かったのですが,「泣いた」ということがまずあって,それから「雰囲気にのまれた」と思い,「実は悲しくもなんともなかった」と気づいて,あの泣いたのは「装っただけ」だと理解する。そういう展開があります。

 ちょっと理屈っぽくなりますが,「悲しくもなんともなかった」とか「装っただけ」というのは,あくまで「後からそう理解した」ということですよね。言い換えれば「冷静になって」「客観的に」理解したことでしょう。

 アスぺの方のそういう理解の仕方というは,私の印象ではだいたい「感情を伴わない理解」のように思います。まさに「冷静に」という感じです。そうやって冷静に当時を思い起こしたとすれば,その時はあったかもしれない感情的な体験もすっかりそぎ落とされて,感情が伴わない「泣いた」という行動の部分だけが思い起こされてしまい,そうすると「悲しくもなかった」のだから「装った」ことなのだという理解になっていく。

 もしままさんが後に理解したようにその泣きが本当に感情を伴わないのだとすれば,アスぺの方は泣いたり笑ったりという表現を,感情抜きでできることになります。そうすると,アスぺの方は言ってみればまったく感情のない,ロボットのような存在ということにもなってしまいそうです。

 で,私はそこは到底そうは信じられないのです。やっぱりままさんも他のアスぺの方も悲しくなったから泣くんだろうし,腹が立つから怒るんだろうと思うんです。俳優が涙を流すときだって,あれ,自分の悲しい体験とかを思い出して,涙を出すんですってね。やっぱりそういう感情状態になることが必要なわけです。それはアスぺの方も同じでしょう。

 その証拠にままさんは「雰囲気に呑まれてしまった」とか「流された」と書かれています。雰囲気に呑まれるということはつまりそういう雰囲気に自分自身もなってしまうことですし,それは「悲しい」雰囲気に違いありませんから,そうやって悲しい雰囲気の中で涙が思わず流れたわけでしょう。

 だけど,「冷静になって」考えてみると,ご自分は卒業式などで悲しむような人間ではない,と思われるから,だからあれは「悲しくもなかった」のに「装った」という理解になるし,そしてそうやって冷静に思い出すことには感情が伴わないから,ますます「何も感じなかったのに涙を流した」という理解になる。


 もしかすると,アスぺの方の感情理解には,こういうパターンがすごく多いのかもしれません。もしそうなら,アスぺの方の語る感情についての話は,定型には全く理解が困難になるでしょう。逆に言えば,上のような形で理解してみると,アスぺの方も本当は豊かな感情を持っているという強い印象と,それにもかかわらず,定型的には理解がむつかしい感情についての語り方をされる,ということの理由が,私には矛盾なくかなりわかりやすくなります。

 簡単に言うとこういうことかも。定型は感情を伴ったものとして過去の体験を言葉にして思い出す。でもアスぺの方は感情的な部分は切り離した形で過去の体験を言葉にする傾向がある。だから定型は過去を語るとき,さまざまな感情のやりとりが成り立つけれど,アスぺの方はそこがスパっと抜けた形で「事実」だけがやりとりされる傾向が強い。

 そう考えるといろいろわかりやすくなることがあります。たとえばアスぺの方は「感想文を書けと言われるのが苦手だった」という話を何度か聞きました。「どう思ったか,どう感じたかをそのまま書けばいい」と言われるのだけれど,それがむつかしくて途方に暮れるというのです。

 これも同じことではないでしょうか。感想文は過去の「事実」を書くだけではなく,その時に感じたこと,感動や悲しみや喜びや怒りや,そういう感情の動きを再現することが含まれます。それを言葉を使ってやるわけですよね。それは定型にとっては特にむつかしいことではなく,むしろ言葉を使うというのはそういうことでもありますから,普通にそうなります。ところがアスぺの方にとって言葉がそういう意味を持ちにくいのだとすれば,感想文を書くのが苦手というのは私にはとても分かりやすくなります。

 でも決して感情がないわけではない。ただ,感情は感情のままで,言葉の世界に結びつきにくく,言葉の世界とは別に動く傾向が強いのでしょう。そうだとすれば,定型が言葉で相手を慰めたりする,そういうことがアスぺの人には意味がない,ということも理解できます。言葉はあくまで事実の問題で,感情を伝えたり調整したりするためのものではないし,それによって自分の感情がうまく理解され,整えられるものでもないからです。

 もちろんこれは大雑把な話ですし,アスぺの方にとって感情が全然言葉の世界と結びつかないかと言えば,それはもうちょっといろいろありそうにも思います。いわゆる「スペクトラム」のことを考えても,感情と言葉の結びつきやすさにもそういうスペクトラムのような差が人によってあるとも考えられます。

 それは一応そういうことかもしれないとして,それでも大づかみに言えば,定型アスぺのズレのポイントとしては,言葉に感情が結びつく程度がかなり大きく異なるために,やりとりで何を伝えたいと感じているか,何を読み取れると考えているかに大きな誤解が生じ,お互い「通じない」「理解できない」事態に混乱して,どんどん関係がしんどくなってしまう,とは言えそうです。

 仮にそうだとすれば,言葉では調整しずらい感情の世界を,どんなふうに通じ合わせられるかが(少なくとも定型にとっては)大きな意味を持ちそうです。


 そこでひとつ今思い起こしたことがありました。

 それは自分が感動したものを,自分の大事な人に伝える時の,パートナーを含めた何人かの方のやりかたです。前にも書きましたが,私のパートナーは,人影のない小さな池に一つ咲いた蓮の花を見つけて,そこに私を連れて行ってただ何も言わずに見せてくれました。

 他のアスぺの方のコメントで教えていただいたことでは,そういう伝え方というのは,「自分の感想を押し付けず,相手の感じたままに任せる」という大事な意味があると言います。そしてそれで相手が喜んでくれればそれでいいし,特に感じなければそれはそれでそういうものだ,ということで終わる。
 
 自分にとって大事なものを,「見せてあげたい」という気持ちはアスぺの方にも起こるわけですよね。それは定型語で言えば「共有したい」という思いにもなります。ただ,アスぺの方の場合は同時に「押し付けたくない」という思いも相当に強い。無理に共感を求められることについてはものすごく敏感なのだと思います。それだけそのことに苦労させられ続けてきたからなのかもしれません。

 この問題,まだいろいろ考えるべきことがありそうです。

2014年11月12日 (水)

一緒に苦労する

定型アスペって、色んなすれ違いを産み出して、くろうしつづけますよね。定型同士のカップルももちろん色々抱えるわけだけど、やっぱりずれの大きさが違う分、どうしたって苦労の大きさにも違いが生まれざるを得ません。

そんなふたりが嬉しいことや喜びを共有すると言うことも結構ハードルが高そうです。それなら一層「苦労を共にする」ということにしっかりした足場を作れないだろうかと、そんなことをふと考えてみました。

もっともこの「共にする」という感覚自体、アスペの方には馴染みにくい場合が多いのでしょうから、そこはもしかすると定型の思い込みなのかもしれませんが、仮にそうだとしても、意味はあるかもしれません。

2014年11月10日 (月)

暴力と一途な思い

 再開されたアスぺ父を持つ娘さんの「手記(?)」を読みながら,いろんなことを思いますが,一番に感じることと言われれば,ほとんど迷わず,アスぺ父を持つ娘さんの「一途な思い」という答えになります。

 ある方はそこに描かれていることを「凄絶」という言葉で表現されていました。壮絶という言葉では足りないと感じられたようでした。壮絶な状況の中に生まれ,子どもの常として,必死に親を求め,親に認められることを願い,しかしそれがかなわぬ状況の中でその思いを激しく表現し,結果として自ら凄絶な状況を生み出しつつ自分もさらにそこに巻き込まれていく。

 暴力というのは,私はこれまで単に「相手に恐怖を与えたり破壊しようとする攻撃的な行動」みたいなイメージでとらえることが多かったように思うのですが,それは自分の一番大事な思いを必死で相手に伝えようとすることでもありうるのだ,ということを改めて今は強く感じています。

 そう考えると,ちょっと古いですが,あしたのジョーに描かれたジョーの思いが分かる感じがします。彼の場合,いろんな葛藤を経て,最後は暴力をボクシングという表現にしていったわけですが,その殴り合いの中に,彼は一切のごまかしのない,人と人との「ふれあい」(とあえて書いてみたいですが)を求め,また自分の一途な思いの表現を見出していったのでしょう。

 もしかすると,アスぺ父を持つ娘さんの思いは,どこかで厳しいカサンドラ状態に置かれた人間の気持ちを代表してくれているのかもしれないと思います。「“私いい子だよね?私いい子だよね?”って…ずっとうなされてた……」という言葉なんか,激しいカサンドラ状態にもがきながらそれでも必死に前を向きたい人間の,ぎりぎりの思いのようにも感じられます。

 もちろん暴力には恐怖心に基づく破壊的な攻撃のそれもあると思いますし,相手に恐怖心を植え付けて支配するためのそれもあると思いますが,ほんとうにぎりぎりの所で,自分の思いを伝えたいとか,理解してもらいたいと言った,そういうことの表現である場合もある,と感じます。もしかするとその思いに,私は救われる気持ちがあるのかもしれません。

2014年11月 9日 (日)

アスぺ的共感?

 相変わらず私の行動はパートナーの感覚からずれることが多いようで,しばしば「問題点」を指摘されるんですが(それでもだいぶ我慢してくれている部分があるようです),今朝もそういうことを言われて,ふと「いやあ,ほんとにたいへんだよね」(だったか,あ,言葉を忘れてしまった (^ ^;)ゞ)とか言ったら,しみじみと,という感じで「ほんとだよ」と言われました。

 で,ふと気が付いたら,これって一種の「共感」とは言えないでしょうか。もちろんちょっとこんがらがっていて,彼女がこの私について困っていることについて,私が彼女に「共感的」な言葉を言って,それについて彼女がわしのその「共感」に「共感」したというわけですから。

 なんかそういうことが成り立つ条件をもうちょっと考えないとむつかしい感じがしますが,ちょっと気になるひとつの手がかりです。

2014年11月 7日 (金)

定型の世界=お化粧の世界?

 最初はほんとうにただただ訳の分らなかったアスぺの方の「生き方」について,いろいろな体験を皆さんから教えていただいたり,やりとりをさせていただく中で,私としてはたとえそれが一部の方に留まるかもしれないとしても,ようやく今は多少なりとも「かみ合った議論」もできはじめた感じがしています。

 そうやって少しでもかみ合う話ができるようになるには,私の場合は本当に自分の足元を掘り返し,場合によって崩すような作業が欠かせませんでした。自分が自分のこれまでの人生で積み重ねてきた「常識」を,あるいは「常識」ということさえ気づかずに持っていた感覚を,ひとつひとつ見直していかなければ,アスぺの方との「共通の足場」のとば口を見つけることは私にはむつかしかったです。

 もちろん,人は「常識」を持っているから安心して生きられる,というところがあって,その常識を仮にでも崩してみるわけですから,それは痛みも伴いますし,場合によって危険でもあります。特に定型アスぺ問題に今絶望的な苦しみを感じているさなかにあったりする場合には,とてもではないけれど,そんな余裕は出てこないでしょうし,逆効果にしかならないかもしれません。まずは傷つきすぎた自分をケアすることの方が大事になることもあるでしょう。

 あくまでも,そういう「もっとも辛い状況」はなんとか過ぎて,お互いに多少なりとも前向きになれてからのことですけれども,改めて自分の足元を見直してみるような作業というのは,ほんとにいろいろなことを新しく教えてくれるものだなあと感じます。

 たとえばアスぺの方が定型的なやりとりの仕方の,どういうところにおかしさを感じたり,わけのわからなさを感じるか,といったことを教えていただいて,「なんでそんなふうに感じられるのだろうか」ということを私なりに想像していくと,今までは気づくことのなかった「定型社会の秘密」のようなものがよく見えて来る感じがして,かなり刺激的でもあります。

 そうすると,今気が付いたことですが,そこで私が新たに見えてきたと感じることをストレートにここで書くことには,ちょっとためらいが出てきたりするんですね。なぜかって,それは定型的に言えば,すごく「皮肉な見方」にも感じられそうだからです。「なんでそんなひねくれた見方をするの?」とか「なんていう冷たい見方をするわけ?」とか,そんなふうに受け取られてもおかしくないような気もするからです。

 って,つまり,アスぺの方が定型から非難されるパターンの一つですよね?少なくとも,私がパートナーに対して今まで感じ続けてきたことはそういった「皮肉な見方」に対する反発心でした。うーん,なるほど。もしかすると,アスぺの方の発言がしばしば定型の怒りを引き起こすのは,そういう仕組みなのかもしれません。

 たぶん,アスぺの方が見ている定型の社会というのは,かなりえぐいものなんでしょう。パートナーの語る定型的人間関係って,かなりそんな印象を受けます。

 ふと,こんなたとえを思いつきました。定型の社会って,お化粧を大事にするんじゃないでしょうか。お化粧って,実は「嘘の自分」を作ることともいえなくはないですよね。お化粧でつくられる自分は素の自分ではなくて,「こういう自分を人に見せたい」という自分になります。それで,お互いにそれは「化粧」であって,「素のその人」ではないことを知っているんだけど,でもその化粧が「似合っている」こととか,その人を「素敵に見せる」ことについて,お互いに褒め合ったりするわけです。

 お化粧してお互いに褒め合っているところに,だれかがやってきて,「これ,あんたの起き抜けの素の顔の写真だよ。あんたほんとはこんな顔でしょうが」とか言ってきたとしたら,多分言われた方はスーッと冷たいものを感じて,「あんた,何のつもり?」とか怒り出しそうです。あるいは「それを言っちゃあおしまいよ」的な (笑)

 でも素の顔の写真を見せた方からいえば,本当のことを言ってるだけだし,そのことを隠して「お互いに褒め合って」いる姿が白々しく見えて,そのことを指摘しているだけなのに,なんで怒られなきゃいけないんだろう,と不思議に思うんじゃないでしょうか。

 多分,この「お化粧の世界」というのは,定型には無くてはならないものなんだと思います。お化粧をするというのは,自分をよく見せようとすることでもあるし,同時に相手に対する気遣いでもある。また相手のそういう「努力」を褒めることもまた,気遣いの一種なのでしょう。その気遣いを否定されてしまっては,白けるか,あるいは傷つけられた思いに腹が立つかになってしまいます。

 そうすると,その「お化粧の世界」を否定する相手とは,だいたいの定型はやっぱりお近づきになりたくなくなるかもしれません。そしてだんだんと無視したり,のけ者にしたり,場合によってはいじめの対象にもしてしまう。

 うーん,なんかアスぺの方の発言がしばしば定型の地雷を踏む理由の一つが,なんとなくわかったような気にもなりましたが,さて果たしでどうなんでしょうね。

2014年11月 6日 (木)

和か真実か

 ままさんからこんな問いかけを戴きました。

「 暗黙のメッセージについては  自分もよくいろんな人から指摘されますが…  なんというか  不快に思おうが、喧嘩になろうが、和を乱そうが、  “それが事実である以上隠し通そうとするのは不当だ!”  という思いが強いので、言うのですよね…自分の場合ですが。  ほんとうに、  喧嘩になるから隠す、という意味が、分からないです。 (いや、喧嘩をとにかく避けたいという気持ちが大きくある場合は、自分は避けますが…つまり、たいして親しくない相手なら、避けます。少々どうでもいいし…)  思えばそういうことでよくトラブルになってました…。  いまだに分かりません。  暗黙のメッセージが読み取れない、というよりも、  大事なのは和を乱すか乱さないかではなく、真実を隠すか隠さないかだ、  と思うんですよね…。  というのは、定型でも普通にあることなのでしょうか、  アスペの人はこういう思考をするわけではないのかな?」

 最近はずいぶん「丸く」なりましたけど(ほんとかしら?(笑)),私自身は定型の中ではままさんに近いものを持っているように思います。つまり,「ここはごまかすべきではない」と思った場合には,喧嘩になろうが和を乱そうが,一種の義務感を持ってとがって発言する,ということがしばしばあったという意味です。

 これは持って生まれたものなのか,親からの生まれてからの影響なのか,というと,まあ前者もあるでしょうけれど,親の子育ての仕方の影響が強いように思います。なにしろ激しかったり偏屈だったりする親でしたから。

 その意味ではままさんのその感覚は,ある程度わかるところもあるように思います。

 違いがあるとすれば,ひとつには「喧嘩になるから隠す,という意味が,分からない」と書かれているところでしょうか。ままさんがどういう意味でこれを書かれたか,ちょっと理解しきれていない感じもあるのですが,私の場合は「そんなのなれ合いじゃないか」ということで,反発を感じることはありましたが,「意味が分からない」という感覚ではありませんでした。

 それから,これは興味深く思えたのですが,「たいして親しくない相手なら,(喧嘩を)避けます」と書かれているのは,かなり重要なことかもしれません。つまり「親しい相手なら避けない」ということも言われていると思うわけですけれど,とくに日本的な人間関係の場合,逆に親しい人間関係なら喧嘩をしないことが望ましい,と考えられる傾向が強そうに思えるからです。

 「日本的な」と断ったのは,私の経験からすると,海外の人の場合,親しい人ならそういう遠慮をしなくなる,という場合もしばしばあるように思えたからです。むしろ親しいからこそ,すごく激しく喧嘩をしたりということもあるような気がします。その感覚はもしかするとままさんの書かれていることと通じる部分があるのかもしれません。

 そんなふうに考えてみると,ままさんの書かれていることは,なんとなくアスぺ的な特徴もあると感じる一方で,状況次第では定型でもありうることかなという気もします。

 ですから,ままさんのような姿勢というか,考え方というか,生き方というか,それは状況次第では定型も同じようにそうする可能性があるけれど,それがどんな場合に発揮されるか,というところで,もしかすると違いがあるかもしれない,というふうにも思いました。まだよくわからないのですが。

 もうすこし,状況などを具体的に見ていかないと共通点やズレが見えてきにくいかもしれませんね。なんとなく違いはありそうには感じますけれど。

2014年11月 5日 (水)

申し訳ないケドうれしい

 子どものことでちょっと「ああ,よかったなあ」と思えることがあって,そうするとついついパートナーにそのことを喜んで話したくなるんですが,やっぱりぶすっとした顔でそっけなく「ああ,そう」というだけでおしまいになります。

 彼女にすると,子どもについてはほんとにつらい思いを抱えていて,安易に(?)「喜ぶ」とか,そういうことにブレーキがかかってしまうのかもしれません。そうすると,子どものよかったことについて伝えても,「だからなんだっていうの?」とか「それで私にどういう感想を言ってほしいわけ?」という気持ちになるのかもしれません。それはある種の「困惑」なのかもしれないし,あるいはそれ以前に,そんな状態になるのを避けて,「考えない」「感じない」ようにしているのかもしれない……などと想像してみます。

 実際の彼女の気持ちはわかりませんけれど,少なくともその応答の仕方とかを比べると,なんか,感じ方とか受け止め方とかに,やっぱり大きな違いを感じます。

 私の場合,やっぱり子どもには苦労をかけたという気持ちはすごくあって,自分がうつ状態になった一番のきっかけはそのことにあったわけですけれど,「それでも」というか,「それだからこそ」というか,子どもがその苦労の中でもひとつひとつ自分の道を切り開いていっている姿を見て「ああ,よかった!」と嬉しくなるんですね。

 それは別に,自分が子どもに苦労をかけた,ということへの申し訳なさを忘れてしまうことでもないし,ごまかすことでもない(つもり)です。でもそれはそれとして,というかそれだからこそというか,「よかったな」という思いもまたひとしおなんでしょうね。

 そのあたりの感覚に,なんかすごい違いがあるのかなという気がします。

 なんというのか,もしかすると定型は人間関係でマイナスのことがあっても,そのことをプラスにつなげるようなとか,あるいはプラスとマイナスを合わせて人間関係を積み重ねていこうとするというか,そんな「しぶとい」というのか「ずぶとい」というのか「たくましい」というのか「ずうずうしい」というのか……,とにかくそんな生き方を結構するのかもしれません。

 それに対して,少なくとも彼女の場合はなにかマイナスのことがあると,それはもうただマイナスとして抱え込むしかなくなる,そんな感覚がもしかするとあるのでしょうか。

 もしそうだとすれば,人間関係について「修復する」ということがほんとにむつかしくなりますよね。人間関係なんて,失敗がないことはあり得ないですから,大事なのは「失敗しない」という不可能を追及することより,むしろ「修復する」ことだとも言えなくもないでしょう。

 そしてもしそうだとすれば,年月が経つほどに自分の世界に閉じこもっていくよりなくなったり,どんどん人間関係がちいさくなったとしても,それは無理もないという気もします。人との関係で自分が傷ついたり,人を傷つけたりすることに苦しい思いをして,しかもそれをどう修復していいのかも見えない状態に置かれてしまったときには,ただ自分の世界にこもることでそれ以上の傷を避けようとしたとしても,ある意味当然かも,と思うわけです。

 ま,例によって勝手な私の思い込みの想像なので,「ほんとにそうなのかな?」という保留付きですけど (^ ^;)ゞ

 

2014年11月 2日 (日)

議論ができる

 今日はうちの定型アスぺ問題がちょっと新たなステップを踏んだかなという気持ちになることがありました。というのは「なんかまともな議論ができてきた」という感覚を持ったからです。

 これまでは,私が何かを言うと,(私から見て)びっくりするような変な理屈で否定されたり,「ケチをつけられ」たり,ということが多くて,それで私がむっとして(私から見て)理屈の通った反論をすると,また(私から見て)訳の分らない反論が来て……という展開がちょっとあって,それで私の方で「こんなのまともな議論にならないじゃん」とか思うし,彼女の方は何で自分の言うことが理解されずに,こんなに批判されるのかとすごい被害者意識になって,お互い嫌になって終わり,という展開が多かったわけです。

 その後,定型アスぺ問題に気が付いてからは,私の方は(私から見て)変な反論が来ても,「ああ,またなんか言葉の意味が違ったり,本当に言いたいこととは表現がずれたりしてるのかも」と思ってあまりそれに反論せずに話を聞くように心がけるし(それでもやっぱりむかっとしてつい反論してしまうこともたびたびでしたが (^ ^;)ゞ),彼女は彼女で「私はあなたの言うことを否定したいんじゃないんだけど」と説明しようとしたり,言い方を工夫しようとしたりということがありました。

 それで,今日は前に書いたミーハーの関連の話になって,また「否定された」&「理解されない」みたいな感じにもなりかかったんですが,それでもお互いすぐに引っ込んでしまわずに,結構やりとりになったんですね。それで,そうしているうちに,突然,彼女の話が私の意表を突くポイントを問題にしていることに気づいて,それが私にはすごく説得力を持ってしまったんです。

 なんかその一言で,私が今まで気づかなかったいろんなことがスーッと見えて来る感じがあって,「あー,そっか!」とか何度も言いました。彼女の方は「定型の人間はそんなことも分らないのか!」みたいにちょっと笑うような感じでしたが,実際比較的盲点になりやすいところかもしれません (^ ^;)ゞ

 まあ,今後どうかはまだわかりませんが,もしかするとようやく「ちゃんと議論ができる」という関係ができ始めたのかも。これからそれがどうなっていくか,ちょっと楽しみでもあります。

2014年11月 1日 (土)

自分を抱えて生きること

 なんともう11月になりました。    

 
 「アスぺ父を持つ娘」さんの掲示板ですけれど,
 ある方にご紹介したら,すごくつらくて一気には読み進められなかった
 ということでした。
 たしかにほんとにシビアな世界を描かれていますから
 そう思われるのも無理はないと思います。

 他方でそういう感想を教えていただいて,
 あ,自分はまた全然違う受け止め方なんだなあとも思いました。
 というのは,私の場合,かなり共感的に読んじゃっていたからです。
 もちろん具体的な体験の中身は全然違いますし,
 世代も性別も,いろんな意味でまったくちがうんだけど,
 なんか伝わってきてしまうものがあるんですね。
 「うん,そうだよな。つらいよな。頑張ってきたよな……」と,
 自然に気持ちが寄り添ってしまう感じになります。

 まあ,私もカウンセラーの知り合いから「サバイバーだ」と言われるような
 子供時代を過ごしてきたみたいなんで,
 なんかそういうところで通じるものがあるのかもしれません。

 改めてその人その人が体験してきた人生の歴史の違いが
 いろんなことについての受け止め方の違いを生むんだなと思います。

 世界の感じ方が基本的なところでかなり違う面を持っている
 定型アスぺの間で,そういう違いが極端になったとしても,
 それは当然なんでしょうね。定型同士だって全然違うわけですし。


 最近たまたまちょっと小学校の低学年の子と何人か
 会う機会があったんですけれど,
 少し親しくなってくると,すごい「気持ちの傷」を見せてこられて,
 ビックリしています。
 こんな小さなうちから,こんなに痛みを抱えながら生きてるのかとか。
 定型の子ですけどね。

 子どもなんて,自分の生きる場を選べませんから,
 もうその中で生き抜くしかないわけですし。
 でも大人も多かれ少なかれ,そういうことなんだろうなと,
 そんなことも改めて感じます。


 どんなにあがいてみたところで,私は私の人生を生きるしかないし,
 パートナーも彼女の人生を生きるしかないし,
 そうやって「自分」というものを抱え込んだ人間が二人,
 同じ屋根の下で暮らしている,というもの,
 結構すごいことなのかもなあと,なんとなく思ったりします。
 
 

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