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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年10月 3日 (金)

定型的共感はアスぺ的世界に届く?

 記事「「嘘」をつき続けられたら」に あおいよる。さんから頂いたコメント に,こう書かれていました。

>おっしゃられているそのとおり、だと感じました、昔と今のわたくしがそれです。


 私が想像したことが少なくともあおいよる。さんには的外れではなかったということで,ああ,よかったと嬉しかったですし,また相互理解や「翻訳」の可能性について,一歩前に進めたような気持です。

 特に今回感じていることは,私としてはあくまで私の持っている「定型的な想像力」で「共感的」に理解をしてみたことが,ある程度アスぺの方の状況を理解し,共有するうえで役に立ちそうだということです。

 私の言う「定型的な想像力」とか「共感」というのは,素朴に言えば「相手の身になってみる」ということです。「もし自分が同じような状況に置かれたら,きっと同じような感じになるだろうなあ」という思いになることです。

 ただ,同じことに対しても定型とアスぺの方とでは感じ取り方がまったく反対になったりしますから,今の自分をストレートに相手の状況においてみたとしても,「わけわかんない」ということになることが多いでしょう。たとえば,病気などで辛いとき,食事の世話など最低限のことを除いて接触を控え,スキンシップをしてあげたり話し相手になってあげたり,励ましたりはせず,あとは完全に一人にしておく,というのは,定型の場合はそれをされると寂しく感じることが多いでしょう。定型はもうすこし相手からの気持ちのケアを含んだ接触を望む傾向が強いからです。「病気は気から」といったような言い方からもそれに関係するのでしょう。

 ですから,そういう定型的な「常識」を疑わずに前提にして,それで「相手の立場に立つ」ことをいくらやってみても,決してアスぺの方の気持ちを理解することはできないはずです。全然逆になってしまいます。

 でも,少し努力すれば,定型の想像力はもう少し先に進む力を持っているように思います。たとえば定型でも,あまりにいろいろな問題が起こりすぎて,頭が混乱し,もうこれ以上いろいろ考えられないし,これ以上人の言うことも聞きたくない,一人にしてほっておいてほしい,という気持ちになることはあるはずです。自分が病気になった時は人に助けてほしいと感じることの方が多いでしょうから,普通はその場合には当てはまらないんだけど,「仮に病気の時に,そんな<ほっておいてほしい>という気持ちになったらどうだろう」という「想像」をすることは,少し努力すればだんだんにできるようになると思います。

 そんなふうにAのときに定型はXの気持ちになる,でもアスぺの方はYの気持ちになる。けれども定型がBのときにはYの気持ちになる。ということに気が付いたときに,アスぺの方にとってのAというのは,自分にとってのBのようなものなんじゃないか,と想像してみることで,それがうまくいけば定型にも「ああ,それなら無理もないかも」という,感情面も含めた理解,共感の可能性が生まれるんだと思うんです。

 「人にひどく裏切られ続けたら,私だって人を頭から信用できなくなるだろう」ということは定型には想像可能でしょう。もしそうなら,「信ずること」をベースに相手との関係を考えることはしなくなるはずです。また白崎さんが書かれていたように,「信じる」という感覚自体がアスぺの方にはわかりにくいのかもしれず,その場合も「信ずること」抜きに,相手のことを理解したり,その行動を予測したりして関係をつくろうとするでしょう。それもある程度想像可能な範囲に入ってきそうです。

 そんな風に,定型的な想像力はある程度はアスぺの方の感じていることに共感的に届くことがあるのだということを,今回のあおいよる。さんのコメントからも感じました。そして白崎さんも


>「共感を通してわかろうとする」というのは、アスペルガー症候群の人でも、同じことだと思います。


 と述べられていて,ご自分の体験として,


当事者の集いで、私は自然に周りの当事者の話に共感して親しみを抱く自分に気付きました


 ということを紹介してくださっています。にもかかわらず,定型との間では「共感ができない人たちだ」と評価される理由は


多くのアスペルガー症候群当事者にとって、周りにいる人は定型発達の人がほとんどですから、周りの人たちに共感できるケースが少なく、別の方法で理解しようとする癖が強くなっている人のほうが多いのではないかと思います。

 ということにあるだろうと考えられているわけです。もしこのことが他の多くのアスぺの方にも共通していえることなのだとすれば,何かの工夫によって今一般的に考えられているよりももう少し「共感」という「定型的」と言われてきたやりかたについても,なにか共有できる部分が増えて来るんじゃないでしょうか。

 もちろん「共感」がアスぺの方には負担であるだけならあまりそこを追及することに積極的な意味はないのでしょうが,白崎さんは「共感して親しみを抱く」と書かれていますし,またあおいよる。さんはこんな印象的な表現をされています。


> 改めて、文字として書き起こされたものを拝読することで自分自身の再認識になりました。


> この記事に、自分の脳の一部分がひと息つけた感覚になれました。


 定型の場合,自分で気づかない自分の感情について,あるいは気持ちについて,人から指摘されて「ああ,そうだったのか」と納得して思うことがあります。あおいよる。さんにとっても,幸いに私の記事がそういう同じような働きを少ししたのでしょう。そして「脳の一部分がひと息つけた」と書かれています。

 これって,定型語で書けば「共感されてほっとできた」とか「苦しみが和らいだ」とか,そんなことになりそうです。アスぺ父を持つ娘さんがやはり記事に対して誰かに共感されることがこんなにも勇気づけられることなんですね。」と述べられていて,そういう「共感」がもたらす「人をほっとさせたり,支えたりする力」もある程度は共通していそうです。

 もしそうだとすれば,お互いの違いを理解するという作業は,単に「違った相手に合わせて機械的に対応の仕方を考える」ということにとどまらず,なにか気持ちの上でもつながりを作っていく可能性を持っていることにはならないでしょうか。

 アスぺの父を持つ娘さんの最新の投稿
 
  • 2014/10/03 (Fri) 00:06:23)
  • は,アスぺの方も何か強力に相手に対して感情的に求めるものがある,ということの一つの例ではないかと感じます。

     ただ,このあたりについてはアスぺの方にもいろいろなタイプがあるでしょうし,その辺りはちょっと丁寧に考える必要もあるかもしれませんけれど。

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    コメント

    複数の記事にコメントをつけてしまってすみません。

    「共感」についてですが、アスペルガー症候群の人が「共感」を負担に感じるとすれば、それは「定型発達者にしか理解できない感覚など、共感できない物事への共感を強いられること」を負担に感じている可能性があると思います。共感のしようのないものには、どう頑張っても共感できませんから……。

    アスペルガー症候群当事者の集いを主催していて思いますが、集う当事者は皆、何かしら共感したい、してもらいたいという気持ちがあるようで、話し合っていても頻繁に「その気持ちわかる!」「そういうのよくある!」と共感を示す言葉がちょくちょく飛び出してきます。中には「簡単にわかるとか言うな!」と怒り出す人が出てきたこともありましたので、共感を示すことが毎回良いことばかりに繋がるわけではないのですが、それは定型発達の人でも同じなのではないかなと思います。

    余談ですが、
    > 定型の場合,自分で気づかない自分の感情について,あるいは気持ちについて,人から指摘されて「ああ,そうだったのか」と納得して思うことがあります。
    私も自分でblogを書いていて、自分がこういう思いをしたこともあれば、私の書いたものが他の方(やはりアスペルガー症候群当事者さん)にとってそういう働きをしたこともありますので、定型発達の方に限った話ではないと思います。

    白崎やよいさん

     白崎さんの書かれていることを拝見していると,
     アスぺ定型の違いは当然あるとしても,それ以上に
     共通する部分を感じさせていただくように思います。

     なんとなく,そうなんじゃないかなと私が思っていたことが
     「ああ,やっぱりそうだったんだなあ」と思えるというか。

     共通するところとずれるところと,どちらも大事ですし
     さらによく見ていければと思います。

    お久しぶりにコメントさせていただきます。
    鮭です。

    嘘を突きつけられたら
    の記事を読んで、パンダさんの推測はほぼ当たっていてすごいなと思ってました。
    それと同時にパンダさんがされている推測を
    ASの立場から感情のやりとりができる定型の感覚は
    どの様になるのかをずっと考えてましたが、
    なかなか適切な考えが浮かびませんでした。


    これって,定型語で書けば「共感されてほっとできた」とか「苦しみが和らいだ」とか,そんなことになりそうです。

    って所になんか少し手掛かりがある気がしてきました。
    このパンダさんがASについて理解していただいた際に
    私が感じた「分かってくれた!」という感覚が
    程度は違うかもしれませんが
    病気での辛いときの、必要な「共感」は
    その人の病気の苦しみを分かってくれたということが
    安心感というか癒しになり、
    定型の人はその共感(癒し)がもらえるのは日常なので、
    定型の近い人がASの人だとその共感(癒し)がもらえなくて辛いということですかね??

    「定型の人は共感が必要」とだけは頭で知っているという状態でしたが、
    上記のような状態であれば
    なんか定型の方のおっしゃる「共感」の理解の段階が
    私の中で少し進んだ気がするのですが、合っていますかね??

    鮭さん

     こんにちは。
     嬉しいコメントありがとうございます。
     
    >私が感じた「分かってくれた!」という感覚が程度は違うかもしれませんが病気での辛いときの、必要な「共感」はその人の病気の苦しみを分かってくれたということが安心感というか癒しになり、

     たぶんそうなんだと思います。もしその「分ってくれた!」という感覚が
     「ほっとした気持ち」とか「よかったという気持ち」とか,
     「相手への感謝や好意」に結びつくようなものであれば,
     定型の「共感されて救われた気持ち」に近いように思います。

     定型ってそういうふうになることを求める気持ちが強いんだと思います。
     だからカウンセリングで「共感」とかが重視されるんでしょうね。
     それ自体が一種のお薬になるんじゃないでしょうか。

    拙コメントを引用くださり、なおかつ新しいも起こしてくださり
    有難うございました。

    パンダさんがパンダさんの認知で(言葉で)
    『アスペの人との共感』についてたくさん感じられたことは良いことなのだろうと感じています。
    (こちらには時折しか立ち寄らないために(すみません)、コメントでの、パンダさんはじめとしたみなさんのやり取りを『文字情報』として十分には脳内にいれてない状態ですので…憶測の域を出ませんことお許しください。)


    > もしそうだとすれば,お互いの違いを理解するという作業は,単に「違った相手に合わせて機械的に対応の仕方を考える」ということにとどまらず,なにか気持ちの上でもつながりを作っていく可能性を持っていることにはならないでしょうか。

    あるとわたくしは感じます、
    そしてそれは
    『その人と自分との、互いのインプットとアウトプットの擦り合わせ』のような、非常に個々人の、個別性の高いもののようにも感じます。
    (他の方々もコメントで述べておられたように読み取っています。)
    それ以上に
    いわゆる定型の方々が「ASDに共感してみよう」「ASDの感じ方と擦り合わせてみよう」「ASDの世界を認知を理解してみよう」といったような
    『他者への関心、探究心』を以って接した結果
    何かしらを得たならば
    それが定型側の共感になりそうなイメージも抱いています。
    『好きなら相手も自分を好き』『嫌いなら相手も自分を嫌い』、こういう相互的な認知が定型側で起こってもいそうです。

    あおいよる。さん

     こちらこそ刺激的なコメントをどうもありがとうございます。
     少しずつ定型アスぺ的な一種独特の「共感的関係」が見えつつあるような気がして
     これからが楽しみでもありますね。

    > 『好きなら相手も自分を好き』『嫌いなら相手も自分を嫌い』、こういう相互的な認知が定型側で起こってもいそうです。

     とお書き下さったところ,よろしければもう少し説明して頂けますでしょうか。
     

    パンダさん、おはようございます。

    まずは……
    >刺激的な
    (そして別記事での、わたくしのコメントから『(あおいよる。さんは)強調されている』とも、)
    これらの部分を拝読して
    …ああ、パンダさんはそう受け止められた(そうお感じになった)んだな、と感じています。
    もしいずれも(、と、こちらで二記事のコメント内容に関することをまとめて述べてしまいます、申し訳ありません、)
    パンダさんにとって拙コメント類が
    非常に衝撃が強かったり、嫌な感覚になったり、『それは書き過ぎでしょう、ちょっとここのブログの空気読んでよ』のようなブログ管理主として眉ひそめモノであったなら……本当に申し訳ありませんでした。
    今回はお尋ねがありましたので再び出てまいりました。
    (自分にとっては何の変哲もない言葉たちではあるのです、
    何の他意も情動も乗っけてはいないのです、が
    よく叱られますし『つもりはなかった』は禁句ですし
    相手への伝わり方は(ここは文字情報の世界ではありますが、それでも。)気をつけるべきことだと自戒の日々でもあったりするのです。)

    お尋ねの、
    >> 『好きなら相手も自分を好き』『嫌いなら相手も自分を嫌い』、こういう相互的な認知が定型側で起こってもいそうです。

    この意味(書いたわたくしめの解釈)の詳細ですが
    わたくしがよく耳にする言い回し、そして聞いたことのある歌で
    『好かれたいならまず相手を好きにならなきゃ』だとか『嫌いな人からは嫌われてるよ』『こころよく思ってないことは相手にも伝わってるよ』のような台詞を聞くものですから
    前回のコメントはそれを短く記した、というのがまずあります。(コメント歴の浅い者が長々記すのはよくないという認識があったりします。)

    それが何度も耳から入ってきていたので
    『みんなはたいていそういうモノなんだな、通常は「自分の好嫌のような相手への感覚って、面と向かって言わなくても伝わってしまう」んだ』と学習(認識)しました。
    少なくとも自分以外の人たち同士ではそういうことが起こりうるんだな、と。
    (しかし自分の場合は悉く外れました、相手にストレートに確認できた訳ではないのでおそらくの域を出ませんが、相手側の「あの子のさー、私は好き!っていう目線とか仕草とか、毎回毎回出してくるけどさー、わたしらは鬱陶しいだけなんだけど、なんでわからないかなー、もう面と向かって言っちゃう?」っていうレベルにまで達してしまうケースでしか経験はつめませんでした、…←コレはさすがに長くなるのでこれ以上は述べませんが…)

    そういったことから
    いわゆるこのブログでおっしゃられているところの定型が抱くだろうアスペへの共感、は
    そういう部分も(成分も)あるのかもしれないのではないかな、と感じたのです。(まどろっこしい表現ですが…。)
    パンダさんが、アスペ側どうか?も大切にされたいだろうことももちろん伝わってきています、
    その前に定型側が『アスペさんに共感できた』と感じられる要素として
    アスペさんの何らかの仕草や反応がきっかけになることもありうるんじゃないかな、と感じたのでした。
    それがアスペにも『タイムラグなしに即実感』できれば
    いわゆる定型にとっての『互いの共感』なのかもしれません、とも感じます。

    あおいよる。さん

     さっそくお答えいただいてありがとうございました。
     定型がよく言うやりかたで応じているだけなのに,
     それが定型から責められてしまう,というパターンを
     ここでもあおいよるさん。が体験されているんだなあと思いました。
     このずれをどう減らしていけるのか,大きな問題ですね。

     ところで,「刺激的」とか「強調」とかいう私の書き方について
     もしかしてご心配いただいたのかもしれませんが,
     私の方がなにか気分を害したというようなことは一切ありません。
     逆にほんとによい刺激を頂いていると感謝しています。

     たしかに「刺激的」というような言葉は
     人によっては遠回しの批判に使うことがありますね。
     あおいよる。さんもそういうところで痛い目にあわれたのかも。
     ただ,私の場合は,少なくともこのブログの場では
     そういう「遠回しの皮肉」のような表現は
     するつもりは全くありませんので,
     その点は「言葉通り」にご理解いただければと思います。

     また(いい意味で)刺激的なコメント,よろしくお願いします。

     

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