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  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 二つの世界(2) | トップページ | 定型的共感はアスぺ的世界に届く? »

2014年10月 1日 (水)

「共感」と「信じること」と「裏切」

 

白崎やよいさんから,記事「二つの世界」について鋭く大事な問題を感じ取って下さるようなコメントを頂きました。

 白崎さんは私が「「信頼できる人」は「自分の感情を理解してくれる人」になります」と書いたことに対して「目を疑う」ような驚きがあったと書かれています。そして「私自身が信頼感を抱けないということもあって、定型発達の人の「信じる」という言葉は随分軽いなあと思っていたのですが、謎が解けた感じです。」と言われる。

 この「定型の信じるというのは軽い」というのは私のパートナーも時々言いました。ということはアスぺの方も人を信用するということがないわけではないけれど,それはとても「重い」ことで,そう簡単にできることではないのかも。「
話を聞いて共感してくれるけど、話した内容は他人に筒抜けになってしまっていたり」(白崎さん)とか,あるいは実は陰で正反対のことを言われていたり(パートナー)といった数々の「裏切られた」経験を積み重ね,そもそも信用ということに極度に警戒心を持たれるようになるのかもしれません。

 このブログでも2,3回,炎上のような状態になったことがありましたが,正直な感じとして私にはどうしてそこでそういう展開になったのか,よくわからずに戸惑っていました。もちろん直接の原因はある程度わかり,そこには不注意な言葉があったり,あるいはかなり誤解かなと感じられるものがあったりしたのですが,私がとまどったのは,それがあったときのその後の展開の仕方についてでした。

 私の感覚では,それまでのやりとりの積み重ねの中で,ある程度の信頼は作られているように勝手に感じていたんですね。ですから,仮にそこで不注意な言葉や,誤解の可能性のあるやり取りがあったとしても,そこにすぐに「悪意」を読み取る必要はなくて,まずは善意のすれ違いの可能性を考えて調整して,誤解があれば誤解を解き,不注意があればそれを謝ってその後気を付ければ問題がなくなるはず,というそんな感じがしていたのです。

 けれども炎上のやりとりは,とてもではないけれどそんな雰囲気ではなく,次々に一方的に感じられる断定の否定的な言葉が投げつけられるような,そんな印象を受ける展開になってしまうのです。その時,ああ,この場である程度成り立っているかのように感じていた信頼感は,それほどまでにもろいものだったのか,と思い知らされる気持ちでした。

 改めて考えてみれば,特にアスぺの方にとって「信頼する心」というのは,まるで「ガラスの心」のような大事だけど壊れやすいものなのかもしれないと感じます。それほど信頼というのはむつかしいことで,少しの衝撃でまた強く傷つき,あるいは割れてしまう。そうだからこそ,白崎さんも「私は信頼感を抱くことができない」と書かれているのかもしれません。


 定型同士であっても,もちろん信頼して裏切られるというようなことは多かれ少なかれ体験し続けています。中にはちょっとした約束をすっぽかされた程度のことから,場合によっては人生や命までを左右するような大きな裏切りまで,その中身や深刻さも様々でしょう。あたかも心から共感するような風を装って,自分を信用させておいて裏切ってみたり,口先だけの共感でまったく実がないものだったり,そんな詐欺とかだましとか言えるようなものもあります。

 定型社会の中でもそんなことは日常茶飯事に起こっていて,世の中全体を見れば,その「裏切り」や「だまし」の数はちょっと想像を超えるような大きさで生じているのでしょう。それにも拘わらず,定型の人々は「もう誰も,何も信じない」というふうにはなりにくいんですね。もちろん警戒心は強まるでしょうし,「嘘を見抜く力を養う」ようなことは重視されるでしょうけれど。

 これは私の個人的な印象ですが,いろんな理由で人間関係が厳しく,お互いに競争や闘いのような状態に常に置かれているような場では,逆に特定の友達などに対して,「たとえ自分が損することがあっても,お前のためには自分は尽くし続ける」というようなすごく強い「信頼関係」を結ぼうとする場合も少なくないような気がします。「世の中信じられないことだらけ」だからこそ,逆に「強力に信じあえるものを求める」という感じでしょうか。そしてそれが見つかった時,とても救われた気持ちになる。そこはもしかするとアスぺの方は逆方向に進みやすいのかもしれないと想像したりします。

 私は不信心者ですが,ほんとに厳しい状況に打ちのめされたうえで,ようやく神に救われる思いを抱く方などは,世の中に求められない「信じること」を,神に求められることで救われるのかなと考えたりします。

 「信頼」というのは,理屈からいえば,「裏切られること」とセットで成り立つことです。「裏切られるかもしれない」という状況があるから,それでも「信じる」ということに特別の意味が出て来る。そして「信じられる人」は本当に貴重になる。

 「信じられた人」には,今度は「裏切ってはならない」という責任が生まれます。だから「あなたのことを信じている」という言葉は,当然信頼の言葉ですけれど,同時にその裏面には多くの場合「裏切ることは許さない」という意味も(無意識かもしれませんが)含んでいるんですね。

 「信じる」ということは多かれ少なかれ「賭け」の要素を持っています。絶対などということはありえない。時にまったく失敗することもある。定型的な社会は,そういう「賭け」でどれだけ損をしないか,という技とか生き方とかをどうやって身に着けていくか,その力をどうやって高めていくかを生涯をかけて追及している社会なのかもしれません。

 白崎さんの驚かれた「信頼できる人は自分の感情を理解してくれる人」という表現ですが,もちろん状況によって,それがストレートに成り立つ場合も,いろんな条件が加味されて成り立つ場合も,まったく成り立たない場合も実際にはあると思います。ただ,単純化していえば,「共感をしてくれる人には信頼感を持ちやすい」とはいえると思います。そして「本気で共感する」ということは,「その人を支えようとする」気持ちが必ず入っているんですね。その具体的な支え方はいろいろでしょうけれど。「私はあなたの味方になりたい」という思いが,「共感」ということには含まれているように思います。

 当然「共感的に聞いてくれた」と思っていたら,全然裏切られて,裏でめちゃくちゃなことを言ったりされたりしたり,といこともあるわけですが,そういう時は定型的には「この人の共感はどこまで本物だろうか」ということについてより慎重に判断するようになる,ということが多いような気がします。単に口先だけのおべんちゃらなのか,リップサービスにすぎないのか,それとも「本気で共感してくれているのか」という見極めの力をつけていくことです。

 定型でもそこはむつかしいことですし,ここがアスぺの方には特に難関でしょうから,そういう違いが「信頼」ということについての姿勢の違いも生んでくるのかもしれませんね。

 


 

 

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コメント

記事にしていただきありがとうございます。ですが誤解があります。私は裏切られ続けたから信頼感を抱けないのではなく、生まれつき、信頼感というものがどういう感覚かわからないのです。

その原因は、私は「人物像を抱けないこと」だと思うのですが、「オキシトシンが少ないからでは?」と言う人もいました。ですが主治医によると、ASDとオキシトシンの多寡は関係がないという研究結果もあるそうです。

人物像を抱けないことについてですが、私は「この人はこういうことをしない(する)だろう」という予測がほとんど立ちません。誰かの行動に対して「この人ならやると思った」というような思い込みが無いんです。ですので、親密にしてくれていると思った人が裏では私の陰口ばかりだったと知っても、裏切られたという感覚はなく、ただ「ひどい人だからつきあいを控えよう」という風にしか思いません(もちろん怒りはするのですが)。裏切られたと思うとすれば、それは約束を違えられたり、言うこととやることが違いすぎるなど態度に矛盾があるときですが、それも「信じていたのに!」という気持ちではなく「約束を破ったからこの人はひどい人」というような評価になります。

「二つの世界(2)」へのトマトさんのコメントも読んだのですが、ASの人は信頼感を抱きにくい人が多いのかもしれませんね。私にとっては理解できない、私の中には存在しない感覚なので、それだけ存在も重く感じる「信頼感」ですが、定型発達の人は気軽に(?)人を信じては裏切られたという気持ちを抱いていると知って、新しい世界が見えた思いです。

白崎さん

 トマトさんが書かれたことにつながることなのかもしれませんが,
 私にとってはまたもや「謎の世界」が現れた気持です。

>「ひどい人だからつきあいを控えよう」という風にしか思いません(もちろん怒りはするのですが)

 この感覚と「裏切られた」という感覚がどう違うのかがよくわかりません。

>「この人はこういうことをしない(する)だろう」という予測がほとんど立ちません。誰かの行動に対して「この人ならやると思った」というような思い込みが無いんです。

 と書かれていることについては,へえ,そういうものなのかと思ったのですが,
 
>ですので、親密にしてくれていると思った人が裏では私の陰口ばかりだったと知っても、

 というところでまた分らなくなりました。というのはその「親密にしてくれると思った人」については,「裏で陰口をたたくことはないだろう」というその人についての「予測」をしていたのが,その予測が外れたのだ,ということにはならないのでしょうか?

>裏切られたという感覚はなく、

 ここもちょっと分らなくて,もし仮に「信頼していたのに,それに反する行動をした」ということが「裏切り」なのだとすれば,白崎さんがおっしゃるように,もしもともと「信頼」という感覚自体がない(?)ということであれば,「それに反する行動をした」という理解も生まれないような気がします。ですから「裏切られた」という感覚も生まれないことになるのでしょうから,そうすると白崎さんがどういう意味で「裏切られたという感覚はない」と言われているのかの意味が分からなくなってしまいました。

 ちょっと分りにくい言い方になったかもしれませんが,つまりこんなことです。「裏切られた」という感覚がもしなければ,「裏切られたという感覚がない」ということも言えなくなるのではないでしょうか。たとえば私は「痛み」というものの経験があるから,今「痛みはない」と言えると思うのですが,もし「痛み」という言葉の意味を知らなければ,今自分が痛いのかどうかも分らないように思えるからです。

 そのあたり,白崎さんはどんな意味で「裏切られたという感覚」を理解されているのか,興味があります。そしてそれが「ひどい人だからつきあいを控えよう」と怒りをもって感じられることとどう違うのかとか。

 自分の知らない新しい世界を教えてもらい,想像するのは楽しくもありますね。
 

トマトです。

パンダさんの質問と重複すると思いますが
例えば・・・定型は「ひどい人だから付き合いを控えよう」という結論の前に「裏切られた、これってショック」という強い感想を抱きます。

その段階がはしょられているという感じでしょうか。

定型は、なりゆきにより出した「結論」より、「その結論に至った感情」にウェイトを置く傾向があると思いますが、
白埼さんの場合は「その結論に至った感情」にはそれほどこだわりも、認識もないように感じられますが、そういう理解で良いのでしょうか?


どうも大変わかりにくい書き方になっていたようで、すみません。なお、以下のコメントはあくまでも私の個人的な感覚に関する話ですので、ASDの人が全員私と同じような感覚でいるとは思わないでくださいね。

パンダさんへ

まず私の「裏切られた感」ですが、仰る通り「信頼を裏切られた」という感覚は体験したことがありませんので、「期待を裏切られた」という感覚が私の「裏切られた感」です。それも人に対してのものというより、映画や小説、漫画、ゲームなどの作品を鑑賞する際に「面白いだろうなあ」という期待をしていたら全然そうではなかったという「がっかり感」に近いものが、私の言う「裏切られた感」だと思います。あるいは「約束を破られた」ことを「裏切られた」と思うこともありますが、それは「信頼していたのに裏切られた」という感覚よりも、「約束という決まり事を破った、倫理に反する、ひどい!」という怒りに近いと思います(それに加えて、場合によっては予定を変更されたことで受けるショックなども加味されていると思います)。先のコメントは、そういうような意味合いで「裏切られた」という表現を使っています。

>というのはその「親密にしてくれると思った人」については,「裏で陰口をたたくことはないだろう」というその人についての「予測」をしていたのが,その予測が外れたのだ,ということにはならないのでしょうか?

ならないです。「私と親密に話してくれている」という実感と、「この人は陰口をきかないだろう」という予測は私の中ではイコールではないですし、そういう予測は私は立てることができないんです。私にとって、周りの人は家族であっても「何をするかわからない人」なので、何かとんでもないことをされてびっくりしたり残念に思ったりすることがあっても、あまり「意外だ」とはならないんです。(行動の予測が立てられるかどうかはつきあいの長さに応じるので、これまでのつきあいから判断して意外に思うことが無いわけではないですが……)

また、先のコメントでは「経験上のことではなく生まれつき信頼感がない」と書きましたが、「周囲の人の行動予測」には私の人生経験が影響しています。親密にしてくれている人が裏では私の悪口ばかり言っていたという経験があったため、「そういうことをする人もいる。この人もそうかもしれない」という考えがあり、それは周りの人間全員に当てはまってしまいます(「この人はそういうことをしない」というような予測・信頼をできないため)。ですから親しい友人が突然私の悪口を言い始めたとしても、もちろんショックだろうとは思いますが、「ああ、この人もそういう人なんだ」とがっかりして友達をやめて終わるのではないかなあと思います。

だからといって疑心暗鬼というわけでもないです。というと、また混乱させてしまいそうですね……(苦笑)。「周囲の人に何も期待していない」というのが一番近いと思うのですが、定型発達の人からしたら、そういう感覚ってとても孤独なように感じられるかもしれませんね。

これでお返事になったでしょうか。

---

トマトさんへ。

>定型は、なりゆきにより出した「結論」より、「その結論に至った感情」にウェイトを置く傾向があると思いますが、
>白埼さんの場合は「その結論に至った感情」にはそれほどこだわりも、認識もないように感じられますが、そういう理解で良いのでしょうか?

正直に言うと、激しい感情はあまり覚えていないんです。「怒った記憶」はあっても、それがどのくらい激しかったか実感として記憶しているものはとても少ないです。それよりも「出した結論」のほうが、私にとっては重要な気がします。感情は忘れても、選んだ行動は忘れないですから。

それに、元々、人づきあいで他人に対する「期待」がほとんどないので、余程深く傷つけられることをされない限りは、私はあまり、怒ったり悲しんだりしません。

>例えば・・・定型は「ひどい人だから付き合いを控えよう」という結論の前に「裏切られた、これってショック」という強い感想を抱きます。

私はこういうときも「裏切られた」とは思わず「この人はこういう行動を平気でできる人なんだな。腹が立つなあ。ひどい」というような感想になりますね。行為そのもの(人の悪口を言うこと)が私の正義に反するので、怒りますが、裏切られたとは思わないんです。そもそも信じてもいないですし、「陰口をきかない人」とも思っていないですので、その行動自体は期待や信頼の裏切りにはなっていないんです。相手次第では、多少意外に思ったり驚いたりはすると思うのですが、「信じてたのに……」というような気持ちになったことはありません。なので、

>その段階がはしょられているという感じでしょうか。

はしょられているというより、「感じるものが違う」んだと思います。

トマトです。

定型はどうしても、ひとりのASの人の感覚や行動についての理解や納得を「共感できる範囲の想像」をつたって得ようとするので、その共感が阻まれる部分は「どうやっても想像も理解も出来ない」ということになるのでしょうね。

そこのところの「謎」を、白崎さんはとても分りやすく説明してくださっています。

確かに・・人付き合いにおいて、あらかじめ「私はあなたに嘘も陰口も絶対言わないし表裏一体を誓います」という宣言なんかする人はあまり居ないし(居たらうさん臭いし)、
そういう誓いや約束をしたという前提がなければ「裏切られた」とか「失望した」というこちらの感情や言い分は「自分の一方的な思い込みの責任」という一人相撲の姿ですね。

恋人関係の場合「適時に愛情確認の言葉を伝えます」とは約束していないし、思いつきもしないのに定型から「どうして何も言ってくれないの?」と涙目で訴えられてもASは「そんなことを期待されているとは知らされてなかった」と言うことですねぇ。

コミュニケーションに関して
定型の「想定の範疇」と、ASの「想定の範疇」の質がハナから違いますね。

こういう角度から考えると、ASの人には、定型からの感情の働きかけというものが、本当に理解不能でやっかいなものなのですね。

定型の「裏切られた」の感覚と、ASの人の「裏切られた」の意味は、別次元なので
同じ日本語としてやりとりするには、要注意のワードなのです。
こういう
人間関係に関するワードの日本語は、本当にASと定型の間で混乱をもたらします。

白崎やよいさん

有り難うございました。信頼と期待をはっきり分けて考えるお話、何か新しい手がかりになりそうです。

もうひとつ前回と同じようなことでまたわからなかったのですが、「親しい友人が突然私の悪口を言い始めたとしても、もちろんショックだろうとは思いますが、」という部分で、その前に誰かで意外なことが起こったら、全ての人に同じ可能性を考えて人では区別しないと書かれていたので、そのこととこの親しい友人の場合の違いがわかりませんでした。

ここで書かれたことは、他の人とは違って、友人はそんなことないだろうと予測していた期待が裏切られ、それでショックを受ける、という意味とは違うのでしょうか。

すみません、細かいことにこだわってしまって、揚げ足取りみたいに感じられたら申し訳ないのですが、直感的にわかりきらないことって、どうしても理屈で理解しようとしてしまいますね。アスペの方が理解しにくい定型のことを考えるときも同じなのかも…

トマトさんへ。

「共感を通してわかろうとする」というのは、アスペルガー症候群の人でも、同じことだと思います。当事者の集いで、私は自然に周りの当事者の話に共感して親しみを抱く自分に気付きました(ただし、親しみを抱いても信頼感などへは発展しません)。ですが、多くのアスペルガー症候群当事者にとって、周りにいる人は定型発達の人がほとんどですから、周りの人たちに共感できるケースが少なく、別の方法で理解しようとする癖が強くなっている人のほうが多いのではないかと思います。

すごくわかりにくいことを書き散らしているのではないかと心配になっていたので、「わかりやすい」と評していただけて、とても嬉しいですhappy01 そして、確かに「同じ単語を全然違う意味で使っている」ということは、ありますね……。

パンダさんへ。

わからないことを追及して「理解しよう」としてくださる姿勢がとても嬉しいです。ご指摘の件ですが、「友人はそんなことないだろうと予測していた期待が裏切られ、それでショックを受ける」のではなく、単純に「悪口を言われたことに対するショックを受ける」のです。言葉足らずで申し訳ありません。悪い出来事が起きると、少なからず衝撃があると思うのですが、その出来事自体に対するショックのことだけを言ったつもりでした。

パンダさんが書かれた記事(この記事もですが、元は「二つの世界」)は、私にとってとても衝撃的であると同時に理解できない内容でしたが、パンダさんが私のコメントに対して「わからない」とコメントしてくださるのを見ていて、「お互いに通じ合えない問題」だということがはっきりとわかって、逆になんとなく安心しました。子育てのトラブルで「自分の子供が考えていることがわからない」と悩む母親に「そういうときは、子供もあなたのことをわからないと思っているはず」というアドバイスをする、という話を聞いたことがあるのですが、「わからない」という感覚は一方通行ではなくて、「わからない」という気持ちがあるときはお互いに「わからない」と思っているんだな、というのが確認できたのが新しい一歩のような気がするというか……。

不可解な主張をする人に遭遇したとき、「わからないけど、いいや」と途中で放り投げてしまう人が私を含めて多いですから、パンダさんの熱心さはすごいなーと素直に尊敬してしまいます。それだけ熱心でいらっしゃるからこそパートナーさんとの関係も続いていらっしゃるのでしょうし、このblogでも興味深い話題が継続されているんだなあと思いました。これからも、ときどき今回のようにわかりにくい内容のコメントをしてしまうことがあるかもしれませんが、ご気分を害しようという気持ちはありませんので、ご理解いただけると助かります。

白崎やよいさん

> わからないことを追及して「理解しよう」としてくださる姿勢がとても嬉しいです。

そう感じていただければ、このブログのやりとりにも意味を感じられて嬉しいです。「理解」と「共感」は同じものではないでしょうけど、私の場合は「理解」することを通して「共感」したい気持ちが強い方なのと、もともと「謎解き」も好きなので(笑)、そんな姿勢になるのかも…

で、また質問なのですが、白崎さんにとって、友人と友人でない人の区別ってどんなところにあるのでしょうか。そして友人と思っていた人が友人と思えなくなるのはどんなときでしょうか。定型的には「信じる」という要素が友人どうしには入ってくるように思うのですが、信頼と期待をはっきり分けて、期待の方で人間関係を考えられるのだとすれば、そこはどうなるのかなあとちょっと考えたものですから。

パンダさんへ。

「友人」の定義ですか。難しいですね。実は私にとって、あまりはっきり定義ができていない言葉です。

では何故「友人」という表現を使うのかというと、「人間関係を説明するとき、ある程度親しい関係にある人は『友人』と表現するとわかりやすいだろう」という気持ちがあるからです。

「ある程度親しい」というのもまた曖昧な表現ですけれども、
・趣味や価値観が近いなどで「好きなもの・こと」について楽しい会話ができる
・私的な約束で一緒に遊びに行ったことがあり、かつ、楽しかった(カラオケ等)
・お互いに尊重し合えていると感じている
・役職、社会的立場などが同程度である(上司や部下、恩師、支援者等ではない。同窓生など)
というような感じの人のことを「友人」と表現することにしています。

つまり「友情を感じているから友人」なのではないんですよね。「この人とは客観的に見て親しい間柄だと思うから友人」というほうが近いです。もちろん、「友人」と表現する相手に対して親近感や好感は抱いているのですが、それだけをベースに「友人」と言っていいのかどうかは、子供の頃から今までずっと悩んでいることです。「この人のことを友人と言っていいのかな? この人は私の友人なのかな?」と、いつも疑問に思います。ですが「友人」と表現されて嫌な思いをする人は少ないかなという気持ちから、親近感や好感があり、「友人」と表現して失礼に当たらないと思っている相手のことは、積極的に「友人」と呼ぶようにしています(これはここ1年くらいでやり始めた新しい試みです)。

そういう「友人」が「友人」だと思えなくなるときといえば、「何らかの理由で相手に接するのが苦痛になったとき」だと思います。原因が相手にあるか自分にあるかはさておき、不快な思い出ができて、その思い出による苦痛が相手に接する楽しさを上回ったときに、友人とは表現できなくなると思います。その他にも、共通する話題がなくなってしまうなどで気持ちが離れてしまって親近感や好感がなくなったときにも、「友人」とは思わなくなる……と思います。まだ、身近な人たちを「友人」と表現するようになって日が浅いので、上手く線引きができていないです……。

こう書いてみて、淡白なことを書いている気分になったのですが、以前はもっと友人関係について淡白でした。人間関係を大切にしようという気持ちが今よりもずっと薄かったんです。

定型発達者の場合の「友人が友人でなくなるとき」って、どういうときなのでしょうか。やはり「友情」や「信頼感」を失ったときなのでしょうか? 「友情」も「信頼感」も私にはよくわからない感覚なので、説明されてもピンとこない可能性は高いですが、パンダさんのご意見を聞いてみたいです。

白崎やよいさん

 説明しづらいことをありがとうございました。
 「親近感」や「好感」というのが白崎さんの人間関係ではポイントなんですね。
 そしてそれは「友情」というものとは違うもの(どう違うのかはまだよく私には
 分りませんが (^ ^;)ゞ )

 友人が友人でなくなる時というのは,私の場合で言えば,
 「裏切られたとき」はひとつありそうです。
 たんにその人の個人的な利害のために,私を傷つけたり,
 いろんな害を与えたとすれば,それは友人とは認められないでしょう。
 
 もう少し気楽な友人関係であれば
 物理的に距離が離れたりして接触の機会がなくなれば
 なんとなく友人の感覚も薄れるかもしれません。
 また会えば復活はするでしょうけれど。

 やっぱり「お互いに相手のために努力できる人」というのが
 友人の基準には重要になるような気がします。

「友人」について白崎やよいさんと近い考えがあったのでコメントします。
私はほとんどの人を「知り合い」と表現していました。他には「クラスが一緒だった人」「○○の時に参加してた人」みたいな事実に基づく表現ですね。
周りの人はちょっと不思議そうにしながらも私の率直すぎる表現に面白みを感じたり、「つめたいなぁ笑」とか言ってくれていました。

「友人」と言われないとさみしそうにする人も確かにいたので、向こうが私のことを友人だと思っていてもこちらからは知り合いとしか見れてないということは多々あります。
まぁ、おそらく定型の人はこれまで出てきてる共通の話題・物事への共感・関わり全てなどで感情的に親しさを感じて友人と呼ぶのでしょうけど、私の場合はチェックシートみたいなもので、この時こうだったから割と仲良しと見ていいはず、とか最近頻繁に連絡をとっているから友人として扱っていかねば、とか段階を見て判断するようにしてます。判断基準はかなり厳しいものだと思いますが…wだから、嘘ついて(うーん、嘘って言うと変だけど)私としてはそこまでレベルがいってなくても友人と言う、くらいはします。でないと悲しまれるし…。

20年来の付き合いの友人とかは、もう問答無用で大事な友人なんですけど、やはりそれくらい時間が着いてこないと友人だなぁって感じにはならないですね。

「友人」関係が切れる時は、その人の性質が気に入らなくて自分の人生において、自分が合わせるとかそう言う努力をして関わる必要性を感じなくなった時、です。だから切るところまで行く人はほとんどいません。たまにいますけどw

つ、追加すみません。人物像が掴めないこと、にかんして以前メモしてたことがあるので貼らせてください!

抽象化できないこと
私が他人を認識する時は、出来事一つ一つでしか見れなくて、そしてその一つは完全にバラバラな情報として残る。
例:こんなアニメが好き、こんな食べ物が好き、休日はなにをしてる、仕事はなにをしてる

でも、普通の人は違うということだ。
こんなアニメが好きならこういう人となりなのかな?とか、それならこのアニメも好きそう、とか言うことがわかる。こんな仕事をしているならきっとこう言う人間性なのだろう、とか一つ上のところに持ち上げて認識をしている。

そうしてまとめ上げた情報を元に「この人はこんな感じの人だろう、それゆえ自分は好きだor苦手だ」にわかれる。

だから、罪を憎んで人を憎まずっていう言葉が誕生したりする。私からすれば、その人の悪かった行動だけを非難して人間性にまで攻撃を及ぼさせないというのは、当然のことだ。どんな人間性があるかは関係ない。

普通の人は誰かを好きになった時、かなりまとめあげた像を好きになる。そのあと追加されるその人の言動を見て、更に好きになったり期待外れだと恋が冷めたりする。ギャップ萌えはだから誕生する。意外性というのは面白いものだからだ。

私は細かい情報のかき集めとしてしか見えてないから、全体像がまず掴めない。この人ご飯はこう食べるのか。これが好きでこれが嫌いなのか。その先の「この人はこういう感じの人間なんだな」がない。ただただ情報収集する。でも何も完成しないし、覚えるものが多過ぎる。

そして、情報だけで人間を見ると、個体差がなくなってくる。だから、興味も全く湧かない。人間というのは、それぞれに持ってる種類のタグが少し異なるだけの生き物。

アスペの方、こう言う感じに見えてたりしません…?

songさん

 「友人」ということについての説明,とても新鮮です。

 ひとつ教えていただきたいのですが,
 そういう「つめたいなぁ笑」と言われる普通の友人関係の他に
 songさんは20年来の「もう問答無用で大事な友人」が
 いらっしゃるわけですよね。

 この二種類の友人の違いって何なんでしょうか?
 ただたんに年数の違いというわけでもなさそうな気がするんですが。

パンダさん

その違いはひとつです。
私が酷いことをして(無意識ですが)相手が傷付いたにも関わらず、それでも私の友達でいると言ってくれた。
いる時間が長いから、そのせいで傷付けてるわけでもあるんですけど、それでも友達だと言ってくれるのが大きな理由だと思います。

でも、あれですね、あくまで向こうの態度によるものになっちゃいますねw

songさん

 なるほど!
 「あくまで向こうの態度による」というのは印象的です。

 で,友達がそう言ってくれた時,songさんはどんな気持ちでした?
 その友達に対して他の人とは異なる特別な感情は抱いたのでしょうか?

パンダさん

「えっ!そうだったの…?」「何故そこまで私の事を考えてくれるんだろう…」

って思いました。そのあとは「この人のことは大事にしなければ」ですかね。具体的に「大事に」はよくわからないので、今もろくに誕生日も祝わなかったりしますけど…

大事にしなければと思ってるけど、何もしてないって感じです。

パンダさんへ。

私は友人だと思っている相手から「友情を感じない」と言われたり、友情だと思っているものが一方通行だったことが何度もあったりして、「友情」がどういう感覚なのか、私が感じる「親近感や好感」を「友情」と表現していいのかどうかがわからず、「親近感と好感」が「友情」と同じか違うかの判断ができません。

そして、
>やっぱり「お互いに相手のために努力できる人」というのが
>友人の基準には重要になるような気がします。
というのが、私にとっては恋人や配偶者に求める要素だと思っていたことなので、非常に驚きました。パンダさんにとって、友人ってとても重い存在なんですね。それだとパンダさんはパートナーさんへはもっと重いものを求めていらっしゃるんでしょうか……。

songさんへ。

仰る考えが確かに私と近くて共感しました。私も「知り合い」「顔見知り」という表現ばかり使っていた時期が人生の大半を占めています。「客観的に見て友人と言えるような関係かどうか」で判断したり、「相手が友人と思ってくれているみたいだから友人」と思ったりすることは、私にもよくあります。でも私は、そのことに加えて「自分にとって親近感や好感を抱ける相手」でなければ友人とは思わないようにしています。一方的に親近感や好感を抱かれている人を無理に友人だと思っても、自分が苦痛を感じるだけだからです。

人物像に関しても、私も似たような感じです。周りの人それぞれに対して情報を集めてデータベースを作る感じです。だからいつまでたっても「この人はこういう人」みたいなイメージはできあがらないですが、ある程度の行動や好みの予測はできるようになりますし、人への興味も湧いて他人を魅力的に感じたり親しくなりたいと思ったりはするので、そこは違う点ですね。

白崎やよいさん

お返事ありがとうございます!似てるところと、違うところがあって面白いなと思いました。
私は親近感とか好感を持つことかほとんどない(持つとしても「無理矢理」持つ感じ。彼氏とかに対して)し、魅力を感じることもないし興味も持たないですね…。親しくなりたいとも思わないので、相手が寄ってきてくれたらそれに対応するしかないって感じです。でないと、孤立無援になっちゃいますからw
その結果面倒な人と関わりになってしまうことも多々ありますけどねー…。白崎さんと違うのは苦痛も何も感じない点ですかね!w

白崎さん

 親近感や好感と友情の違いということですが,私の言葉の感覚からすると,
 親近感や好感は一方が他方に抱くもので,相手がどうかは決まらないのに対し,
 友情は「お互いのもの」だという違いがあると思います。

 片思いは恋愛とは言えないように,片方だけが友情を感じていても,
 相手の人がまったくそうでない場合は友情の関係は成り立たないでしょうね。
 「私はあなたを友達だと思っているし,あなたも私をそう思っているよね」
 ということをお互いに感じられる関係が友情には必要だと思います。

 友達関係については,私は定型の平均のようなものがあるとすれば,
 どちらかといえばより深い,親密な関係を作りやすい方だと思います。
 とはいえ,他の定型の人でも,多かれ少なかれ
 「お互いに相手のために努力できる人」
 という基準は重要になっていると思います。
 それがなければ単なる知り合いであるとか,他人になるでしょう。

 日本の友達関係は,私が他の文化の人と接してみた経験からいうと,
 かなり淡白な方だと思います。
 文化によっては「友達」であれば,本当に必要な時には
 全財産をなげうってでも助けてあげる,という心構えの
 人たちもいますね。それは私なんかはちょっと無理。
 
 では友達関係と夫婦関係の違いは何かと言えば,
 一つには性愛の問題があるでしょうし,
 それからやはり「生涯を共にする人」ということが大きそうです。
 その中には「ともに子どもという次世代を育てていく」ことが
 とても重要な責任であったり,喜びであったりするでしょう。
 そこは友達関係には基本的にはありませんよね。
 あと,親の介護なんかも夫婦だと責任が出てきますね。


songさん

 相手の方がそこまでしてくれたことに対して,
 「自分もそれに応えて相手を大切にしなければ」
 と「思う」ところまではいったのですね (笑)

 そこまではある程度一緒の感じがしますが,
 白崎さんへのコメントに書かれていたことはやはり
 定型的感覚とはそうとう違うような気がしました。

 彼氏に対しても魅力や興味も持たず,親しくなりたいとも感じない,
 というのはちょっと驚きです。
 ほんとに淡白の極地という感じがします(笑)

 それでもこうやってやり取りさせていただいていると,
 人とのやり取りにとても興味はお持ちなわけですよね。
 そのことは感じます。
 でもそれは親しみとか魅力とかとはまた別なわけですね。

 うーん,なんかちょっと想像力を発揮するうえでの
 ひとつの手掛かりにはなりそうな気がします。
 

パンダさん

淡白の境地でしょうね…w
「人とのやり取り」に興味があるというのは、「人間という動物の感情、それに左右され発生する行動」には確かに興味があります。観察対象として、くらいの意味あいですかね。小学校高学年くらいから、違和感を感じていてそれを解決するために心理学とか調べまくってたので、なんかそういう動物的な捉え方をしてる部分がありますねー。動物図鑑で犬の生態について知る、みたいな感覚です、きっと。

songさん

 犬の生態ですか。
 犬よりサルの方が近いんじゃないでしょうか(笑)
 動物園で猿山とか見ていると,なんかすごい人間社会見てるみたいな気がして…
 
 ということは,サルは定型?

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