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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年10月16日 (木)

臭いに敏感な理由

 私のパートナーは臭いに敏感です。私からすればびっくりするくらいにかすかなにおいも感じるみたいだし,ですから私が普通に感じるにおいについては強いにおいと感じるみたいです。

 そんなふうになにかの感覚が定型に比べてすごく敏感だとか,過敏だとかは,アスぺの方のひとつの特徴のように言われたりしていますけど,なんでそうなのかについて,ふと思ったことがありました。

 以前,全盲の方の本を読んだことがあるのですが,ほとんどスーパーマンのように思えることがあって,たとえば(前にも書いたかもしれませんが),初めて入る部屋のドアを開けると,部屋の大きさとか,大きなものの配置とかがだいたいその瞬間にわかっちゃうと言います。歩いていて前に何か障害物があると,それもわかってすっとよけられる,とか。

 なんでそんなことが可能なのかというと,音で分かると言います。部屋の場合はドアを開けた音が部屋の中に反響して,それで戻ってきた音でどのあたりに固いものがあるか,やわらかいもの(ベッドとか)があるかわかっちゃうんだそうです。道を歩いていて,足音の反響で前方の障害物が分かるとか,そういうこともあるみたいですね。

 これ,盲の人は生まれつき脳の聴覚の部分が特殊な能力を備えているとか,そういう話ではないみたいですね。幼いころに事故とかで失明しても同じような力を獲得するみたいですし(大人になってからだと限界があるみたいですが)。つまり,だいたいだれでも状況次第でそういう能力を獲得する可能性があるわけです。

 で,その話と臭いに敏感だという話がふと私の中で結びついたんですが,人間って,たとえば目が見えなければ,それに代わる能力をものすごく発達させて,晴眼者が空間を「目で見る」ように,空間を「耳で見る」力ができちゃうわけです。で,そういう力って晴眼者を基準にすれば「過敏」とか言われたりすることもありうるのでしょう。

 アスぺの方は,この世の中を渡っていくに当たって,定型が普通に手掛かりにするような,他人の感情の表現とかを使うことが苦手なわけですよね。例えて言えば人の感情については「見えない」とか「見えにくい」というような状態がある。

 でも,それだといろいろと困ることが起こるわけで,それに代わる別の手掛かりを使って,世の中を理解しようとする,ということが無意識に起こったとすれば,そこでたとえば「におい」を一つの手掛かりにしてその感覚をものすごく研ぎ澄ませることもありうると思ったわけです。実際人の臭いってその人のいろんな状態とかが現れるみたいだし(たしか犬が癌の人のにおいをかぎ分けるという話もテレビでやっていたような),なんか手掛かりになるんだと思います。

 もちろんこれは私の思いつきに過ぎませんので,本当はどうなのかはわかりませんけれど,一つの可能性としては結構ありそうだなという気がします。もしそうなら,アスぺの方の「特徴」には,「感情が見えない(見えにくい)」ことが原因になって,特別にあるやり方や能力が代わりに鍛えられた結果,そうなる,というものが他にも考えられるんじゃないかと,そんなことをちょっと考えました。

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コメント

トマトです。

盲人が「耳で見る」・・・まさしくその表現がふさわしい体験をしました。
私は、3年前から全盲の男性と共同作業をしているのですが、彼には自転車に乗っていた少年時代があったのです。地面の感覚や路肩に雨が跳ね返る音などで走れたそうです。学校の階段を2段飛ばしで上がったり飛び降りたりは当たり前のわんぱくぶり・・
そうやって成長し今は50歳を越したのですが、
最近、私は彼を自宅まで送っていて、おしゃべりに気をとられ、だいぶ行き過ぎてしまいました。
あわててUターンしてキョロキョロと左折しようとすると、後部座席から彼が楽しそうに「わかるかなぁ・・まだなんだけどなぁ」とか「まだだと思うよー」「電停が見えるでしょ」「もうすぐ行って二つ目の信号を左ね」と、的確なナビゲート。

さらに、大勢の人が出入りしている大きな部屋の中で「A子ちゃ・・あ、居ないか」と、数分前に人の出入りの波にまぎれて黙って部屋から出て行った知人の女性の存在を的確にとらえ、
私が、彼の背後2メートルほどの位置で、視線(だけ)を窓の外に向けたら「トマトさん、退屈?」と言われてしまったことなど・・・

視覚ではない何かで「見えているのだ」と驚きの連続です。

AS友人も大きな総合病院の2階の待合室で「Bさんが居ますね」と言うので、見渡しても見つからず「どこにぃ?」と言っていると、階段からBさんが上がって来たのです。
AS友人には、階下でBさんが携帯電話で話している声が聞こえたらしいのですが、周囲には沢山の人が居て、看護師さんが患者さんを呼び出している声や、テレビの音声、ざわめきがあるわけですから、その中から1階下の玄関ホールでの携帯電話に出たBさんの声をとらえたことが信じられませんでした。

AS友人には、味覚過敏があり魚介類が全くダメで、汁物や煮物でも「かつお出汁の悪臭がする!」と顔をゆがめ、喫茶店でも野菜サラダの上にちょこんと「大変!シーチキンが乗っています!」と手をあげ「シーチキン無しのをお願いします」と真剣に申し出て、ほうれん草の上にのせたシラスやジャコを「うわぁ、ウジ虫みたいに気味が悪い」と顔をそむけ・・・
味覚過敏を知らない周囲が「喰わず嫌い」だと勘違いして「少しは食べて」とすすめると、パニックを起こしていました。

機能できない一つの能力をカバーするために、他の能力が研ぎすまされるとか向上する・・ということは「それでバランスをとっている」になると思うのですが
ASの人の感覚過敏は、バランスにつながらない事が多い様に思えるんです。

トマトさん

 いや,すごいですね。自転車とかもう曲芸のような……

 「感情を見る」というのは,トマトさんの話を入れて考えると,
 「感情の意味を見る」みたいな言い方の方がいいのかもしれません。
 「耳で見る」話にひっかけて言えば,僕らは「音を聞く」ことができても
 「耳で見る」ことが無理というのは,「音の意味を見る」ことが無理だとか,
 そんな感じじゃないでしょうか。
 つまり,耳に入ってくる音を細かく聞き分けて,そこから「部屋の中を理解する」とか,
 そういうの,無理なんですよね,きっと。

 アスぺの方に戻して言えば,たぶん,相手が涙を流してるとか,怒ってるとか
 そういうことは「見える」んだけど,その定型的な「意味」が「見えない」。
 その意味ってたぶんいろんなものを含んでいるんでしょうが,
 定型の場合には「意味の見方の基準」みたいなものが
 お互いに調整しながら作られているんじゃないかという気がします。
 つまり,「普通はこうだよね」とか,「これはちょっと○○すぎるね」とか,
 そのあたりの評価の物差しみたいなものを無意識で相手に合わせている。

 アスぺの方はその辺りは人とあまり合わせることなく,
 それぞれの方が個性的に作り上げていく傾向が強いんじゃないでしょうか。
 で,そういうことがベースにあって,
 その中で,たとえば「におい」というものに注目すると,
 部分的には相手の人のこととかで少し理解がしやすくなって
 手掛かりになるとかになると,その感覚をすごく研ぎ澄ませていくんだけど,
 それもまたすごく個性的な物差しになっちゃって,
 他の人から「そうだね」と定型的に共感されるような使い方はむつかしくなる。

 なんか,そんなふうに考えてみると,
 もうちょっとわかりやすくなるような気もしました。
 

臭い、確かに敏感な方かと思います!
これは女性の特徴にもなるんですが、遺伝子が自分とは異なる(=遺伝子を残すのに適している)人はいい匂いがするらしいんですよね。逆に、まぁなんというか相性が悪いと匂いがあまりよくないとか。
そこの判別の能力が強いのかなぁなんて、面白いですよねw

人の中身がよく見えないから匂いで判別しやすく…まぁ根拠はないですが。

パンダさん、こんばんは。
今日のお話は、私が経験上考えていたことと、因果が反対だったので、正直驚きました。

私自身、子供の頃から触覚と味覚についてはかなり過敏なところがあったのですが、ずっと「異常に鋭いところがあるから、その代償として普通の人が分かることも分からないのだ」と思っていました。
トマトさんがコメントで「ASの人の感覚過敏は、バランスにつながらない事が多い」とおっしゃっていますが、こちらのほうが私の実感とだいたい合っています。つまり、先に自分にはどうにもならない現象として「感覚が異常に過敏」というのがあり、そこから(ともすれば、それに気を取られるあまりに)普通に考えれば分かることまで気が回らない、というのが実感です。

私はいま、いかに相手とコミュニケーションを取るか、ということに四苦八苦しているところなんですが、正直(多少とがった言い方をすると)この「過敏さ」というのが、むしろどうにも邪魔をしている気がしていました。ただ、パンダさんがその因果を反対にとらえ、「過敏だから分からない」のではなく、「分からないから過敏になる」と考えたということは、パンダさんのパートナーさんが、パンダさんに何かそう思わせる良いサインを出していた、ということかもしれません。私としてはむしろ、そちらにとても興味があります。

初めてコメントさせていただきます。
私はパートナーがアスペルガーではないかと検索するうちにこのブログにたどりつきました。今回の話はパートナーの話ではありませんが。

感覚過敏については諸説あると思いますが、
・私自身は定型発達者でもあるんじゃないかと思っています。割合は違うのかもしれませんが。発達障害の方は医療に触れる機会が多いですしそうすると特徴としてあげられますが、そうでない場合は意外とスルーされるのではないかと思います。絶対音感などもを持っている人はそれと折り合いをつけるのに苦労されるというような話もききますし、そういう方がすべて発達障害というわけでもないようですから。
・もう一つは、発達過程で残存したのではないか?ということです。
こだわり行動は定型発達の場合、一時期目立つ時期がありますが、発達とともに目立たなくなります。それと、同じように知覚過敏などでも一時期はめだっても発達とともに鈍くなるという言い方は変かもしれませんが、多くの情報に触れることによって気にならなくなるというようなことがあるような気がします。たとえばこどもは一時期野菜の苦みなどに非常に敏感で食べられなくなりますが時期とともに味覚の範囲がひろがってそういう味も楽しめるようになるといったような感じですね。
我が家の次男は明らかに定型発達ですが幼児の頃は臭いに敏感でなぜか友達の服のやハンカチの臭いを嗅いで誰のかをあてていました。成長した現在はそれ程臭いは気にならないようです。もし、文字等の他の認知が悪ければ、その臭いの感覚を育てていったのかもしれないなあとパンダさんの文章を見て思いました。

トマトです。

感覚過敏について、パンダさんのような前向きな捉え方をしたことが無かったので、メリットになる事柄もあるのなら、ASの人に是非教えていただきたいと思いました。

確かに「聴覚過敏」で、災害時に予兆のような音をとらえられる場合や、車の微細なエンジン音などで不具合や故障をいち早く発見できる場合など「おかげで助かった」になるケースもあると思います。

私の知り得た「ASの人の感覚過敏」は、あくまでも制御出来ない苦痛であり、周囲に理解されなくて、ワガママだとかズルイという印象にされるものだというものでした。

私はAS友人の味覚過敏が理解出来ないとき、専門医に「ASの人の味覚過敏は、一般の味覚過敏とは格段に違うんです。嫌いな味ではなくとんでもない味というレベルなんです。だから正論で食べさせようとしないで、不足の栄養分はサプリでおぎなうとか、ASの人の意志に沿うべきです」と言われ、過敏にも質があるのだと納得しました。

ASの人には感覚過敏と感覚鈍感の両方があると聞いた事があります。
AS友人の場合は「疲れ」に非常に鈍感で、肝臓が悪化しシャツのボタンが止めにくいほどに手がふるえていても、それが体調の不安に結びつかず、上司に病院に連れて行かれたとき「医者によく立ってられますねと驚かれた」とうことがあり
ここにも一般的な鈍感度とは桁違いな感覚があるのだと知りました。

ですからASの人の感覚過敏や感覚鈍感は、ハンディのひとつで、こちらが察したり擁護すべきものと、とらえていて
ASの人の「0か100か」の極端な感覚が、身体の感覚にもあるんだなと思い込んでいました。

AS-Pさんのおっしゃるように、パンダさんの見方は感覚過敏に好意的なものだと感じますが、奥様への愛しさから、そう考えられたのでしょうかね。


みなさん (って大雑把な (^ ^;)ゞ)

 いやあ,においの話って,面白いんですね!
 アスぺの方が自分の感覚が「過敏」ということを気づかれたのは 
 いつごろどんな場面でなのかとか,そういうのも興味を持ちました。

 たぶん,最初のうちは「他の人もみんなそうだろう」と思うと思うんで,
 どっかで「あれ?自分だけ違うのかな?」とか思うようになって,
 場合によってそれがすごく苦痛になる,という展開もありそうな。
 そういえば生まれながらに目が見えない方が,
 自分と他人がどうもそういうところで違っているようだと気づくのに
 ちょっと年月がかかるみたいな話を聞いたことがあるようなないような…

 えっと,それとこういうちょっと変わった見方をしてみたのが
 パートナーへの愛なのかどうか (^ ^;)ゞ ですけど,
 よく分りません (笑)

 ただ,なんとなくですけど,
 アスぺの方の特徴とされることを,「障がい」として見ると
 どうしても「困ったこと」という面に目が向きやすくなりますけど,
 その方が持って生まれてきた特性をベースに
 生きる工夫として見てみると,
 またちょっと違った面が見えて来るんじゃないかなあと 
 そんな感覚はあります。

 もし生きる工夫なら,それはその人なりの努力の結果という面もありますし,
 その努力をお互いに認め合いながら,
 改めて調整の仕方を前向きに考える道もあるかもしれないとか,
 そんなことを考えているんじゃないかな。

 そうすると「障がいだからケアが必要」ということとはまたちょっと違って,
 「お互いにお互いの特性を抱えながら,調整しあって生きる」
 というような模索が生まれそうな気もします。
  
 

トマトです。

パンダさんのおっしゃる【「障がいだからケアが必要」ということとはまたちょっと違って,
 「お互いにお互いの特性を抱えながら,調整しあって生きる」】
という暮らしが、昭和30年代までは自然にあったのではないかと思います。

特に田舎では。
見るからに自閉圏の人にも、何かのラベルを貼らず特別視することも身構えることもなく、正面に据えてどうにかしなければとリキむこともなく「こういう人なんだから」と・・・とゆったりと共存していた記憶があります。

情報量が少なく、速ければ良いという価値観もなく、自分の見たもの感じたことを、ゆっくり咀嚼して肯定できる「時代」であれば、調整という時間のかかる関わりが成立しそうですね。

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