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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年10月

2014年10月27日 (月)

ミーハーアスぺの方はいる?

 私のパートナーは,いわゆる「社会的な地位」みたいなものには本当に無関心だと感じます。相手が地位が高い人だろうが,低い人だろうが,全然関係ないというか,「その人がどういう人か」だけが問題というか,そんな印象があります。

 ですから,きわめて現実的なこととして,「お金が足りない」とか「もっと稼いでほしい」というようなことは何度か聞かされたことがあったと思うのですが,いわゆる出世とか,そういうことは全く求めないし,関心もないみたいです。逆に社会的には「低い」評価を受ける地位でも全然気にならないようにも見えます。

 私の場合,結構ミーハーなので,たとえばたまたま街で有名人を見たとか,そういうことがあっただけで,嬉しそうに彼女に話したりすることもあるんですが,まず間違いなくあっさりスルーされますね。「だからなんなの?」というわけでしょう。たしかにそう言われれば,別に何でもないわけです (^ ^;)ゞ

 昔ちょっとかじった心理学の話で,人は有名人とかとであったり,知り合ったりすると,別に自分が偉くなったわけでもないのに,そのことだけでちょっと偉くなったように感じる,みたいな話があって,面白いなあと思ったことがありますが(虎の威を借る狐でしょうか),なんかそういう感覚が全然ないのかなあと想像したりします。

 子ども同士の喧嘩でも,「おれのおにいちゃんなんか,強いんだぞ!」とか,そうやって相手を威嚇しあったりしてるのを見ることがありましたし,そんな風に何か世の中で認められた「力」とか「人気」とか「権威」とか,そういうもので自分を飾ろうとする欲望みたいなものが,定型にはものすごく根強いんじゃないかなと思うんです。

 そのへん,男性と女性とでもだいぶ違うでしょうけれど,女性同士の仲間関係とかも結構シビアな張合いもありそうな気がするし,ブランドにこだわるような方も少なくなさそうですし。

 なんか彼女にはそういう感覚がすぽーっとないような気がします。ほんとにひたすら実質だけが問題というか。

 「うわべで人を見ない」というところはすごくいいなあと思うんですが,同時に私の中のミーハー的な部分とかには全然反応してくれなかったり,共感せずに,冷たくあしらわれるところは寂しくも感じます……

 この辺も定型アスぺの違いに関係するのかなあと思ったりしています。まあ定型の中でもその辺個人差も大きそうですけど。

2014年10月26日 (日)

もうひとつの「普通」

 定型アスぺの葛藤の中でしばしば問題になる「普通」という話ですが,たぶんその「普通」を持ち出すのはだいたい定型なのでしょうね。アスぺの相手の方の言動がまるでわかんなくて,こまって文句を言ったりして,それにたいしてアスぺの方が何を問題にされているのかが分らないから正直に尋ねると,今度は定型の方が混乱しちゃって,そこで出てきやすいセリフです。「普通そうしないでしょう」っていうやつですね。

 もうそんなの説明しようにも,定型としてはなにも考えずにやってることだから,改めて言葉で説明できないわけです。それで「そんなこといちいち言わなくてもわかるでしょう」となる。まあ,たとえば「あなたは右手の親指をどうやって曲げますか。やり方が分からないから言葉で説明してください」と言われたとしても,「ほら,こうやって」と動かして見せてあげるくらいしかやりようがないわけです。

 お医者さんなら何とか筋をどうやって動かして,とか説明できるかもしれないですが,「じゃ,そのなんとか筋はどうやって動かせるんですか」とか聞かれたら,もうアウトになりますよね。別に意識してそれを動かしているわけじゃないですから。「なんとか神経で指令を出したらいいんです」とか,そんなことを言ってみてももちろん同じです。で,「普通そうでしょう」という呪文に逃げ込むしかなくなる。定型同士ならそれで通じますし。

 アスぺの方はそういうわけのわかんない「普通」でいつも怒られるわけですから,「普通」に対して不信感を持っても不思議ではありません。

 それで,繰り返し引っ張り出して申し訳ないですが (^ ^;)ゞ, トマトさんが何度か言われていることに,定型の側は何人かのアスぺの方と交流した方がいいということがあります。まあ一般論としてはいろんな経験を積んだ方が積まないよりいいだろうとは思うわけですが,もう少しその「きも(肝)」が分らない感じがしていました。

で,最近改めて思ったんですが,それって要するに「もうひとつの<普通>を見つけること」の意味なんじゃないかということです。定型は他の人との気持ちや考え方のすり合わせとか調整をして,お互いの見方や感じ方や価値観などを共有することをかなり重視しています。もちろん「私は独立独歩,自分の道を行く。群れて生きるのはいやだ」という人や場合も定型にもあるわけですが,ベースにはやっぱり他の人との価値観の共有みたいなことがあるし,「己の道を進むのはカッコいい」みたいな価値観がそこに絡んでたりして,そこには「他の人もそのカッコよさを認めてくれるだろう」という思いがなんとなくあったりするようにも思うので,その意味でやっぱり定型的です。

 ですから結局定型は他の人といつも「普通」というひとつの基準をすり合わせて生きようとしているし,時代を変える人はそこで「新しい普通」を作り上げたりもするわけですね。もう定型はほんとにこの「普通」から逃れられない生き方をしているように感じます。

 それで,もしその定型がたったひとりのアスぺの方と向き合っていたとすれば,その相手の方は自分の普通には全然あてはまらなかったりします。だからとてもしんどくなる。でもそのとき,二人目,三人目のアスぺの方との交流があって,そこで「この人もそうだ,またこの人もそうだ」ということになれば,「この人たちの普通」というもうひとつの「普通」がそこで見えてくることになる。

 で,定型というのは(アスぺの方と同様)自分の見方で相手を見てしまいますし,自分が普通と思っているものを相手にも押し付けがちですが,ただ同時に「自分とは違う,もう一つの普通」というのが見えてくると,それでちょっと相手との距離をうまくとれるようになったり,たんに自分の感情で反発したりせずにすむ場合が出てくるように思います。

 前にも少し書いたことにつながってきますが,相手のことを理解するというとき,特に定型の場合は「この人はどうなのか」という,私と相手の二人だけの関係での理解はすごく限界があるんでしょうね。どうしてもそこで「この人たちはどうなのか」という要素が必要になってくる。

 これはいつも問題になることですが,「この人たちはどうなのか」という見方だけが暴走してしまうと,「アスぺの人はこういうものだ」という決めつけが始まって一人ひとり個性的に生きている姿が見失われてしまいますし,それは場合によってひどい差別も生んでいくでしょう。でも,だからと言って「この人たち」という見方を捨てて「この人はどうなのか」という見方だけに閉じこもってしまうと,それはそれで出口のないブラックホールに吸い込まれるようなことになりかねない。

 その両方の見方をうまく行き来しながら,バランスを探して関係を調整していく,という作業が,少なくとも定型の側にはどうしても必要になるのかなと思いました。その時に手掛かりになるのは「もうひとつの<普通>」を理解することで,そのために複数のアスぺの方とある程度密な交流をすることが大事になるのでしょう。

 

2014年10月24日 (金)

ネットと定型アスぺ関係

 

トマトさんがコメントで書いてくださったことですけれど,「ASに苦しめられている、定型に傷つけられている・・・そんなリアルな暮らしの中で、ブログでは「あ(り)がとう」が言い合える関係になれる。」ということ,もしかするとかなり重要なことじゃないかなという気がします。

 定型アスぺ問題のむつかしさって,お互いの距離の取り方のむつかしさでもありますよね。自分にとって心地よい距離感がずれるとか。そこでいろんな傷や苦しみが生まれる。

 そういうむつかしい距離感の問題を抱えた人間同士が,ネットという特別な場で,お互いにとって無理のない,適度な距離感を持てることがあると,そんなことなのかなと思います。

 もちろん,ネットはそれ特有のむつかしさもあって,炎上とかもそのひとつですし,それもまた距離感がうまくつかめないことが大きな原因の一つかなと思うのですが,でもネット上だからこそ,面と向かってはとりにくい距離感を保てることもあるんじゃないかと。

 ひとつにはネットはそれぞれが自分のペースで参加できる,ということが大きいかもしれません。うまくやれば自分で適当な距離を保ちやすい。匿名ということも,そういうところでは有利に働くかもしれないし。

 もちろん人間ネットの中で生きているわけじゃないので,実際の生活の中にネットもあるわけですけれど,そのネットの中のこういう定型アスぺ関係が,実際の生活の中の定型アスぺ関係にとってとても役に立つものになる可能性を感じます。

 「ネットがあるからこそできる実際生活の中の定型アスぺ関係」とか,そういう新しい世界が見えてきているのかも。

 

うーんと,無題です (^ ^;)ゞ

 ここ数日の,かずきさんやあおいよる。さん,杜若さん,碧さん,無名さん,アスぺ父を持つ娘さん,ナプンさん(掲示板),トマトさんのやりとりを拝見していて,ほんとにすごいなあとしみじみ感じていました。

 定型アスぺの関係の中でも,こんな風にお互いに語り合ったり支えあったりできるんですね。もちろんそれはアスぺの方の中でも「浅瀬」と言われる,比較的「自閉度」の低い方と定型との間だからこそ,ある程度可能になったことなのかもしれません。でも仮にそうだとしても,私の「すごいなあ」という印象は全然変わりません。

 幾度か炎上を経験しながら,やっぱり無理なのかなあと半ばあきらめに近い気持ちを持つこともありましたが,でも地道な交流が大事なんですね。そういうあきらめないしつこさは大切なのかなあと思いました。

 

 最近パートナーのことでちょっと思い始めたことなんですが,これまでとてもしんどい思いをしてきた,彼女の私に対する「否定的な言い方」について,それって独特の気の許し方とか,信頼の仕方とか,あるいは親しさの表現,というふうにも考えられるかも。

 というのは,彼女は「仕事モード(他人モード)」ではそんな否定的なことは相手に言えないわけで,常に本心を抑えて周囲に対応しなければならない。で,相手が私だからこそ,そういう構えのない率直な気持ちを伝えてきているんじゃないかと,まあそんなことを考えてみたわけです。

 もちろんそういう見方は私が自分のしんどさを何とかするために,無理やりこじつけたものになっている可能性もあるわけですが,まあでもひとつの見方として,ちょっと考えてみてもいいかなという気にはなっています。

 それにしても,人間の愛憎関係ってほんとに複雑だし,ややこしいし,むつかしいですね。私はどっちかというと,そういう世界は苦手で,距離を置きたい方だったから,それでパートナーの「さらさらした感じ」にすごく引かれた部分もあるわけですが,でも定型アスぺ問題に本気で向き合おうとすれば,結局その問題を見ないでは済まされなくなるようです。

 なんだかみなさんのやりとりなどを拝見しながら,自分が理解している世界の浅さとか小ささとか偏りを,今更のように感じさせられているのは,ほんとに馬鹿みたいですね (^ ^;)ゞ  


 なんのまとまりもない話で失礼いたしました m(_ _)m

2014年10月22日 (水)

定型アスペの阿吽の呼吸?

私は朝はパンを食べることが多いんですが、焼くときはオーブントースターを使います。

ネット(?棚?)にパンをのっけて上下のヒーターで、いっぺんに両面を焼くわけですが、なぜかパートナーはそのネットの上に、グラタンを焼くときなどに使うプレートを置くように言っていました。でもそれをするとパンの片面だけ焼け目がついて、折角両面が焼ける仕組みの意味がなくなってしまいます。

それで理由を聞くんですが、プレートを置かないと、パンの粉が下に落ちるからと言ってました。でもそのためにオーブンには下が引き出せるようになっていて、気になれば掃除は簡単です。それなのに何でそんなことを気にするのか、本当は(?)何が問題なのか理解できませんでした。

それでもアスペ定型問題に気がついてからは、とりあえずは彼女の言う通りに、プレートをのせて焼いていました。その意味は全然分からないままでしたが。

今朝、またパンを焼きながら、ふといつの間にかまたプレートを置かないで焼くようになっていることに気がつきました。考えてみるといつか、まあ別にいいかと思ってそうするようになった気もするんですが、何がきっかけでそうなったか、それがいつ頃のことかは全然思い出しません。

パートナーも今はその事については何も言いませんから、別にお互いに話し合ってそうしたとか、そのそんな大袈裟なことでもなく、なんとなくお互いバランスを取り直したのかなあと、そんなことを思いました。

一緒に生活していけば、そんな風にいつの間にか調整していることも結構あるんでしょうね。定型アスペの阿吽の呼吸でしょうか (^_^)

2014年10月19日 (日)

ブログの役わり

 このブログを私が書き始めたのが2010年12月21日で,あと二か月もすれば4年目に突入です。書き始めたころは自分が自分の思いを整理することが一番の目的でしたし,その中で多少なりともこの問題の当事者のみなさんと交流することができればと思っていたくらいでした。

 けれどもその後,紆余曲折はありながらも,本当に多くの方のコメントを頂き続け,カウントも気が付いてみればもう90万に届こうとしています。仮に一人の方が平均して30頁位をお読みくださったとすれば,今までにもう3万人位の方が見てくださったことになりますね。アスぺの方が人口の1%とすれば,日本では120万人位。アスぺの方と深いかかわりを持つ定型アスぺ問題当事者の方がその3倍とすれば360万人になりますから,そのうち1%弱の方がある程度繰り返してご覧になった勘定でしょうか。(ま,いい加減な計算ですけど (^ ^;)ゞ)

 ログを拝見すると,コメントはなさらない方でも,本当に毎日のように熱心に読みに来てくださる方も少なくないようです(もちろん,それがどなたなのかは全然分らないのですが,ログごとに最近何回位来られているのかは見られる仕組みになっています)。

 基本的にはブログの記事は,自分がその時に気になったことや考えたことなどを好き勝手に書いてきただけですので,私とパートナーの関係が少しずつ変わってくるのにも伴って,そのテーマもまただんだんと変ってきているように思います。(あんまりちゃんと振り返って考えたことはありませんし,昔の書いたものは殆ど読み返してないので,なんとなくの印象ですけど)

 もちろんパートナーとの関係だけではなく,みなさんとのコメントを通したやり取りの中で,私の中でも本当に多くのことを学び,考えを深めたり広げさせていただいていますし,そのことによってまた記事の中身が大きく変わってきているようにも思います。

 そんな中で改めてこのブログって何の役割を果たしているんだろう,このブログがある意味って何なんだろう,ということをちょっと考えたりします。

 「最近感じること」にもちょっと書きましたが,定型アスぺ間でそれぞれが自分の経験や悩みを振り返ったり,お互いに相手を理解する糸口を探したり,そういう交流の場になってきたということはひとつありそうです。

 そういう場ができるということは,定型アスぺの問題で悩んでいる方にとっては,「こんな風に対話する可能性もある」ということを感じていただける役割を果たせるかもしれません。またすでに身近にそういう対話の関係やつながりを作られている方には,「次の一歩を探る」何かの手掛かりを,皆さんのコメントなどから得られる場になっているかもしれません。

 ただ,そのような形でこの場を利用して頂ける方は,やはり定型アスぺ問題になんとか前向きに向き合おうとされる方に限定されるかもしれません。

 なんでそんなことを改めて書くのかというと,頂くコメントの中に,ご自分の辛さを書かれるというよりも,誰にもぶつけられない恨みを投げかけているような印象のものがあったりするからです。

 もちろん,そんな風にこじれる可能性を持つまで,問題が深刻であることは明らかですし,そのつらい状況をごまかして表面だけつくろっても意味はないわけです。ですから,その深刻な問題を投げかけられること自体は大切なことだと思いますし,そこから学べることも本当に大きい。実際,「恨み」ということではありませんが,ほんとに深刻な問題を投げかけてくださっているアスぺ父の娘さんからもとても大きなことを教えていただいています。

 ところが,ログで見てみると,恨みを投げかけるようなコメントをされた後は,全く来られない方もあるようです。もちろんいろいろな御事情があるのかもしれませんけれど,いずれにしてもご自分が投げかけられた問題について,この場で一緒に考えようということではなかったのでしょう。

 ご自分の抱えられた現実の中で,どう考えても前向きに考えられるような状況を持てず,ただ絶望や恨みを抱くしかない孤立を生きられる中で,その方の場合はそんな風に結果としてただ言い捨てるだけでもう来られないようなやりかたにならざるを得ないのでしょうか。

 そういう方にとってはこの場は無力なのかもしれません。まあ,全ての方のあらゆる場合に対話的に臨んでいただけるような場は、望むべくもなく、そのこと自体はしょうがないのでしょうけれど。

   (コメントでご指摘を受け、一部舌足らずの表現を補足しました)

   

2014年10月17日 (金)

「仮にそうだとして」というスタイル

 今朝,親の介護のことでパートナーと話をしていたときにふと思ったことがあります。

 前にも記事で会話をしていると,思わぬところで「話の腰を折られる」という感覚になることについてちょっと書いてみたことがありました。私からすると,話の本筋とは思えない細かいところで「それはどういう意味?」とか「なんでそう言えるの?」とかにこだわってこられて,言いたい話にたどり着けなかったり,くじけて話す元気がなくなったりしてしまう,というようなことです。

 今朝もちょっと久しぶりにそんな感覚が生まれるやりとりがありました。ただ,今はお互いにだいぶその辺は「そういうことがある」ということを分ってきたのか,なんとか話を先に進められたのですが,その後,「ああ,この会話のズレって<仮に>という聞き方をするかしないかの違いなのかな」と思ったんです。

 例によってすでにみなさんからのコメントで教えていただいていることなのかもしれませんが,その辺は私の理解力のなさということでお許しいただくことにして (^ ^;)ゞ,定型の場合も,相手の話を聞いているとき,相手の言うことを全て理解できているとか,納得できているということはないと思います。全然ないわけではないでしょうけど,むしろまれなんじゃないでしょうか。

 でも,途中で「え?それどういうことなんだろうな?」とか,「そこはちょっと違うような気もするけどな」と思ったとしても,そこでいちいち尋ねたりはあまりしないで,「仮にそうだとして,この人はその先何を言いたいのかな」というふうに聞き続けることが結構あるような気がします。それで先の方まで話を聞いていると,さっきよくわかんなかったことが分ってきたりすることもあるし,やっぱり違うなあと思うこともあるし,その段階で改めて必要なら尋ねてみるとか。

 あるいは人によってはわかんないところや違うと思うところは適当に聞き流して,理解できたり納得できたり共感できたりするところだけ,「うん,そうだね」とか応じて「角が立たない」ようにするタイプの方もあるように思います。

 どちらにしても,相手の話に分からないところがあったとしても,「仮に」そこは置いておいて「その先にこの人は何を言いたいのかな」というところに気持ちを持って行くことをするんですね,たぶん。

 それに対してアスぺの方は,この「仮に」という聞き方が少なくて,ひとつひとつ自分の納得する形で理解を積み上げていく姿勢がすごく強いのかなと思ったわけです。

 「障がい」という理解の仕方でもし説明するのなら,定型の方は自分と相手とか,複数の人の見方や視点を組み合わせて理解を進められるのに,アスぺの方は一つの視点で理解を組み立ててしまい,違う視点を自由に組み合わせたり切り替えたりすることがむつかしい,とか,そんな話になるんでしょうね。それで「仮に」という形で自分の視点から相手の視点に切り替えることもだからむつかしくなるとか。

 ただここでは障がいかどうかということはあんまりこだわらずに,自分の特性に合わせたスタイルの違い,ということで考えてみたいんですが,そうすると,コミュニケーションについて,定型とアスぺではかなり大きなスタイルの違いがあることになります。

 定型の場合,コミュニケーションは「相手との調整」みたいなことにウェイトが強くあって,お互いに納得できなかったり,理解できなかったりする部分があっても,バランスを重視して先に進むというスタイルをよくとるのにたいして,アスぺの方の場合は「相手に話を聞いて自分の理解をしっかりと積み上げていく」ことにウェイトが強くあって,自分が納得できないところが出てくると,話を進めることよりそこが大事になる,というスタイルになる。

 そうすると,同じようにコミュニケーションをしたとしても,そのコミュニケーションで何をしようとしているのか,お互いに気づかないままその目的が微妙にずれちゃったりしているので,なんか話がスムーズに進まないし,お互いに困っちゃうんじゃないでしょうか。

 目的が微妙にずれちゃうということは,コミュニケーションに何を期待しているか,ということがお互いにずれちゃうということでもあります。そうするとコミュニケーションに期待しているものがなかなか得られなくて,それで消耗したりということも起こるでしょう。

 これって,やっぱりお魚を八百屋さんに買いに行って,みつからないのでショックを受けて悩んじゃう,みたいなことになっているのかもしれません。八百屋さんではおいしい野菜を見つけて満足できればいいんだけど,そこでそこが八百屋さんだということになかなか気が付かなくてショックを受ける,みたいなことが起こっているのかも。

 まあ,でも魚屋さんだと思ったから行った(結婚した)のに,いや,ほんとうは八百屋だと言われてこまっちゃう,みたいな話もあるんでしょうけれど。そのとき,「まあ,でも八百屋も自分には大事だし,魚屋さんの他に八百屋にもよろうと思ってたし」とか「八百屋なんだけど,時々はサービスで魚も仕入れてみようか」みたいなこととか,そんな気持ちや態度の調整が可能なのかどうかも問題になるのかな。

2014年10月16日 (木)

臭いに敏感な理由

 私のパートナーは臭いに敏感です。私からすればびっくりするくらいにかすかなにおいも感じるみたいだし,ですから私が普通に感じるにおいについては強いにおいと感じるみたいです。

 そんなふうになにかの感覚が定型に比べてすごく敏感だとか,過敏だとかは,アスぺの方のひとつの特徴のように言われたりしていますけど,なんでそうなのかについて,ふと思ったことがありました。

 以前,全盲の方の本を読んだことがあるのですが,ほとんどスーパーマンのように思えることがあって,たとえば(前にも書いたかもしれませんが),初めて入る部屋のドアを開けると,部屋の大きさとか,大きなものの配置とかがだいたいその瞬間にわかっちゃうと言います。歩いていて前に何か障害物があると,それもわかってすっとよけられる,とか。

 なんでそんなことが可能なのかというと,音で分かると言います。部屋の場合はドアを開けた音が部屋の中に反響して,それで戻ってきた音でどのあたりに固いものがあるか,やわらかいもの(ベッドとか)があるかわかっちゃうんだそうです。道を歩いていて,足音の反響で前方の障害物が分かるとか,そういうこともあるみたいですね。

 これ,盲の人は生まれつき脳の聴覚の部分が特殊な能力を備えているとか,そういう話ではないみたいですね。幼いころに事故とかで失明しても同じような力を獲得するみたいですし(大人になってからだと限界があるみたいですが)。つまり,だいたいだれでも状況次第でそういう能力を獲得する可能性があるわけです。

 で,その話と臭いに敏感だという話がふと私の中で結びついたんですが,人間って,たとえば目が見えなければ,それに代わる能力をものすごく発達させて,晴眼者が空間を「目で見る」ように,空間を「耳で見る」力ができちゃうわけです。で,そういう力って晴眼者を基準にすれば「過敏」とか言われたりすることもありうるのでしょう。

 アスぺの方は,この世の中を渡っていくに当たって,定型が普通に手掛かりにするような,他人の感情の表現とかを使うことが苦手なわけですよね。例えて言えば人の感情については「見えない」とか「見えにくい」というような状態がある。

 でも,それだといろいろと困ることが起こるわけで,それに代わる別の手掛かりを使って,世の中を理解しようとする,ということが無意識に起こったとすれば,そこでたとえば「におい」を一つの手掛かりにしてその感覚をものすごく研ぎ澄ませることもありうると思ったわけです。実際人の臭いってその人のいろんな状態とかが現れるみたいだし(たしか犬が癌の人のにおいをかぎ分けるという話もテレビでやっていたような),なんか手掛かりになるんだと思います。

 もちろんこれは私の思いつきに過ぎませんので,本当はどうなのかはわかりませんけれど,一つの可能性としては結構ありそうだなという気がします。もしそうなら,アスぺの方の「特徴」には,「感情が見えない(見えにくい)」ことが原因になって,特別にあるやり方や能力が代わりに鍛えられた結果,そうなる,というものが他にも考えられるんじゃないかと,そんなことをちょっと考えました。

最近感じること

 最近ここで皆さんからいただいているコメントとか,掲示板の方の書き込みや最近のトマトさんとみなさんのやりとりとかを見ていて,定型アスぺのコミュニケーションということについて何かまた一歩進むことができたような気がしています。

 ひとつには,定型アスぺのどちらの側の方も,自分が悩んだり考えたりしてきたことについて,書きながらご自分のことを改めて考えたり,似たような経験を他の方の書かれたものに見つけて,励まされたり考えを深められたり,そしてそのことをまた書き込まれたり。特に定型同士,アスぺ同士,といった形でそういうやりとりが多くなっている感じがします。

 もちろんこれまでもこの場でもそうですし,あるいは定型の方中心のブログやアスぺの方中心のブログなどでは,似たような体験をされた方同士が同じようなやりとりをされることはあったと思うのですが,それと少し違うように思うのは,ここでの定型同士のやりとりも,アスぺ同士のやりとりも,定型アスぺの間でお互いに理解を深めるためにも,というような気持をなんとなく感じることです。

 それだからでしょうか。それぞれの皆さんが本当につらい体験を書かれる時や,場合によって自分が抱いてきた不信感を語られる時でも,そのことで定型がアスぺの方たちを否定するとか,その逆とか,そんな感じとはちょっと違う気がします。「自分(たち)は,こんなところで苦労させられているんだよ」ということを,相手にも理解してもらうためにも書かれている部分が結構あるような印象を持つんです。

 まあ,私が勝手に感じているだけなので,思い込みかもしれませんけれど (^ ^;)ゞ,でももしそうなら,ほんとによかったなと思います。自分の抱えてきた問題を素直に語ることで定型同士やアスぺ同士で学んだり支えあったりすることが,同時に定型アスぺの間でお互いを理解しあうことにもつながる場になりつつある,というふうに思えるからです。

 ネットという場で,顔の見えない者同士のコミュニケーションは,ともすれば「炎上」のように激しくお互いを傷つけあうようなことも起こりがちですし,独特のむつかしさがあると思うのですが,でもこの場ではむしろその「顔が見えない」ということが,プラスに働いているような気もします。顔が見えない者同士だからこそ,「書ける」こともあるように感じるからです。そしてそれがお互いの理解にも役に立つ。

 ネット上のやりとりのむつかしさや不安定さとかもあるし,そもそもコミュニケーションというのは「生もの」でいつどうなるかはわからないところがありますから,これからこの場がどんなふうに育つのかは私にもわかりませんけれど,でも少なくとも今のところは何か大事な一歩を進められているのかなと,そんな気がしています。

2014年10月15日 (水)

最近の若者

「最近の若い者は」という文句の付け方は,
ある程度の年になるとすることらしいですね。
エジプトのピラミッドだったか,古代の文章を解読したら,
やっぱり「最近の若い者は」という文句が書いてあったとか。

以前,「最近の若い者は」という話を何かで読みました。
アルバイトに来た若者に,倉庫の掃除を頼んでおいて,
そのまま何時間か忘れていて,倉庫に戻ってみたら,
その若者がまだ掃除をしていたというんです。
掃除と言ったって,床を掃くくらいの話で,
そんなのすぐに終われる仕事なのに
自分で判断しようともせずに「言われたから」と言って
やり続ける姿に「最近の若者のずうずうしさを感じた」
みたいな話でした。

今思い返してみたら,その若者って,
「最近の若者」じゃなくてアスぺの人だったんじゃないでしょうか。
そうなら「ずうずうしい」という話とは全然違うんですけどね(笑)

まあ,人の理解の仕方はいろいろですね……

2014年10月14日 (火)

話せばわかる?

 素朴にふと思ったことです。

 「話せばわかる」という言葉があります。
 そんなに簡単じゃないよな,と私は思ってきました。
 それでも話そうと努力はしてきたのは
 「分らないから話す」という思いがあったからなのかもしれません。

 でも,アスぺの方が置かれ続けている状況というのは
 そういう気持ちにもなれないくらいに
 「話しても話さなくても分らない」のかもしれません。

 そんな厳しい状況を生きるとすれば,自分はどうなるんだろう?

 ……というのは定型的な「分ろうとするしかた」なのかな。

2014年10月12日 (日)

「魔法の鏡」

 掲示板でアスぺ父を持つ娘さんのお話を拝見しながら,ひとってどれほど矛盾した思いを深く深く抱え込みながら生きているんだろうと,改めて感じています。

 普段,ふつうにひとが生きているときは,その矛盾については適当にバランスがとれていて,そんなに矛盾を意識しなくてもすごせるのでしょう。でも,いろんな原因でそのバランスが崩れると,いろいろなものが噴出してくることになる。

 その矛盾は一人の人の気持ちのなかにも生まれるし,でも決してそれでおさまるものではなくて,人と人とのかかわりやつながりのなかにも生まれるし,そのどちらもが,いってみればコインの裏表のように切り離せない関係にあるのだと思います。

 アスぺの方は自分の中で問題をなんとかしようと努力されていて,それはそれでひとつの「覚悟」として立派にも感じますし,最近はそういうパートナーの姿に自分にはまねできない偉さを感じたりもします。

 とはいえ,反面でその努力が定型アスぺのズレの中で,周りには受け入れられることが少なく,自分の中の矛盾をますます深めて行ったり,周囲との間に生まれる軋轢に苦しめられることにもなる。

 定型の方は自分の「当たり前」がまったく通用しない事態に混乱するしかなくて,いろいろあがけばあがくほど,それまでなんとかバランスをとっていた自分の中の矛盾がいろんな形で噴出してくることになる。定型アスぺのカップルの,定型の側も鬱になったりいろんな形で社会適応しにくくなってしまうのは,それだからなんでしょうね。

 アスぺの父を持つ娘さんのお話ですごいなあと思うことの一つは,もうご自分も,家族も世間的には「ぼろぼろ」になっているとみられるような状況になって,その中にもがき苦しみ続けるしかなくて,でもそういう状況の中でなお,生き抜こうとされていることでしょうか。そしてそのときに生きるというのは,どうしようもない矛盾を引き受けていくことでもある。

 なんだか自分のこれまでの生き方が,ある意味薄っぺらいものにしか目を向けてこられなかった面を改めて感じます。人ってだれもが,ほんとに深い矛盾を抱え込んで生きているのに,そのほんの表面しか見ようとしなかった,とでも言うのでしょうか。

 そんなふうに考えてみると,アスぺの方の言葉がなぜ定型には辛いことがよくあるかもわかる気がしてきます。アスぺの方の視線は,定型的な視線を共有しずらい分,定型的な視線ではなかなか見えてこないものが見えてきてしまうのでしょう。

 そこは定型が定型的「常識」というバランスの中でいつもは見ないで済ませている部分だから,そこを突かれて動揺したり,傷ついたり,激しく怒ったり,そんな風になるんでしょうね。もちろんアスぺの方はそうしようと思ってそうしているわけではなく,単に素朴にご自分が見ているものをそのまま語っているだけなので,定型のそういう姿を見て,訳が分からなくてまた混乱されるわけです。

 ネバーエンディングストーリーという物語がありましたけど,その中で勇士アトレイユが受ける数々の試練の最後の方に,真実の自分を映し出す魔法の鏡に向き合うという課題が出てきたと思います。人間だれしも自分のことをそんなにひどい人間だとは本気では思いたくないわけでしょうし,いろんな自分に対する幻想を持って生きているのでしょうけれど,もしそういうものを全部ひっぺがして,裸の自分を見せつけられたら……という怖い課題なわけです。

 「本当の私」なんてあるのか,というややこしい話はここではまあ置いておくとして,でも定型アスぺ関係の中で,定型にとってアスぺの方はある意味そういう「魔法の鏡」なのかもしれません。自分が抱えている矛盾をそのまま映し出して,定型的なごまかしとか幻想を全然許してくれないのですから。よほど鈍感になるか,よほど強くなるか,よほど素直になるか……,なんにせよ定型にとってはものすごく大きな課題を突き付けられるのかもしれません。

2014年10月 7日 (火)

オンリーワンの関係

 またまた引用させていただいて恐縮ですが,あおいよる。さんのコメントにあった言葉から,定型アスぺカップルの独特の意味のようなものを感じ取りました。あおいよる。さんは定型アスぺの関係について,

『その人と自分との、互いのインプットとアウトプットの擦り合わせ』のような、非常に個々人の、個別性の高いもの

 という形で表現してくださいました。それを私なりに理解してみると,こんなことかなと思いました。

 アスぺの方はいろいろな人とのすり合わせをしていくよりも,自分自身の中の個性的な世界を作り上げていく傾向が定型より強いのだろうと思います。そういうアスぺの方と定型がつながりを作ろうとした場合,もちろん定型にとっての「常識」をそのまま使える,ということはないでしょう。

 ではそういう定型的な「常識」とは違う,「アスぺ的な常識」を探して身につければそれでうまくいくでしょうか。

 たしかにある程度は,「定型とはこういうところが違う」という共通点はあるだろうと思います。そしてその違いについての理解は,きっとアスぺの方とつながりを作ろうとするときに多少なりとも手掛かりにはなるでしょう。

 でも,少なくとも定型的な「常識」がかなりいろんな人にそのまま使えるのと同じような感じで,「アスぺ的な常識」が見つかり,使えるというふうには簡単には言えないでしょうね。そのことはこれまでトマトさんをはじめ,いろんな方が繰り返し言われていたことのように思います。

 ということは,たとえアスぺのAさんとのつながりがだんだんとうまくできるようになったとしても,Bさんとのつながりがすぐに同じようにできると期待することはむつかしいのかもしれません。

 それぞれの方の作り上げてきた世界がすごく個性的であれば,その方と作るつながりもまたその人との間にしか通用しないような深い個性を持つものになるのではないでしょうか。

 もしそうだとすれば,定型アスぺのカップルというのは,すべてがものすごく個性的なカップルで,その二人で作り上げる世界は,決して他の人が入り込むことのできない,その人たちだけのオリジナルな世界になるのかもしれません。

 言ってみればオンリーワンの世界,でしょうか。そのことに意義を感じられたとすれば,定型アスぺのカップルだからこその価値がそこに見出されるのかもしれません。

2014年10月 6日 (月)

発達の「同じ」と「違う」

 記事思い通りにならなければ」について,乳幼児の発達に関して知識をお持ちで,実際の関わりもされている,アスぺのあおいよる。さんから頂いたコメントと,精神科医の知り合いを持ちながら数多くのアスぺの方のサポートをずっと続けてこられている定型のトマトさんから頂いたコメント が,定型パンダの私の中ですごく面白くシンクロしました。

 私の理解がずれていなければ,あおいよる。さんが強調されていることは,たとえアスぺの子であっても,基本的な発達の順序は定型と共通していて,ただしそのペースが遅い(あるいはどこかで頭打ちになる?)ということなのではないか,という見方です。

 たしかに,どの子でもお座りができて,独り立ちができて,よちよち歩きができて,走ることができるようになって,という順番は変わりようがないですよね。言葉だって指さしができるようになって,単語を話せるようになって,文章を話せるようになって,という順番もたぶん変わりようがないでしょう。そういうところは定型でもアスぺの子でも,きっと同じなんだろうと思います。

 ただし,同時にカナータイプの子と付き合った経験からすると,たしかに言葉は出るようになるんですけど,その言葉の使い方がなんだかとても個性的なんですね。ちょっとすぐにいい例が思いつきませんが,何を言っているのかわかりにくかったり,スムーズな「やりとり」にはなりにくいたどたどしさがあります。「同じ」というだけでは説明しきれない,大事な違いがそこには感じられて,なんかやっぱり「自閉的」です。


 トマトさんの書かれていたことで私がすごく印象的だったことは
発達障害の子どもと母親の関係性で「この子は、ほかの家族や友達を必要としない。すべての人間関係を私ひとりでまかなおうとしている」という例は多い」というところでした。

 私なりにそれをどう感じたかというと,その発達障害の子どもたちも,他の子どもたちと同様,人を必要としているのですね。そこは同じです。ただ定型の子どもたちの場合はそれが母親だけでなく,いろんな人にも同じように広がっているのに,発達障害の子の場合は「母親だけ」になってしまう場合が多い,ということでしょう。

 そしてそういう傾向が,大人になっても続いている例が普通にあるというわけです。
職場でも「あの(どこからみてもASであろう)社員さんは、特定の1人の上司や同僚のみに完全服従、心酔しているように見える。他の人は眼中にないように排他的」という人が居ますが、こういうASの人はフツーに多いと思うんです。」

 で,お二人のコメントを合わせて考えてみると,定型であろうとアスぺの方であろうと,人とのかかわりの中で,人を必要としながら生き,その中で成長していくということ自体は基本的に変わりないし,その中でたとえば言葉の発達などについても,基本的なところは結構似たように進んでいくところがあるという見方ができそうです。

 ただし特に人を必要とするというところで言えば,定型はいろんな人に広くそれを求める傾向があるのに対して,アスぺの方はごく狭い範囲の方とのみ,ものすごく特別の関係を作る傾向がある,ということかもしれません。
 もし仮にそうだとして,どうしてそういう違いが生まれるのかについては,やっぱり定型的なコミュニケーションの取り方については,アスぺの方は理解がしにくく,応用も利きにくいので,母親とか特定の上司や同僚のみに力を集中して関係を結ぶことになり,定型から見ればとても不思議な人間関係の作り方に見えてしまうのかもしれません。

 あるいは,もともと定型ほどには「他者を求める」気持ちは少ないので,この定型社会で生きる必要もあって,その少ない気持ちをごく限られた人に集中するからそんな風になる,という見方もできるのかも。たぶんその両方なのでしょうね。

 まあ,みなさんのコメントを拝見したり,私の限られた経験などからパンダの白黒の目で思ったことですので,それでいいのかはよくわかりませんが,こんなふうに考えてみると,今まで整理できずにもやもやしていたことがちょっとすっきりする感じもあります。

男性カサンドラの互助企画

 定型アスぺ問題の定型側の当事者で,カサンドラ状態に悩んでいる女性のための集まりをされているSORAさんから,今度カサンドラ状態に悩む男性の集まりも企画されるということでお知らせを頂きました。

 私自身はちょっと直接参加させていただくことなどができませんけれど,もし関心をお持ちになった方がありましたら,御参考になさってください。


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お世話になっております。

東京で活動している「ハーンの妻達」のSORAです。

この度ニーズに合わせて、活動を柔軟に広げていくために、

「ハーンPLUS」を発足させました。

参加者を女性限定としている「ハーンの妻達」ですが、「ハーンPLUS」には、

男性の参加者を受け付けています。

まだ、活動内容は、未定ですが、参加される方のご要望に合わせて対応していく予定です。

プレとして、以下の情報交換会を実施します。

http://blog.livedoor.jp/khan2013214/archives/40502484.html


パンダさん、ご紹介いただき、ありがとうございました。

SORA

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2014年10月 5日 (日)

思い通りにならなければ

 パートナーからすごくわかりやすい話を聞けました。ここで書くのは私が彼女の話をヒントに考えたことですが,例によって定型的な感覚から出発して考えてみます。

 世の中,なかなか思い通りにいかないものですが((^ ^;)ゞ),ときどき,もうにっちもさっちもいかなくなることがあります。何をやっても裏目に出るし,周りがどうなっているのかもよくわかんなくなるし,自分も混乱して動揺してどうしていいかわからなくなる。とにかくぎりぎりまで追い詰められたような状態になる。

 そんなときってどうするでしょうか。大雑把に言って究極の形では二通りありそうです。ひとつは何もできなくなって,ぼーっとしてしまったり,あるいはひたすら内にこもったりする。もう一つは「ぷつんと切れて」怒りを激しく周りにぶつけ,強引に自分に従わせようとしたり,相手を屈服させようとする。

 最近の世の中を見ていてもそうですよね。ひたすら自分に閉じこもってしまったり,逆に激しく周囲に対して攻撃的になったり。個人でもそうですし,社会全体でもそうなっているような気がします。そんなふうに両極端を揺れ動いているように私には感じられます。

 「得体のしれない」定型多数派社会に生きているアスぺの方にとっては,もう生まれたときから(?)世の中というのは,そんなふうに「まったく思い通りにいかない」世界になる可能性が高いでしょう。当然いろんなフラストレーションとか,不安とか,そういうものがたまりにたまるはずです。

 そんな状態で安らぐことはむつかしいわけですし,精神は常に不安定に脅かされ続けることにもなります。その状況をなんとか生き抜いていかなければならない。

 そうするとひとつの有力な方法は,やっぱり自分に閉じこもって,周りに影響されない世界を作り,その中で安定を保つことです。人とのコミュニケーションは最低限にとどめておきたくなるでしょうし,ごちゃごちゃ考えずにお決まりのパターン化したものにしておきたくなるでしょう。

 もうひとつの方法は相手を支配することです。訳の分らない相手のやり方に合わせるのではなく,自分の理解できる形に相手を従わせることで,なんとか関係をわかりやすい安定的なものにする。

 アスぺ父を持つ娘さんのお父さんは,その後者の悲劇的な例ではないでしょうか。そのお父さんは世の中では全く受け入れられず,自尊心を傷つけられ続け,怒りをためている。せめて自分の家族の中では自分が素直な気持ちで生きられる場を作りたいと思う。でもなかなかそれがうまくいかず,結局は暴力的に従わせる形で目的を達成しようとする。

 パートナーの子育ての仕方に私が疑問を抱き続け,そして大きくなってから子ども自身も似たようなことを言うのは,彼女がものすごく子どもに対して「支配的」に見えたことでした。もちろん彼女の気持ちとしては「支配しよう」ということはありませんでした。だから私が「そういう支配的なやり方はよくない」と言っても,まったく納得しませんでした。

 彼女はあくまで自分が本当に大事だと思うことについて,子どもに一生懸命伝えていただけなのです。けれどもそれが子ども自身の自然な感覚などとずれてしまっているので,結果的に無理なことを強制していることになってしまっていたわけです。

 私との関係でも,彼女が一生懸命になるほど,なにか私には合わない,納得のいかないやり方などを強制されているような感じを受けることがしばしばでした。そしてそのことについて疑問を言っても,「なんで自分はあなたのためにこんなに頑張っているのに,そんな風に否定するのか」と言われてしまうんです。

 その後,定型アスぺのズレの問題にお互いに気づいて,彼女もだんだんと自分のやり方が相手には通用しない,ということを頭では理解してくれるようになっていきました。とはいえ,何が通用し,何が通用しないのかは予めはわかりませんから,その後もおなじようなことは続きます。それで私がそれに耐えられなくなってそう言うと,こんどは「やっぱり私がやることはよくないことなんだ」ということになって,それで「関わりを減らす」という方向,自分の中に閉じこもる方向に進みがちになります。

 

 何が原因で「思い通りにならない」のかについては,個人個人でももちろんさまざまですし,もうすこし大きく見れば,定型の場合とアスぺの方の場合でそれぞれに違ったものが原因になりやすいでしょう。けれども,「思い通りにならない」状況で,ぎりぎり追い詰められて行った時に,どうやって自分を守ろうとするか,ということを考えてみると,その基本的なやり方は定型もアスぺもかなり共通していないでしょうか。

 アスぺの方の方が圧倒的に少数派で孤立しているので,その追い詰められ方が半端ではなく,調整してごまかしたりすることも困難なので,それが極端になるということはありそうですが,でもその極端さは定型のやりかたの延長上にあるような気がします。

 「そもそも人に対して無関心だから自閉的になる」のか,「人との関係が取りにくいから自分の世界を大事にして周囲とのかかわりを減らすようになる」のか……。私は両方が絡んでいるような気がします。そして今までの自閉的な傾向についての理解は,ちょっと前者の面を強調しすぎているんじゃないかという気がしています。アスぺの方も,決して人を必要としていないわけでも,ひととのつながりを求めていないわけでも,共感を必要としていないわけでもないと思えるのですが,前者の話だけではその面を見えなくしてしまうのではないでしょうか。

 
 

 

 
 

2014年10月 3日 (金)

定型的共感はアスぺ的世界に届く?

 記事「「嘘」をつき続けられたら」に あおいよる。さんから頂いたコメント に,こう書かれていました。

>おっしゃられているそのとおり、だと感じました、昔と今のわたくしがそれです。


 私が想像したことが少なくともあおいよる。さんには的外れではなかったということで,ああ,よかったと嬉しかったですし,また相互理解や「翻訳」の可能性について,一歩前に進めたような気持です。

 特に今回感じていることは,私としてはあくまで私の持っている「定型的な想像力」で「共感的」に理解をしてみたことが,ある程度アスぺの方の状況を理解し,共有するうえで役に立ちそうだということです。

 私の言う「定型的な想像力」とか「共感」というのは,素朴に言えば「相手の身になってみる」ということです。「もし自分が同じような状況に置かれたら,きっと同じような感じになるだろうなあ」という思いになることです。

 ただ,同じことに対しても定型とアスぺの方とでは感じ取り方がまったく反対になったりしますから,今の自分をストレートに相手の状況においてみたとしても,「わけわかんない」ということになることが多いでしょう。たとえば,病気などで辛いとき,食事の世話など最低限のことを除いて接触を控え,スキンシップをしてあげたり話し相手になってあげたり,励ましたりはせず,あとは完全に一人にしておく,というのは,定型の場合はそれをされると寂しく感じることが多いでしょう。定型はもうすこし相手からの気持ちのケアを含んだ接触を望む傾向が強いからです。「病気は気から」といったような言い方からもそれに関係するのでしょう。

 ですから,そういう定型的な「常識」を疑わずに前提にして,それで「相手の立場に立つ」ことをいくらやってみても,決してアスぺの方の気持ちを理解することはできないはずです。全然逆になってしまいます。

 でも,少し努力すれば,定型の想像力はもう少し先に進む力を持っているように思います。たとえば定型でも,あまりにいろいろな問題が起こりすぎて,頭が混乱し,もうこれ以上いろいろ考えられないし,これ以上人の言うことも聞きたくない,一人にしてほっておいてほしい,という気持ちになることはあるはずです。自分が病気になった時は人に助けてほしいと感じることの方が多いでしょうから,普通はその場合には当てはまらないんだけど,「仮に病気の時に,そんな<ほっておいてほしい>という気持ちになったらどうだろう」という「想像」をすることは,少し努力すればだんだんにできるようになると思います。

 そんなふうにAのときに定型はXの気持ちになる,でもアスぺの方はYの気持ちになる。けれども定型がBのときにはYの気持ちになる。ということに気が付いたときに,アスぺの方にとってのAというのは,自分にとってのBのようなものなんじゃないか,と想像してみることで,それがうまくいけば定型にも「ああ,それなら無理もないかも」という,感情面も含めた理解,共感の可能性が生まれるんだと思うんです。

 「人にひどく裏切られ続けたら,私だって人を頭から信用できなくなるだろう」ということは定型には想像可能でしょう。もしそうなら,「信ずること」をベースに相手との関係を考えることはしなくなるはずです。また白崎さんが書かれていたように,「信じる」という感覚自体がアスぺの方にはわかりにくいのかもしれず,その場合も「信ずること」抜きに,相手のことを理解したり,その行動を予測したりして関係をつくろうとするでしょう。それもある程度想像可能な範囲に入ってきそうです。

 そんな風に,定型的な想像力はある程度はアスぺの方の感じていることに共感的に届くことがあるのだということを,今回のあおいよる。さんのコメントからも感じました。そして白崎さんも


>「共感を通してわかろうとする」というのは、アスペルガー症候群の人でも、同じことだと思います。


 と述べられていて,ご自分の体験として,


当事者の集いで、私は自然に周りの当事者の話に共感して親しみを抱く自分に気付きました


 ということを紹介してくださっています。にもかかわらず,定型との間では「共感ができない人たちだ」と評価される理由は


多くのアスペルガー症候群当事者にとって、周りにいる人は定型発達の人がほとんどですから、周りの人たちに共感できるケースが少なく、別の方法で理解しようとする癖が強くなっている人のほうが多いのではないかと思います。

 ということにあるだろうと考えられているわけです。もしこのことが他の多くのアスぺの方にも共通していえることなのだとすれば,何かの工夫によって今一般的に考えられているよりももう少し「共感」という「定型的」と言われてきたやりかたについても,なにか共有できる部分が増えて来るんじゃないでしょうか。

 もちろん「共感」がアスぺの方には負担であるだけならあまりそこを追及することに積極的な意味はないのでしょうが,白崎さんは「共感して親しみを抱く」と書かれていますし,またあおいよる。さんはこんな印象的な表現をされています。


> 改めて、文字として書き起こされたものを拝読することで自分自身の再認識になりました。


> この記事に、自分の脳の一部分がひと息つけた感覚になれました。


 定型の場合,自分で気づかない自分の感情について,あるいは気持ちについて,人から指摘されて「ああ,そうだったのか」と納得して思うことがあります。あおいよる。さんにとっても,幸いに私の記事がそういう同じような働きを少ししたのでしょう。そして「脳の一部分がひと息つけた」と書かれています。

 これって,定型語で書けば「共感されてほっとできた」とか「苦しみが和らいだ」とか,そんなことになりそうです。アスぺ父を持つ娘さんがやはり記事に対して誰かに共感されることがこんなにも勇気づけられることなんですね。」と述べられていて,そういう「共感」がもたらす「人をほっとさせたり,支えたりする力」もある程度は共通していそうです。

 もしそうだとすれば,お互いの違いを理解するという作業は,単に「違った相手に合わせて機械的に対応の仕方を考える」ということにとどまらず,なにか気持ちの上でもつながりを作っていく可能性を持っていることにはならないでしょうか。

 アスぺの父を持つ娘さんの最新の投稿
 
  • 2014/10/03 (Fri) 00:06:23)
  • は,アスぺの方も何か強力に相手に対して感情的に求めるものがある,ということの一つの例ではないかと感じます。

     ただ,このあたりについてはアスぺの方にもいろいろなタイプがあるでしょうし,その辺りはちょっと丁寧に考える必要もあるかもしれませんけれど。

    2014年10月 1日 (水)

    「共感」と「信じること」と「裏切」

     

    白崎やよいさんから,記事「二つの世界」について鋭く大事な問題を感じ取って下さるようなコメントを頂きました。

     白崎さんは私が「「信頼できる人」は「自分の感情を理解してくれる人」になります」と書いたことに対して「目を疑う」ような驚きがあったと書かれています。そして「私自身が信頼感を抱けないということもあって、定型発達の人の「信じる」という言葉は随分軽いなあと思っていたのですが、謎が解けた感じです。」と言われる。

     この「定型の信じるというのは軽い」というのは私のパートナーも時々言いました。ということはアスぺの方も人を信用するということがないわけではないけれど,それはとても「重い」ことで,そう簡単にできることではないのかも。「
    話を聞いて共感してくれるけど、話した内容は他人に筒抜けになってしまっていたり」(白崎さん)とか,あるいは実は陰で正反対のことを言われていたり(パートナー)といった数々の「裏切られた」経験を積み重ね,そもそも信用ということに極度に警戒心を持たれるようになるのかもしれません。

     このブログでも2,3回,炎上のような状態になったことがありましたが,正直な感じとして私にはどうしてそこでそういう展開になったのか,よくわからずに戸惑っていました。もちろん直接の原因はある程度わかり,そこには不注意な言葉があったり,あるいはかなり誤解かなと感じられるものがあったりしたのですが,私がとまどったのは,それがあったときのその後の展開の仕方についてでした。

     私の感覚では,それまでのやりとりの積み重ねの中で,ある程度の信頼は作られているように勝手に感じていたんですね。ですから,仮にそこで不注意な言葉や,誤解の可能性のあるやり取りがあったとしても,そこにすぐに「悪意」を読み取る必要はなくて,まずは善意のすれ違いの可能性を考えて調整して,誤解があれば誤解を解き,不注意があればそれを謝ってその後気を付ければ問題がなくなるはず,というそんな感じがしていたのです。

     けれども炎上のやりとりは,とてもではないけれどそんな雰囲気ではなく,次々に一方的に感じられる断定の否定的な言葉が投げつけられるような,そんな印象を受ける展開になってしまうのです。その時,ああ,この場である程度成り立っているかのように感じていた信頼感は,それほどまでにもろいものだったのか,と思い知らされる気持ちでした。

     改めて考えてみれば,特にアスぺの方にとって「信頼する心」というのは,まるで「ガラスの心」のような大事だけど壊れやすいものなのかもしれないと感じます。それほど信頼というのはむつかしいことで,少しの衝撃でまた強く傷つき,あるいは割れてしまう。そうだからこそ,白崎さんも「私は信頼感を抱くことができない」と書かれているのかもしれません。


     定型同士であっても,もちろん信頼して裏切られるというようなことは多かれ少なかれ体験し続けています。中にはちょっとした約束をすっぽかされた程度のことから,場合によっては人生や命までを左右するような大きな裏切りまで,その中身や深刻さも様々でしょう。あたかも心から共感するような風を装って,自分を信用させておいて裏切ってみたり,口先だけの共感でまったく実がないものだったり,そんな詐欺とかだましとか言えるようなものもあります。

     定型社会の中でもそんなことは日常茶飯事に起こっていて,世の中全体を見れば,その「裏切り」や「だまし」の数はちょっと想像を超えるような大きさで生じているのでしょう。それにも拘わらず,定型の人々は「もう誰も,何も信じない」というふうにはなりにくいんですね。もちろん警戒心は強まるでしょうし,「嘘を見抜く力を養う」ようなことは重視されるでしょうけれど。

     これは私の個人的な印象ですが,いろんな理由で人間関係が厳しく,お互いに競争や闘いのような状態に常に置かれているような場では,逆に特定の友達などに対して,「たとえ自分が損することがあっても,お前のためには自分は尽くし続ける」というようなすごく強い「信頼関係」を結ぼうとする場合も少なくないような気がします。「世の中信じられないことだらけ」だからこそ,逆に「強力に信じあえるものを求める」という感じでしょうか。そしてそれが見つかった時,とても救われた気持ちになる。そこはもしかするとアスぺの方は逆方向に進みやすいのかもしれないと想像したりします。

     私は不信心者ですが,ほんとに厳しい状況に打ちのめされたうえで,ようやく神に救われる思いを抱く方などは,世の中に求められない「信じること」を,神に求められることで救われるのかなと考えたりします。

     「信頼」というのは,理屈からいえば,「裏切られること」とセットで成り立つことです。「裏切られるかもしれない」という状況があるから,それでも「信じる」ということに特別の意味が出て来る。そして「信じられる人」は本当に貴重になる。

     「信じられた人」には,今度は「裏切ってはならない」という責任が生まれます。だから「あなたのことを信じている」という言葉は,当然信頼の言葉ですけれど,同時にその裏面には多くの場合「裏切ることは許さない」という意味も(無意識かもしれませんが)含んでいるんですね。

     「信じる」ということは多かれ少なかれ「賭け」の要素を持っています。絶対などということはありえない。時にまったく失敗することもある。定型的な社会は,そういう「賭け」でどれだけ損をしないか,という技とか生き方とかをどうやって身に着けていくか,その力をどうやって高めていくかを生涯をかけて追及している社会なのかもしれません。

     白崎さんの驚かれた「信頼できる人は自分の感情を理解してくれる人」という表現ですが,もちろん状況によって,それがストレートに成り立つ場合も,いろんな条件が加味されて成り立つ場合も,まったく成り立たない場合も実際にはあると思います。ただ,単純化していえば,「共感をしてくれる人には信頼感を持ちやすい」とはいえると思います。そして「本気で共感する」ということは,「その人を支えようとする」気持ちが必ず入っているんですね。その具体的な支え方はいろいろでしょうけれど。「私はあなたの味方になりたい」という思いが,「共感」ということには含まれているように思います。

     当然「共感的に聞いてくれた」と思っていたら,全然裏切られて,裏でめちゃくちゃなことを言ったりされたりしたり,といこともあるわけですが,そういう時は定型的には「この人の共感はどこまで本物だろうか」ということについてより慎重に判断するようになる,ということが多いような気がします。単に口先だけのおべんちゃらなのか,リップサービスにすぎないのか,それとも「本気で共感してくれているのか」という見極めの力をつけていくことです。

     定型でもそこはむつかしいことですし,ここがアスぺの方には特に難関でしょうから,そういう違いが「信頼」ということについての姿勢の違いも生んでくるのかもしれませんね。

     


     

     

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