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アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年9月 9日 (火)

やりとりを支えるもの

 ひとさんがコメントでリンクされていたご自身のブログの記事に,「障がい」ではない「人間性」という見方をどう考えるかについて,とても分かりやすい形で問題提起をされていました。(ところで「アスぺと定型」ブログはリンクフリーですので,もし必要な方がありましたら,どうぞリンクしてください)

 ポイントは,アスぺ定型間で生み出されるいろいろな傷について,それをその「相手自身」のせいと考えるか,それともそれは「障がい」とか「ズレ」の問題で,それとは違う視点で共通する「人間性」のようなものを考えられるのか,ということでした。それについて,「人間性」を考える見方は「メルヘン」だという視点から,最後に次のように書かれています。

 「仮に「障害」と「人間性」が切り分けられる性質のものだとしても、「障害」を取り除いて残された「人間性」は美しいものとは限らない。逆に「嘘をつくのが難しい」みたいな「障害」特性のために「正直者」とみなされている人が、「障害」が取り除かれると「大嘘つき」な「人間性」を現してくれるかも知れないでしょう。」

 ふーむ,なるほど。と思いました。たしかに「人間性」は,別に美しいかどうかはわからないわけですよね。

 なんか,むかし懐かしい話で,「性善説」と「性悪説」のことを思い起こしました。もともと人間は根っこは善を持っているんだから,そこを足場に世の中をよくできるんだという視点と,いや,もともと人間は度し難く悪なんだから,徹底して人間を賞罰でコントロールしなければ世の中よくならないんだ,という視点から生まれる二つの正反対の考え方のことです。

 まあ,この話を本格的に考えようとしたら,「そもそも善って何?」「悪ってなんのこと?」ということまで考えないといけなくなるでしょうから,そこはちょっと置いておくとして,もうちょっと素朴に(? 別の視点から?)考えてみたいと思うんです。

 こうやってアスぺ定型間でやりとりをしていて見えてくることは,ひとつにはひとさんも強調されているように,お互いの基本的な感覚からいろんなずれがあるということです。そしてそのずれを前提にしてそれぞれが自分の生き方を模索していて,そこでできた生き方がある場合には「障がい」とか「健常(定型)」とかいう風に名づけられることになります。

 そこでその人が作り上げていった生き方を「人間性」と呼ぶとすれば,ひとさんのおっしゃる通り,「人間性」を「障がい」と分けて考えることはもとから無理,ということになります。

 ここで私がもう一つ大事だなと感じている定型アスぺ間のずれがあります。それはある生き方(人間性?)ややり方(たとえば相手への気遣いの仕方とか)が「いい」のか「わるい」のか,という,「善悪の感じ方」みたいなこと自体が定型アスぺでとてもずれがある場合が多い,ということです。例の病気の時にどうしてあげることがよいことなのか,についての考え方の違いとかもそれですよね。

 そうすると,すくなくとも自分の善悪の考え方だけでお互いの関係を理解してしまうと,もう最初からどうしようもなく対立するしかなくなってしまいます。結論は最初から決まったようなもので,定型はアスぺの方を,アスぺの方は定型を「悪」のように考えるしかないでしょう。

 夫婦間の理想的な距離についての考え方だって全然ずれたりするわけですよね。そのことは「アスぺの愛,定型の愛」の中で,鮭さんからいただいたコメントからもちょっと考えてみたりしました。

 善悪の考え方や理想的な関係についての考え方もずれているときに,それでもお互いを頭から否定するんじゃなくて,どうやってよりよく一緒に生きていけるのか(あるいはそれはそもそも無理なことなのか),ということが,定型アスぺ問題に直面しているカップル当事者にとって,切実な問題なんだと思います。

 そしてもし,お互いによりよく理解したり,あるいはかずきさんの言い方をお借りすれば「謙虚な気持ち」を持つ努力が必要だ,ということであるなら,その時には「今はお互いに傷つけあっているけど,そうじゃない関係を一緒に模索していかなきゃいけないんだ」という気持ちを共有しないといけないんじゃないでしょうか。

 そしてもしお互いにそういう考えかたを持てるのだとすれば,それはお互いに「目標」を共有していることにもなるし,その限りではひとつの「理想」を描いているともいえそうに思うわけです。

 実際,みなさんからいただくコメントにしても,ごく少数の例外を除けば,わざわざ相手を傷つけるためになされるコメントではないと思います。そしてほとんどのコメントではなんとか自分を理解してほしいとか,相手を理解したいとか,関係をよくしたいとか,そういう思いは共通しているんじゃないでしょうか。

 そんなふうにお互いの関係をよくしたいという思いがあっても,もちろん結局お互いを傷つけてしまうこともあります。そういうときに,「思いに反して傷つけてしまう」という結果から,その人を「悪」と考えてしまってよいのか,それとも「思い」は「善」だったんだけど,「障がい」とか「ズレ」が原因で結果が悪くなってしまったんだと考えるのか,そこは大事な選択になると思います。

 そしてもしお互いに「思い」は「善」なんだということを認め合うことを大事にするとすれば,そこは「障がい」や「ズレ」とは違う共通する「人間性」という足場になっているんじゃないかと思えるわけです。それがお互いのやりとりを支えるものとなる。

 ただし,これは「お互いに関係をよくしたいという思いがある」場合のことで,もともと単に「相手と関係を悪くしようとしている」とか「相手を傷つけようとしている」だけの場合があれば,それはちょっと話が違いますけどね。そこはまた別に考える必要があるでしょう。

 

 

 
 

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コメント

リンクを貼らせていただきました。

なるほど。
ちょっと私の観点から抜けていました。
やりとりをする時に生じる「ズレ」は、障害が原因ですよね?っていうことですね。
私はそういうものは「技術」みたいなカテゴリーに入れてしまっている感じですね。
「心」「感情」「人間性」「性格」っていうようなジャンルではなしに。
「技術」が必要なのは「障害」が原因です。

確かに「技術」を持たない発達障害者は「最低の人間性を持っている人間」にそっくりです。
母を見ているとそれがよくわかります(苦笑

だから「障害」を取り除けば、「最低の人間性を持っている人間」ではない面が表出しますよね?っていうのは賛同します。
ただ、それって「人間性」でしょうか?って私は思うのです。
「人間性」に見えるものではありますけど。

連投失礼します。
先に入れたコメントの内容が意味不明でしたね(汗

私も他の方も「ズレは人間性とは関係ない」っていうことでは一致していましたね。
ちょっと混乱してしまいました。

トマトです。

私は、asを、人間性を変化させいしまう障害というふうにとらえていますが、
仕事や生活でasの人とラクな距離感をとれない場合、そういう理論は吹き飛び
普段のコミュニケーションではたちうちできない相手として、とにかく事を運ぶために、ひとさんの言われる「技術」を駆使することになります。

それは、時に認知症のお年寄りに接するノウハウにも、重病の発作や治療の副作用が出たときの「普段のその人柄ではない」ときの場面に対応する心構えと同じです。

それが、生活圏の中で四六時中となれば、それはもう相手の人格や性格として接することになるでしょう。それは無理ないことだと感じます。


asに関して、定型が一番混乱するのは「この言動は、性格ゆえなのか障害ゆえなのか、見極めがつかない」という点ではないでしょうか。

性格と症状の境界線が可視化できないので、話のどこの地点から「ズレ」が始まっていたかもわからないし、個人別に、何に対してどのような「ズレ」を抱えているかもわかりにくいし、
気が付くと、定型は唖然としたり怒っていたり、asは途方に暮れるか、相手のせいに感じるか。

ズレを障害ゆえと考えると、定型が腹をくくり、分析と技術に徹し続ければ、ズレはずいぶん削減できるとおもいます。
ある意味、科学者根性です。

そこに感情を入れると、分析と技術がうまく発揮されないので、ズレは必ず起こります。

ズレの原因は、asへの無知と同時に、定型の感情と言ってもよいと思っています。

ただ、その感情を排除してしまうと、asの人と関係維持をしようという感情もなくなってしまうので


そのジレンマが、苦しいのだと思います。

ちょっと興味を持って、大事なことかなと感じたので、よろしければひとさんに教えて頂きたいのですが、「最低の人間性を持っている人間」とひとさんが書かれているとき、なにがその「最低の人間性」なのかについて、定型アスペである程度は共通した見方ができると感じられますか?

私は勿論完全に同じにはならないでしょうけれど、ある程度は重なるかなと思えるんですが…

「共通した見方」というのは「発達障害者から見ても定型発達者から見てもコイツ最低だな」って思うようなタイプとか内容がありますか?っていうことでしょうか?
違っていたらすみません。

多分、あんまり変わらないと思いますよ。
嘘ばっかりついたり、人を傷つけるようなことを平気で言ったり、無責任だったりっていう人を「最低!」って思いますから。
私もよく言われたし、アスペルガーにはありがちな「ひねくれてる」「自分勝手」なんかも「最低」の部類だと思うので、私たちは定型発達者と接する時に(多分障害者同士であっても)相手にそういうことで不快に思わせないように「無理」をするんだと思います。
それが「よくないこと」ではなく「普通のこと」みたいに思うんだったら「無理」はしません。

私の場合は無自覚に「無理」を続けていたので(他の人もみんな大変な思いをしながら「無理」をしていると誤解していたので)一方的に無理をしても、それを当然みたいに思われるだけだし損な感じがしています。

トマトです。

「自分の方が損な感じ」というのは、関係維持しているASと定型間でお互いが思ったり、言ったりすることですね。

ひとさん

やっぱりそうなんですよね。

ということは、定型かアスペかに関係なく
「いい人」とか「嫌な人」がいるということになりますから、
その意味で障がいとは別にその人の人間性を考えてみることに
意味がありそうですし、
そこで定型アスペである程度一致した、目指すべき「いい人」を
共有できるんじゃないでしょうか。

もしそれが多少でも可能なら、お互いに
「何に向けて努力したらいいのか」がちょっと見えてくるのですから
ひとつの前進になりそうです。


トマトさん

私も同じところに大事な問題を感じました。

はじめまして。うまくまとまったところにコメント失礼します(>_<)
アスペ疑いのあやと申します。

> そしてもしお互いに「思い」は「善」なんだということを認め合うことを大事にするとすれば,そこは「障がい」や「ズレ」とは違う共通する「人間性」という足場になっているんじゃないかと思えるわけです。それがお互いのやりとりを支えるものとなる。

を読んで「これだよこれ!」と思ったんですが、その後のコメントで「??」に
なったので、コメントしてみました。
言動から「いい人」「悪い人」を考えることが、定型アスペ問題の発端だと思うので…

ひとさんのコメントで
>嘘ばっかりついたり、人を傷つけるようなことを平気で言ったり、無責任だったりっていう人を「最低!」って思いますから。
とありましたが、これだけだと「最低な人間性」とは言えない気がします。
「いい人」がそういうことをしてしまうほどの原因があった、
という可能性もあると思います。
嘘をつくことや無責任なことが癖になっていてどうにもできず、
本人も悩んでいるかもしれない。
人を傷つけるようなことを言っていると本人は思っていない、
という可能性もあると思います。

傷つけることが多い側から言うのもなんですが、お互い傷つくことをされても
「この人はよかれと思ってやっているんだ」
「何かこういうことをしてしまう原因があったんだ」
と受け入れられたらいいなと思うのですが。

あやさん

はじめまして。どうぞ宜しくお願いします。

> 傷つけることが多い側から言うのもなんですが、お互い傷つくことをされて「この人はよかれと思ってやっているんだ」「何かこういうことをしてしまう原因があったんだ」と受け入れられたらいいなと思うのですが。

ここは私もそうなんですよね。あやさんと同じ考えです。

難しいのは「傷つけようと思ってそうしている人」がいたらどうしたらいいのか。それはどこで見分けられるのか。そして「傷つけようとしているのではない」ことがわかったとして、それでもやっぱり傷ついてしまうときに、どこまでどうやって耐えたらいいのか、というようなことでしょうか。

なかなか簡単には答えは出ないかもしれませんが、こだわって考えています。

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