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2014年9月 4日 (木)

人間性が問題じゃないということ

 トマトさんが私の「>決別に対等感を持てず  というところ,もう少し説明して頂けますか?」という質問に答えてくださったコメントの中でこんな表現がありました。

「ASと定型の場合、別れて時間が経つほどに、(相手がASだと知っていて別れた)定型は、「原因は障害であり相手の人間性ではないのに」という憐憫の情や、気がかり、というひっかかりを持つのではないかと思うのです。」

 ここでは別れることになった定型アスぺカップルのことを例に挙げていらっしゃいますが,「原因は障害であり相手の人間性ではない」という理解の仕方については,別れる別れないにかかわらず,とても大事なことが含まれているのではないか,とふと思ったのです。

 つまりこういうことです。

 定型アスぺの間に生み出されてしまう対立は,定型基準で言えばアスぺの方が定型の大事にすることを繰り返し簡単に「踏みにじる」から起こるのだ,と普通は理解されてしまうことになります。そしてそういうことを「平気で行う」(と感じられる)パートナーに対して憤りを持ち,恨みを持ち,あるいはあきらめの気持ちになる。悪いのはそのパートナーなのだ,という考え方です。

 それに対してトマトさんの文章に書かれた「原因は障害であり」という見方は,たとえ自分にとっては辛いことであっても,その辛さを生み出しているのはパートナー自身なのではなくて,パートナーが抱えた「障がい」なのだ,という風に,視点をずらしていることになります。

 似たような言い方に「罪を憎んで人を憎まず」というものがありますが,この言い方も,たとえその人が自分や周囲の人に「害」を与えたとしても,その人を否定してしまわない,というニュアンスがあります。

 私の場合は「パートナーの抱えた障がい」が問題というより,定型のやり方(当たり前)とアスぺの方のそれの「ズレ」を問題として考えようとしているわけですが,いずれにしても,定型アスぺの間に生み出される葛藤の責任をパートナー自身に負わせない,というところでは共通していると思います。

 そこで思ったのは,「障がい」でも「ズレ」でもいいですが,そこに葛藤や困難の原因を見ると同時に,相手の人にはそうでない「人間性」を見出している(あるいは見出そうとしている)ということがあるんじゃないかということです。

 ちょっとわかりにくい言い方かもしれませんが,ようするにこの見方は「お互いに否定できない(肯定的な)人間性を持っているんだ」という「共通の足場」のようなものを確認しようとしていることになるんじゃないかと思えるのです。

 うーんと,なかなかうまく言えませんが,めちゃくちゃ大雑把に言えば,「同じ人間じゃないか」とか,あるいは「同じ人間のはずだ」とか,なんかそういう思いを求めようとしていたり,大事にしようとしていることになると思います。そこを大事にしながら,でもすごく深刻な違い(障害とかズレとか)があって,その悩みをどう解決するかを考えようとする姿勢,とでもいいましょうか。

 そういう風に「共通の足場」のようなものを求めるのは定型に限られることなのか,あるいはアスぺの方とも通じ合えるものがあるのかはまた検討の必要があるのでしょうが,いずれにしても大事な問題がそこにありそうな気がします。

 

 

 

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コメント

医学的なこととか本当はどうなのかは私にはわかりませんが、「人間性」というか人格的なものっていうのは「発達障害」っていう土台の上に築かれているように感じます。
だから「独立した人間性」みたいなものはないように思うんですよね。
私の母も多分アスペルガーだと思うのですが、「人間性に問題があるな」って感じています。
だから確かに「発達障害だから仕方がない部分」というものもあるんですけど、私は自分にそういうことを許していないし、許していいとも思っていないせいもありますが、母のことも許していいとは思っていません。
先ごろテレビなどで紹介されていた東田直樹さんのように「素晴らしい人間性を持っている」自閉症の人を見てしまうと、確かに「発達障害者だって『人間性』は別に持っているのでは?」と思われても仕方がないなと思いますが、私自身のことを考えてみると「障害抜きの人間性」みたいな別次元のものは自分の中には無いように感じます。

トマトです。

障害込みでその人の人格、障害が土台となっている人格、これ現実ですね。

まぁ・・・私の意見は、死別や生き別れという「別れたその後」のことだと思ってください。

ASの人と対峙している最中は、慢性的な共感飢餓の状態になる定型も、許せなくなる定型も多いと思うのですが

頭にきている最中でも私は、ふと・・ASの人の長所や好きな部分をみたとき「これでASの部分を引いたら、どんな姿になるのだろう」って思うときがあるのです。

元々、私は「その人の人格にASというベールがかかっている」というとらえ方をしていて、ASのベールでおおわれているその人の「本来の人物像」に目をこらした探したいという欲求があります。それは、ロマンチストな感覚なのかも知れませんが。

これも距離感をとれる他人だから、そういうふうに思うのかもしれません。
家族・・・特に親だったりしたら、なかなかそんな余裕は無いかも。


私は彼氏に
「君のその性質がもし本当は障害で無いなら人間性が最低って事になるな」
と言われたことが何度もあります。
障害でないと納得できない、受け入れられない、諦められない程の苦痛を味わってるということなのだとおもいますが。
障害だから最低にならないで済む、逆に障害でないなら最低の人間、人間性に問題がある。

酷い目に合わされ続けて、そのASと離れることができた後に落ち着いて考えられるようになって「あれは障害だった。人間性が最低と言うわけではなかったのだ。自分はそれに打ち勝つことができなかった」と思うような後悔が発生するというのは、まぁなんとなく分かるような気がします。
その後悔の時に稀に定型の人は「復縁」をしようとしたりする場合もありますが、ASには復縁はありえない(そんな記事がありましたね)なので…

ひとさん トマトさん songさん

皆さんのコメントを拝見していて、やっぱりここはすごく大事な問題があるんだなとおもいました。

今日明日はちょっと仕事でバタバタするので書けるかどうかわかりませんが、また記事でも考えてみたいです。

この件について、私なりに考えたことをブログに書いてみました。
http://kiyokutadasiku.seesaa.net/article/405086146.html

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