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アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年9月18日 (木)

またもや「人間性」について

 このところ掲示板にアスぺ父を持つ娘さんが「此処で愚痴らせて下さい」という文を書いてくださっていて,とても考えさせられています。

 内容はアスぺと思えるお父さんとのとても厳しい葛藤についてです。アスぺ定型問題は,夫婦間だけではなく,親子間にもいろんなむつかしい問題を生みがちですが,アスぺ父を持つ娘さんが書かれている内容は,本当に「悲劇的」と私には感じられます。

 夫婦間であれば,お互いに大人なのですから,いろんな問題が起こっても「お互い様」と言える部分があると思います。そしてたぶんアスぺ父を持つ娘さんは,そのお父さんに対する強い憤りの気持ちを持ちながら,なおお父さんに分ってほしいとか,あるいはお父さんを分りたい(「認める」という意味ではないでしょうけれど)という思いもなくならないように私は感じたのですが,お父さんにはお父さんがそうする理由があるのでしょうし,それはある程度私にも想像できることもあります。

 けれども,大人同士の関係とは違い,親子間,特に小さい頃はなおさら,圧倒的に親の方に力があって,子どもは親から離れられず,頼ることしかできない関係ですから,そこで生まれる悲劇を「お互い様」とは私は思えないのですね。

 私の感覚で素朴に見れば,このお父さんはほんとうにひどい人です。もう許しがたい,という気持ちをみんなから持たれたとしても仕方がないように思えます。そこで私が知りたいことの一つは,このところすこし考えていた,アスぺ定型間で共通する「人間性」にも関係しますが,そういう私の感覚は定型的なもので,アスぺの方はむしろお父さんに共感できる(?理解できる?)ということなのか,それとも「このお父さんはやっぱり問題だ」というふうに,アスぺの方も感じられる方が多かったりするのだろうか,ということです。

 もし私の感覚が他のアスぺの方たちともかなり共有できるなら,このお父さんについて,定型アスぺ間である程度同じ判断の基準で考えることができるでしょうし,そこもずれているのなら,さらに突っ込んで考えるべきことがでてくるように思えるからです。

 私はこのお父さんを「ひどい」と感じる私の感覚は,少し大きな目で見れば,実はこのお父さんとも基本的なところで共有されていると感じています。少しそのことを説明してみたいと思います。

 まず一つ目の理由ですが,アスぺ父を持つ娘さんのお父さんは,実は娘さん(アスぺ父を持つ娘さんとそのお姉さん)の不幸を,耐え難いと感じていることです(2014/09/13 (Sat) 10:42:56 2014/09/15 (Mon) 14:14:54)。

 それは娘さんの不幸をお父さんが苦しく思ったということではなくて,もっと自己中心的に娘さんから自分が苦しめられたことを怒っているのだ,という見方もできなくはないですが,どちらにしても,娘さんが不幸な状態になることが,お父さんにとって耐えがたいということは間違いないでしょう。

 ですから,自分の娘さんがシンナーでらりってしまったり,自殺未遂を繰り返したりすることを「不幸なこと」と理解する気持ちは,私とは共有できていることになります。私とそのお父さんの違いは,そういう娘さんの不幸な状態を,お父さんに大きな責任があると感じるか,それとも単に娘さんの「問題行動」として理解するか,ということなのかもしれません。

 そして二つ目の理由ですが,このお父さんが「自分が一番大事なんだ」ということを,繰り返し繰り返し自分の娘さんに教えようとし,そして娘さんが同じように答えれば満足していることです(2014/09/17 (Wed) 20:17:00)。なぜそれが私とこのお父さんで「ひどい」と感じる感覚を共有している理由になるのかについては,もう少し説明が必要でしょう。それはこんなことです。

 お父さんは「自分が世界で一番大事」だという話をしているわけですが,もしそのことの意味が「たとえ他人を不幸にしようとも,自分が幸せになれればそれでいい」という考え方だとすれば,実はこのお父さんの主張は最初から完全に破たんしてしまっています。理屈になっていません。

 なぜなら,まず事実として,娘さんが不幸な状態になったら,お父さんは苦しんでいるからです。つまり,自分が幸せになるためには,娘さんが不幸になってはいけないのです。そのことをお父さん自身が強く感じざるを得ないのに,「自分が世界で一番大事」というだけの主張は,全然その現実を無視しています。

 もうひとつ,お父さんはたんに自分で「自分が世界で一番大事」と思うだけでは満足できないからです。それをわざわざ自分の娘さんに繰り返し言い,そして娘さんがそれに賛成してくれて満足しているからです。自分が満足するためには,人に自分を認めてもらうことが必要なのです。このお父さんはそういう自分自身の現実をまったく無視して,単純に「自分が世界で一番大事」とだけ言っていることになります。

 後に離婚したお母さんに「なんか、みんな俺から離れてくんだよな」( 2014/09/13 (Sat) 10:42:56)とぽつりと言っているのも,同じことでしょう。「世界で一番大事な自分」は他の人に支えられなければならないとお父さんは実際は感じているわけです。大事なものは友達だと答えるアスぺ父を持つ娘さんに対して『友達だぁ!!?はっ…下らない!!くだらないんだよっ!!!じゃあ、友達がお前の為に死んでくれんのか!!?あ゛ぁ!?』とお父さんは罵倒する(?)のですが,それって単に「友達には自分の為に死んで欲しい」という気持ちの裏返しでしょう。そうしてほしいのに,そういう友達ができない現実があるから,逆に「自分が一番大事」と考えて自分を納得させているだけの話です。希望の裏返しにすぎません。

 もしそんな風に理解できるのなら,このお父さんの「自分が世界で一番大事」という主張は,最初から理屈の上でも,このお父さんの現実の上でも,全然成り立っていないし,まったく説得力がない単なる言い訳話にすぎません。(しかもそういう「言い訳」を娘さんにしなければならないということ自体,お父さんの理屈が破たんしていることを示しています)

 というふうに考えてみると,「娘さんが不幸になってはいけない」し,「娘さんが不幸になるとお父さんも不幸になる」という基本的なところで,このお父さんと私は感覚を共有していると思えるわけです。繰り返しになりますが,私とこのお父さんの違いは「どうしてその娘さんの不幸が生み出されたのか」ということについての理解の仕方でしょう。そしてたぶん,このお父さんにはなぜ娘さんがそれほど苦しんでいるのかは理解できないし,だからこそ悩んだのでしょう。私はなぜ娘さんたちがそこまで苦しんだかよく分る気がします。ここも違いでしょうね。

 その基本的なところでお父さんと私が感覚を共有できているのだとすれば,私はそこをお父さんと共有された「人間性」として理解したい気がします。そしてそこをお父さん(のような人)と私が問題を一緒に考える上での,一つの大事な共通の足場にできないだろうかと思えます。

 

 

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コメント

ありがとうございます。
今、本当に本当に感動して…携帯を持つ手も震えています。誰かに共感されることがこんなにも勇気づけられることなんですね。
『親に恥をかかすな』と言われ続けたことも…父に対する罪悪感ゆえ、誰にも吐き出せずにいました。
自分が“不幸だ”と思っちゃいけないって…
やっと理解者ができたように救われた思いです。
本当にありがとうございます。

そして、父は確かに人間性を疑うような人です。
父は『俺が一番の被害者だ』と母にも何度も言い、自分に非があるとは微塵も思ってないでしょう。
的を得た客観的なご意見に納得するばかりです。

アスぺ父を持つ娘さん

 よかったです……

> 父は『俺が一番の被害者だ』と母にも何度も言い、自分に非があるとは微塵も思ってないでしょう。

 今朝パートナーと話をしていて思ったことですが,
 アスぺの方の特徴として言われていることの
 結構多くの部分は,もしかして
 「傷つかないように自分を守る工夫」
 なのかもしれません。

 自分が傷つけられていると感じるから,
 人を傷つけても自分を守ろうとするようになる人がいる。

 もしそうなら,誰にとってもとても不幸なことですね。

アスぺの方はむしろお父さんに共感できるか?という件に関して、自身もアスペで、母が未診断だけど多分アスペな私がお答えします。
答えはNO!です。
そもそもアスペ同士って定型発達者相手以上に噛みあわないというか反目するものだと思うのですが。っていう話は今回は関係ないんで置いておきます。

私の母や、この方のお父さんに関して、どこからどこまでが「障害特性」で「人間性」なのかは私にはわかりません。
ただ、子供にとっては「ひどい人」なのは事実です。
もちろん子供以外の人にとっても非常に迷惑だったりしますが、子供っていう立場は最悪のポジションかと思います。

「人間性」がどうだろうと、他人と関わり合う上で「表面上の言葉やしぐさ」っていうものはどうとでもなるものだと思っています。
私はそういうものを、常に気を付けて行動していますが、母は「アスペ丸出し」な言動をして周囲から嫌われています。
そういうものって本人が「これではいけない」と気づいて、常に気をつけているしか方法がないものです。
私の母や、この方のお父さんにはそれが欠落しているというふうに感じます。

ひとさん

 ありがとうございました。やっぱりそう感じられるんですね。
 
 もしそうなら,このお父さんの抱えている問題は
 「アスぺだから」というふうに決めつけて見てはいけないように思います。
 定型アスぺのズレの中で,お父さんの問題が極端になっていった,
 ということはありうると思うけれど,それは「アスぺだから問題が起こった」
 ということとはちょっと違うでしょう。

 そしてアスぺ定型の違いを超えて,こういうお父さんの状態は
 とても問題だし,何か対策が必要なんだという見方を共有できる
 ということも言えるように思います。

 もしその辺で共有できるものがあるのなら,
 そこは「人間にとって何が大事か」「何が目指すべき人間のありかたか」
 「何が避けるべき人間のありかたか」ということについて
 理解が共有できる部分と言うことですから,
 そこは「アスぺか定型か」に関わらない共通した「人間性」の
 問題になるんじゃないでしょうか。

 一体そこでどういうことは「共有できる人間性についての理解」なのか
 ということが大事な問題になりそうな気がします。

トマトです。

私は「その人の性格や持ち味に、ASという障害がかぶさっている」という理解の仕方で
時々「ASの部分が差っ引かれるとどんな人物なのだろう」という視点で、ASの人を見るのですが

その人にかぶさるASの度合いの問題が大きいと思います。

本来、神経質で慎重派の性格の人に、いわゆる積極奇異タイプのASがかぶさると、とても無神経で無謀な言動に映ります。

唐突ですが、私の個人的な印象では、射手座や、いのしし年生まれの人にASがかぶると、いくつになっても「子供のまんま」のような印象になってしまうと感じます。

軽度の(数字で表せないのが不便ですが)ASの人とは、一般的概念への同感や同意見が得られやすいと思いますし、軽度でなくても当事者の趣味や嗜好が一致すれば、その部分では楽しい共感も交わせると思います。

定型同士も、かかわり方の角度とタイミングで、相手の印象も関係性もずいぶん違ってくると思うのです。

ASと定型は、特にその結果が極端に出ると思います。

私は少なくとも、故・ASの友人が、定型であったなら、無関心な対象で情も持たなかったし深く関わらなかったと確信しています。
■友人が、ASで、さまざまな判断ミスで年老いた親の命が危険にさらされていたこと。
■自分が、友人とその周囲に必要とされている、と実感できたこと。
■ASの特徴を差っ引いたとき、表出している姿とは真逆な性格が垣間見えるギャップ感。
■混乱、苛立ち、疲弊感のストレスもすごかったけれど、ほっとけないという愛着も大きかったとう相性。
それらの要素のどれか一つでも欠けていたなら、AS友人と私の関係は決裂していたと思うし、ASに対するイメージも悪いものになっていたと思います。

相手の性格とASの具合、こちらの性格と出会ったタイミング、それ以前に家族か他人化の関係性や距離感・・・

そういうお互いの「いくつかの要因の組み合わせ」で、ひとつの価値観を共有できたりできなかったり、加害者被害者の関係になってしまったり、人の関係って実はそういう複雑な条件をクリアしながら維持できていると思うんです。

ですから・・・ASと定型も、相互理解はすべて「そのための条件はととのっているか」だと思いますねぇ。

トマトさんの書かれていること、いろんなタイプのアスペの方と付き合ってこられたからこその見方だなあと思いました。

同じアスペの方といっても本当にそれぞれが個性的で、そこまでちゃんとかんがえるには、単にアスペ的ということでは理解しきれないその人の持ち味が重要になるわけですよね。で、その持ち味の部分でお互いの相性が決まるところがある。

その部分をその人の人間性と考えることもできそうですね。そのうえで「そのための条件」というところが見えてくるといいのかなあ。

急に割り込んですみません、ご無沙汰しています。
ASの父を持つ娘さんの切実なコメントと、人間性とASに関する記事の内容から、AS友人とは距離を置いている状態だったのですが、またASについて考えました。
トマトさんの、ある星座や生まれ年の特徴にASがかぶると子どものまんま、に同感です。初めその無邪気さと怖いもの知らずな堂々とした振る舞いを、自分には真似できないすごいなーと思ってました。それで彼に気に入ってもらいたいので些細なことで怒らないように言いたいことを我慢していたみたいです。我慢という自覚はなかったのですが。
最近になって初めてASについて話す機会があり、彼は、やっぱり自分もそうなのかもと否定しませんでした。思い起こせば変だ変だと感じていた、と…。それから少し付き合い方が変化しました。もう一方的に我慢するのはやめようと思いました。数年分の鬱憤がどばっと彼に向けられました。これだけ文句を言ったのだから反論もあるだろうと予想していましたが、うん、うん、と聞くばかりで何も言い返してこないのです。相当きついことも言いました。あなたは自分だけがすべてで、まわりの人間は風景に過ぎないのだ、とか。でも、はー、なるほどね、そうかもなあ、と言うばかりです。指摘すればするほど感心されてるみたいな状況です。??
それで結局は彼自身の特徴とか欠点をいくら指摘したとしても彼が変わる、ということには繋がらないのだろうな、と気づき、本人がASと自覚したとはいえ、この先どうすればいいのか、まだわかりません。
何年経っても相手を把握していないというか、たとえば晴子ってどういう人?と聞かれたら「○歳で身長は○㎝でいつもスカートにブーツを履いていて…」みたいに言います。どういう人か、を説明するにはもっと内面を観察したり分析が必要で、多少なりとも愛情と興味がなければできない。ASの彼はたとえ愛情があったとしても、それがあるのだという表明が不得手なのだと思います。そういう性質をさらっと流し、どれだけ鈍感でいられるか、が今の自分への課題です。今後のことはわかりませんが…。

晴子さん

 「どれだけ鈍感でいられるかが課題」ということ,
 これ,なかなかむつかしいですね。
 「気にしない」「見ないようにする」「考えない」……

 慣れればいいのかもしれませんが,
 人間って慣れやすい部分となれにくい部分があるみたいで,
 定型アスぺのずれはその「慣れにくい部分」にひっかかってしまう
 ということが結構多いのかもしれませんね。

 どんなふうに「鈍感」になれたか,
 また機会がありましたら教えてください。

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