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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年9月

2014年9月28日 (日)

二つの世界(2)

 

二つの世界(1)の続きです。

 定型アスぺのズレでは「感情」ということをどう理解して,その問題にどう向き合おうとしているのかがすごく違うということは,これまでのみなさんとのやりとりからもたぶん間違いないだろうと思います。

 定型は人との関係を考える時,すごく「感情」にこだわります。相手と同じ感情を持てるのか,持てないのか,あるいは正反対の感情を持つのか,ということは,お互いの関係が「親しい」ものか「親しみを感じない」ものか,さらには「敵対的なもの」かを決めてしまうような大きな意味を持っています。だから「共感的な関係」を作ったり,保ったりすることはとても大事なことになる。

 「信頼できる人」は「自分の感情を理解してくれる人」になりますし,そうやって理解してくれれば,自分が困った時には適切な援助も貰えるだろうと感じるでしょうし,自分もその人に同じように尽くしてあげたいと思うでしょう。定型的な世界の中ではこの「信頼できる人」と「信頼できない人」の区別は,生きていくうえでものすごく大きな意味を持つことになります。なにしろ「助け合って生きる」ためには「信頼」が基本になりますし,場合によってそれは敵と味方を分けるものにもなるのですから。

 ですから「感情を理解し,そして調整する」ことは,定型にとってとても大きな課題になります。「共感能力の高い」人はそれだけ信頼できる人間関係を作りやすい素質を持つことになりますし,自分自身の感情を理解して調整したり,人との関係で感情を調整する力は定型的な人間関係をうまくやっていくうえですごく大きな力になります。

 定型の場合,自分の感情の動き方と相手の感情の動き方はかなり影響しあいますし,それで「共鳴」とか「共感」とか言うようなことも起こりやすいのでしょう。ですから,自分の感情の理解と相手の感情の理解はすごくつながったものになりやすいし,自分の感情を調整することが相手の感情の調整にもつながってくる。「相手の人に共感すること」はですから「相手の人の感情を調整すること」にもなるし,そのことで相手の人の悲しみをいやしたり,喜びを強めたり,その人を精神的に支えたりすることもできるようになる。

 そうやって生きるのが定型的な世界なので,定型は特に大事な人との間ではそういう「感情に注目した信頼関係」みたいなものが重要になってくるし,そういう関係を相手に当然のように求めることになります。自分の感情を理解し,相手の感情を理解し,それをどう調整するかが生きていくうえで最大の課題の一つです。それで,人間関係を感情抜きで理解するということが本当に困難になる。

 他方でアスぺの方の場合,(あくまで定型の私の目から見た理解にすぎませんが)自分の感情が相手の人の感情と共鳴するようなことが少ない。

 とは言っても,アスぺの方が感情がないとは私は信じられません。パートナーとの関係でも,彼女が悲しんだり,喜んだり,苦しんだり,怒ったりといった姿をずっと見続けてきましたし,このブログのコメントにもいろんな喜びや怒りや苦しみや驚きや…が書かれていたと思います。ただ定型から見てその感情の原因がわかりにくかったり,その動き方が分かりにくかったりすることがあるし,なかなか理解を定型と共有することがむつかしい。そしてたぶんその結果だと想像するのですが,アスぺの方自身にとっても,自分の感情を「理解する」ということはむつかしそうに思えます。

 ですから,先日も書いてみたように,アスぺの方にとってはこの世の中で生きるということは,わけのわからない感情は抜きにして状況を理解し,対処する技術を身に着けていくという課題と切り離せないことになります。

 このあたりのことをsongさんが感情抜きで相手と関われて行動できるのって結局アスペ側でしかないですから…定型の方は感情がくっついてくるので難しいのだと思います。」と書かれているのだとすれば,私にはわかりやすく感じます。

 一方は感情を大事な手がかりに,世の中を理解し,調整して生きようとするスタイルを身に着けていて,それがないと不安になるし,状況を理解できたような気持になれない。人との信頼関係も結べないような気になる。逆に他方は感情などわけのわからない世界は全く信用できず,現実の目に見える行動で人との関係を理解して対応しようとする。そこに感情を入れて考えることは混乱を生むことでしかないし,それはだましだまされの世界でそこで信頼関係を結ぶことなどとても困難だと感じる。

 もし「両極」として見た定型的世界とアスぺ的世界をそんな風にも特徴づけられるのだとすれば,大人になるまでの間に作り上げてきたそんな基本的な生き方を,根っこから切り替えることは殆ど不可能だろうという気がします。だから,結局自分の生き方,スタイルをベースにしながら,お互いにどう歩み寄れるか,ということが課題なんだという,これまで何度か書いてきたことが改めて言えそうな気がします。

 さて,もしそうだとすれば,じゃあ,定型の側からの歩み寄りはどうやってできるのだろうかと改めて考えてみます。もし完全にアスぺ的世界に合わせるのであれば,感情の問題は「見ない」ことにして,それとは切り離して具体的な付き合いのテクニックを探り,身に着けていくことになるのでしょう。

 でも,それだと定型的にはやっぱりかなり無理をしていることになります。そういうテクニックだけでの付き合いはなんだか冷たく,安心できず,信頼関係には結びつきにくく感じられる。相手を理解した気持ちにはいつまでたってもなれず,不信感が消えない。よく言っても「大人の態度で至らぬ子どもを見守ってあげる」という感じから抜けにくいし,下手をすれば相手をコントロールするだけの関係になってしまう気持ちにもなる。

 そう考えると,たとえアスぺの方とのズレが残り続けたとしても,やはり定型的な「感情を含めた理解」で「翻訳する」ということがある程度は避けられないんじゃないかと思います。そういう理解の仕方であまりにもずれが大きくなりすぎる場合には,改めて調整しなければならないこともあるでしょうけれど,なんとなくそれで関係がしっくりいくなら,そうする意味はありそうです。

 逆にアスぺの方からの歩み寄りには,やはり自分の「感情をからめない理解」や「やりとり」では,定型は納得しきれないことは,お互いの根深い違いとして認めていただく必要があると思います。そこはアスぺの方とはものすごく違うんだということ。そのうえで,アスぺの方にとってもできるだけ無理のない形で,より定型にも受け入れやすい関係を模索して頂く。(具体的にはどうすればいいのかは,定型の私にはなかなか考えることが大変で,アスぺの方の工夫や努力に待つしかないのですけれど)

 どうやったらお互いの自然な感覚を否定せず,無理を減らしながら,お互いの関係を改善していけるのか,そこが「共通する目標」にならないでしょうか。そしてそのための工夫の積み重ねを一緒にしていけないでしょうか。そんなことを考えてみました。

 

二つの世界(1)

 二つの世界,もちろんアスぺ的世界と定型的世界のことですけれど,大雑把な話です。というのも「スペクトラム」というくらいですし,その二つの世界がすごくはっきりと分かれているわけではないし,定型と言われる人にもすごく定型的な人(?)からどっちかというとアスぺ的な人もいるでしょう。逆にアスぺと言われる人にも,比較的定型的でこの定型社会になんとか適応する人も,逆にすごく自閉的でこの定型社会では完全にはじかれてしまう人もいると思います。

 ですから,この二つの世界の区別は,ある二人を比べてみたときに,「この人の世界はよりアスぺ的だな」とか「こっちの人はより定型的だな」とか,そういう比較の中でその人の特徴を理解する手掛かりになるような区別という感じかもしれません。

 たとえばこんなたとえで言えるかも。PQRの三人が横に並んで立っています。Pさんは黒っぽい服を着ていて,Qさんは灰色,Rさんは白っぽい服です。そこでQさんがRさんと比較して自分がRさんと何が違うかを考えたとします。そうするとQさんはRさんと違って黒っぽい色だと思えますから,自分はよりPさんに近いと感じるでしょう。

 それで今度はQさんがPさんと比較して自分の特徴を考えたとします。そうすると,Pさんの黒っぽい服に対して,自分はより白っぽい色の服を着ていますから,そういう意味ではRさんに近いと思えるでしょう。

 じゃあQさんは「本当は」Pさんと同じグループなのか,それともRさんと同じグループなのか,ということについて,「これは絶対だ」という基準を決めるのはむつかしいですよね。Qさんはどちらの要素も持っているし,どちらにも属しているように見える。

 じゃあPさんのグループはすごくはっきりしているのかというと,もしPさんの左側にもっと黒っぽい服を着たOさんがいて,Oさんと自分が何が違うのかを考えたとします。そうすると,今度は自分がQさんと共通点を持っている「白っぽい」服を着ているように見えて来るでしょう。

 そんなふうにもし「スペクトラム」というような,「色の濃い薄い」に相当するような関係が成り立っているのだとすれば,二つの世界を比べるときに,その人を誰と比べるかによってその人がどちらに属して見えるかが変ってきます。で,そのときに大事だと思えるのは,どちらに属するかは変わるけれど,その比較の軸に据えられているのが「黒(っぽい)」か「白(っぽい)」という両極だという点は変わらないということです。

 アスぺと定型の比較は,そんな風に考えられる部分もあるんじゃないでしょうか。そうだから,たとえばお医者さんの診断なんかも,同じ人についてアスぺと判断されたり,別のお医者さんなら定型と判断されたりするようなことがいくらでも起こりうるし,「定職についていれば定型だ」というような(私から見れば)乱暴な(でもある意味では実用的な)診断基準で判断しているお医者さんがいるらしいのも,そういう「定型アスぺ」のあいまいさの結果だと思えます。

 男性はアスぺ的だ,とか「男性脳」みたいな見方も,似たようなものでしょう。比喩としては分らないでもないですが,やはり大雑把な話ですから,もちろんアスぺ=男性などとは言えないわけですし,細かく見ていけばいろんなつじつまが合わないことが出てきます。もともとアスぺ定型の関係は,男VS女のような,かなりはっきりした区別とは違うわけですから(まあ,おかまさんとかおなべさんを考えるとそこも微妙かも (笑))。

 さて,ここでは定型的な世界とアスぺ的な世界という意味を,なにかはっきり区別された二つの世界という意味ではなくて,まじりあう世界の特徴を理解するための「両極」というイメージで考えたいと思っています。ですから,以下の話はたとえばアスペルガーと言う診断をされた方の場合でも,もしそのパートナーの方がさらに強い自閉的な傾向をお持ちの場合には,そのパートナーの方がアスぺ的世界で,ご自身は定型的な世界という対比である程度考えられるようなものではないかと思います。(言い訳が長くなりましたので,ちょっと記事を分けようと思います (^ ^;)ゞ )

2014年9月25日 (木)

「嘘」をつき続けられたら

 私のパートナーは,私が何か伝えようとすると,ほとんどいつもまずは否定的な応答から始まります。疑ったり,とまどったり,常にマイナスの面を探しているような印象です。もちろん共感的になることは無理です。

 最近は随分その感じが弱まってきたように思います。それでも否定的なことを言われますから,やはり私は「反論」とか,少なくとも説明の補足はしたくなり,そうすることもあるのですが,そうすると今度は彼女の方が「何でそんなにムキになって怒るのか。自分は全然せめていないんだけど」と感じたり,そう言ったりすることもなくなってはいません。(私としてはそんなにムキになって怒っている気はないのですが)

 ただ,それと同時に彼女は以前とは違って,「自分の言い方がまたそう受け取られるようなものになってしまっているんだろうか」ということを考えたり言ったりするようになってきています。そして,私の方もそういう彼女の応答の仕方について,以前に比べればそれが「私を否定している」とか「私に不信感を抱いている」というふうには思わなくなってきました。それはたぶん,私の中にこんな想像力が働き始めたからかもしれません。

 もし物心ついたころからずっと周囲に「嘘」をつき続けられたら,自分はどんな性格の人間になったでしょうか。

 世の中はもう「だましあい」の世界に見えるはずです。人の言うことを頭から信じるなんて,まったくバカなことです。それは本当のことなのか,嘘のことなのか,常に疑いの目をもって自分で確かめなければならない。それは生きていくうえで必須のことです。もちろんこの「嘘」はアスぺの方から見て,ということで,定型が意図してということではありません。

 素直に感じたことを正直に言うと,しょっちゅう激しく怒られ,攻撃され続けたら,自分はどんな性格の人間になったでしょう。

 当然,世の中は素直に感じたことを言ってはならない世界に見えるはずです。自分の素直な気持ちを全て抑えてやりとりしなければならない,それが世の中というものだと感じるようになるでしょう。

 自分の感情,感じ方を常に否定され続け,自分には訳の分らない感情について言われ続けたら,自分はどんな性格の人間になったでしょう。

 自分の感じ方や感情の動き方は全く人に理解されないし,人の感情は自分にはわからないし,そうするとそもそも「感情というものが何なのか分らない」という気持ちになるでしょう。自分に感情がないわけではないけれど,それは訳が分からず,得体が知れず意味のないものになります。当然,自分の感情に注意を向けることも少なくなります。

 人の感情の意味が分からず,素直な感情のやりとりが成り立たなかったら,自分はどんな人間関係を作るようになったでしょう。

 感情を手掛かりに人間関係を成り立たせることは不可能ですから,感情抜きでパターンや理屈で人を理解するようになるでしょう。感情で人がつながるなんて,あり得ないことと思えるでしょう。

 感情のやりとりができず,感情は私だけのもので,人となんとか通じるのは理屈の世界やパターンの世界だけだったら,私はどんなことを思うようになったでしょう。

 人は一人ひとりまったく別の人間で,自分の力で自分の努力で生きていくしかないと感じるでしょう。甘えは許されません。理屈の世界は「私」と「あなた」をはっきりと分けます。「共感」とか「共有」とか,そんなあいまいなものは成り立ちません。人はみんな孤立して生きているのです。そんな思いを強烈に持つようになったでしょう。

 家族はその中でもわりに「本音」が通用する世界に見えると思います。あるいは,自分の素直な感じ方を否定され続ける「世の中」に対して,「本音」で生きられる場所として,家庭を考えたくなるでしょう。誰にでも本音と建前の世界はあり,家庭は本音に近い世界でしょうけれど,でもその区別はものすごく強くなったでしょう。「仕事モード」と「オフモード」の区別は強烈になります。そうしなければバランスが取れないのですから。

 こんなふうに想像力を働かせてみると,定型の私にもなんとなくパートナーやアスぺの方が語る世界が「感覚的に」も分かるような気がしてきます。「もしそうなら,それは無理ないなあ,当然だなあ」という感じが少し出てくるのです。

 いつものように,もちろんこういう想像力の働かせ方が果たしてアスぺの方から見て適当なのかどうかは私にはわかりませんが,少なくとも「定型的に想像力を働かせて定型でも感覚的にわかるように翻訳する」という意味では,ある程度は使えそうにも思います。

2014年9月23日 (火)

関係の違いと距離感

 トマトさんがコメントに書いていらっしゃる距離感は,定型アスぺ問題を考えるときにとても大事なポイントの一つに思えました。トマトさんの言葉は次のようなものです。

>いつも「謎」をくれるASの人は、私の目や耳をくぎずけにします。しかし・・・これは距離感を自由自在にとれる立場の者の呑気な立場としての意見です。

 トマトさんが果たして「のんきな立場」かどうかはちょっと置くとしても,相手との関係によって定型アスぺ問題がどういう意味をその人に持つかについてはすごく変わってくることは間違いないでしょう。

 たとえば親子と夫婦を考えてみると,親子関係はもう完全に運命的なもので,そこから逃れることは不可能です。もちろん「親子関係を絶つ」という行動はとれますけれど,その親から生まれた子であること,あるいは自分たちが作った子どもであることはどうやったって消しようのない事実として続いていきます。そういう運命的な関係は夫婦にはありません。

 夫婦と友人を考えてみると,夫婦関係はある意味で自分の人生の一番重要な部分に関わっていて,そのことは人が普通はもっとも秘密にしている性愛の部分を共有し,自分の次の世代を生み育てるという特別の関係だ,ということにもよく表れているように思います。そこは普通の友人関係にはないところでしょう。

 友人と仕事上の関係を考えてみると,友人関係はお金では割り切れず,打算だけでは成り立たないものでしょう。友人になれる人はやはり限られていて,お互いの関係は相性がとても大事な特別のものです。もちろん仕事上の人間関係でも相性はありますけれど,でも相性が最優先されることはなく,そこはもっとドライでしょう。

 そんなふうに「私の人生」にとって相手が持つ意味は親子,夫婦,友人,同僚などなど,お互いの関係によって様々です。自分がその関係をどこまで自分で選べるのか,一度成り立った関係をどの程度自由に変更できるのか,その関係を失うことが自分にとってどれほど深い影響力を持つか,といったことがそれぞれに様々なわけです。

 当然,そういった条件の違いによって,アスぺ定型のずれが生み出す困難についても,どんなふうに対応したらいいのか,どこまで対応しなければならないのか,その関係の中で自分を保つには何が大事になるのか,といったことの具体的中身もまたさまざまになるはずです。

 アスぺ父を持つ娘さんの葛藤は,まさに親子関係の中での葛藤ですよね。なくしてしまうことが不可能な「親子」という関係が大前提で,それがたとえ言い尽くせぬ痛みを伴うものでも,逃れることはできない。見ないでおくことはある程度可能かもしれませんが,それでなくなるわけではない。

 私はパートナーとの間に,ある種の「運命的」な関係を感じる部分もありますけれど,でもやっぱりその関係は実際には「切ってしまう」ことは可能なのでしょう。お互いの関係が続くためには,お互いの「意思」が関わってきます。もちろん夫婦関係の維持には,経済的な必要とか,社会的な見栄とか,周りの圧力とか,そんなものも影響するわけですし,そこにはいろんな打算も働きうるわけですが,そのことも含めて「意思」が関わる関係であることは間違いないと思います。

 ……と書いてきて,さて,こういう見方がどこまで通用するのかなと改めて考えてみると,もしかするとこういう区切り方や特徴づけ方は,定型的な感じ方と言える部分もあるのかもしれません。アスぺの方はまたこれとは違った感覚でそれぞれの関係を理解されているのかもしれず,もしそうならたとえば「夫婦関係を保つというのはどういうことなのか」について,理解のずれから来る問題がそこでも生まれるかもしれませんね。

 実際,アスぺの方が結婚後に定型から「釣った魚にはエサはやらない」と見られることがしばしばあるらしい,ということを以前に考えてみましたけれど,それは「餌をやらない」=「ずるい」という問題ではなくて,「家族って何?」ということについての感覚の違いが関係している可能性があったのでした。

 うーん,またひとつ定型アスぺ問題を考える上で大事なポイントが見えてきつつあるような気がします。

 

2014年9月20日 (土)

誠実さへの信頼

 パートナーの話を聞いていて最近しみじみ感じていることの一つは,彼女にとって得体のしれない定型社会の中で,ずっと傷つけられ,繰り返し人間不信にもなり,その中で必死で自分を守る方法を探り続けてきたということです。

 彼女の話し方に私が傷つく思いをすることはしばしばあったりしたわけですが,そのことを指摘すると,「なんで定型が同じことを言うときには問題にならなくて,自分が言うと問題になるのか」ということを聞いてきたりしました。私は全く違うと思っていたので,彼女の言うその意味が私にはなかなかわからなかったのですが,時間をかけて少しずつ,「ああ,彼女にとっては同じことなんだな」ということが感じられることが増えてきました。

 パートナーが偉いなあと思うのは,そういう厳しい状況の中を,それでも一生懸命に誠実に生きてきたことです。その誠実さを感じるひとつの例は,自分なりに一生懸命やってきた子育てについて,結果的に定型アスぺのずれが災いして子どもを苦しめた面がある,ということを知った後,私が痛々しく思うほどに,子どもに対して申し訳ないと思い続けていることです。

 彼女が子どもを想う気持ち,心配する気持ちはほんとうに強いものがあります。ですから,今どうやって子どもに接したらいいのかについては本当に戸惑ってしまっていることを感じますし,そのことに苦しんでいるんですね。その誠実さを私はほんとに信頼できるんです。

 もちろんそういう状態であっても,時々子どもについて話をする中で,彼女の子どもについての評価でまた私がショックを受けることもなくなっているわけではありません。「どうしてそういう見方をしてしまうのかな」と思ってしまうんです。でも,実はそういう見方をすること自体が,自分が傷つくことを彼女が避けようとしてだったりするんですね。

 なんか抽象的で分かりにくいですね!またもう少しわかりやすく書けることがあれば,改めて考えてみたいと思います。今回はちょっと生々しすぎてかけそうにないので…… (^ ^;)ゞ

2014年9月18日 (木)

またもや「人間性」について

 このところ掲示板にアスぺ父を持つ娘さんが「此処で愚痴らせて下さい」という文を書いてくださっていて,とても考えさせられています。

 内容はアスぺと思えるお父さんとのとても厳しい葛藤についてです。アスぺ定型問題は,夫婦間だけではなく,親子間にもいろんなむつかしい問題を生みがちですが,アスぺ父を持つ娘さんが書かれている内容は,本当に「悲劇的」と私には感じられます。

 夫婦間であれば,お互いに大人なのですから,いろんな問題が起こっても「お互い様」と言える部分があると思います。そしてたぶんアスぺ父を持つ娘さんは,そのお父さんに対する強い憤りの気持ちを持ちながら,なおお父さんに分ってほしいとか,あるいはお父さんを分りたい(「認める」という意味ではないでしょうけれど)という思いもなくならないように私は感じたのですが,お父さんにはお父さんがそうする理由があるのでしょうし,それはある程度私にも想像できることもあります。

 けれども,大人同士の関係とは違い,親子間,特に小さい頃はなおさら,圧倒的に親の方に力があって,子どもは親から離れられず,頼ることしかできない関係ですから,そこで生まれる悲劇を「お互い様」とは私は思えないのですね。

 私の感覚で素朴に見れば,このお父さんはほんとうにひどい人です。もう許しがたい,という気持ちをみんなから持たれたとしても仕方がないように思えます。そこで私が知りたいことの一つは,このところすこし考えていた,アスぺ定型間で共通する「人間性」にも関係しますが,そういう私の感覚は定型的なもので,アスぺの方はむしろお父さんに共感できる(?理解できる?)ということなのか,それとも「このお父さんはやっぱり問題だ」というふうに,アスぺの方も感じられる方が多かったりするのだろうか,ということです。

 もし私の感覚が他のアスぺの方たちともかなり共有できるなら,このお父さんについて,定型アスぺ間である程度同じ判断の基準で考えることができるでしょうし,そこもずれているのなら,さらに突っ込んで考えるべきことがでてくるように思えるからです。

 私はこのお父さんを「ひどい」と感じる私の感覚は,少し大きな目で見れば,実はこのお父さんとも基本的なところで共有されていると感じています。少しそのことを説明してみたいと思います。

 まず一つ目の理由ですが,アスぺ父を持つ娘さんのお父さんは,実は娘さん(アスぺ父を持つ娘さんとそのお姉さん)の不幸を,耐え難いと感じていることです(2014/09/13 (Sat) 10:42:56 2014/09/15 (Mon) 14:14:54)。

 それは娘さんの不幸をお父さんが苦しく思ったということではなくて,もっと自己中心的に娘さんから自分が苦しめられたことを怒っているのだ,という見方もできなくはないですが,どちらにしても,娘さんが不幸な状態になることが,お父さんにとって耐えがたいということは間違いないでしょう。

 ですから,自分の娘さんがシンナーでらりってしまったり,自殺未遂を繰り返したりすることを「不幸なこと」と理解する気持ちは,私とは共有できていることになります。私とそのお父さんの違いは,そういう娘さんの不幸な状態を,お父さんに大きな責任があると感じるか,それとも単に娘さんの「問題行動」として理解するか,ということなのかもしれません。

 そして二つ目の理由ですが,このお父さんが「自分が一番大事なんだ」ということを,繰り返し繰り返し自分の娘さんに教えようとし,そして娘さんが同じように答えれば満足していることです(2014/09/17 (Wed) 20:17:00)。なぜそれが私とこのお父さんで「ひどい」と感じる感覚を共有している理由になるのかについては,もう少し説明が必要でしょう。それはこんなことです。

 お父さんは「自分が世界で一番大事」だという話をしているわけですが,もしそのことの意味が「たとえ他人を不幸にしようとも,自分が幸せになれればそれでいい」という考え方だとすれば,実はこのお父さんの主張は最初から完全に破たんしてしまっています。理屈になっていません。

 なぜなら,まず事実として,娘さんが不幸な状態になったら,お父さんは苦しんでいるからです。つまり,自分が幸せになるためには,娘さんが不幸になってはいけないのです。そのことをお父さん自身が強く感じざるを得ないのに,「自分が世界で一番大事」というだけの主張は,全然その現実を無視しています。

 もうひとつ,お父さんはたんに自分で「自分が世界で一番大事」と思うだけでは満足できないからです。それをわざわざ自分の娘さんに繰り返し言い,そして娘さんがそれに賛成してくれて満足しているからです。自分が満足するためには,人に自分を認めてもらうことが必要なのです。このお父さんはそういう自分自身の現実をまったく無視して,単純に「自分が世界で一番大事」とだけ言っていることになります。

 後に離婚したお母さんに「なんか、みんな俺から離れてくんだよな」( 2014/09/13 (Sat) 10:42:56)とぽつりと言っているのも,同じことでしょう。「世界で一番大事な自分」は他の人に支えられなければならないとお父さんは実際は感じているわけです。大事なものは友達だと答えるアスぺ父を持つ娘さんに対して『友達だぁ!!?はっ…下らない!!くだらないんだよっ!!!じゃあ、友達がお前の為に死んでくれんのか!!?あ゛ぁ!?』とお父さんは罵倒する(?)のですが,それって単に「友達には自分の為に死んで欲しい」という気持ちの裏返しでしょう。そうしてほしいのに,そういう友達ができない現実があるから,逆に「自分が一番大事」と考えて自分を納得させているだけの話です。希望の裏返しにすぎません。

 もしそんな風に理解できるのなら,このお父さんの「自分が世界で一番大事」という主張は,最初から理屈の上でも,このお父さんの現実の上でも,全然成り立っていないし,まったく説得力がない単なる言い訳話にすぎません。(しかもそういう「言い訳」を娘さんにしなければならないということ自体,お父さんの理屈が破たんしていることを示しています)

 というふうに考えてみると,「娘さんが不幸になってはいけない」し,「娘さんが不幸になるとお父さんも不幸になる」という基本的なところで,このお父さんと私は感覚を共有していると思えるわけです。繰り返しになりますが,私とこのお父さんの違いは「どうしてその娘さんの不幸が生み出されたのか」ということについての理解の仕方でしょう。そしてたぶん,このお父さんにはなぜ娘さんがそれほど苦しんでいるのかは理解できないし,だからこそ悩んだのでしょう。私はなぜ娘さんたちがそこまで苦しんだかよく分る気がします。ここも違いでしょうね。

 その基本的なところでお父さんと私が感覚を共有できているのだとすれば,私はそこをお父さんと共有された「人間性」として理解したい気がします。そしてそこをお父さん(のような人)と私が問題を一緒に考える上での,一つの大事な共通の足場にできないだろうかと思えます。

 

 

2014年9月 9日 (火)

やりとりを支えるもの

 ひとさんがコメントでリンクされていたご自身のブログの記事に,「障がい」ではない「人間性」という見方をどう考えるかについて,とても分かりやすい形で問題提起をされていました。(ところで「アスぺと定型」ブログはリンクフリーですので,もし必要な方がありましたら,どうぞリンクしてください)

 ポイントは,アスぺ定型間で生み出されるいろいろな傷について,それをその「相手自身」のせいと考えるか,それともそれは「障がい」とか「ズレ」の問題で,それとは違う視点で共通する「人間性」のようなものを考えられるのか,ということでした。それについて,「人間性」を考える見方は「メルヘン」だという視点から,最後に次のように書かれています。

 「仮に「障害」と「人間性」が切り分けられる性質のものだとしても、「障害」を取り除いて残された「人間性」は美しいものとは限らない。逆に「嘘をつくのが難しい」みたいな「障害」特性のために「正直者」とみなされている人が、「障害」が取り除かれると「大嘘つき」な「人間性」を現してくれるかも知れないでしょう。」

 ふーむ,なるほど。と思いました。たしかに「人間性」は,別に美しいかどうかはわからないわけですよね。

 なんか,むかし懐かしい話で,「性善説」と「性悪説」のことを思い起こしました。もともと人間は根っこは善を持っているんだから,そこを足場に世の中をよくできるんだという視点と,いや,もともと人間は度し難く悪なんだから,徹底して人間を賞罰でコントロールしなければ世の中よくならないんだ,という視点から生まれる二つの正反対の考え方のことです。

 まあ,この話を本格的に考えようとしたら,「そもそも善って何?」「悪ってなんのこと?」ということまで考えないといけなくなるでしょうから,そこはちょっと置いておくとして,もうちょっと素朴に(? 別の視点から?)考えてみたいと思うんです。

 こうやってアスぺ定型間でやりとりをしていて見えてくることは,ひとつにはひとさんも強調されているように,お互いの基本的な感覚からいろんなずれがあるということです。そしてそのずれを前提にしてそれぞれが自分の生き方を模索していて,そこでできた生き方がある場合には「障がい」とか「健常(定型)」とかいう風に名づけられることになります。

 そこでその人が作り上げていった生き方を「人間性」と呼ぶとすれば,ひとさんのおっしゃる通り,「人間性」を「障がい」と分けて考えることはもとから無理,ということになります。

 ここで私がもう一つ大事だなと感じている定型アスぺ間のずれがあります。それはある生き方(人間性?)ややり方(たとえば相手への気遣いの仕方とか)が「いい」のか「わるい」のか,という,「善悪の感じ方」みたいなこと自体が定型アスぺでとてもずれがある場合が多い,ということです。例の病気の時にどうしてあげることがよいことなのか,についての考え方の違いとかもそれですよね。

 そうすると,すくなくとも自分の善悪の考え方だけでお互いの関係を理解してしまうと,もう最初からどうしようもなく対立するしかなくなってしまいます。結論は最初から決まったようなもので,定型はアスぺの方を,アスぺの方は定型を「悪」のように考えるしかないでしょう。

 夫婦間の理想的な距離についての考え方だって全然ずれたりするわけですよね。そのことは「アスぺの愛,定型の愛」の中で,鮭さんからいただいたコメントからもちょっと考えてみたりしました。

 善悪の考え方や理想的な関係についての考え方もずれているときに,それでもお互いを頭から否定するんじゃなくて,どうやってよりよく一緒に生きていけるのか(あるいはそれはそもそも無理なことなのか),ということが,定型アスぺ問題に直面しているカップル当事者にとって,切実な問題なんだと思います。

 そしてもし,お互いによりよく理解したり,あるいはかずきさんの言い方をお借りすれば「謙虚な気持ち」を持つ努力が必要だ,ということであるなら,その時には「今はお互いに傷つけあっているけど,そうじゃない関係を一緒に模索していかなきゃいけないんだ」という気持ちを共有しないといけないんじゃないでしょうか。

 そしてもしお互いにそういう考えかたを持てるのだとすれば,それはお互いに「目標」を共有していることにもなるし,その限りではひとつの「理想」を描いているともいえそうに思うわけです。

 実際,みなさんからいただくコメントにしても,ごく少数の例外を除けば,わざわざ相手を傷つけるためになされるコメントではないと思います。そしてほとんどのコメントではなんとか自分を理解してほしいとか,相手を理解したいとか,関係をよくしたいとか,そういう思いは共通しているんじゃないでしょうか。

 そんなふうにお互いの関係をよくしたいという思いがあっても,もちろん結局お互いを傷つけてしまうこともあります。そういうときに,「思いに反して傷つけてしまう」という結果から,その人を「悪」と考えてしまってよいのか,それとも「思い」は「善」だったんだけど,「障がい」とか「ズレ」が原因で結果が悪くなってしまったんだと考えるのか,そこは大事な選択になると思います。

 そしてもしお互いに「思い」は「善」なんだということを認め合うことを大事にするとすれば,そこは「障がい」や「ズレ」とは違う共通する「人間性」という足場になっているんじゃないかと思えるわけです。それがお互いのやりとりを支えるものとなる。

 ただし,これは「お互いに関係をよくしたいという思いがある」場合のことで,もともと単に「相手と関係を悪くしようとしている」とか「相手を傷つけようとしている」だけの場合があれば,それはちょっと話が違いますけどね。そこはまた別に考える必要があるでしょう。

 

 

 
 

2014年9月 4日 (木)

人間性が問題じゃないということ

 トマトさんが私の「>決別に対等感を持てず  というところ,もう少し説明して頂けますか?」という質問に答えてくださったコメントの中でこんな表現がありました。

「ASと定型の場合、別れて時間が経つほどに、(相手がASだと知っていて別れた)定型は、「原因は障害であり相手の人間性ではないのに」という憐憫の情や、気がかり、というひっかかりを持つのではないかと思うのです。」

 ここでは別れることになった定型アスぺカップルのことを例に挙げていらっしゃいますが,「原因は障害であり相手の人間性ではない」という理解の仕方については,別れる別れないにかかわらず,とても大事なことが含まれているのではないか,とふと思ったのです。

 つまりこういうことです。

 定型アスぺの間に生み出されてしまう対立は,定型基準で言えばアスぺの方が定型の大事にすることを繰り返し簡単に「踏みにじる」から起こるのだ,と普通は理解されてしまうことになります。そしてそういうことを「平気で行う」(と感じられる)パートナーに対して憤りを持ち,恨みを持ち,あるいはあきらめの気持ちになる。悪いのはそのパートナーなのだ,という考え方です。

 それに対してトマトさんの文章に書かれた「原因は障害であり」という見方は,たとえ自分にとっては辛いことであっても,その辛さを生み出しているのはパートナー自身なのではなくて,パートナーが抱えた「障がい」なのだ,という風に,視点をずらしていることになります。

 似たような言い方に「罪を憎んで人を憎まず」というものがありますが,この言い方も,たとえその人が自分や周囲の人に「害」を与えたとしても,その人を否定してしまわない,というニュアンスがあります。

 私の場合は「パートナーの抱えた障がい」が問題というより,定型のやり方(当たり前)とアスぺの方のそれの「ズレ」を問題として考えようとしているわけですが,いずれにしても,定型アスぺの間に生み出される葛藤の責任をパートナー自身に負わせない,というところでは共通していると思います。

 そこで思ったのは,「障がい」でも「ズレ」でもいいですが,そこに葛藤や困難の原因を見ると同時に,相手の人にはそうでない「人間性」を見出している(あるいは見出そうとしている)ということがあるんじゃないかということです。

 ちょっとわかりにくい言い方かもしれませんが,ようするにこの見方は「お互いに否定できない(肯定的な)人間性を持っているんだ」という「共通の足場」のようなものを確認しようとしていることになるんじゃないかと思えるのです。

 うーんと,なかなかうまく言えませんが,めちゃくちゃ大雑把に言えば,「同じ人間じゃないか」とか,あるいは「同じ人間のはずだ」とか,なんかそういう思いを求めようとしていたり,大事にしようとしていることになると思います。そこを大事にしながら,でもすごく深刻な違い(障害とかズレとか)があって,その悩みをどう解決するかを考えようとする姿勢,とでもいいましょうか。

 そういう風に「共通の足場」のようなものを求めるのは定型に限られることなのか,あるいはアスぺの方とも通じ合えるものがあるのかはまた検討の必要があるのでしょうが,いずれにしても大事な問題がそこにありそうな気がします。

 

 

 

2014年9月 1日 (月)

生きるスタイルの違い

 

songさんから問題提起があったので,ちょっと考えてみました。

>定型の人は、自分のやり方を変えるのは苦手ですか?やり方というか、自分自身を変える、みたいな。目標に向けて◯◯しよう、みたいなのを習慣付たりするのは苦手なのでしょうか?

 「定型は自分のやり方を変えるのは苦手?」という問いかけがびっくりで,面白かったです。ふつうはアスぺの方が「こだわり」を持っていて「変化を嫌う」と言われますよね。それが逆にアスぺの方から定型の傾向として言われるというのがとても新鮮。ああ,そういう見方もあるのかと思いました。

 ここでsongさんが注目されているのは,songさんご自身に比べて,周囲の定型の方は「目標を定めてそれに向けて自分を訓練し,成長させる」という意味での変化が苦手ということですよね。逆に言えば,songさんはきっと常に状況を見ながら,今何が必要なのかを見極め,その時々で必要な目標を立てて,それに向けて自分を鍛え,変化させていく努力を続けてこられているんだろうと思いました。ところが周囲の定型の方にその努力が不足しているように感じられる。

 そういう理解で間違っていなければ,songさんの言われることはわかります。そしてたぶんそういう意味では定型は自分のやり方を変えるのは苦手か,あるいは時間がかかるのだと思います。その理由はあとから考えてみますが,常に自分を変える努力をされているsongさんから見れば,「こうやれば問題が解決することははっきりしているのに,何だかよくわからない理由で定型はぐずぐずして一向に解決に向けた努力をはじめない」と感じられるのではないでしょうか。 

>そういう決断は自分の内的要因だけで成り立つ物ではないと言われて、理解ができなかったんです。自分のやることって自分で決めるんじゃないんですか…?私がこうと決めたらこれだけはやる、みたいなのは苦手なのでしょうか。外的要因によっては難しいなぁ…みたいなのが頭にあるものなのでしょうか。


 このところがポイントなんだろうと想像します。「そういう決断は自分の内的要因だけで成り立たない」と周囲の定型の方が言われたというのは,言葉を変えていえば「周囲の状況を見ながら,周囲の人と相談したり,調整したりしながら決める必要がある」という意味ではないかと思います。ですから自分一人でさっと決められない。

 この「周りを見ながら動く」というのは,日本的な人間関係のなかでは特に強烈だと思います。お互いに強烈に自己主張をしあいながら生活している違う文化の人たちから見れば,日本の定型の生き方というのは,songさんが感じられるのと似たような違和感を覚えるのではないかと思います。

 とはいえ,songさんの抱かれる違和感が全部「日本的な人間関係」から来ていると私が言いたいわけではなくて,それはやっぱり「定型的」な生き方なんだろうと思うんですが,ただその傾向が日本のなかではものすごく強くなっているんじゃないかなと思うんですね。極端に「定型的」というか。

>私は、自分の決めた決まりごとは基本周りなんて関係なくできます。だから、周りの関係もあるよっていうのがよく分かりません。


 ここは定型アスぺの「生きるスタイルの違い」と考えるとわかりやすいように思いました。定型はいい意味でも悪い意味でも「仲間」を作って生きようとするし,それがないと不安になるし,あれば安心できる,という生き物なんだと思います。だから自分が周りからどう評価されているかはとても気になるし,周りとの調整をいつも考える。

 それはよく言えば周囲の人への気遣いにもなるし,自己中心的な生き方ではないことにもなるのでしょう。逆に悪く言えば人のことばかり気にしていて,自立していない,とか,すごくいやらしい政治的な生き方にもなる。どちらにしても「仲間作りを大事にし,仲間との関係を大事にする」生き方なんだろうと思います。

 逆にアスぺの方にとって「生きる」ということは,あくまでも自分が状況をどう理解して,自分としてそれにどう対処するか,という「私の決断」の連続なんじゃないでしょうか。アスぺの方が「仲間を求めない」のかと言えば,そこはいろいろ考えるべきことがあるように思いますが,少なくとも現実問題として,アスぺの方は周囲の定型といろいろ感覚が違ったりするので,「お互いに分かり合い,共感しあい,関係をスムーズに調整しあう」ことはむつかしく,いじめも経験され,仲間外れにされ,「仲間を求められない」状況におかれやすいことは間違いないように思います。

 そうだとすれば,アスぺの方は子どものころから常に孤立した状況の中で,誰かからの救いの手を期待することもできず,自分の力で生きていくしかないわけで,定型が仲間に対して期待するような「甘い関係」を人に望むことが許されない厳しさを生きられているのかなと思います。その中でsongさんのように,社会的にも頑張っていらっしゃるアスぺの方は,その厳しさの中で「自分の決めた決まりごと」を断固としてやり抜いて前向きに生きられている。

 「仲間」ということについて,そんなある意味正反対ともいえる条件の中で,正反対ともいえる生き方のスタイルを育てているのが定型とアスぺなのではないでしょうか。その生き方の違いが,相手を理解できない理由にもつながっているような気がします。

 こういう説明の仕方って,songさんから見て納得しやすいでしょうか?それともやっぱりわかりにくい説明でしょうか?

>もちろん個人の性格もあると思うので、なんとなく教えていただけたらなぁと思います!


 私も定型を代表するわけにはいかないので(笑),とりあえず定型パンダの個人的な理解でした。

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