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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年8月27日 (水)

アスぺの愛,定型の愛

ご自身がアスぺでパートナーの女性が定型という鮭さんから頂いたコメントに,すごく考えさせられています。ほとんど全文の引用になりそうですが,

>パンダさんのご指摘の通り、私としてはなかなか人付き合いが上手く出来ない、こんな私と一緒にいてくれるだけで幸せを感じてしまいます。

 一緒にいられることはそれだけで「特別なこと」なのだ,ということは私もパートナーから言われていますし,ここでも何度か話題になったと思います。けれどもそのように「特別な関係」ができたあと,その状態が二人の間では「当たり前」とか「ふつう」なのではなく,それ自体で「幸せ」なこととして感じられている,ということは私には新鮮でした。

>妻にとっては単純な思いやりとか気遣いのレベルなのかもしれませんが、そのような行為だけでも私は妻に大切にしてもらっていると感じ、愛を感じてしまいます。

 私は「愛を感じる」と言われたことが無くって(涙or笑?),なんか「いるのがあたりまえ」で,相手に必要な援助をするのも「家族として当たり前」で,そこに「愛」といったような感情が入る必要がないような,そんな印象を彼女から受けていました。


>ですので、それが定型の人にとっては「現状を維持したい」と思われるのかもしれません。
が、私としては「現状維持」ではなく「現状満足」の状態なのです。(分かりますかね??)


 トマトさんもちょっと触れられていますが,ここ,すごく大切なことが書かれていると思いました。定型基準では「愛がない」か「愛が不足している」状態に思えて,「愛情飢餓感」が生まれてしまいそうなときに,そこでアスぺの方は充分に「愛」を感じられるわけですよね。ほんとに考えさせられます。


>しかしながら、このレベルで満足しているが故か分かりませんが、妻にとっては私からの愛は感じられないと言われてしまいます。


 はい。それは奥さんのお気持ちはよくわかります。定型基準だとそうなるでしょうね。

>定型の方が「コミュニケーションを通じて」愛を感じるものだという事実は最近になってようやく頭では理解出来るようになってきたのですが、まだそのコミュニケーションを通じた愛が具体的な行動や会話でどのようなものか分かりません。


 これも私にはとても刺激的な表現でした。愛は「コミュニケーションを通じて」感じる,というのは,言われてみてまあそのとおりと思いますが,言われるまではあまりに「当たり前」のことで,あえてそんな風に表現してみる必要さえ思いつきませんでした。

つまり,愛があるかどうかの違いというより,定型の愛の形と,アスぺの方の愛の形に,それだけ違いがあるということですよね。このことを教えていただいたのはほんとに私には大きいです。

>人によって違うものとは思います。妻にも直接聞いてはいますが、なかなかすっと入ってくる感じがまだなく、どのようにすれば妻に私の愛が感じられるのか苦悩している所です。
もしよろしければですが、パンダさんの考える愛というものも教えてもらえませんでしょうか。具体的にこういうのが有れば、愛が感じられるというものであれば有りがたいです。

 愛とは何かはむつかしくてうまく書けそうにありませんが,「こんなときに定型的には愛を感じやすい」ということを少し考えてみます。もちろん定型でもいろんな個人差はあると思いますが,ひとつの私の例として。

 自分に嬉しいことがあった時,一緒に喜んでくれる。悲しいことがあった時,一緒に悲しんでくれる。つらいときに慰めてくれる(特に男女関係ならスキンシップも大事)。久しぶりに会ったとき,すごく嬉しそうにしてくれる。自分の好きなものを自分のためにわざわざ用意してくれる。自分が相手のためになにかをしたとき,そのことを喜んでくれる。自分が相手のために何かをしてあげることを期待されていると感じられる。自分が相手には必要だということを折に触れて伝えられたり感じさせられたりする……などなど

 書いていて思いましたが,これらのことは私にとっては結構「具体的」なことなんですが,もしかすると鮭さんにとっては「抽象的」で「具体的」とは感じられないのかもしれませんね。もしそうならそのずれも大事な問題のような気がします。

 もっと「具体的な行動」ということで書いてみると,たとえば奥さんが悲しそうにされているとき,定型なら「どうしたの?」と心配そうに聞くと思います。そしてもし奥さんがそれについて説明してくれたとして,それを聞いて理解・共感できれば,一緒に悲しんだり,あるいはその悲しみを作った原因について憤りを語ったりしそうです。もしよく理解できない場合にも,ただ横に寄り添ってあげて,涙を拭いてあげたり,手を握ってあげたりすることもありそうです。そして相手の人がもたれかかってくるようなら,抱いてあげることもあるでしょう。

 相手の悲しみの理由を理解することがむつかしくて,そのことについて相手の人がいら立ちや失望感を持ちそうなときには,「理解したいのに,まだ理解できなくてごめんなさい」とすなおに言うかもしれません。自分は本当は理解したいのに,理解できなくて悲しい,という気持ちを伝えることは,相手にとっては「このひとは理解はできないけど,でも自分のことを一生懸命考えようとしてくれているんだ」と感じられることかもしれなくて,その時には「愛」を感じてもらえそうに思います。

 場面や状況,お互いの関係や性格によってもいろんなバリエーションもありそうですけど,たとえばひとつの例としてそんなことを考えました。

>この私の愛と思っていたものが、妻から愛じゃないと言われてはじめて、妻が私と普通にコミュニケーションができずに寂しい・悲しいと感じていたことが理解できた気がします…。
今はどちらも悲しい状態なので問題解決にはなってないのでもっとお互いのことを理解していく必要があると感じているのですが。

 もし愛というものを「相手のためになりたいと思う気持ち」と「相手を自分の支えとして必要とする気持ち」というふうに広く考えたとすれば,鮭さんの「愛」は,奥さんの「愛」と通じるものがあるのではないかと思います。ただ,「何をすることが相手のためになることなのか」ということについての理解がお互いにすごくずれていたり,「どうすることが自分の支えになるのか」ということの感覚がずれていたりすると,「愛」を感じられなくなってしまうのでしょう。

 私の場合は,すごく時間はかかりますが,それまで全く気付かなかった彼女の振る舞いについて,「ああ,これはもしかして彼女が私のことを考えてくれて,彼女なりのやり方で努力してくれていることなのかな」と感じられるようになると,そこに「愛」のようなものを感じ取ることがだんだんと出てきました。定型的な表現とはかなり違ったりしますし,また表現のレベルもすごくかすかなものだったりして見過ごしやすかったりもするのですが,そこに気づけるようになると,ちょっと状況が変わってくるような気もします。

 ですから鮭さんが言われるように,やっぱりほんとに時間をかけて,少しずつ地道に「お互いのことを理解していく」ことが大事なのだと思います。そうすれば,ほんとに少しずつでも,「相手の人にとっての愛の表し方」が感じ取れるようになるのではないかと,そんな期待をしています(し,私の場合は実際ほんの少しずつそれができる部分が見えてきているように思います)。

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