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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年8月

2014年8月31日 (日)

「報連相」問題再び

 昨日の「中でのつながり,外でのつながり」で考えたことは,私の中では割と大事だったことのようで,いくつかの問題につながっていきそうです。

 たとえばアスぺの方は「報連相(報告連絡相談)」が苦手でそのことでトラブルを起こし易い,ということを時々言われますし,私自身も何度かこのブログでもふれたように,アスぺと思しき方との間で,「相談を受けたのに,それに応じてもその後何も言ってこない」というようなことを経験しました。そのことの意味も昨日考えたことからわかる気がするんです。

 つまり,アスぺの方は「報連相」のコミュニケーションが成り立ちにくいとなぜ定型は感じるのか,逆に言えばアスぺの方はなんでそこで「報連相」を定型のような形では行おうとしないのか,という理由が見えてくるような気がします。もちろんいつものように定型パンダの想像にすぎませんので,アスぺの方から見て「それはそうだ」と感じられることなのかどうなのかはまた教えていただくしかありません。

 昨日はトマトさんの「ライン」(定型)と「ピリオド」(アスぺ)というイメージを私なりの理解で使わせていただきました。定型の側は人と何か相談する場合には,「やりとりを続けながら考える」という形で,問題を考え,解決していく過程が他の人とつながりながら進んでいく(つまりラインのようになる)。

 それに対し,アスぺの方はベースが「自分で考える」ということにあって,そこに時々他の人の意見を聞いたりもするけど,またすぐに「自分で考える」モードに戻るので,外から見るとそのやりとりはぶつ切れになり,その都度「ピリオド」が打たれてしまうように感じるのではないか。そんなことを考えてみたのでした。

 ですから,実際には「問題を考えている」という意味では定型もアスぺも同じく「ライン」になっているんだけど,定型の場合は「自分→他人→自分→他人→……」という形で「ライン」が作られやすいし,またそういうことを求める場合が多いのに対して,アスぺの方の場合は「自分→自分→(他人)→自分→自分→……」という感じで基本的に自分の中で「ライン」が作られていくのが自然な姿になっている,ということなんだろうと思ったわけです。

 そうすると,定型にしてもアスぺの方にしても,「他者との相談」ということはあるわけですよね。けれども,ちょっと単純化していえば,定型の方は「他者とのやり取り」の中に「自分で考える」ということが入ってくるのに対して,アスぺの方は「自分で考える」ということの中に,時々「他者とのやりとり」が入ってくるという正反対のパターンになっているんじゃないかと思えるわけです。

 このパターンの違いは,アスぺの方が「変化を嫌う」と言われることともつながっているでしょう。なぜなら定型の場合は「自分→他人→自分→他人→……」という形で常に他人が入り込んでくるので,そのやりとりを続けるには自分が変化していく必要があります。それに対して「自分→自分→(他人)→自分→自分→……」のパターンだと,「自分→自分」という形が多くなるので,他人が入るときよりは変化が少なく,むしろ「自分で自分に確認する」みたいな形で今の自分をより強く安定させる可能性が大きくなると思えるからです。

 そして定型もアスぺの方も,お互いに自分のパターンが「自然なやり方」と思い込んでいるので,相手のやり方がわけがわからなくなる。定型の側からいえば,相手が相談してきた場合には,それがきっかけで,何かの解決が見えてくるところまでやり取りが続く,という可能性を感じるわけです。

 もちろん相談されても最初から受け入れられなくて,やんわり断ったり拒否したりすることもあるでしょうし,一旦相談の状態になっても,それが何かの解決に結びつかないまま途中で途切れてしまうことは定型同士でも結構あります。

 けれども定型的に言えば,相談を受け入れた段階で,基本の状態は「相手から相談を受ける→自分が相談を受け入れる→一緒に考える→相手が相談したことを参考に対処する→相手からその結果について報告を受ける→必要ならまた次の対策を一緒に考える→なんらかの解決に至る→そのことを自分と相手で確認し,喜んだり悲しんだりする」という一連の流れを自然と予定してしまうように思います。

 ところがアスぺの方にとっては基本的には最初から最後まで自分で考えることが当たり前で,「相談」は時々参考までに他の人の意見を聞いてみる,という感じになりやすく,上に書いたようなやりとりのパターンはほとんどイメージされていないのではないかと考えてみたのです。そうだとすれば,「相談」はその都度終わってしまうものになりますし,別に「報告」とかをする必要もあまり感じられなくて普通なのかなと思います。

 もしそういう基本的な感覚の違いがあるとすれば,定型の側が当然「報連相」が必要な状況だ,と理解しているときに,アスぺの方には全然そういう感覚が生まれないし,必要も感じないことになりますから,定型の側はアスぺの方の「報連相」不足にいら立つことになるし,逆にアスぺの方はよくわけのわからない要求を繰り返されて,混乱する,ということになりやすいのではないでしょうか。

 トマトさんの「ライン」の話は,お台場観覧車さんカップルにも新しい何かを生み出したようですが,このあたり,大事な問題が隠れているのかもしれません。引き続き注意してみたいと思います。

2014年8月30日 (土)

中でのつながり,外でのつながり

 定型アスぺではコミュニケーションの仕方にかなり違いがある,ということをこれまで考えてきたわけですが,またひとつ思ったことがありました。

 それはたぶん前にトマトさんが,定型の方は「今後ににつながるの「ライン感覚」」を持っているのに対して,アスぺの方の方は「今後に続きにくい「ビリオド感覚」です。」と言う風に対比されたこととも関係するかもしれないと思ったりします。

 どういうことかというと,定型が人に相談したいと思うことがあるように,アスぺの方もそう思ったり,実際そうされることはあるわけですけれど,そのあとの展開が定型アスぺでかなり違っていて,その違い方がもしかするとトマトさんが表現されていたような印象を生み出すのかもしれない,ということです。

 あくまで私の現時点での印象ですけれど,定型が人に相談するときには,相手の意見を聞いて自分の意見を見直し,また何か言ってみて相手の意見を聞いて,さらに自分の意見を見直し,というようなやりとりの連続の中で,自分の見方を調整していくということがよくあると思います。トマトさんの表現を借りれば,自分と相手のやりとりが続いていく「ライン感覚」かもしれません。

それに対してアスぺの方からの相談は,しばしばそれに定型の側が応えると,それですっと収まっていくというか,消えていくというか,そんな印象を持つことが時々あるんですね。「あれ?その後あの話(やりとり)はどうなったんだろう?」という感じがして,それはまたトマトさんの表現を借りれば「ピリオド感覚」なのかもしれません。

 で,その「ピリオド感覚」って何なんだろう?と思うのですが,アスぺの方の場合,相手の意見を聞いたうえで,「自分の中でじっくり考える」というスタイルが強いんじゃないかと,そんな気がしました。

 つまり,「ピリオド」というのは,やりとりは「ピリオド」なんだけど,でも相談してその結果を踏まえて考える,という作業はアスぺの方は個人の中で続けられていて,そこは別にピリオドではないのかもしれないと,そんな風に思ったわけです。

 うーんと,言ってみればアスぺの方も「ライン感覚」があるんだけど,その「ライン」はご自身の中でつながっているもので,相手から見るとぷつっぷつっと切れ切れに見える。定型の方は相手とのやりとりとして「ライン」がつながっているので,外から見てもつながって見える。そんなちがいがそこにあるんじゃないかと,ふとそういう気がしたんです。

 逆に言えば定型的な「ライン」のやりとりは,アスぺの方からはどう見えるのかはちょっと興味があります。

2014年8月27日 (水)

アスぺの愛,定型の愛

ご自身がアスぺでパートナーの女性が定型という鮭さんから頂いたコメントに,すごく考えさせられています。ほとんど全文の引用になりそうですが,

>パンダさんのご指摘の通り、私としてはなかなか人付き合いが上手く出来ない、こんな私と一緒にいてくれるだけで幸せを感じてしまいます。

 一緒にいられることはそれだけで「特別なこと」なのだ,ということは私もパートナーから言われていますし,ここでも何度か話題になったと思います。けれどもそのように「特別な関係」ができたあと,その状態が二人の間では「当たり前」とか「ふつう」なのではなく,それ自体で「幸せ」なこととして感じられている,ということは私には新鮮でした。

>妻にとっては単純な思いやりとか気遣いのレベルなのかもしれませんが、そのような行為だけでも私は妻に大切にしてもらっていると感じ、愛を感じてしまいます。

 私は「愛を感じる」と言われたことが無くって(涙or笑?),なんか「いるのがあたりまえ」で,相手に必要な援助をするのも「家族として当たり前」で,そこに「愛」といったような感情が入る必要がないような,そんな印象を彼女から受けていました。


>ですので、それが定型の人にとっては「現状を維持したい」と思われるのかもしれません。
が、私としては「現状維持」ではなく「現状満足」の状態なのです。(分かりますかね??)


 トマトさんもちょっと触れられていますが,ここ,すごく大切なことが書かれていると思いました。定型基準では「愛がない」か「愛が不足している」状態に思えて,「愛情飢餓感」が生まれてしまいそうなときに,そこでアスぺの方は充分に「愛」を感じられるわけですよね。ほんとに考えさせられます。


>しかしながら、このレベルで満足しているが故か分かりませんが、妻にとっては私からの愛は感じられないと言われてしまいます。


 はい。それは奥さんのお気持ちはよくわかります。定型基準だとそうなるでしょうね。

>定型の方が「コミュニケーションを通じて」愛を感じるものだという事実は最近になってようやく頭では理解出来るようになってきたのですが、まだそのコミュニケーションを通じた愛が具体的な行動や会話でどのようなものか分かりません。


 これも私にはとても刺激的な表現でした。愛は「コミュニケーションを通じて」感じる,というのは,言われてみてまあそのとおりと思いますが,言われるまではあまりに「当たり前」のことで,あえてそんな風に表現してみる必要さえ思いつきませんでした。

つまり,愛があるかどうかの違いというより,定型の愛の形と,アスぺの方の愛の形に,それだけ違いがあるということですよね。このことを教えていただいたのはほんとに私には大きいです。

>人によって違うものとは思います。妻にも直接聞いてはいますが、なかなかすっと入ってくる感じがまだなく、どのようにすれば妻に私の愛が感じられるのか苦悩している所です。
もしよろしければですが、パンダさんの考える愛というものも教えてもらえませんでしょうか。具体的にこういうのが有れば、愛が感じられるというものであれば有りがたいです。

 愛とは何かはむつかしくてうまく書けそうにありませんが,「こんなときに定型的には愛を感じやすい」ということを少し考えてみます。もちろん定型でもいろんな個人差はあると思いますが,ひとつの私の例として。

 自分に嬉しいことがあった時,一緒に喜んでくれる。悲しいことがあった時,一緒に悲しんでくれる。つらいときに慰めてくれる(特に男女関係ならスキンシップも大事)。久しぶりに会ったとき,すごく嬉しそうにしてくれる。自分の好きなものを自分のためにわざわざ用意してくれる。自分が相手のためになにかをしたとき,そのことを喜んでくれる。自分が相手のために何かをしてあげることを期待されていると感じられる。自分が相手には必要だということを折に触れて伝えられたり感じさせられたりする……などなど

 書いていて思いましたが,これらのことは私にとっては結構「具体的」なことなんですが,もしかすると鮭さんにとっては「抽象的」で「具体的」とは感じられないのかもしれませんね。もしそうならそのずれも大事な問題のような気がします。

 もっと「具体的な行動」ということで書いてみると,たとえば奥さんが悲しそうにされているとき,定型なら「どうしたの?」と心配そうに聞くと思います。そしてもし奥さんがそれについて説明してくれたとして,それを聞いて理解・共感できれば,一緒に悲しんだり,あるいはその悲しみを作った原因について憤りを語ったりしそうです。もしよく理解できない場合にも,ただ横に寄り添ってあげて,涙を拭いてあげたり,手を握ってあげたりすることもありそうです。そして相手の人がもたれかかってくるようなら,抱いてあげることもあるでしょう。

 相手の悲しみの理由を理解することがむつかしくて,そのことについて相手の人がいら立ちや失望感を持ちそうなときには,「理解したいのに,まだ理解できなくてごめんなさい」とすなおに言うかもしれません。自分は本当は理解したいのに,理解できなくて悲しい,という気持ちを伝えることは,相手にとっては「このひとは理解はできないけど,でも自分のことを一生懸命考えようとしてくれているんだ」と感じられることかもしれなくて,その時には「愛」を感じてもらえそうに思います。

 場面や状況,お互いの関係や性格によってもいろんなバリエーションもありそうですけど,たとえばひとつの例としてそんなことを考えました。

>この私の愛と思っていたものが、妻から愛じゃないと言われてはじめて、妻が私と普通にコミュニケーションができずに寂しい・悲しいと感じていたことが理解できた気がします…。
今はどちらも悲しい状態なので問題解決にはなってないのでもっとお互いのことを理解していく必要があると感じているのですが。

 もし愛というものを「相手のためになりたいと思う気持ち」と「相手を自分の支えとして必要とする気持ち」というふうに広く考えたとすれば,鮭さんの「愛」は,奥さんの「愛」と通じるものがあるのではないかと思います。ただ,「何をすることが相手のためになることなのか」ということについての理解がお互いにすごくずれていたり,「どうすることが自分の支えになるのか」ということの感覚がずれていたりすると,「愛」を感じられなくなってしまうのでしょう。

 私の場合は,すごく時間はかかりますが,それまで全く気付かなかった彼女の振る舞いについて,「ああ,これはもしかして彼女が私のことを考えてくれて,彼女なりのやり方で努力してくれていることなのかな」と感じられるようになると,そこに「愛」のようなものを感じ取ることがだんだんと出てきました。定型的な表現とはかなり違ったりしますし,また表現のレベルもすごくかすかなものだったりして見過ごしやすかったりもするのですが,そこに気づけるようになると,ちょっと状況が変わってくるような気もします。

 ですから鮭さんが言われるように,やっぱりほんとに時間をかけて,少しずつ地道に「お互いのことを理解していく」ことが大事なのだと思います。そうすれば,ほんとに少しずつでも,「相手の人にとっての愛の表し方」が感じ取れるようになるのではないかと,そんな期待をしています(し,私の場合は実際ほんの少しずつそれができる部分が見えてきているように思います)。

2014年8月25日 (月)

ささやき

 以前,トマトさんが何度か紹介してくださっていた話が心に残っていたのですが,今日,ふといくつかのこととつながってまた思い出されました。

 パートナーとは何かについて「一緒に喜び合う」ということがほんとにない感じがして,それは私にはとてもつらいことの一つだったのですね。たとえばこのブログも私個人にとっては彼女との間に抱えた葛藤をどうやって乗り越えられるのか,ということを模索する場でもあるわけですが,そこでたとえばアスぺの方となにか通じ合えるものが見えてきた気がして,すごくうれしくて,そのことをパートナーに話すことがあります。

 もちろん私の気持ちとしてはそうやってひとつの「前進」があったことを,彼女と一緒に喜びたいからです。それは私個人がどうのこうのということではなくて,彼女との関係に関わることなわけですし,「もちろん彼女も喜んでくれるだろう」という思いがやっぱり消えないんですね。

 ところがその期待はいつもあっさりうらぎられます。彼女の表情は全然変わらないか,あるいは例の「それで,私に何を言ってほしいの?」と聞き返される時のような,かすかに困惑したような表情だったりします。「それが私に何の関係があるの?」と言われているような,そんな印象を持ってしまうような雰囲気になります。

 別にブログをこんな形でやっていることについて,否定的な気持ちを持たれているわけではないのだと思います。むしろ意味のあることを頑張っているということについては時々言ってくれることがあります。でも,そのことと,そこでの「前進」を「一緒に喜んでくれる」こととは別のことのようなんですね。

 そんなふうに「一緒に喜び合う」ことについて,満たされない思いを抱えるわけですが,今朝,「あれ?」っと思うことがあったんです。

 私たちの子どもはこの困った親たちに育てられて,本当に苦労をしたのですが,それでも「親はあっても子は育つ!」とでもいうべきか,自分の力で地道に自分の足場を作り上げ,道を切り開いてくれました。そして本当に自分がやりたいことを見つけ,また新たな挑戦を今始めようとしています。

 今日はそのひとつの節目になる日だったんです。その節目につきあったパートナーが帰って来てから,なんとなく笑顔で自分から私の近くに来るんですね。ここで定型同士なら,「ああ,よかったね。いろいろあったけど,ほんとによくここまで来たよね。」などと一緒に「感慨にふける」ところだったり,そこからさらに思い出話になったりするところかなあと思いますが,もちろん(?)彼女の場合はそんな展開にはなりません。

 ほんとに簡単にその時のことを語るだけです。で,しばらく私のそばからはなれずに,なんとなく嬉しそうな雰囲気を漂わせているんです。

 その「なんとなく嬉しそう」で「私のそばにしばらく自分からいようとする」という,その感じが,いつもとほんとに違うんです。定型的な感覚からすれば,たぶん簡単に見過ごされてしまうような,かすかなことなんですが,それが今日はとても私の心にしみたんですね。

 トマトさんが紹介されていた例も,家族さえも聞き逃していたアスぺの子のつぶやきを,トマトさんが気づいて受け止めた話でした。

 定型アスぺの気持ちの「共有」は,感動的・ドラマチックな大げさな身振りや声で成り立つものではないのでしょう。そうではなくて,ほんの小さなささやきや身振りの中に,静かに成り立つものなのではないかと,そんなことを思いました。 

2014年8月24日 (日)

いろんな「つながり方」

 ひととひととのつながり方をあらわす言葉っていろいろ思いつきます。カップルに関する言葉で言えば「(運命の)赤い糸」「愛」「似たもの夫婦」「蚤の夫婦」「腐れ縁」「子はかすがい」「なれあい」「妥協」「打算」「金の切れ目は縁の切れ目(? 笑)」「共白髪」「おしどり夫婦」「夫唱婦随」「友達夫婦」「空気のような存在」「お互い自分の一部」……。

 男女の中は必ずしも安定したものではなくて,うつろいやすかったり,壊れやすかったりもしますから,それを長持ちさせるための工夫もいろいろです。昔だったら「仲人を立てる」とかもそうでしょうね。問題が起こらないような監視役だったり,起こった時のための相談相手や調停役をあらかじめ決めておくのでしょう。

 結婚式もそんな工夫のひとつとしても見られますよね。神前でも仏前でも人前でもいいですけど,お互いに「誓い」を立てて,親せきや友人や職場の人などにそのことを披露して,「これからずっと二人で努力します」と宣言するわけですし。

 経済的にも法律的にも結婚している場合とそうでない場合では,いろんな違いが出てきます。税金とか補助とか年金とか,遺産の相続とか,いろんなことですごく大きな違いが出てくる。だいたいは結婚している方が圧倒的に有利なわけですよね。あの手この手で「夫婦でいる方が得だよ」という状況を作っている。

 あと,昔読んだ話で「へえ~!」とある意味感心したんですが(笑),他の動物と違って人間が年中「発情期」にあるのも,夫婦関係を長持ちさせるためだという考え方があるみたいです。もともとセックスと言うのは「子孫を残す」ことがもともとの目的なわけですけど,人間の場合はそれに関係なくそれ自体がひとつの楽しみになったり,コミュニケーションの手段になったりする。そうやって子作りに関係ないときにもお互いの魅力を保ち,関係をつなぐ手段にしているというわけです。

 それで,この「カップルを続ける」ためにどうしようとするか,ということについて,もしかすると定型アスぺの間でやっぱり大きなずれがあるかもなあと思ったんですね。

 定型の場合は,多かれ少なかれ「愛」というものがキーワードになるような気がします。それは精神的な愛も身体的な愛もあるでしょうけれど。もちろんむかしは結婚なんて「家同士の関係」で,本人同士が好きか嫌いかとかはあんまり関係なかったりした時代もあるんでしょうけれど,結婚後にお互いをいつくしみあえる関係や愛し合える関係を育てていけるかどうかはやっぱり重要な問題だったんじゃないかと想像します。

 で,そういうことが結構重要だからこそ,「愛」がそこに得られなくなったり,失ったりすれば,すごくなやんだり,苦しんだりするわけでしょうし,そのことに絶望的な状況になったりしてあきらめざるを得なくなれば,あとは「子どものため」とか「お金のため」とか「世間体のため」とか,なんか別の理由を見つけたくなるのかもしれません。

 それに対してアスぺの方はどうなのかな,と考えてみるのですが,アスぺの方にとって「愛」ってなんなんだろう?ということはまだまだよくわかりません。共通する部分もあるんだろうと思いますが,違いも大きそうな気がする。

 ただし,今までいただいたコメントから感じたり,あるいはアスぺの方のブログを拝見したり,パートナーのことを考えたりすると,アスぺの方にしばしば感じられる,「今ある状態をできるだけ保とうと努力する」という姿勢がかなり大きな意味をもっているんじゃないだろうかと,そんなことを思いました。

 あくまで定型的な感覚と比べて,ということですけれど,アスぺの方は「愛につながりの意味を求めようとする」ということはあまりなくて,一度カップルになれば「その状態を維持すること」それ自体に結構大事な価値が生まれるんじゃないかと言う気がするんです。

 そうすると,定型カップルの場合は,「愛し合う」関係がずっと続けばすごく幸せなのでしょうけれど,まあそういうことはふつう(?)そんなに多くはないでしょうから,どっかで「なれ合い」とか「打算」が入り始め,あるいは場合によってはもう「打算」しかなくなるかもしれません。

 ところがアスぺの方の場合は,「カップルという状態でいること」自体にすごく意味があるとすれば,それはある意味で年月を重ねても「揺るがず,変化しない関係」でしょう。そこには「打算」みたいなことがあんまり入ってこないから,別の言い方をすればむしろ「純粋」だと言えなくもなさそうです。

 そんな目で見てみると,「アスペルガーと定形を共に生きる」の中でご紹介した,東山カレンさんと伸夫さんの「離婚をめぐる手紙」のやりとりが,結構リアルに感じられるようになります。お互いにカップルでいることにどんな意味を感じていたのか。そしてそこで相手に何を求め,あるいは何を与えようとしていたのか,ということについてのものすごいずれが,あのお二人の手紙の書き方や内容のビックリするくらいの違いによく表れているような気がします。

 

2014年8月23日 (土)

「すり合わせ」と「常識」

 なんとなくの印象ですが,このところアスぺの方から頂くコメントが,私が疑問に感じてもっと知りたいとか,考えたいと思っていることと,すごくかみ合ってとても刺激的に感じられます。以前は「ふーん,そういうこともあるのかなあ」という感じにとどまっていたんですけれども,今は「ああなるほど!」とか「そうだとすれば,ここはどうなるんだろう?」とか,なんだか「コミュニケーションできてる!」という感覚が出てきているみたいです。

 白崎やよいさんとみみりんさんから頂いた昨日のコメントでも似たような感じを持ちました。

>アスペルガー症候群同士では、適切な距離感はまず保てないと思ったほうがよさそうだと最近思っています。
 と感じる体験を今積み重ねられていることを教えていただきました。これについては「アスぺの方はそもそも対人関係がうまく作れないんだ」というような,定型の側からしばしばみられる批判的見方からすれば「やっぱりね」ということになるのかもしれません。定型とうまくいかないだけじゃなくて,アスぺの方同士でもうまくいかないじゃないか,という話です。
 みみりんさんからも

>「夫婦共に自閉傾向がある場合、その強弱に関係無く、互いにパートナーに不快感を与える」

 ということが語られていましたし,私のパートナーもアスぺの方同士でも関係はむつかしくなるかもしれない,というようなことを言ったりしますし,確かにそういえる面はあるのかなあと,改めて思いました。

 ただ,もう一方でその前のコメントで白崎さんは,「珍しい例」と断られながらも,
>当事者でブログを書いている人たちの中には、「家庭内にはアスペルガー症候群の診断がついた人しかいなくてコミュニケーションがとても楽」という人もいるみたいです

 とも書かれています。そして

>「似たような感覚」を持っている当事者はいますが、理解できない感覚がベースになっている人もいます。それは徹底的な人間不信だったり、攻撃性だったり……経験によるので人それぞれなのですが、「なんでこの人こうなんだろう?」と理解できない思いを抱えることが、当事者同士でも結構よくあります。

 ということも書かれているところから想像すると,アスぺの方同士でうまくいかないときは,「なんでこの人こうなんだろう?」と感じさせられるような「感覚のズレ」が大きい場合だったりするのかもしれないですよね。そういう「感覚のズレ」でうまく関係が取れない,ということは定型アスぺ間でも同じように起こっていることだと思います。

 逆に言えば「似たような感覚を持っている」アスぺの方同士はわりあいうまくいくということなのでしょうか。もしそうなら要するに「馬が合うかどうか」ということが大きいのかもしれないと思ったりします。

 それと,こんなことは言えそうな気がしました。

 定型の側はアスぺの方とのコミュニケーションで,「なんでこんな当たり前のことが理解されないんだろう?」という感覚を持つことが多く,その結果「そんなの常識でしょう!」という怒りの言葉が出てきたりします。逆に言えばアスぺの方はそれを「当たり前」とは全然感じられないので,定型がなんで「常識」という得体のしれない言葉で問答無用で自分の感覚や考え方を無理やり押し付けてくるのかが理解できず,とても傷つくことになるのかなと想像します。

 なんでそんなズレたやり取りになってしまうのか,ということですが,ひとつの考え方は定型同士は生まれながらに「同じ(似たような)感覚」を持っているから,お互いに理解しやすく,アスぺの方は「定型とはすごく違った感覚」を持っているからお互いに理解がむつかしくなる,ということでしょう。

 もうひとつの考え方として思いつくのは,定型は小さいころから他の人と自分の感じ方や感覚を「すり合わせる」ということをずっとやり続けてきたために,「大体似たような感覚」を持つようになり,逆にアスぺの方はそこにはあまり興味がないか,ちょっとやってみてもうまくいかないことが多いので,それ以上追及することを早めにやめてしまわれるので,それぞれの方が「自分の感覚」をそのまま伸ばしていかれることになり,よく言えば個性的だけど,ほかの人とは共有されにくい感覚を育てていくことになる。ということです。

 他にも考え方があるかもしれませんが,この二つについては,どっちもあるかなという気がします。このブログでのやりとりでも,基本的な感覚の違い,ということは何度か出てきました。そしてどういう感覚に違いが大きくなるかは,同じアスぺの方でも人によってさまざまだということもありました。それは結構「生まれつき」のところが大きいような印象を持っています。

 でも同時に「すり合わせ」を小さいときからやっているかどうかも大きいような気がするんですね。それは同じ定型同士でも,文化が違うといろんなことについて「基本的な感覚が違う」ということがよくあるように思えるからです。このブログでも何度か触れましたけれど,私の経験からすると,定型アスぺ間でよく問題になる「常識が通用しない」という感覚は,違う文化の人同士の間でも問題になることが多いんですね。

 ただ「定型アスぺ間」では定型が「常識」を武器にして,それにアスぺの方が反発する,という形になりやすいのに対して,違う文化の人同士の間ではお互いに自分の持っている「常識」が「正しい」と言い合う,「常識同士の闘い」になりやすいように思います。

 そのことを考えると,定型はやっぱり小さいころから周囲の人と感じ方のすり合わせを盛んにやっているから,周囲の人とは似たような感覚になりやすく,「常識」が共有されやすいけれど,違う世界に生きて違う感覚のすり合わせ方をやって違う「常識」を共有している人たち(つまり違う文化の人たち)とは理解しあうことがむつかしくなり,「(異なる)常識同士の闘い」になってしまう。それに対してアスぺの方はそういう「感覚のすり合わせ」から「常識」を共有していく過程が定型よりは少なく,むしろ自分独自の感覚を育てていかれることが多いので,「常識同士の闘い」にはなりにくい。そんな風に理解できるような気もします。

 要するに「定型同士はお互いの感覚のすり合わせを求め,<常識>を共有することをずっとやり続けてきている」のに対して,「アスぺの方は何らかの理由で感覚のすり合わせはあまりせず,自分の感覚を大事に育てていかれる」ので,白崎さんが感じられている,「アスペルガー症候群同士では、適切な距離感はまず保てない」というようなことも起こりやすいのかなと,そんな話です。

 そしてこの「アスぺの方同士,個性の幅がすごく大きくなっていきそう」ということについては,みみりんさんが書かれている

>例えば、「映画やドラマ等の理解力」を観点に考えると、私は自閉傾向強、夫は定型並みです。でも、「予定変更の苦手さ」を観点にすると、私は自閉傾向弱、夫は強、と、逆転します。

 という問題にもつながっているように感じます。

 とりあえず今回はそんなことをちょっと考えてみました。

2014年8月20日 (水)

アスぺ同士の関係って?

 

みみりんさんからこんなコメントを頂きました。

 「自閉傾向が弱い当事者と強い当事者とで定型とアスペの問題と同じことは、実際に起きます。うちの場合、明らかに私の方が自閉傾向が強いのです。夫は、十分に社会適応していますし、おそらく診断は下りないと思います。(私も社会適応だけで判断されたら下りないかもしれません。)そう言えば、東山伸夫さんも、診断下りなかったんですよね?細かいことですが、夫婦共に自閉傾向がある場合、その強弱に関係無く、互いにパートナーに不快感を与えることがあると思います。(というか、うちがそうだと思います。)」


 ここ,私がずっととても気になっていたことなのです。

 ここで,いわゆる「自閉症スペクトラム」の考え方を単純に理解して,すべての人を自閉度1~自閉度10まで,どれかに当てはめられるとします。そしてたとえば自閉度4を超えると社会生活でトラブルが多くなり,自閉度6を超えると定職に就くことが困難になり,自閉度8以上は自立した社会生活はできない,とか,(あくまで適当にたとえ話として書いているだけです)そんな「診断」が可能だとします。


 そうすると,大体今の診断と言うのは「社会生活が送れるかどうか」が重要な判断基準になっているようにも感じられますから,上の例で言えば自閉度5以下の人は,たとえアスぺ定型問題に当事者カップルが悩んでいたとしても,診断的にはアスペルガーなどという形にはならないことになります。東山伸夫さんもそのケースなのでしょう。私のパートナーも診断は受けていませんが,同じかもしれません。でもやっぱりたとえそうでも「定型アスぺ問題」は明らかに存在していると思わざるを得ません。

 さて,仮にそんな風に単純に数字で自閉度を考えたとしたとき,カップルの一方が自閉度1で,もう一方が自閉度2だとすれば,お互いにそれほど問題なく社会生活を送れるわけですし,比較すれば自閉度1の人の方が相手よりもより社交的で,それに比べると自閉度2の相手の人はちょっと非社交的でときどき一人でいることも好き,というような「定型カップル」になるかもしれません。

 ところが自閉度1の人が自閉度5の人とカップルになると,自閉度の差は4になりますし,さらに自閉度5の人は会社でもトラブルにあいやすかったり,ぎりぎり定職について社会生活はできますが,ちょっと「生きにくさ」を感じる状態になっています。自閉度1の定型の人は,パートナーとのコミュニケーションにしばしば違和感を感じ,「共感」的な関係が作りにくいと悩んだり,そんな風になるかもしれませんが,周囲の人にそのことをぐちっても,「まあそういうことはよくあるよ。人嫌いの人だっていくらでもいるし」とか,あんまりその深刻さを理解してもらえない状態になります(カサンドラ症候群になりやすい状況?)。

 これが同じ自閉度の差が4のカップルでも,一方が自閉度3(定型)で,相手の人が自閉度7だとすると,相手の方は社会生活がかなり困難になって,受診すれば診断も下りる可能性が高くなります。そうするとこの二人のカップルが抱える困難は「定型アスぺ問題」であることが診断上も言えることになります。

 では同じ自閉度の差4のカップルで,片方が自閉度6,相手の方が自閉度10だったらどうなるでしょうか。一方の方はぎりぎりアスペルガーの診断が下りるくらいで,相手の方は完璧に(?)診断が下りる状態ということになりますが,この場合そこで抱える問題は「アスぺ=アスぺ問題」なんでしょうか?それとも自閉度3と自閉度7のカップルが抱える「定型アスぺ問題」と似たような困難をこのカップルでも抱えることになるのでしょうか。

 もうちょっと具体的に言えば,たとえば定型アスぺ問題で,定型側は「共感」を大事にして,アスぺ側は「自立」を大事にして,その結果相手に対する気遣いの仕方も全然変わってきて,病気の時に定型側は「相手を気遣っていろいろ励ましたり話しかけたりもする」感じになり,アスぺの側は「静かに放っておいてあげる」感じになり,そうなると定型の方は寂しい思いをする,という「アスぺ定型問題」が起こったりします。

 そのように「相手の振る舞いに,なにか自分が切り捨てられたような寂しさを感じるか」ということについて,自閉度6と自閉度10のカップルでも,自閉度6の方が人に対して求めるかかわりの強さは自閉度10の人より強い,ということになりますから,そのカップルでは自閉度6の人が相手に対して「自分が切り捨てられたような寂しさ」を感じるかもしれないわけですね。

 で,みみりんさんが下さったコメントによれば,そういう可能性もあるということになりそうです。

 自閉のレベルが単純にスペクトラムで並べられるのだとすれば(まあ,実際はもっと複雑ないろんなことが絡むと思いますけど,とりあえずわかりやすく考えるために),定型アスぺ問題も,「それぞれのカップルが抱える自閉度の差の大きさ」という視点から考えられる面もあるのかもしれません。もしそうなら「自閉かどうか」とか「アスぺか定型か」というシンプルな問題ではなくて,「お互いの自閉度(逆に言えば定型度)の差がどのくらい大きいか」ということが重要な問題のひとつなのかもしれないわけですね。

みみりんさんのコメントからは,他にもいろいろ考えるべき大事なことがありそうに思いますが,とりあえずまずはそんなところで考えてみました。
 
 

 

2014年8月18日 (月)

二つの理想:自立と一体化

 アスぺの方たちを,定型の物差しで「○○ができない人」として理解するのではなくて,定型とは違った特性をもって,定型とは違う模索をしながら生きている人として理解してみたらどうなるだろう,というのが私がこのブログでこだわって考えていることのひとつになります。

 たとえ話で考えてみると,数学とか科学とか,いわゆる理系が得意な人であれば,「論理的に考えられること」が生き方としてもとても大事なものに感じられるかもしれません。感情に流されてわけのわからない行動をしてしまうことはよくないことでしょう。逆に文学が好きとか,いわゆる文系が得意な人であれば,「感情豊かに生きる」ことがとても大事なものと考えられるかもしれません。論理ですべてを割り切ろうとすることなど,非人間的で単純で冷たいことだ,と思えるのかもしれません。

 人は自分の得意なところや不得意なところ(多くの場合,それは生まれつきの面が強いでしょう)に応じて,「理想的な生き方」みたいなものを決めているのかもしれません。そしてそういう「理想」を抱きながら,自分の生き方を模索するのでしょう。

 そんなことを考えてみると,定型の物差しだけで「○○ができない人」と考えてしまうと,それは定型とは異なる特性を持ったアスぺの方を,「定型的な生き方の理想」だけで判断してしまうことになって,「アスぺ的な理想」が見えにくくなってしまい,当然「アスぺ的な生き方」もまた見えにくくなってしまうように思います。 

songさんのコメントは,そんなことを改めて考えさせていただくものでした。

 「ふと思ったのですが、この記事のタイトル「孤立した世界」っていうのに違和感を覚えました。考えてみたところ、多分定型の方がつけたタイトルだからかなと。私からすると、単に「確固たる世界」なんですよね。人に頼らず自分で物事を解決し、辛いしんどい事も自分で処理する、苦しくなったら一人で好きな事をして充電。」

 人に頼らず,自分の力で生きていく生き方は「自立した生き方」と言えるでしょうし,それを重視する考え方からすると,ほかの人との助け合いを大事にする生き方は「自立していない依存的な生き方」に見えることになりそうです。逆にお互いに支えあいながら生きていくスタイルを重視する場合には,自分の力に頼って他の人との関係をあまり求めないように感じられる生き方は,「孤立した生き方」に感じられたりする。

 もちろん自立しているとか,お互いに依存しあっていたり,助け合っていたり,あるいは一体になって生きる生き方という二つの生き方のどちらか一つだけで生きている人はないでしょう。多かれ少なかれ人は他の人と関係を持たなければ生きていけないのですし,逆に他の人と完全に一体化するなんてもともとあり得ないわけですから,自分の力で生きていくしかない面も必ずあります。

 だれもがその二つの面を持っている中で,それでも気分的にはどっちをより重視する,みたいなことはその人その人によってあるのでしょうし,定型とアスぺを比べた場合には,個人差は当然あるにしてもやっぱり定型の方が一体化をより大事にし,アスぺの方は自立を大事にする,という対比ができるのではないかと思います。

 そう考えてみると,定型アスぺのズレの問題を考えていくときに,ただ「これができる」「これができない」「これが得意」「これが不得意」といった面だけで関係を考えていくのではなく,「違う理想を持ちながら生きている人間同士」という面からも考えていくことに意味があるのではないかと,そんなことを思います。

2014年8月16日 (土)

難問

 親の介護について,相変わらずパートナーにサジェスチョンなど助けてもらっているのですが,その中でまたお決まりのパターンで私がしんどくなることがありました。定型アスぺ問題を理解する以前なら,私は「そんなのおかしいでしょ!」という感じで,「対抗」する感じになっていたと思いますが,定型的な理解が彼女にはあてはまらない,ということをいろんな場面で知るようになってからは,それはあんまりできなくなって,傷ついた思いを抱えながら,「どうしたらいいんだろうなあ」と黙って考える,ということが多くなったんですね。

 そうすると,最近は彼女の方から「また何か傷ついたの?」というようなことを気にして聞いてくれることが増えてきました。今回もそうで,だいたいこんなことです。

 御存じのように,介護というのは今は介護保険制度を使って,いろいろなサービスを状態に合わせて組み合わせて使うようになっています。老人の医療施設とか介護施設とかいろいろ活用することになるのですが,ある施設の利用の仕方をめぐって,その責任者の人の対応が「?」なところがあって,調整が必要になりました。

 パートナーも福祉に関わる人間ですので,その責任者の対応は,専門家としての彼女の目から見ても「?」であることははっきりしているらしくて,(あとからわかったのですが)彼女は結構憤慨していたようです。

 それで,この間関係者が集まって,改めてケアプランを相談する,という機会があったのですが,とりあえずはまあほっとできるような方向に進むようになりました。ただ,その責任者の人の「?」な方針がどうして急に変わったのかはよく理解できず,一応された説明はなんだかとってつけたようなもので,「なるほど!」と納得できるようなものではなく,「いったいあれは何だったんだ?!」という疑問が残るようなものではありました。

 とはいえ,まあとりあえずほっとできる方向には当面は進むことになったので,私はその点についてはそれ以上つっこんでどうしてそういうことになったのか,といったことを明らかにしようというふうには頭が働かなかったんです。

 で,その経過をパートナーに報告したんですが,「ああ,よかったね」となるよりも,その責任者の説明が理解できない,ということで,「それはどういうことなの?」とか「そんなの理由になってないじゃない」とか「問い詰めて(と私には感じられる)」こられました。

 私も漠然と「なんかへんだなあ」とは思っていましたから,彼女がそういう疑問を持つこと自体は別におかしいとは思えないのですが,私がここで辛くなるのは,彼女の怒り(ということはあとで分かりましたが)がその責任者にではなく,私に向いているように感じられたからです。

 なぜそう感じられるかと言うと,彼女の聞き方が「なんでその人(責任者),そういう言い方するのかしらね」とか,「その人おかしんじゃない?」なら,彼女の怒りが私にではなく,その責任者に向いていることがすぐわかりますから,私も「そうだよね!」と,彼女と「共感」して進めるのです。ところが彼女の言い方は私に対して「どうしてそうなの?」とか「そんなの理由になってないじゃない!」とかなので,その責任者が責められているというよりも,私の理解力のなさとか,対応のまずさを責められているような感じになるんです。

 ということに気が付いて,彼女にも説明をしたんですが,要するに定型同士のやり取りの中ではこんな時に「どうしてそうなのか」とか「それは理由にならない」と言われるということは,「あなたはどうしてその場(調整の場)で,そのことを追及しなかったのか。おかしさを見抜けなかったのか。そんなことは常識ではないか。そんなこともできないのか。」とその人の未熟さを非難していることにもなるわけです。

 そうすると,まあ私は状況を改善しようとして自分なりの努力をしたわけですし,そのプロセスにはよくわからないところが残ったとはいえ,とりあえずはいい方向に進み始めたのですから,「まあとりあえず,よかったね」というのがあって,そのあとで「それにしてもその責任者の対応や説明はおかしいよね」となれば,全然問題なく,「そうだよね。」と話が進むのですが,「よかったね」はなしでいきなり「あんたはそのおかしさも追求できなかったのか」と責められるように感じてしまったわけです。

 それで,そのあたりの定型的な感じ方については,彼女に理解してもらうには時間がかかるかもしれないとも思いましたし,とりあえずは「その人の説明はおかしいよね」とか,私を責めているのではなくて,その人のことを問題にしている,という言い方がされさえすれば,それで全然しんどさがちがうんだけど,と説明しました。

 そこで「難問」が今までよりも明らかになっていったんです。

 彼女はちょっと考えて,そういう言い方をしようと思えば自分はできるだろうというんですね。でもそれはあくまでも仕事モードになって,他人になったら気を付けてそういう言い方をすることもできるだろうということで,素直に自分の感情で言うときにはそれは無理だというんです。

 これは以前にも何度か書いたような気がしますが,彼女のその「素直な言い方」は私から見ると,私を責められているような気分になりますし,そういうことに対して私も「素直に」対応しようとすれば,当然「反撃」をせざるを得なくなるわけです。ところが彼女の方には私を攻撃している気持は全然なくて,それでいきなり私から攻撃されたように感じ,ショックを受けてしまうんですね。

 そうすると,私は彼女の方から「理不尽」に攻撃されたから「反撃」したのに,その私に「なんで私(パートナー)が責められなきゃいけないの?」と逆に彼女から非難されるようなことになるわけです。それで私の方はもう訳が分からなくなって,混乱してしんどくなる,という展開によくなりました。

 そういう得体のしれないへんなずれに基づく展開があることについて,最近は彼女ともぼちぼち理解が共有されてきているようで,今回もその話をしたらそれは理解してくれたようでした。でも,そのうえで,やっぱり他人(仕事)モードにならないと,私が望むようなやり方はできないというんですね。

 私としては彼女から「他人」だとは言われたくないわけで,そうすると,彼女の「自然な感覚」での言い方を受け入れなければならなくなる。けれどもその彼女の言い方に私の方が「自然な感覚」で対応しようとすると,今度は彼女の方が混乱してしまって収集がつかなくなる。それを避けようとすれば今度は私の方がある意味で「他人モード」になって,距離をとって対応するしかなくなる。というわけです。

 あちらを立てればこちらが立たず,という状態で,ほんとに難問です。

 で,彼女とは次のような結論でお互いに意見が一致しました。「ほんとにむつかしい」

2014年8月13日 (水)

孤立した世界

 

トマトさんやほかのみなさんのコメントを参考に,パートナーのこともあわせて考えてみると,定型から見たとき,アスぺの方は問題を抱えたとき,誰かとそれを共有して解決しようとするよりも,自分自身の中で解決されようとする傾向が強い,ということがありそうです。あすかさんのコメントからも,アスぺの方は「変化を嫌う」ように感じられること,それで相手と「歩み寄り」を積極的に模索することも,定型に比べて少なくなる,という可能性が考えられます。

 これは定型からすると,特に相手が親しい大事な人であるほど,とてもさびしく感じることになるでしょう。親しく大事な人というのは「困難を分かち合える人」という感覚が定型にはあるように思えるからで,それをもし拒まれてしまうと,切り捨てられたように感じてしまうからです。

 もちろん「定型から見るとそう見える」というイメージが,アスぺの方自身からも「それはそうだ」となるかどうかはわかりませんし,あるいは「それはちょっと違う」と感じられるかもしれません。そこはアスぺの方に教えていただくよりないのですが,ここではとりあえず,そんな定型側からのイメージを基に,アスぺの方の世界について感じたことをちょっと書いてみたいと思います。

 私がハードな仕事に没頭して,精神的にも緊張状態で余裕がまったくなくなって,パートナーに愚痴を聞いてもらったり,いたわってほしいと感じるような状況になると,彼女がその私の緊張が伝わるのか,逆にパニックのような状態になってしまって,それに対応しなければならなくなり,ますます緊張状態が深まる,という悪循環になることがときどきありました。

それで私はハードな状態にあるときにも,それを彼女に対してあまり表現しないようになっていったんですね。簡単に言えば「がまん」して自分の中で抱え込むようになったわけです。

 でも,定型的にはこの「がまん」は辛いことですし, そういう「がまん」をしなければならない関係は寂しく感じますし,場合によっては相手を恨むようなことになるかもしれません。

 パートナーとアスぺ定型問題を共有できるよう(お互いの間にそういう問題があることについてどちらも納得できる状態)になって,時々その問題について,話をすることもできるようになりました。けれどもそれで私が自分が出会う問題などについて,彼女に自由に話せるかと言うと,やはりそれは無理です。私の場合はむしろ子どもと話す方が問題解決のヒントが得られることが多くて,彼女に対してはそうすることを半ば意識的に,半ば無意識的に「がまん」しています。

 当然それは私には辛いことの一つなわけですけれど,ふとこんなふうに思いました。私はなかなか彼女に相談することができない状態にある。でも彼女はほとんど誰にも相談できない状態を,ずっと生きてきたんだな,ということです。

 「相談できない」のか「相談したくない」のかは微妙ですし,仮に「相談したくない」という感じが強いとしても,それは「そもそも相談と言う発想がない」のか,それとも「相談してもかえって悪い結果になる」経験が積み重なって,もう「相談する」ということについてこりごりしているからなのか,についてもいろんな可能性がありそうです。

 でもいずれにしても,自分が何か問題を抱えたときに,基本的には相談せずに,自分自身で対処するしかない,という信念で彼女は生きていることになります。

 仮にそういう状況を想像して,その中に自分を置いてみると,それはやはり大変な世界だなあと感じられたのですね。私が「がまん」することで辛く感じることと,その彼女の孤立した状況の辛さと,どっちがより大変なのかはわかりませんけれど,でもしんどいだろうなとは思えます。(彼女にそれを話せば,「それが自分には当たり前(の世界)」だと言いそうな気がしますが)

 面白いことに(?),そういう想像を働かせると,なんだか彼女に対する「いたわり」の気持ちがまた少し出てきます。「ああ,そういう孤独な状況を彼女は生きているんだなあ」ということがちょっと実感できるようになって,「たいへんだろうなあ」と感じるからでしょうか。

 ま,定型の側からの勝手な思い込みなのかもしれませんが,ちょっとそんなことを想いました。

  

2014年8月10日 (日)

お姫様抱っこ

 私の好きなテレビ番組に「探偵ナイトスクープ」というのがあって(笑),

 60を過ぎた女性が,20年来の夫に対する夢をかなえたい
 という相談を持ち掛けているのを見ました。

 その夢と言うのは「一度でいいから夫にお姫様抱っこをしてほしい」
 というものでした。

 探偵が現地に向かうと,出てきたのはとても60を超えているとは思えない,
 小柄の「かわいらしい」感じの,「夢見る少女」のままのような女性でした。

 話し方もいかにも「かわいらしい」感じで,その日常が少し紹介されていましたが,
 たとえば,20年間,毎朝欠かさずに行われていることが
 夫が出勤して玄関を出ると,さっと二階に駆け上がり,
 ベランダに出て「黄色いハンカチ」を振って夫を見送る,というものでした。

 夫がお風呂(トイレ?)から出てくる場面もありましたが,
 ドアの前で待ち伏せしていて,出てくると「ワッ!」とおどかして抱き着く,
 みたいな感じです。

 私はそのあまりに無邪気な「かわいこぶりっ子」さに笑ってしまったのですが,
 パートナーは真面目な顔をして
 「定型の人は,こういう女性がかわいくて好きなんでしょう?」
 と言うんですね (+_+)

 まあ「かわいさ」みたいなものはときどきはいいかもしれませんけど,
 ちょっとこのレベルで24時間こられるとしんどいなあと私は思ってしまうので,
 「そんなことないでしょう」と言うんですが,彼女は納得しません。
 
 で,その後,私がちょっとおふざけを彼女にしかけることがあったんですが,
 とたんに,「ほら,おなじことしてるじゃない」と言われました。

 それで「はあ,なるほどなあ」と思ってしまいました。

 私にとってはたまに子どものような気持になってちょっとおふざけをしてみる,
 という形でのコミュニケーションなのですけれど,
 彼女の感覚からするとその「たまに」は
 「いつも」にも感じられるレベルなのかもしれないと
 そんな風に思ったわけです。

 そうだとすれば,私が探偵ナイトスクープのその女性に感じた「違和感」と
 似たようなものを彼女が私のそのときたまの「おふざけ」に感じている
 ということになりますから,「はあ,なるほどなあ,そういうことか」
 という感じになったんです。

 こちらはちょっと「馬鹿になって」遊ぼうとしているときに,
 そのことがかえって彼女を「白けさせてしまう」わけでしょう。
 テレビのその女性の夫が,ずっとお姫様抱っこを拒み続けたのも,
 たぶんあまりに無邪気な「かわいこぶりっこ」さに
 もう白けてしまって疲れてしまったのではないかと感じたのですが,
 似たようなことをアスぺの彼女は定型の私に感じるのかもしれません。

 そうだとすれば,テレビのその女性の姿を見て
 これが「定型」の世界なのか,
 とパートナーが思ったとしても,まあわかる感じもします。 
 

2014年8月 9日 (土)

「歩み寄り」はどうやって可能?

トマトさんからこういうコメントを頂きました。

>そういう「定型の意識づけをどうやってするか?」の模索が「定型とASの問題共有はどうやってするか?」より、現実的ではないでしょうかね?

 たぶん私の一貫したこだわりは,どうやって「歩み寄り」ができるのか,ということだと思うのですが,それができるためには「歩み寄りが必要」という理解の共有が必要になるのではないでしょうか。それが生まれない限り,結局定型からの一方的な「配慮」という形に(定型の側からの意識としては)なってしまわないか,そのことが気になります。

 そのことを考えるときに,そもそも「歩み寄りとは何か」ということの感覚が定型アスぺですごく違っている可能性もあると思えますし,もしそうならその辺りも考える必要があって,場合によってはそのポイントでトマトさんが繰り返し強調されているように感じる「共に」という感覚の違いが問題になるのかもしれないとは思います。

 他方で,アスぺの方も,多くの方が今の状態を「何とかしたい」という思いを持たれていることも間違いないと感じますし,ときおりいただくメールなど,ふとしたことで感じることですが,このブログでのいろいろな記事ややり取りなどをROMの形で,長い時間をかけてずっと考え続けていらっしゃる方も少なくないような気がしています。

 ですから,どちらも「何とかしたい」と思う状況はあるように思えるのです。それを「ともに」とか「共有」という言葉で表すかどうかは,まあ具体的な定型アスぺ間のコミュニケーションの中で都合がいいものを見つけていけばいいのかなと。言葉そのものには私はあまりこだわりませんので,実態としてどんな関係が作れるのかなあと言うことが一番気になるところです。

 ああ,今ふと思った言葉で言えば「お互いにそれぞれの仕方で,どちらもそれなりに納得できる」形を探す,というようなことでしょうか。

 トマトさんは「ASはソーシャルスキルを取り入れる努力が必要で、定型はコミュニケーション上に多くを望まない努力が必要」という形での「歩み寄り」を想定されているのかなと思いますし,そのこと自体は私もそういう点は大事なんだろうなと,それなりに思えるのですけれど,たとえばそれが大事だとしたとき,「そういう歩み寄り」はどうやって可能なんだろう?ということが前回の記事でちょっと考え始めてみたこと,ということになるのだと思います。

 話がすれ違っていなければいいですが (^ ^;)ゞ

2014年8月 8日 (金)

「問題の共有」はどうやって?

 少し唐突かもしれませんが,このブログで私がみなさんのコメントなどを頂きながら考えてきたことは,「カップルの双方が定型アスぺ問題に気づいて,それをなんとかしなければと思っている」という状態を暗黙の前提にしているものが多いなあと思いました。

 もちろん,「お互いにそのことに気づいているかどうかで大きな違いが出てくる」という話は何度も取り上げていたと思うのですが,ただ,「どうやったら問題を共有できるのか」ということについてはつっこんで考える機会がほとんどなく,「共有できたうえで,どうやってお互いに理解を深めたり,調整をしたりできるのか」ということがメインだったと思うんですね。

 もちろんそれが悪いとは思いませんし,そうすることで,私にはほんとに多くの発見がありましたし,アスぺの方とも共通した理解ができるようになる部分が前に比べて随分大きくなってきたように感じています。それは私にとっては本当にうれしいことです。

 でも,お互いにそういうことを模索できるようになる状態は,どうやって作れるのか,ということについてはやっぱり今の私にはほんとに考えが及んでいないわけですし,そして定型アスぺ問題に苦しんでいるカップル当事者の方の中には,そういうところでものすごく苦しんでいらっしゃる方が少なくないのだと思います。

 自分だけがそのことに苦しんでいるように感じられる状況になるからです。

 そんなことも,だんだんと考えていくべき大きな問題なんだなあと,改めてそんなことをちょっと考えています。

2014年8月 5日 (火)

定型アスぺ問題への姿勢

 定型アスぺ問題を当事者の一人として考えるときは,いくつかの姿勢があると思います。

 まずは定型アスぺ問題がそこにあることに気づかないまま,素朴に自分の常識的な感覚で問題を理解して,対処しようとすることですが,まあこれはまだ「定型アスぺ問題の当事者」にはなっていない段階とも言えそうなので,ここはちょっと置いておきます。

 次にお互いのトラブルに定型アスぺ問題がからんでいるらしいと気づいて後の話です。アスぺの方にどんなバリエーションがあるかについては,私はまだ知識や経験や想像力がそこまで働きませんので,ここでは定型の側に限られてきますが,こんなパターンがあるかもしれません。

 ある意味で定型の側が一番「キズを負わずにすませられる」のは,頭から相手の人を否定し続けることでしょうか。「こんなことに自分は構っていられない」とさっさと割り切って関係を切ってしまうことが可能な人は,そうやって今の自分を守ることができるのかもしれません。

 でも何かの理由でそう割り切れなかったり,一旦関係を切ってしまっても,なにか気持ちに残り続ける状態に置かれたりしている人の場合は,そういう自分の守り方はできません。そうすると,なんとか「あなたは間違っている。こうすべきだ」ということを相手の人に「理解してもらう」という努力を続ける,というふうになるかもしれません。

 この場合はまだ「自分は正しい」という姿勢は崩していませんから,その意味では自分は守られますが,たとえば自分が多数派であるとか,男性であるとか,社会的な地位が上であるとか,なんらかの意味で相手の人より強い立場にあるときは,その姿勢をある程度は続けられるかもしれませんけれど,その逆の場合には「自分は正しい」という姿勢を保ち続けるのはむつかしくなるでしょう。

 また仮に定型の側が立場が強いなら,相手のアスぺの方の方が我慢せざるをえなくなりますから,ある程度は定型の方は安定できますが,でもお互いの関係が続く限り,そのやりかたで問題自体がなくなるわけはなく,それが解決することはありませんから,同じようなトラブルがずっと繰り返され続けることになるでしょう。ですからその問題に悩んで真剣に対処しようと考え始めると,その姿勢では追いつかなくなります。

 ここで定型としてはどう対処するかについて,とりあえず三つくらいのパターンを思いつきます。ひとつは性格的におおらかだったり,かなり許容力というか包容力のある人なら,「その問題にこだわるのをやめる」とか「気にしない」という態度をとれるかもしれません。もちろん定型同士の間でおおらかになれるとか,包容力を保てる,というレベルではとても追いつきませんので,それができる方は並ではなく相当柔軟だったり大人物だったりだろうという気はします。あるいはほんとに天性の気楽さを持てる方とか?

 それができない場合は,多かれ少なかれ,早かれ遅かれ,「自分の正しさ」に「疑いの目」を向けざるを得なくなってくるでしょう。もちろんこれはかなりつらいことです。何しろ自分が「傷ついて苦しんでいる」という事態をなんとかしようとして,さらに「自分が間違っているのかもしれない」と,自分を自分で傷つけるようなことをするわけですから。こうなってくると,もう鬱になるのも時間の問題なのかもしれません。これが二つ目のパターンでしょうか。

 当然この二つ目のパターンで辛い状況がなくなるわけではないでしょう。「相手が悪い」ということで割り切れば,問題は全部相手に預けて終わりにできますが,この二つ目のパターンはその逆になる可能性があるからです。つまり「全部自分が悪い」になってしまう。あ,だから要するにそれが鬱的な状態になりますね。

 そうすると,三つめのパターンは相手を全否定したり,自分を全否定したり,というのではない道を探る姿勢になるでしょう。

 うーんと,ちょっと自分でも納得しきれない部分があって,でもまだ整理できそうにないので,今日の所はこの辺でお茶を濁しておきます ('◇')ゞ

 

 
 

2014年8月 2日 (土)

緊張・興奮の解消の仕方

今朝,ふと思ったことがありました。

 私のパートナーは「あらさがし」をよくします。たとえば長期の出張から帰った時,久しぶりにうちに帰って家族との再会を楽しみにしているのに,彼女は全く嬉しそうな態度を示さず,むしろ迷惑そうな表情をして,その第一声はまず何かの文句から始まるんです。

 朝は彼女の方が先に起きていることが多いんですが,私が起きだしていって挨拶をしようとしても,むすっとして(と見える)掃除を続けていたり(本人は挨拶をしたといいますが),もう少し機嫌がいい(と見える)ときは,私の起き抜けの姿を見て,シャツがどうだの髪の毛がどうだの,なんだかケチをつけるんですね。

 たぶん定型の一般的な感覚では,たとえ気分がよくないときでも,まずは気持ちのいいやりとりから始めたい,と思うことが多いだろうと思えます。もちろんほんとに深刻に気分が悪かったり,余裕がないときにはそうもいきませんけれど,逆に言えば相手がしょっぱなからそういうマイナスの態度をしているときには,相手の状態がよほど悪いか,あるいは自分に対して激しい嫌悪感を抱いたりしていることの表明かと感じてしまいます。つまり,相当きつい「警告」と感じてしまう。

 私はそういう自分の感覚を当たり前のこととして思っていましたから,彼女のような「あらあさがし」が繰り返される状態は大変にきついものでした。明らかに自分は嫌われ,拒絶されていると感じたのです。その「あらさがし」の中には臭いなどに関することもしばしばあって,暑い日に汗をかいて帰ってきたりすれば,まずは汗臭さの指摘から始まったりします(うーん,おじさん! (-。-;)ゝ )。そういう「生理的なこと」について繰り返し「文句」を言われるのは,もう「生理的に嫌われている」と感じたりしてしまうわけです。なんか存在自体を否定されているような気分にもなります。

 その後定型アスぺ問題に気づいてから,だんだんとそういう私自身の「感じ方」が,彼女には通用しない可能性を考えずにはおられなくなっていきました。それで,「これは嫌悪されているんじゃなくて,素直に感じたことを言われているだけなんだ」と思い直すようにしました。

 そういえば以前はよくこんなことがありました。一緒に出掛けた時など,たとえばショッピングセンターで一休みしようと,「○○でも食べない?」とかいうと,ほぼ例外なく,その食べ物などについて,文句が始まります。それで私はすごくケチをつけられたような気持になるわけですが,それなのに,結局一緒に食べることになると,結構おいしそうに食べてたりするんです。それを見ると心の狭い私は「なんだよ。あれだけケチをつけていたのに!」とか腹が立って,時々ちょっと指摘するんですが,彼女は全然気にしませんでした。「何が問題なの?」という印象でした。

 そういう例も併せて考えてみると,やっぱり単に「素直に感じたこと」を言っているだけではないんでしょうね。そうじゃなくて,予定になかった,あるいは今までとは違った新しい事態がやってくると,まずは「今の状態を維持したい」という気持ちになるんじゃないでしょうか。

 長期の出張から帰ってきたときに,私からするとショッキングなそういう「拒絶的な態度」をまず彼女から示されたわけですが,久しぶりにかえって再開を喜びたい私は,「もう自分はここまで嫌われているのか」と感じずにはおれなかったわけです。けれども,子どもも大きくなって,しばらく外にいて帰ってきたりすると,やっぱりその直前から彼女がなんだか緊張状態になっていることに気づいたんです。これも「新しい事態を目の前に,軽いパニックになっている」と思うとわかりやすいことです。

 じゃあそういうことは,定型とは全く違うんだろうかと考えてみると,そうとも言えないような気もします。なぜなら,たとえば私がしばらくぶりに家に帰るときも,なにか「期待に胸が躍る」とまでは言わなくても,ちょっとした興奮状態になります。通常とは違う気持ちの状態になるんですね。ですからそれもまた一種の緊張状態と言えなくもないでしょう。

 ただ,その緊張状態から出発して定型(私?)の場合は相手(特に親しい場合)との交流を深める,という方向に向かう傾向があると思うんです。そしてその交流の中で「安らぎ」を得る。それに対してパートナーの場合は緊張状態を不快に感じて,それを解決する手段として,相手から距離をとる,という方向に進むのではないでしょうか。

 そうだとすれば,「緊張状態に出会って,それを解決しようとする」というところではどちらも同じわけですよね。でもその解決の仕方が正反対になる。ここでも「同じだけど違う」というような見方ができるかもしれません。

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