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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年7月27日 (日)

「○度だ!」?「暑い!」?

 私は暑がりなのですが,温度の感覚がパートナーとはだいぶ違うみたいです。家の中で座っていても汗がにじむようなときに,「暑い!」と言っても,彼女に「全然暑くない」と否定されたりすることがよくありました。

 子育てでもこの感覚の違いが問題になることがあって,子どもがのどが渇いたと言っても,彼女が(言葉は正確に思い出せませんが)「そんなことはない」というようなことを言って,水を飲ませないことが時々ありました。私はそういうのが痛々しくて,それはおかしいというんですが,通じませんでした。

 不思議だったのは,「暑いけど我慢しようね」でもないし,「あなたは暑いんだろうけど,私は暑くないよ。このくらいなら我慢できるから○○の理由で,今は飲まないほうがいいよ」とかなら,まだわからないではないのですけれど,そうではなくて「暑くない」と断言することでした。

 自分と他人は全く違う,ということをアスぺの方はよく強調されますし,彼女もそうですが,少なくとも彼女についてはそれにもかかわらず,この例のように,私や子どもが彼女とは違う感覚を持っていることを全然認めてくれなかったりしたんですね。

 もちろん私だって自分が暑いと思っていれば,ほかの人も暑いだろうと思いこんでしまっていることは普通にありますけれど,ただ同じ暑いというときでも,私が暑がりだから暑くて他の人はそれほどそう思わないこともある,とは思っていますし,「暑いね」と言って,相手の人が「それほどでもないよ」と言えば,「ああそうなのか」と思えたりもします。そこで相手が「それほど暑いと感じない」ことを相手の人に対して正面から否定するようなことは,普通はありません。それで彼女の言い方にすごく違和感を感じていたのです。

 ああ,今思いましたけど,こういうところも定型の感覚からするとアスぺの方がなかなか「共感」をしてくれないと感じるポイントの一つでしょうね。

 そうすると,定型の言う「共感」ということには実は「同じ」ということと「違う」ということと,両方が含まれているんだということに気が付きます。

 これまでアスぺの方から何度か言われたことで印象に残っているのですが,アスぺの方が「共感」についてわからない感覚を持たれている理由として,自分と他人が「同じ」になることはあり得ない,という思いが強く語られるように感じます。そのこと自体はアスぺの方が多数派の定型の中で,孤立して常に自分の素直な感覚を否定され続けてきた,という経験を考えれば私にも理解できる感じはあります。

 ただ,そこで常に私がなにかずれを感じていたのは,定型が(私が?)「共感」というときには,1から10まですべて同じになる,ということではない,という点でした。体も別なのですし,そんなことはもちろんあり得ないことです。そのことを前提として,それでも「自分とは違う部分を持った相手の気持ちにも寄り添おうとする」という感じが私のイメージする「共感的態度」だったからです。

 ですから,たとえば自分が「暑くない」と感じていたとしても,相手が真剣に「暑い」と訴えれば,「この人は私よりも暑さに弱いんだろうな」と思いつつ,それはそれでその人が「暑い」と感じることは否定する気持ちにはなりませんし,そこで「のどが渇いた」と言えば,それは「つらいだろうな」と思うし,水を飲ませてあげたい気持ちになるわけです。自分は水が飲みたくなくても,それはそうなのですね。そんなふうに,そこでの「共感的な態度」には,私と相手は違う,という面と,でも相手の気持ちに沿ってその「相手の」つらさを感じ取ったり,想像したり,それに沿った対応をする,ということが含まれていると思えます。

 ただ,私は共感についてのそんな感じ方はだれでも多かれ少なかれ似たようなものなんだろう,と思い込んでいましたから,パートナーがそうでないことについては全く理解できなかったし,そこで全然違う感覚や理解の仕方があるということも理解できなかったので,彼女の対応を「おかしい」と思い,反発し続けたわけです。

 そうなると,彼女の立場からすれば,定型は「共感」とかいいながら,全然自分のことについては「共感」してくれず,否定ばっかりするじゃないか。そんな「共感」は嘘に決まっている,と感じてもおかしくはないですね。それで私はだんだんと「いや,○○さんはそう感じるのかもしれないけど,私は違うんだから」という言い方で説明しようとするようになりました。

 そして比較的最近気づいたことですが,彼女が時々,「これは私の感じ方で,あなたは違うんだから」ということを,たとえば暑さのことについてもいうようになってきています。基本的なところでの「感じ方」からして,すごく違いがあるんだ,という理解が少しずつお互いに共有されるようになってからのように思います。

 こんな風に考えてみると,私は定型的な感覚で彼女の主張(?)を否定し続けてきたわけですが,同時に彼女の方もアスぺ的な感覚で私の感覚を拒否し続けてきた,ということだったのではないかと思います。否定するポイントには違いがありそうですが,でもいずれにせよ自分の「常識」を絶対と思い込んで相手を認めない,という点ではまったく同じで,お互い様だったのかもしれません。

 で,これも今日気が付いたんですが,私は彼女に対して「暑い!」という前に,「わあもう○○度になってる!」とか,温度で言うようになってきています。基本的な感覚が違うときに,でも「○○度」ということはお互い否定できませんものね。これも私の無意識の工夫の一つだったのかもしれません。

 

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コメント

パンダさんへ。トマトです。

今は、奥様のお仕事柄、パンダさんのお父様への様態の理解が深く、家族のことで助けられているご様子ですが、子育ての時期は大変だったのですね。

私も、AS友人との関わりにより「大切なことは数字で表す。大切なことは言い切りの表現をする」を学びました。

感覚的なこと(暑い、寒い、つらい、寂しい、痛い、しんどいなど)を「自分はそれほどでもないが、あなたはそうなんだね」という器を持たない人が存在することを知りませんでしたから、否定だけされると「自分のことしか考えられない、ひどい人」という印象を、友人に持ちました。

そしてASという存在を知って「ひどい人ではないが、自分のことしか考えずらい」という、全く新しい認識を持つことが出来ました。

AS友人は極端な暑がり体質で、真冬でも窓を開けて寝るほどでした。
本人はそれで良いのですが、同居していた高齢の父親には命に関わる危険な環境となりました。
真冬の風呂場の窓も全開で、風呂場に行くまでの部屋の戸からも寒風が吹きこんでいたのですから。
「僕は寒くない」のいってんばりで「あなたの父親にとっては~」という説得が効きませんでした。

そんなとき専門医が、気温と父親の健康状態の関係性を、数字で説明してくれたのです。
彼は理解してくれました。
が・・・「変化を嫌う」「極端な温度感覚を持つ」という特性で、親の健康を優先させた室内温度での同居は無理でしたから、今度はそのことを福祉の人に理解してもらって、お父さんは福祉の人の見守り管轄下におかれました。

ASの友人には「これは命に関わる内容で、単なる意見の相違とは違う」ということが解りませんでした。
「父にとっては寒いことが僕には暑い。これは個々人の感覚や意見の相違であり、どちらが優先されるべきとか、不幸だという問題では無い!対等に判断すべきだ」というのがAS友人の断固とした考えでした。

高齢の父親は「息子は老いというものが解らないのです。老いた私が悪いのです」と泣いていました。

AS友人が理解できないのは「障害だから仕方ない」も正論。
ですが「父親が自分を責めることはない」も正論。
正論と正論のぶつかりの妥協点を見出すのは困難でした。

まだASが医療や福祉関係者に、ごく初歩的教科書程度の理解しかなかった頃なので、説明ひとつにも、すごく困ったことでした。

そのときから数年・・・・父親の入退院ごとの、医者との会話、着替えなどの準備や書面の手続き、見舞いや食事介助を、AS友人と一緒にしているうちに、いつの間にかAS友人は「父親は心身ともに弱っているのだ」という実感を持つようになり、
ある日から、見舞いの日には必ず「父親の好物を買ってあげたいんですよ」と、決まった場所の自動販売機のきまった飲み物(のみ)を購入して持参するようになったり
「最近、おやじが笑ったり、うれしそうな顔をするのが解るようになったんです」と言ったり、私は「え~っ、三年たってやっと?」と答えながらも「関心ごと以外のことを認識したり感じたりするまで、本当に時間がかかるんだな」とこちらも、ASの人の時間差理解を学びました。

要は・・・「意地悪でもなく、反発でもなく、皮肉でもなく、・・・・定型にとってはASの人の言い方は、ちょぃとした日本語間違い」と自分に言い聞かせ

「つきあっていれば、お互い通じるコツは見つかる。でも、それはいつのことなのかメドはさっぱり立ちません。そして、通じたことは、あまりにもささいなことで、その場限りのことも多いけれど・・・
それが一生の付き合うべき相手なら、ソウルメイトということで、気長にお互いを味わうことになるんだろうな」と現在の、ASの友人、知人を見て思います。

トマトさん

>子育ての時期は大変だったのですね。

 この一言が薬になります (;д;)

 また思ったのですが,自分がなんとなく違和感を感じ続けてきたことが
 全然違う場所の違う方にほとんど同じような感じで共有される,
 その不思議感というか,「ああ,やっぱりアスぺ定型のずれって
 ほんとに自分がずっと体験し続けてきたことなんだ」という確認の感じというか,
 そういう思いを持ちます。

 自分の考えすぎとか,思い過ごしじゃないんだよなあ,というか。

>私も、AS友人との関わりにより「大切なことは数字で表す。大切なことは言い切りの表現をする」を学びました。

 このこと,さっき面白かったんですが,
 暑いかどうかのやりとりで,パートナーの方も
 まず温度を気にするようになってました (^-^)

 言いきりについても,ちょっとびくびくしながら,やってるかも……

パンダさんへ。

寒暖の感覚ひとつにも、共通のポイントを共有する嬉しさってありますよね。
通じることがひとつひとつ嬉しかったり、満足を感じたりって・・・ASと定型の関係性は
ものすごく楽観的な言い方をすると
いつまでも飽きない、、恋人同士みたいなものでもある
・・・・と言えるかも。

まぁ・・そんな呑気なことを言えてる時間は希少価値ですが。

トマトさん

>いつまでも飽きない、、恋人同士みたいなものでもある

 これ,面白い見方ですね!
 ちょっと追求してみようかな (笑)

うちの父親がまさにこの感じです。
私たちが暑い!と言っても「俺は暑くない!」と言って窓は開けさせてくれない(そのかわり自分が暑いと扇風機を独占する)。
仕事から帰った私や姉が「疲れた。ゆっくり休みたいね」などと言うと、父は「俺は疲れてない!おまえらは根性がないだけだ!それより俺の肩がこってるからマッサージしろ!」などと言う。

これが母なら「暑いなら窓開けようか」「仕事で大変だったんだね。ゆっくり休みなさい」などと労ってくれるし、私も姉も家族をねぎらい、休ませてあげたり、愚痴を聞いたりします。
でも父に対しては、私も姉も労おうとは思えません。

学力は父が上ですが、共感能力は軽度知的障害の母の方が高いです(定型の方に比べたらかなり劣ると思いますが、私から見たら母には不満はありません)。

他人と接したら、私も母も色々不満は持たれてるとは思いますが、家庭ないだけの話をすれば同じ障害を持つ家族同士でもこんなに違うんだなと思います。


あとは発達障害者の友人でも共感し、ねぎらってくれる人と、同じ発達障害者から見ても自己中で否定的な人と様々ですね。

連続ですみません。
父の場合は、発達による共感能力のなさなのか、私達と父の認知のズレなのか、ただの自己中なのか判断がつきません。
(定型者から見たらわかりませんが、私から見たら)発達障害の友人や軽度知的障害の母は人に労う気持ちや共感能力を持ってるのに、なぜ父には分からないんだろう?
   
さらに定型の姉から見たら、私達は共感能力に欠けてると思われてるかもしれませんが。

にわとりさん

>発達障害者の友人でも共感し、ねぎらってくれる人と、同じ発達障害者から見ても自己中で否定的な人と様々ですね。

 はい。きっとそうなんだろうなと思います。
 ほんとに人によって違う。
 どこでその違いがうまれてくるんでしょうね。
 またその傾向はどこかで変わりうるのか,ずっと変わらないのかも気になります。

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