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2014年7月 7日 (月)

非共感的共感

 共感の問題を巡って,songさんかずきさんトマトさんから次々とすごく大事なことが語られているように思います。私はまだまだその重要なことを消化しきれていませんが,お三方の間ではすごくシンクロするものを感じて,ちょっと感動的でさえありました。共感派の私(笑)としては,そういうお三方の状態を「共感」と表現したい気持ちもあります(再び笑)。

 共感について,とりあえず二つのことを思いました。ひとつは前にも一度ご紹介したことがあるような気がしますが(もう過去に何を書いたか自分でも全然わかんなくなってます ('◇')ゞ ),身近な人の不幸な死に直面した方たちの自助グループで語られた共感のことです。

 その遺族の方たちは,自助グループの中でお互いに自分の体験を語り合ったりされているわけですが,でも自分の苦しみ,自分の悲しみは決して人に伝えきれないし,共有できないものだ,と感じられているそうです。そしてそういう「決して共有されることのない悲しみ」を抱えているんだ,ということをお互いに理解していることが,お互いのつながりあいを生んでいるといいます。

 つまり,「あなたは私に共感しきれないし,私はあなたに共感しきれない,孤独なんだ」という思いを共有し,そしてその点で「共感」が成り立っているんですね。言ってみれば「非共感的な共感」かもしれません。

 もうひとつのことは,それとつながるところがあるように思うんですが,「共感」ということを私はちょっと広く考えているのかなと思いました。たとえば「共感」については懐疑的(?)なパートナーとの間で,意識せずに「呼吸がそろう」ことがあったりします。体のリズムが一致する,みたいな感じですよね。それなんかも私は「共感」の一種というか,その素朴な状態というか,そんなイメージを持ちます。

 他の人の言うことを「わかった!」という感じになるときも,そこに感情がどこまで強く関わっているかは関係なく,一種の「共感」のような状態と考えたくなります。なぜなら,相手の人が何に注目して,それをどういうふうに考えているのか,ということを自分が「追体験」することが「わかる」ということの意味かなと思えるからです。相手の経験を自分も味わったのだとすれば,それを「共感」と言えるのではないかと,そんなふうに感じてしまうんですね。

 ただ,こういう私の理解の仕方はあまりに「共感」の「感情的」な面を軽視しすぎている,と言えるかもしれませんし,ちょっと私自身も考えどころです。

 songさん,かずきさん,トマトさんのそれぞれのコメントを,どういうふうにつなげて理解できるか(すごくつながった話のように私は感じるのですが),そこはまだすっとは言葉になりません。ただ,そのことを私が考えるときに,かずきさんのつぎのような表現はひとつの大きな手掛かりになりそうな予感はしています。

 「思った事と表現する事は全くの別物という感覚です。」

 そのことをベースに考えると,songさんの

 「先に「言わなきゃだめよ」っていう教育がなされやすいから、感情がくっつかずにそのままなのかなぁと思ってます。そうでなくて、小さい頃あんぱんまんを見ててきゃーってテンション上がった時に母親が「楽しいねー」とか「おもしろいねー」とか言ってくれたりしてた場合は、そういう気分の高まりは楽しさや面白さとして認識できているのではないかな、と思います。」

 がつながって見えてきますし,トマトさんの

 「頭と心。言葉と感情。これがつながらない、マッチしない、同時進行しない、自分が自分で分らなくなる。こういう状況になることって人の人生の中で皆、あると思うんです。そして、表面上、一生懸命とりつくろいながら過ごすこともあると思うんです。」

 というポイントで,それは定型の気持ちの動き方にもつながっていく。

 このあたり,もうすこし整理していくと,アスぺ定型の気持ちの動き方の共通する部分と,それが持って生まれた条件の違いなどで違う形や方向で発揮される部分と,そういう両面でお互いのずれの問題を見直せるのではないかと,そんな感じもします。

 もしそこがある程度うまくいくのなら,「基本的な条件に大きな違いがあって,その後の展開にも大きな差が生まれるけれど,そこで働く気持ちの仕組みにはかなり共通するものがあって,<もしこういう条件の中に置かれたら,定型でもアスぺの方と同じようなことが起こる可能性があるでしょう>と感じられる」というスタイルの「共感」もまた成り立ちそうに思います。

 ま,それを「共感」と呼ばなければならないかどうかは,これまた問題になるかもしれませんね ('◇')ゞ

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コメント

トマトです。

定型が「共感」と感じたり言ったりしている感覚は
ASには「相手と自分の意見や感じ方が、その時たまたま同じだった」くらいで

「共感」という言葉や漢字に含まれる「共に、一緒に」という一体感や「気持ちののつながり」という実感は無いのかも知れません。

パンダさんの
〚「あなたは私に共感しきれないし,私はあなたに共感しきれない,孤独なんだ」という思いを共有し,そしてその点で「共感」が成り立っているんですね。言ってみれば「非共感的な共感」かもしれません〛
というご提示。

どうしても「共感」というカテゴリーに入れなきゃなんないのかな?と感じるのです。
私は「個々人の同じような認識や納得が並んだ」というイメージで、「共感できてるわぁ」とは、感じられないのです。

要は「それを共感とするかしないか」の、個々人の判断にゆだねるものなのではないでしょうか。

それと・・少し気になっていたのが、今までASの人の多くが「共感」という言葉自体にマイナスイメージを持っていた経緯があり、どんなに言葉をつくしても「共感」という文字・響きそのものに、まず多くのASの人が苦手意識や拒否反応を感じてしまっていないかという懸念です。

定型の概念として「そうね」とか肯定的な反応をもらうと「共感」とカウントするし、ひとつのテーマで一緒に泣き笑いすると「共感」ととらえます。
意見が同じということも「共感」ですし、同感も「共感」のうちです。

でも・・・ASの人の多くにとっては「そこを共感といわれると違和感や不快感がある」ということが、日常生活の上ではほとんどだと感じるのです。

ですから、パンダさんのいわれる「共感」は、パンダさんの理論上では成り立つと思うんです。
定型の共感学会の発表会(そんなもんあればですが)では受賞なのかも。

ただ・・・ASと定型の関係性やおつきあいで、大切なのは「共感」の取り扱い方であって

・定型の「そうだよね」はASには「共感の押しつけ」くらい不快・迷惑になることが多い。

・定型が感じる「共感の手応え」には、ASの「応答のルールやマナーに従っただけ」や「聞かれたから反射的に何か答えただけ。だから記憶に無い」という類のことも多いことを視野に入れておこう。

・「共感」を求める前に、相手に「共感」という概念があるかどうか確認しておこう。なさそうだったら、以後「共感」というワードを別のワードに置き換えて会話した方が、相手のワードへのこだわりにひっかからずスムーズに対話できる。

など、定型とASを阻むひとつのワードとして、理解を求めるより、それをどのように緩和するかの対策方法を論じるのが有効ではないでしょうか。


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私はパソコン音痴で、息子やインストラクターの人に、最近購入したパソコンの説明をしてもらっても、その説明の用語が解らず、説明自体が脳に入って来ず、でも説明の腰を折る勇気もなく「わからないので無言」か「わからないまま、無意識にハイ、エェと答えちゃって」・・・すごく頭が疲労するんだけど、身に付くのは「信じられないほど少し」のノウハウでした。
すっかり「パソコン」と「その機能の専門用語」の苦手意識が高まり、しばらく古いパソコンにしがみついていましたが

その後「相手にマッチする言葉や表現の置き換え」か゜柔軟にできるインストラクターさんとの出会いが、救いになり、未知のパソコン機能にも自発的に馴染もうと前向きになれました。
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ASの人が「もしかしてこれが共感!」と自発的に思い当たるまで、思い当たりやすい環境といいますか、接し方などの工夫を、定型が心がけたり情報交換できたら、理想的だと思います。

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