2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 定型アスぺの不思議な「共感」? | トップページ | 非共感的共感 »

2014年7月 4日 (金)

共感なのか共感ではないのか??

 当たり前かもしれませんが,こういう記事を書いていると,わりと連続して書きたくなる時期と,ちょっと一息つきたくなる時期があります。自分の中でなにか新しいものが見え始めた時期と,すこし言葉を探しているとか,温めている時期というようなことなのかもしれません。どちらにしても,「言葉にしてみる」ことが目指されているのだと思います。

 私はタイプとして,できるだけ自分の気持ちをうまく言葉にしてみたい,ということを感じる人間なのでしょうね。逆に言葉の限界についてすごく感じていて,それ以外の形で自分の生き方などを作っていこうとされている方は,同じ定型アスぺ問題についても,また別の道を探られるのかもしれません。それは別にいい悪いの問題ではなくて,置かれた状況や経験,個性などの違いによるものなのでしょう。

 それはさておき,定型の側が定型アスぺ問題で「一度は…壊れる」ということをかずきさんが書かれたことについて,それだけ定形にとっては深刻な問題だということを,アスぺの方の立場から理解してくださったと私は思いました。そしてその「深刻さ」の理解ということを,定型的には「共感」と表現してみたわけですが,その点についてかずきさんは,こんなふうにコメントをされています

 「おっしゃるとおり、それが「共感」的な所から出てきたかと言われると、そうではなくて、どちらかというと「申し訳なさ」から出てきた表現です。」

 やっぱりそうなのか。というふうにも思いましたし,でもちょっと違う感覚でも受け止めました。というのは,「申し訳なさ」という「感情」について書かれているからです。ちょっとそのことについて考えてみたい気分です。

 「共感」っていったいなんなの?と考えだすと,結構ややこしいことがいろいろありそうですけれど,まあ素朴に「相手の人と同じようなきもちになること」とすると,定型の側が「壊れるくらいに辛いことだ」という感覚を持っているのに対して,かずきさんが「申し訳ない」という感情を抱かれたということですから,「まったく同じ」でないことは確かなのだと思います。その意味では「共感」とは言いにくいかも。

 そこでちょっと定型的な感覚で「共感的」と言える場面を想像してみるのですが,たとえばカウンセラーの方が共感的にかかわる,という場合,学生時代に授業でこんな例を聞きました。

 まず共感的でない接し方の例ですが,相談に来た人が「私,もう死にたいんです」と言ったとします。そのとき,「え?なんで?」と言うのは共感的でないことになるようです。そういう言い方は「あなたの言うことは理解しがたい」と突き放していることになるからでしょうか。

 じゃあどういう言い方が共感的と言われるのかというと,たとえば「ああ,そんなにつらいんですね」というような言い方があげられました。この言い方は相手の人のつらさを受けとめて,その気持ちに寄り添おうとしているからだという話になります。

 そこにはちょっと前提があって,ただ機械的に口先で「ああ,そんなにつらいんですね」と言ってもダメなんですね。相手の人が勘が鋭い人だったら,そういうある種の「うそ」はすぐに見抜かれてしまって,「どうしてつらいとあなたがわかるんですか?」とか突っ込まれて応えられずにアウトになる。

 だからやっぱり「ああ,この人は私の気持ちを分かってくれた」と相手の人が感じられるくらいには,何か理解できることが必要でしょう。かといって,相手の人とまったくおんなじ感情になることは理屈からいってあり得ません。だからそこでいう共感に含まれた「理解」というのは「完全に同じになること」ではないはずです。

 じゃあそこでの共感って実際には何かというと,「私はあなたと違うし,あなたと同じようには判断も行動もしないけど,もし私があなたのような立場に立たされたら,そう感じることはよくわかる」といった意味なんだろうと思います。

 そんな風に接しられた場合,定型は「自分の気持ちが共有してもらえた」と感じてそれで支えられると同時に,「でも自分の感じ方や判断とは違う見方もありうるのかも」という,別の可能性にも目を向けられるようになるのでしょう。というのはカウンセラーの方は自分の気持ちを理解してくれるけど,でも自分とは違う生き方をされていることになるからです。

 そういう体験をすると,それまで自分の中で堂々巡りをしていた考え方に,別の出口が見つかる可能性が出てくるのだと思います。その時,カウンセラーの人は相手の人と自分が違うことを理解しながら,同時にある範囲ではその人の感情状態を共有しているともいえるでしょう。

 ……という感じで「共感」という言葉を仮に考えてみたとして,かずきさんの「申し訳なさ」の感情(?)は定型的には(?)どう理解されることになるでしょうか。

 かずきさんがその「申し訳なさ」を感じる理由はなんだろうと考えてみると,その前提には,やっぱり相手の人が「苦しんでいる」ということについて,それなりに深刻に感じ取る(理解する?)ことがあるんだろうと思えます。

 もちろん相手が苦しそうな表情をしていたり,そう言葉で語っていたり,痛そうな振る舞いをしていれば,頭では「この人は苦しんでいるんだろうな」ということはわかるのかもしれません。でもそれだけでは「申し訳なさ」にはならないと思うんですね。

 たとえば道を歩いていて,前を歩いている人が転んでけがをするのを見たとします。その人は血を流したり,痛そうに振る舞ったりして,それを見ていて「この人は苦しんでいる」ことはわかるわけですし,「かわいそう」と思うかもしれませんが,その時自分は「申し訳ない」とは思わないでしょう。なぜって,別に自分のせいでけがをしたのではないからです。

 つまりそこで「申し訳ない」と感じるということは「自分(たち?)にそのことへの責任がある」と感じられるからだろうと思えます。

 しかも,単に「自分の責任でそうなった」と思ったからと言って,それで「申し訳ない」という深刻な気持ちにすぐなれるかというと,必ずしもそうではないように思います。やっぱり相手の人の苦しみが結構大きいと感じ取れなければ,「申し訳ない」とまでは感じにくいように思えるんですね。

 ですから,「申し訳ない」と思われたということは,相手の人の辛さをそれなりの深刻さを持つものとして感じ取った(あるいは理解した?)という前提があって,そしてその原因として自分(たち)がかかわっていると理解したからだと思えるわけです。

 ちょっとごちゃごちゃと理屈っぽくなってますけど ('◇')ゞ, つまり,かずきさんはもちろん定型とまったく同じ感情になられたわけではないはずですが,でも相手が深刻にそう感じても無理はない,と思われているんじゃないでしょうか。そしてそのような状態について,「申し訳ない」という「感情的な応答」をされていることになります。

 もし仮にそうだとすれば,それはカウンセラーの例で説明したような意味での「共感」はある程度成り立っているようにも思えるんです。すくなくとも相手の「辛そう」な感情的状態に対して,「申し訳ない」という感情的な応答をされる,という形で「感情的コミュニケーション」は成り立っているような気がするんです。

 ……ということを前提に考えていいのかどうか。それともこういう理解の進め方自体,やっぱり定型的なパターンで,なにか落とし穴があるのか,知りたいところです。

« 定型アスぺの不思議な「共感」? | トップページ | 非共感的共感 »

コメント

はじめまして、最近よく読ませて頂いていますsongといいます。
共感・申し訳無さ・定型が壊れるという部分で非常に思い当たる部分があったのでコメント致します。
私とは恋愛関係にあった人が2人「壊れる」状況になりました。
完全などん詰まりで、私が何か説明しても受け入れられないし、向こうが言ってることもよく分からない、完全に噛み合わない、そんな状態が壊れるかなぁと思っています。
相手の人は意味がわからないくらいつらそうでした。まぁ実際のところ意味は分かっていません。
私自身がアスペだと気付いたのはまだ半年前の話ですので、自分の言動が原因で相手がおかしくなると気付いたのももちろん最近の話です。
定型の人が壊れる、のは感情のやりとりが発生しない違和感の積み重ねのせいかなぁと思っています。実際、「好きならもっと◯◯してくれるはずなのに!」的な怒りはよくぶつけられました。
申し訳無さに関しては、「相手をそれだけ傷つけたのであれば申し訳なく思わなければならない」という部分があります。あくまで私に関してはですが。
感覚としては、私の心臓はつるっつるでなんのひっかかりもない鉄の玉みたいで、そこに相手から大量の感情が弓矢のように射たれてくるんですけど、一個も刺さらず跳ね返っていくみたいな感じです。これまでは、それも普通なんだと思ってましたが、そうではないってことが分かってからは、「刺さってあげられなくて申し訳ないな」と思っています。
でも、定型の方の申し訳無さとは全然違う、その状況だからそう思わねばっていうそんな感じがあります。
昨日もまた喧嘩しました!一度壊れた人とどうやって関係を築くものなのかさっぱり分かりませんが頑張ります。(復縁はありえない、もよく分かりました)
長文失礼致しました~。

songさん、初めましてです。
代弁かのようなコメントありがとうございます。
私の心臓はドロドロピューレなので、
突き刺さらずにそばを通り過ぎてどこかにいっちゃいます(笑)
似たような感じかな、と思ってほっこりしました。

わたしも同じように、
こういう場合は申し訳ないのだ、とか
この場合は有り難く思うべきだ、とか
今まで学んできたことから出力された、
感情というよりは思考に近いものですかね…

こう思わなきゃいけない
こう思うべきだ
と言うのは結構あって
少なくともそう思っているように振る舞わなければ
たちまちつまみ出されると言う恐怖感もあります。
それが定型モードというか、処世術ですかね。
まぁ、考えて振る舞っても、
タイミングや表情や声の大きさとか、言葉の選び方等々
もろもろを間違えることは多いのですが。

定型の方がナチュラルにする反応そのままに出来れば
はじかれる事もないのでしょうが…

かずきさん
心臓ピューレ!wでもなんか分かりますww

輪から外れない為の思考っていうのも、同意です。私はむしろ、皆そうやって例え嫌だろうが、感謝してなかろうが、申し訳なく思ってなかろうが、その場に合わせて行動しているものだと思っていました。生きていくのは大変だけど、皆そうなんだろうな~って。

ですが!大人になって女友達の話などを聞いていると「好みじゃない男の子だと優しくする気になれない」といって本当に受け答えも適当、リアクションも適当…。信じられないと思いましたね。でも、感情に沿って動いているからそれは認められている。なんだかなぁと思いますね。

ナチュラルな反応って一体なんなんでしょうね。ナチュラルが故に相手に嫌な思いをさせたりすることだってありますもんね。その辺りは、絶対自分の方が考えて動いてるなって思います。*ただし初対面に限る。
特定の誰かと長く居るとボロがボロボロして大変ですよね。

心臓の感覚について同じようなものがあるっていうのがとても嬉しかったですw
パンダさんコメント欄で騒いですみません~;

songさん、かずきです。

みんな同じように生きにくいんだ、っていうの、私にもありました。
ASとわかる前はずっとそうでした。
「生きにくい」って表現は今だからできる表現ですけどね。
みんな同じように辛いんだから、それを当たり前にやってるんだから、
私だけがつらいとかで逃げちゃいけない、って思ってました。
しっかり二次障害の塊が完成しましたが(笑)

長期間いるとボロが出るのも、わかります。
何か引っ掛かるものを作ってしまうんですよね。
スムーズに輪に入っていける人を羨ましく思ったりしましたが、
そもそもが違ったのならば仕方のないことだったんです。
そこに行き着くまでに長い時間をかけましたが、
私は診断を受けてよかったな、と思います。


パンダさん

songさん宛てのコメントの補足になりますが
「わざとじゃなくてもごめんなさい」の精神と言いますか

「相手が苦しんでいる」と推測して、
「原因は自分だ」と推測するところまでは記事に違和感はないのですが
そこから「申し訳ない」と思うのは、
刷り込まれたルールなんですよ。
機械的に出力されるものと言いますか
状況からみて、それが一番ふさわしいと判断された言葉と言いますか。

それを感情と呼ぶことに物凄く抵抗を感じたのですが
じゃぁ何かと言われてもうまく言葉に出来ません。
導き出された思考、ただの表現、規則通りに推測された言葉。
そんな感じでしょうか。
うまく伝わらないとは思いますが…

そこに感情という暖かなものはあまりなくて、
「私が存在しなければ良かったのに」という自責と
(おそらく定型は繋がっている感情としての)「申し訳ない」
には
関係性がないのです。

(状況を冷静に見ると私のせい)、
「私が存在しなければ良かったのに」。
(わざとじゃなくてもごめんなさいだから)、
「申し訳ないと思う」、
(と表現しておけばいい)。

という感じでしょうか…
うまく説明できません。

そういう意味では「共感」からきた言葉ではなくて、
機械的に導き出された「定型仕様の言葉」

途中でした。失礼しました。

機械的に導き出された「定型仕様の言葉」
が、場面に合った「正解」だった為に
「感情的コミュニケーション」が成り立ったように感じて貰えた。
という見方です。
伝わりますかね…?

毎度説明が下手ですみません。

Songさん かずきさん

もしも指摘されるとすればこの辺りかなあと微かに思っていたところに、やっぱりズバッと来ましたcoldsweats01

書いてくださったことを、定型的な感覚(私の感覚?)で理解しようとすると、「本当は申し訳ないという感情は無いんだけど、そう言わないと定型社会では生きていかれないから、礼儀としてそう言っているだけ」という話にも読めるんですが、もしそうならやっぱり「口先で騙されている」という反発が定型からは生まれそうな気がします。

でも実際は私自身はそういう読み方ではsongさんやかずきさんや、あるいはパートナーのことを理解しきれない感覚が残るんです。そしてその部分の感覚のずれが、定型アスペ問題を考える時の大事なポイントの一つのような気がしているんですが、具体的にはもうちょっと考えてみますね。

トマトです。

定型が、人を理解しようとすると、その前提として、疑問や関心と同時にどうしても「共感」が働いていまうのです。

ASの人の感覚を理解するうえで、そこんところが最も誤解やズレの種となることを、
客観的に、現実でもネット上でも見ていたら「わかる」し「感じる」のですが、
こと、自分が相手と対峙すると、どうしても共感理解の支配下におかれちゃうんです。

パンダさんにも、共感のアンテナでASの人のコメントを解釈や理解をたぐりよせようとされている感じがします。

でも、定型の共感が、分析や洞察や理解の仕方に少しでもまじった時点で、ASの人の純粋な感覚を見逃してしまうような気がするのです。

それだけASの人側から見れば「あなたの感じている、そのわかったつもりの共感は、私の感覚とは違う」という、違和感なものだと思います。

たとえ、その瞬間一致したものであっても、定型のように、その時の一致(共感)を土台としてさらに会話や関係性を構築していけるモノではなく
手のひらに落ちてきた粉雪のように、はかなく消えるものなので

「あのとき確かに分かり合えた」というかみしめ
「共感が全く無いわけではない」という救い
「また、共感の機会はある」という希望で
ASの人と居られるわけですが

そこの定型の命綱を、分析・理解・洞察にできるだけ「使わない努力」が、ASの人の感覚をつかむには、必要かと感じる昨今です。

では、どう理解するかというと「自分には無い感覚で、自分とはハナから別の理解の仕方で、今の言葉を言っているとして、それはどんな感覚なのだろう?」という想像力です。
そこには、思ってもみなかったASの人の「定型ルールへの儀礼的作法の心得」がからんでいて「仕方なく」言った言葉に、共感されたり喜ばれたり、はたまた「理解した」と思われても・・・ASの人は「違うんだけどなぁ」でしょう。

今更ながらですが、亡くなったAS友人が
「ずっと、違うんだけどなぁと思って(生きて)きてきた)面倒臭いからいちいち反論しなかったけど」
と言った言葉が、現実感を持ってきます。


パンダさん


正直な所、「申し訳ない」という気持ちがどんな物か分かりません。
ただ、「相手を傷つける存在として居てしまって悪いな」という感覚はあるので、
その部分を読み取られていらっしゃるのかな?と思いました。
それも、思わなくちゃいけないと思っている部分もあったり、
二次障害で強くなっている部分も有るので、
まっさらな、二次障害も何もない私がどう感じているのかは不明です。


ただ、パンダさんのおっしゃる「申し訳ない」部分とはフェーズがちがうんです。

(状況を冷静に見ると私のせい)、
「私が存在しなければ良かったのに」。

ここで一度終わってるんです。
何も出力しない事もあります。
で、出力したらどうなるか、というと

(わざとじゃなくてもごめんなさいだから)、
「申し訳ないと思う」、
(と表現しておけばいい)。

となるんです。
関連性がないといいますか、繋がっていないんです。私の中で。

もちろん、一人の人間の中で起こっている問題なので、連続性はあるのでしょうが
思った事と表現する事は全くの別物という感覚です。

思ったとおりに表現して来れなかったから、かも知れませんが。

まさに、トマトさんの
>一致(共感)を土台としてさらに会話や関係性を構築していけるモノではなく
手のひらに落ちてきた粉雪のように、はかなく消えるもの

ですかね。
もっというと、消えると言か、
時間経過と共に横に置いていかれる物。ですかね。
ベルトコンベアのように、時間と共に流れていってしまう。
流れるはずのそれを持ち続けながら新しく考えを持とうとすると、
一杯になってしまって立ち行かなくなる。
そんなイメージです。

パンダさん


正直な所、「申し訳ない」という気持ちがどんな物か分かりません。
ただ、「相手を傷つける存在として居てしまって悪いな」という感覚はあるので、
その部分を読み取られていらっしゃるのかな?と思いました。
それも、思わなくちゃいけないと思っている部分もあったり、
二次障害で強くなっている部分も有るので、
まっさらな、二次障害も何もない私がどう感じているのかは不明です。


ただ、パンダさんのおっしゃる「申し訳ない」部分とはフェーズがちがうんです。

(状況を冷静に見ると私のせい)、
「私が存在しなければ良かったのに」。

ここで一度終わってるんです。
何も出力しない事もあります。
で、出力したらどうなるか、というと

(わざとじゃなくてもごめんなさいだから)、
「申し訳ないと思う」、
(と表現しておけばいい)。

となるんです。
関連性がないといいますか、繋がっていないんです。私の中で。

もちろん、一人の人間の中で起こっている問題なので、連続性はあるのでしょうが
思った事と表現する事は全くの別物という感覚です。

思ったとおりに表現して来れなかったから、かも知れませんが。

まさに、トマトさんの
>一致(共感)を土台としてさらに会話や関係性を構築していけるモノではなく
手のひらに落ちてきた粉雪のように、はかなく消えるもの

ですかね。
もっというと、消えると言か、
時間経過と共に横に置いていかれる物。ですかね。
ベルトコンベアのように、時間と共に流れていってしまう。
流れるはずのそれを持ち続けながら新しく考えを持とうとすると、
一杯になってしまって立ち行かなくなる。
そんなイメージです。

songです。
トマトさんとかずきさんのおっしゃってることが理解できすぎて面白いです…!

私もごめんなさいやありがとうの時の感情はいまいち分かりません。考察するに、これらは「思う」よりも先に「言わなきゃだめよ」っていう教育がなされやすいから、感情がくっつかずにそのままなのかなぁと思ってます。そうでなくて、小さい頃あんぱんまんを見ててきゃーってテンション上がった時に母親が「楽しいねー」とか「おもしろいねー」とか言ってくれたりしてた場合は、そういう気分の高まりは楽しさや面白さとして認識できているのではないかな、と思います。

まー何にしても、全ての感情の後付け感は半端ないですねw

一旦壊れたけど帰って来てくれた私のパートナーによると「君はその場をなんとかしようとして謝ってるだけで、中身がなんにもない」ってばればれだったことがあります。
今も、パートナーがわぁぁって壊れた後、諦めによって受容してもらってる感じがあります。
定型の方は謝罪の後ろの感情をすごく重視しますよね、ちょっとこわいなと思います。

私は今、パートナーが読み取り型の人なので「今こう思ってるでしょー」とか色々言ってくれて「おぉ、これが…!」と沢山の発見をしているところです。これまで自分がそんなこと思ってるなんて全く知りませんでした。

そういう読み取りは定型であってもそこまでできるわけではないと思うのですが、これはこんな感情なんだーっていうのを逐一教えてもらえれば、私達はそれを覚えて行くことができるし、表現もできていくのだろうか…と、思いますが今の所はまだ分かりません。

あと、断続的でなんだか繋がりがないっていうのよく分かります。
自分の状態、感情とか。
だから相手も断続的なのだろうと思ってしまってずれたりします。定型の方って連続してますよね、なんかw

パンダさんへ  トマトです。

かずきさんの
〚時間経過と共に横に置いていかれる物。ですかね。
ベルトコンベアのように、時間と共に流れていってしまう。
流れるはずのそれを持ち続けながら新しく考えを持とうとすると、
一杯になってしまって立ち行かなくなる。〛

というコメントで、定型でも、そういうことはあるのではないかと思いました。

あまりに概念が違う相手と、会話を続けようとすると、違和感や否定感や心地悪さを感じるんだけれど、相手の言葉は続いているし、どうやら相手は自分ほど謎を感じている様子ではないので、自分の中にうごめく感情は、それがどういうものであるか認識する間もなく横に置かれて、無難な応答にとどめることに努める。

頭と心。
言葉と感情。
これがつながらない、マッチしない、同時進行しない、自分が自分で分らなくなる。

こういう状況になることって人の人生の中で皆、あると思うんです。
そして、表面上、一生懸命とりつくろいながら過ごすこともあると思うんです。

こういうとき、定型も・・・ちょっと独りにさせて・・と、思いますよね。

こんなとき家族にだけは、無表情で疲れた顔もさらせるし、心配されても質問されても「別に」と答えるだけが精いっぱい・・・で「そっけない」だの「思いやりがない」だの言われても「そんなキャパないよ」となります。

あまり無理して、理解できない相手や、平和な周囲に併せていたら精神疲労でなんらかの心身の症状が出てくるでしょう。

そういう疲労感や違和感や混乱を慢性的に抱えているのが、定型社会の中で生きているASの人であり、特に家族や仕事を持つASの人はさらに重圧がかかり、程度の感覚をつかみにくいASの人は「気が付けば二次障害」となっていて、
自閉圏の人にとって自分バリアは本当に大切なんだなと思います。

自閉圏の人にとってなくてはならないものが、他者と自分を遮断して隔離して自己を守る「自分バリア」だとしたら、「共感」は自閉圏の人にとって、精神的に危険なものかもしれません。

定型を怒りや孤独に突き落とす「自分バリア」が自閉圏の人には自然体で呼吸ができるもの。
ASを不快やら苦痛やらにする「共感」が定型の人には自然体で安堵ができるもの。

自分の「なくてはならないもの」が、相手には大変危険なものであることは、残念無念だけれど受け入れなくてはならないと思います。

ですから、あんまりしつこく求めてはいけなくて、こちらが「あ、共感できた」と、その手ごたえを喜んだり愛しく思ったり「その時の自分だけの満足」として味わうくらいのものと位置づけるのはいかがでしょう。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/56686683

この記事へのトラックバック一覧です: 共感なのか共感ではないのか??:

« 定型アスぺの不思議な「共感」? | トップページ | 非共感的共感 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ