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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年7月

2014年7月28日 (月)

感激したこと

  今日、本当に嬉しくて感激したことがありました。それはある自閉症スペクトラムの方からいただいたメールに、その方が前からこのブログを読んで下さっていて、このブログに助けられており、定型にアスペのことを説明するのに使いたいと言ってくださったことでした。

  定型の主催するブログが、自閉症スペクトラムの方の御役に立てるなんて、本当に光栄ですし、しかも定型に対してその方を理解してもらうために多少なりとも役立ちそうと感じていただけたのですから、私が目指していた定型アスペ間の「翻訳」と言うことに、一歩近づけたように思えたからです。

  このブログは公開のものですから、必要な方にご紹介頂いたり、プリントして見ていただいたり、何かの資料にお使いいただくことは勿論自由です。出所だけ明記していただければ、あとはどうぞご活用ください。そしてもしそうやってお使いいただいて、こんなところが役立ったとか、こういうところは問題があった、と言ったことをコメントなどで教えていただければ、私も勉強になりますし、次の工夫にも繋がると思いますので、よろしければお教えください。

補筆

 ブログをご利用いただくことについて,少し補足させていただきます。私の記事やコメントについては個人的なご利用でしたらどうぞご自由にご活用ください。ただ,他のみなさんのコメントなどについては,お書きになった方々のお気持ちがわからないので,慎重に対応して頂くことが必要かなと思いまして,蛇足ながら書き加えさせていただきます。その点,よろしくご配慮をお願いします。

2014年7月27日 (日)

「○度だ!」?「暑い!」?

 私は暑がりなのですが,温度の感覚がパートナーとはだいぶ違うみたいです。家の中で座っていても汗がにじむようなときに,「暑い!」と言っても,彼女に「全然暑くない」と否定されたりすることがよくありました。

 子育てでもこの感覚の違いが問題になることがあって,子どもがのどが渇いたと言っても,彼女が(言葉は正確に思い出せませんが)「そんなことはない」というようなことを言って,水を飲ませないことが時々ありました。私はそういうのが痛々しくて,それはおかしいというんですが,通じませんでした。

 不思議だったのは,「暑いけど我慢しようね」でもないし,「あなたは暑いんだろうけど,私は暑くないよ。このくらいなら我慢できるから○○の理由で,今は飲まないほうがいいよ」とかなら,まだわからないではないのですけれど,そうではなくて「暑くない」と断言することでした。

 自分と他人は全く違う,ということをアスぺの方はよく強調されますし,彼女もそうですが,少なくとも彼女についてはそれにもかかわらず,この例のように,私や子どもが彼女とは違う感覚を持っていることを全然認めてくれなかったりしたんですね。

 もちろん私だって自分が暑いと思っていれば,ほかの人も暑いだろうと思いこんでしまっていることは普通にありますけれど,ただ同じ暑いというときでも,私が暑がりだから暑くて他の人はそれほどそう思わないこともある,とは思っていますし,「暑いね」と言って,相手の人が「それほどでもないよ」と言えば,「ああそうなのか」と思えたりもします。そこで相手が「それほど暑いと感じない」ことを相手の人に対して正面から否定するようなことは,普通はありません。それで彼女の言い方にすごく違和感を感じていたのです。

 ああ,今思いましたけど,こういうところも定型の感覚からするとアスぺの方がなかなか「共感」をしてくれないと感じるポイントの一つでしょうね。

 そうすると,定型の言う「共感」ということには実は「同じ」ということと「違う」ということと,両方が含まれているんだということに気が付きます。

 これまでアスぺの方から何度か言われたことで印象に残っているのですが,アスぺの方が「共感」についてわからない感覚を持たれている理由として,自分と他人が「同じ」になることはあり得ない,という思いが強く語られるように感じます。そのこと自体はアスぺの方が多数派の定型の中で,孤立して常に自分の素直な感覚を否定され続けてきた,という経験を考えれば私にも理解できる感じはあります。

 ただ,そこで常に私がなにかずれを感じていたのは,定型が(私が?)「共感」というときには,1から10まですべて同じになる,ということではない,という点でした。体も別なのですし,そんなことはもちろんあり得ないことです。そのことを前提として,それでも「自分とは違う部分を持った相手の気持ちにも寄り添おうとする」という感じが私のイメージする「共感的態度」だったからです。

 ですから,たとえば自分が「暑くない」と感じていたとしても,相手が真剣に「暑い」と訴えれば,「この人は私よりも暑さに弱いんだろうな」と思いつつ,それはそれでその人が「暑い」と感じることは否定する気持ちにはなりませんし,そこで「のどが渇いた」と言えば,それは「つらいだろうな」と思うし,水を飲ませてあげたい気持ちになるわけです。自分は水が飲みたくなくても,それはそうなのですね。そんなふうに,そこでの「共感的な態度」には,私と相手は違う,という面と,でも相手の気持ちに沿ってその「相手の」つらさを感じ取ったり,想像したり,それに沿った対応をする,ということが含まれていると思えます。

 ただ,私は共感についてのそんな感じ方はだれでも多かれ少なかれ似たようなものなんだろう,と思い込んでいましたから,パートナーがそうでないことについては全く理解できなかったし,そこで全然違う感覚や理解の仕方があるということも理解できなかったので,彼女の対応を「おかしい」と思い,反発し続けたわけです。

 そうなると,彼女の立場からすれば,定型は「共感」とかいいながら,全然自分のことについては「共感」してくれず,否定ばっかりするじゃないか。そんな「共感」は嘘に決まっている,と感じてもおかしくはないですね。それで私はだんだんと「いや,○○さんはそう感じるのかもしれないけど,私は違うんだから」という言い方で説明しようとするようになりました。

 そして比較的最近気づいたことですが,彼女が時々,「これは私の感じ方で,あなたは違うんだから」ということを,たとえば暑さのことについてもいうようになってきています。基本的なところでの「感じ方」からして,すごく違いがあるんだ,という理解が少しずつお互いに共有されるようになってからのように思います。

 こんな風に考えてみると,私は定型的な感覚で彼女の主張(?)を否定し続けてきたわけですが,同時に彼女の方もアスぺ的な感覚で私の感覚を拒否し続けてきた,ということだったのではないかと思います。否定するポイントには違いがありそうですが,でもいずれにせよ自分の「常識」を絶対と思い込んで相手を認めない,という点ではまったく同じで,お互い様だったのかもしれません。

 で,これも今日気が付いたんですが,私は彼女に対して「暑い!」という前に,「わあもう○○度になってる!」とか,温度で言うようになってきています。基本的な感覚が違うときに,でも「○○度」ということはお互い否定できませんものね。これも私の無意識の工夫の一つだったのかもしれません。

 

2014年7月26日 (土)

進むことも引くこともできない

 この記事は前の記事「抱きしめるVS拘束する」の続きになります。

 「抱きしめられる」ことは基本的には「心地よくない」のだとすれば,じゃあアスぺの人はなんで結婚なんかするんだろうか?という疑問も定型には生まれると思います。で,ここがふたつめのことになるんですが,パートナーがこんなことを言うんですね。

 彼女は子どものころ,親から離れられない時期が長く続いたんだそうです。お母さんのあとをついて回る「後追い」みたいな話は,定型の子どもでも多かれ少なかれあると思いますが,それがすごく長く続いたらしい。彼女の話では「写真を撮る距離に離れられずに,写真が撮れずに親が困った」らしいです。つまり,子どもの写真をとってやろうと親が子どもから離れる,それがだめだったというのです。

 ある意味,そこまで求められれば,定型的な感覚では「抱きしめる」ことは自然な流れの一つでしょう。ところが,彼女の言うには,「でも抱きしめられるのはいやだった」というわけです。

 その関係を彼女はこんな風に表現しました。

 「物理的には近くにいたいんだけど,抱かれるのはいやだ」

 ですから,「近くにいること」は大事だし,そういう人は自分にとっては特別な人なわけだし,それが「特別な関係」なのです。ところがその関係の先に拘束しあう,「抱きしめあう」関係は入ってこない。

 これは定型からすれば混乱します。「こんなに求められているのなら,抱きしめあうのは当然」と思うと,そこは距離を取られる。ものすごい葛藤状態になります。進むことも引くこともできない,すごい矛盾した状態に置かれ続けることになるからです。

 「適切な距離の取り方が,ものすごく違うんだね」と私が言うと,この言い方には彼女も納得する部分があったようでした。

 定型アスぺのずれの大きなポイントの一つとして,この「適切な距離のズレ」からくる,「お互いにどう距離をとっていいかわからず,進みも引きもできずにしんどい状態がずっと続く」ということがあるのではないかと思うと,結構いろんなことについて,わかってきた感覚が生まれました。

抱きしめるVS拘束する

 パートナーの話でふたつほどすごく納得することがありました。

 定型の場合,個人差も大きいでしょうが,多かれ少なかれこういう歌詞の感覚はあったりしないでしょうか。

「こんな私だから 抱きしめていてね.あなたお願いよ 席を立たないで.息がかかるほど そばにいてほしい」(ロマンス,阿久悠)

 Yahoo!Japan知恵袋にはこんなのもありました(笑)

「息が詰まる程、骨が折れてしまうほどギュっと抱きしめられました。やっと。ほんとにやっと会えたし、次にいつ会えるか分らなくてせつないて熱い彼との初めての抱擁でしたー。まさに目を閉じて幸せを噛みしめ、「時を止まれ」の心境でしたよ。感動的・・・。」

 抱きしめる(抱きしめられる)というのはたんなるスキンシップよりもさらに強いことで,ふと思い出しましたが,私が子どものころ,大きなけがをしそうになって,幸いほとんど大きな傷もなく,無事だったのですが,その時,母親に涙ながらに強く抱きしめられたことがありました。

 抱きしめる,抱きしめられる,というのは,定型にとっては「安心」とか「幸せ」につながる場合がおおいわけですよね。

 パートナーの場合もたとえば子どもが小さいときに抱いたりとかはありましたし,今でも猫を軽く「抱きしめる」ことがあります。(なんで?私はだめなの?と聞くと「猫はかわいいから」と言われましたが (笑)) だからアスぺの方もそういうことが全然ない,ということではないのでしょう。少なくとも,自分がコントロール可能な(いつ抱くか,いつやめるか)状況では。

 でも,少なくとも彼女の場合は基本的には抱きしめられる,ということは「拘束される」という感覚になるようです。だから,子どもの頃も,抱かれることはいやだったんですね。「抱かれるというのは,心地よい感覚ではない」というようなことを彼女は言います。

 それで「定型の人は,ほかの人から拘束されることが好きなわけ?」と聞くのです。これですっといろんなことにつながってきました。

 身体接触だけではなく,定型的な人間関係って,お互いに「拘束しあう」ことが大事で,つまりそれが社会的な「関係」であったり,個人同士の「絆」であったり「信頼感」であったりするんだなと。

 たとえば恋愛もそうですけど,お互いに相手を拘束しあうわけです。で,拘束されることに喜びを感じる。「あなたは私だけのもの」「私はあなただけのもの」というような世界ですね。

 親友同士の関係だって,相手に対する「信頼」があるわけですが,それは「本当に大事なところで分かり合える仲だ」ということだったりしますが,同時に「相手は自分のことを考えてくれる」とか,「自分の味方になってくれる」といった感覚ともつながっている。

 だから,親友に対してはそういう「期待」が暗黙の裡にあるわけです。それでその期待が外れると,「裏切られた」という感覚にもなる。お互いに期待しあって,期待に応えられる自分であろうとして,そこからはずれることは「裏切りだ」という思いがあって,それで関係が成り立っているようなところがある。(もちろん,さらに深くなれば「どんな場合であっても,たとえお前が自分を裏切ったとしても,自分はお前を受け入れる」というようなことにもなるんでしょうけれど)

 相手に「拘束」されるかわりに,自分も相手を「拘束」して,その関係に「安心」したり,心地よさを感じたりする。そんなつながり方を,定型はいろんなレベルでものすごく使っているんだと思うんです。で,定型の社会はそういうものがないと成り立たないところがある。(変な話ですが,SMの世界って,こういうところにつながることなんですね,きっと。)

 だとすれば,「抱きしめられる」ことを「拘束」とだけ感じてしまい,「心地よくない」と感じるパートナーが,定型的な社会の中に入っていきにくいのはよくわかります。「拘束しあうこと」に特別な意味を感じ,そういう関係が成り立つ場合に「心地よさ」を感じられるようでなければ,定型的な「親密な関係」はできないからで,定型社会は単なる「約束事」でなりたっているわけではなくて,そういう「親密な関係」をあちこちに作りながら成り立っているからです。

 パートナーの場合は,ですから,その「約束事」の部分では,ある程度は学習することで対応ができるようになっていき,苦労しながらも社会生活をこなしていっているのですが,でもそこに定型的な「親密な関係」の話が入ってくると,困ってしまうのですね。なんでそんな「不快」な関係を求めるのかがわからないわけですから。(あ,「深い関係」=「不快関係」……って,すみません,だじゃれです)

 ふたつめはちょっと長くなったので記事を改めます。
 

 

 

2014年7月21日 (月)

当事者のバイタリティ

 パートナーが沖田×華さんの漫画「ますます毎日やらかしています。アスペルガーで漫画家で」 を買ってきて見せてくれました。ご存知の方も多いと思いますが,自分の発達障害者としてのいろいろな苦労などを,赤裸々に,でもむしろ面白いエピソードとしてたくましく描き続けられています。

 こういう,世間的にはマイナスに見られがちなものを,逆にたくましく楽しむように見て,積極的に生きていくのって,たとえば「バリバラ」なんかでもエネルギッシュにやられていますよね。狸穴猫さんの「アスペルガーライフblog」なんかも似た雰囲気を感じたりするんですが,そんなバイタリティ溢れた(?)いきかた(行き方・生き方)はすごいなあと思います。 

 定型の側も,アスぺの方の側も,無理やり相手に自分を合わせる形ではなく,お互いの「自然」を大事にしながら改めて関係を模索しようとすれば,そのお互いの「自然」のずれを,「障害」の問題として見てそのギャップをどう埋めるか,を考えるのではなくて,むしろずれを楽しんでしまう,という方向でしょうか。

 もちろんアスぺ定型問題にものすごく苦しんでいる時期には,それを「楽しもう」なんて想像もできないと思いますし,そういう状態にある人が「楽しみなさい」とか言われたらふつうはたまらないだろうと思います。特にアスぺ定型問題の大変さを実感していない人からそういわれたりすれば,もう反発とか憤りしか生まれないだろうと思います。

 沖田×華さんやバリバラのみなさん,狸穴猫さんについてはそういう反発などが生まれにくいだろうと思えるのは,やっぱり当事者だからでしょうね。沖田さんなどもこれまでかなり大変な時期を過ごしてこられた,その先にあの漫画があるわけです。だから単に口先でそう言っているのではないことが伝わってくるんでしょう。

 どうやったらああいうたくましさを持つことができるのか。もちろん個性とかも関係するんでしょうけれど,それだけではなくて,なんか工夫できることもあるんじゃないかなという気もします。今までこのブログではあまりそういうことについては考えてこなかったかもしれないですが,これからはちょっとずつでも考えてみたいことです。

2014年7月17日 (木)

定型が想像するアスぺ的世界

 記事「AだからB」へのコメントでトマトさんやにゃんこさんとやりとりさせていただいたのを読んで,songさんが書いてくださったコメント は,私にとっては今までみなさんにいろいろ教えていただきながらなんとなく整理しきれない感じがしていた部分を,すっと言葉にしていただいたような気がして,ほんとに刺激的でした。

 定型のみなさんの経験に基づく理解から学ばせていただくことと,アスぺ当事者の方から聞かせていただくことと,もちろん重なることは多いわけですけれど,やっぱりそれぞれにそれぞれ独自の見方がある気がして,同じようなことが語られていても,なんか微妙にニュアンスが違っていて,そのニュアンスの違いがすごくリアルに感じられたりします。たぶんそのどちらかのニュアンスだけでは定型アスぺ問題に豊かには迫れないような感じがしています。songさんのコメントで,改めてそのことを思いました。

 今回私がsongさんのコメントからとてもリアルに感じたこと(あ,もちろんそれは定型の私がリアルに感じたということで,当然アスぺの方から見ればまたずれている可能性はあります)は,特に

 「私からすると、常に頑張って相手に会話を合わせているのでそもそも違和感しかないのでその状況に変わりはないんですけど、定型の人からしたら「変な方向転換!」「なんでそっちいくのよ…合わせてよ」になっちゃうと…。パンダさんのLINEについてのくだり、私だと多分、素で返答したら「それがどうしたの?(興味ない)」になります。でもそれで会話を終わらせるのは礼儀としてなってないから何かポイントを探して投げかけなきゃいけない。何か引っかかりどころはないか?って感じで返答すると思います。」(songさんが補足されたところを修正しておきました)

 の部分でした。これを読んでパートナーとのいつものずれを感じるやり取りが,「ああ,そうなっても当然だよな」となんだかすごく理解しやすく感じられたんです。

 あくまで私の感じ方ですけれど,こんなふうにパートナーやアスぺの(一部の?)方たちが思っていることを想像してみました。

 もし私が姿かたちは全く同じなんだけど,やりとりをしていてなんだか違和感を抱き続ける,たとえばスタートレックのミスタースポック氏(古い!)のような人たちの中に,ひとり生きていたとします。私は自分の感情に任せていろんな働きかけをするんだけど,それは常に周りのみなさんから「なんだろう?このひと?」という感じで変な目で見られる。なんでそう見られるのかは全く分からないけど,それでも私は自分が「変な人として見られている」ことはわかりますし,しかも周りの人にはすごく迷惑がられていることも感じる。

 だからまわりのミスタースポック氏たちのやりかたを一生懸命「観察」して,変な目で見られないように,そのやり方を見様見真似でやるように心がける。失敗も多いんだけど,それでも経験を積めば,なんとか簡単なやりとりなら相手に合わせてそれほど問題なくこなすことができるようになる。

 でもそういうやりかたは,全然自分にとっては自然さが無くて,いつまでも違和感が残り続けます。どうしても自分の本当の気持ちにはそぐわないんだけど,ただ合わせているだけという感覚になる。しかも自分の両親もミスタースポック氏のような人で,自分が特別変った人間だとは気が付かないので,周りの人も同じようにみんな違和感を感じながら無理してやりとりしているのかな,と思ったりもする。いろいろ辛い思いもするけど,みんなそうやって我慢しているんだろうなとか思ったり。

 ただ,そんなふうに周りと自分の違いというふうにはなかなか気づきにくいんだけど,でも自分だけがおかしい,という感じで扱われる経験もいつもする。それで,周りの人たちは苦労して違和感のあるやりとりを「上手に身に着けている」んだけど,自分はなんだかそれが下手なのかな,と考えてみたりする。だからもっと上手にやりとりできるように,さらに努力して「テクニック」を身に着けなければ,と思って頑張るんだけど,でもやっぱりどうしてもうまくやりきれない。ああ,自分ってだめな人間なんだなあと感じさせられたりもする。

 毎日がほんとに大変で,人といるときはいつも気を抜くことが出来なくて,やりとりしながら問題を起こさないように神経を集中させているんだけど,いつも予想もしないところで怒られたりするから,びくびくする気持ちはなくならない。常に身構えているような感じになる。だから家に帰って一人になると,ほんとにほっとする。もう体の芯から疲れて,ぐったりしてしまって,横になったらそれ以上なにもする気が起こらないこともよくある。

 もちろん,ほかの人のことを「理解できる」なんて想像もできないことで,そんなのウソに決まっていると感じる。だれもがわけのわからない他人と,なんとかテクニックで付き合っているだけのことで,本当の自分は一人でいるときにしかないし,みんなそれは同じはずだと思う。

 それにしても,周りのミスタースポックさんたちは,私よりもそのテクニックが上手らしくて,私がマスターしていないいろんな技を上手にこなしているみたいだ。なんとかそれを理解したいけど,とにかくむつかしい。いろいろ考えてみるけど,どうしてもなんかずれてしまって,そのたびに嫌な顔をされたり,怒られたりして,自分はそれがなぜなのか理解したいから「どうしてそうなんですか?」と一生懸命質問もしてみるんだけど,「そんなの常識でしょう!」と言ってかえって怒られるだけだったりする。自分は「常識」がないのか,と思わせられるけど,でもどうしてもその「常識」はわからないので,もう「常識」という言葉を聞くことも辛い。

 ところがあるとき,そんな自分に興味を持ってくれる人が現れた。その人と一緒にいると,素直な自分でいられるような気がした。そして結婚した。もう他人じゃない。他人とのつきあいのように,自分の気持ちに嘘をついてテクニックで付き合うような関係とは違うんだ。ほんとに素の自分で付き合っていけると思うし,そういう関係を失いたくない。自分にはとても大切な人だ。

 そう思っていたけど,でもやっぱりだんだんとずれを感じるようになってしまって,また「常識」で怒られたりすることが増えてきた。でも自分にとっては大事な人だから,なんとか理解して,相手の思いにも応えられるようにしたいと思い,それで自分にはわかりにくいことを,一生懸命聞こうとし,また自分の思いを一生懸命伝えようとするんだけど,それをするとかえって混乱がひどくなって,激しく攻撃されたりする。自分はこんなにも相手を理解して関係をよくしたいと思っているのに,なんでこんなに責められるのか,わからない。ほんとにつらいけど,どうしようもない。

 ……

 というような感じで理解すると,パートナーが辛そうな,戸惑うような表情をしながら,「それで私になんて言ってほしいわけ?」と聞くことがわかる感じがするんです。私からすればそういう問いかけはとんでもなくやりとりを否定するような言葉に感じられてしまうんだけど,でも彼女からすれば,それは精いっぱい私に合わせて,私のためにこたえようとして生み出される言葉なんだろう,と思えるようになってくるんです。

 もちろん,上に書いたことは,私の(たぶん)定型的な感覚をもとに,その感覚を使って想像できることを書いてみただけですし,やっぱりアスぺの方から見れば「それ,違うよ」という違和感を持たれるかもしれません。そういうずれが残り続けるのは,たぶん永遠にそうなんでしょうね。でも,ある意味では定型同士の夫婦だって,ずれのない夫婦なんていないし,完全に相手を理解することなんて不可能ですから,その点では「同じ」と言えなくもないと思います。

 とりあえず私としては定型的な感覚をベースにして,「次の一歩」を模索してみたことになりますが,さて,アスぺの方から見てこれはどうなんでしょう?また率直な感想をお聞かせいただければありがたいです。

 



 

2014年7月13日 (日)

AだからD

 最近の子どものLineなどの使い方のことを読むことがあったんですが,そこで言われていて興味深かったことがありました。それはこんなことです。ネットというのは,このブログでもそうですが,自分の身近な人間関係を超えて,まったく知らなかった人たちと新しいつながりができる可能性がある場所だと思えます。

 ところが子どもたちのつながりは,ネットで世界がそんなふうに広がっていくよりも,逆にクラスでの友達とのやりとりがものすごくて,ちょっとでも返事を返さないとトラブルになったりする。そして実際にはむしろ日常の狭い付き合いが極端に濃密になって,そこに閉じ込められたようになり,しんどくなる,という話でした。

 で,パートナーとちょっとした話題からそのことを思い出して私はその話をし,「すごく日本的だよね」と言ったんですが(あ,また「ね」になってる!),彼女からは早速疑問が投げかけられました。

 もちろん会話ですから何かを言って,疑問があれば「どうして?」とかやり取りするのは当然でしょう。たとえば今回のような私の話の振り方に対しては「どうしてそれが日本的なの?」という疑問はあっても,それはある程度は私の「想定内」の疑問で,そこから話が面白く深まったりすることになると思います。

 けれどもパートナーとのやりとりでは,そこで彼女から出てくる疑問や質問が,私には無意識に想定していた範囲を超えちゃっていたり,あるいは会話の足元を崩されるような疑問だったりすることが多くて,そこで会話の流れが止まっちゃうことがよくあります。

 今回の会話で言えば,彼女から出された疑問は,「Lineって,自分は使ったことないけど,(いつも付き合っている人ではない)他の人からかかってきたりするんじゃないの?それはどうするの?拒否するわけ?」というものでした。

 まあ,ちょっと引いて考えれば,そういう疑問を持つこと自体は別におかしいことではないし,状況次第では私も同じような疑問を持ったり,質問をしたりするかもしれないわけです。でも,なんだか「話の腰を折られた」という印象を私は持ってしまうんですね。

 なんでなんだろうと考えるわけですが,一つの可能性として,こんなことを考えてみました。私がそのLineについての文章を読んだときには,それを書いている人がポイントにしているのは,「ネットは本来いろんな人とつながる可能性があるのに,子どもたちは逆にそこですごく閉じられた世界を作っている」という「意外な事実」についてだと思います。

 それで,その文章には「他からかかってきたときにはどうするか?」については特に書かれてはいないのですけれど,それを読んでいる私は勝手に「そこは当然何らかの形で無視したり,あるいはあまり大きな影響力を持てなかったり,少なくとも<閉じられた世界>を崩してくれるような力はない,ということが<前提>になっているんだろうな」と思い込んでいるわけですね。そういうことを前提にできるから,文章を書いている人はその次のステップの問題として,「意外な事実」について書いていると思うわけです。

 ですから,私がそれについて話をするときには,その「意外な事実」は一応前提にして,その先について話したいなと思って話をするわけですが,その前提についていきなり疑問を投げかけられるんですね。

 そうすると,上に書いたような<前提>は,やっぱり暗黙の前提で,具体的にそこまでは書かれていないわけですから,「絶対そうなのか?」とか「根拠は何なのか?」とか問い詰められたとしたら,それは「いや,はっきりとはわからないけど…」と言わざるを得なくなります。で,話が先に進まなくなる。で,なんか「また話の腰を折られてしまった」という気分になるんですね。

 それで思ったんですが,定型はAだからD,というような考え方をほとんど無意識にやってるけど,実はAだからDというためには,AだからBで,BだからCで,それだからDなんだ,というような「隠れた道筋」というか定形にとっての「暗黙の了解」みたいなステップがあって,それが省略されているんじゃないか,という気がしました。

 で,パートナーにはそこは見えにくいから,AからDに行く前の,その暗黙のステップのところがいちいち気になって仕方がなくなる。

 そのことは定型についてアスぺの方がそういうことがある,というだけのことなのか,逆にアスぺの方もEだからHというような説明をするとき,暗黙の裡にEだからF,FだからG,GだからHというようなステップがあって,それが定型には分かりにくいのでEだからHと言われると訳が分かんなくなって面喰ってしまう,というようなことが同じようにあるのか,そこはまだ何ともわかりません。(というか,今回の例についても,まだそういう見方でいいのかどうか,よくわからないわけですが ('◇')ゞ)

 なんにしても,私の説明は彼女にはわかりにくかったりするわけですから,そのわかりにくさの間を埋める上手な説明の仕方とかこつがあるのかどうか,ちょっと私の今後の課題です。

 

 

2014年7月 9日 (水)

「共感文法」の可能性と限界は?

 たまたま「カサンドラな嫁とアスペルガー症候群疑惑の夫と子と。」 というブログにブログ主のbooさんが「アスペルガーと定型を共に生きる」をご紹介くださっているのを見ました。こんなふうに書いてくださっていて,私の願いが届いたような気がしてとてもありがたかったです。

「この本で特筆すべきは「AS夫+定型妻+成長した子供の3人の観点が1冊にまとまっている」という点です。そんな本、なかなか無いですよね。生々しい体験談に「同じ1つの事柄でも実は全く違う見方があるのだ」と言う複眼効果を読者にもたらしてくれる本。お医者様やカウンセラーさんの本とは違い、AS当事者の夫と定型の妻、それぞれが当時どのように思っていたのか?斉藤パンダさんがインタビュアーとなって夫・妻それぞれとの対談も掲載。自分の常識にとらわれて単眼思考をしていては、いつまでたってもAS定型夫婦問題は解決しないんだな、と思わせてくれます。」

 ところで,トマトさんのコメントなどを拝見しながら,共感について,引き続きぼちぼちと考えているのですが,定型語には翻訳しきれないアスぺ語の中身を,なんとか定型語の「共感文法(共感という要素を入れ込んで理解を組み立てるやり方,くらいの意味です)」に沿う形で定型的にわかりやすいように翻訳してみる,という試みについて,その可能性と限界が改めて気になっています。

 「翻訳」ということについてちょっと広く考えて,たとえば私の子どもは漫画とかイラストを描いたりするんですが,本人もそれですごく「癒される」みたいだし,私もその絵を見ていて癒される感じがあります。「絵」というのはそれ自体で言葉みたいなもので,それを描く人と見る人の間で何かを伝えあっているんですよね。

 でも,そこで感じたことを完全に話し言葉や書き言葉で表現できるか(「絵という言葉」を「話し言葉」「書き言葉」に翻訳できるか)というと,それは無理でしょう。簡単な絵一枚でも,どんなにたくさんの言葉を費やしたって,完全にそれを表現することは無理だと思います。

 もちろんその逆も言えて,たとえば詩の言葉を絵で表す,といったって,これもまた完全に写し取ることなんて無理ですよね。

 もし絵から読み取れることをできるだけもれなく正確に言葉に直そうと努力すれば,どんなに言葉を足しても足らなくて,説明はどんどん長くなっていくでしょうし,ややこしくなっていくかもしれません。
 
 同じように,アスぺ語を定型語に直そうとしても,たぶんきりがないし,そして完全に翻訳することは無理でしょう。そういう限界があることは一応前提にして,でもやっぱり「少しでも定型にわかりやすくする」ために,ひとつの手掛かりとして翻訳することに意味はあるように思います。

 ただ,ここでもうひとつ,トマトさんが今回強調されていると思えるポイントは,そこで「共感」という言葉を使うことが,定型アスぺ間のコミュニケーションをかえってむつかしくするのではないか,という点だと思いました。(ずれてたらすみません ('◇')ゞ)

 定型(特にアスぺ定型問題で悩んだ経験のある人)はどうしても「共感」という言葉に思い入れがあって,それが絡む問題を解決したいと考えがちなので,翻訳にあたっても「共感文法」にこだわったりするのだと思うのですが,逆にアスぺの方は「共感」という言葉に苦しめられ続け,あるいは迫害され続け,場合によっては嫌悪感さえ持たれるかもしれない,ということになると,そのことはやっぱり考えないといけないでしょう。

 つまり,定型同士でアスぺ語を理解しようとするときには「共感文法」は役に立つだろうと思えますが,アスぺの方との相互理解のためには,少なくとも「共感」という言葉は使わずにやり取りした方が,実質的には定型の言う「共感的」な「相互理解」にも近づけるかもしれない,という可能性があるわけですよね。

 このあたり,アスぺの方でも意見が一致するかどうか私にはわかりませんけれど,ちょっと気を付けていきたいと思いました。

 

2014年7月 7日 (月)

非共感的共感

 共感の問題を巡って,songさんかずきさんトマトさんから次々とすごく大事なことが語られているように思います。私はまだまだその重要なことを消化しきれていませんが,お三方の間ではすごくシンクロするものを感じて,ちょっと感動的でさえありました。共感派の私(笑)としては,そういうお三方の状態を「共感」と表現したい気持ちもあります(再び笑)。

 共感について,とりあえず二つのことを思いました。ひとつは前にも一度ご紹介したことがあるような気がしますが(もう過去に何を書いたか自分でも全然わかんなくなってます ('◇')ゞ ),身近な人の不幸な死に直面した方たちの自助グループで語られた共感のことです。

 その遺族の方たちは,自助グループの中でお互いに自分の体験を語り合ったりされているわけですが,でも自分の苦しみ,自分の悲しみは決して人に伝えきれないし,共有できないものだ,と感じられているそうです。そしてそういう「決して共有されることのない悲しみ」を抱えているんだ,ということをお互いに理解していることが,お互いのつながりあいを生んでいるといいます。

 つまり,「あなたは私に共感しきれないし,私はあなたに共感しきれない,孤独なんだ」という思いを共有し,そしてその点で「共感」が成り立っているんですね。言ってみれば「非共感的な共感」かもしれません。

 もうひとつのことは,それとつながるところがあるように思うんですが,「共感」ということを私はちょっと広く考えているのかなと思いました。たとえば「共感」については懐疑的(?)なパートナーとの間で,意識せずに「呼吸がそろう」ことがあったりします。体のリズムが一致する,みたいな感じですよね。それなんかも私は「共感」の一種というか,その素朴な状態というか,そんなイメージを持ちます。

 他の人の言うことを「わかった!」という感じになるときも,そこに感情がどこまで強く関わっているかは関係なく,一種の「共感」のような状態と考えたくなります。なぜなら,相手の人が何に注目して,それをどういうふうに考えているのか,ということを自分が「追体験」することが「わかる」ということの意味かなと思えるからです。相手の経験を自分も味わったのだとすれば,それを「共感」と言えるのではないかと,そんなふうに感じてしまうんですね。

 ただ,こういう私の理解の仕方はあまりに「共感」の「感情的」な面を軽視しすぎている,と言えるかもしれませんし,ちょっと私自身も考えどころです。

 songさん,かずきさん,トマトさんのそれぞれのコメントを,どういうふうにつなげて理解できるか(すごくつながった話のように私は感じるのですが),そこはまだすっとは言葉になりません。ただ,そのことを私が考えるときに,かずきさんのつぎのような表現はひとつの大きな手掛かりになりそうな予感はしています。

 「思った事と表現する事は全くの別物という感覚です。」

 そのことをベースに考えると,songさんの

 「先に「言わなきゃだめよ」っていう教育がなされやすいから、感情がくっつかずにそのままなのかなぁと思ってます。そうでなくて、小さい頃あんぱんまんを見ててきゃーってテンション上がった時に母親が「楽しいねー」とか「おもしろいねー」とか言ってくれたりしてた場合は、そういう気分の高まりは楽しさや面白さとして認識できているのではないかな、と思います。」

 がつながって見えてきますし,トマトさんの

 「頭と心。言葉と感情。これがつながらない、マッチしない、同時進行しない、自分が自分で分らなくなる。こういう状況になることって人の人生の中で皆、あると思うんです。そして、表面上、一生懸命とりつくろいながら過ごすこともあると思うんです。」

 というポイントで,それは定型の気持ちの動き方にもつながっていく。

 このあたり,もうすこし整理していくと,アスぺ定型の気持ちの動き方の共通する部分と,それが持って生まれた条件の違いなどで違う形や方向で発揮される部分と,そういう両面でお互いのずれの問題を見直せるのではないかと,そんな感じもします。

 もしそこがある程度うまくいくのなら,「基本的な条件に大きな違いがあって,その後の展開にも大きな差が生まれるけれど,そこで働く気持ちの仕組みにはかなり共通するものがあって,<もしこういう条件の中に置かれたら,定型でもアスぺの方と同じようなことが起こる可能性があるでしょう>と感じられる」というスタイルの「共感」もまた成り立ちそうに思います。

 ま,それを「共感」と呼ばなければならないかどうかは,これまた問題になるかもしれませんね ('◇')ゞ

2014年7月 4日 (金)

共感なのか共感ではないのか??

 当たり前かもしれませんが,こういう記事を書いていると,わりと連続して書きたくなる時期と,ちょっと一息つきたくなる時期があります。自分の中でなにか新しいものが見え始めた時期と,すこし言葉を探しているとか,温めている時期というようなことなのかもしれません。どちらにしても,「言葉にしてみる」ことが目指されているのだと思います。

 私はタイプとして,できるだけ自分の気持ちをうまく言葉にしてみたい,ということを感じる人間なのでしょうね。逆に言葉の限界についてすごく感じていて,それ以外の形で自分の生き方などを作っていこうとされている方は,同じ定型アスぺ問題についても,また別の道を探られるのかもしれません。それは別にいい悪いの問題ではなくて,置かれた状況や経験,個性などの違いによるものなのでしょう。

 それはさておき,定型の側が定型アスぺ問題で「一度は…壊れる」ということをかずきさんが書かれたことについて,それだけ定形にとっては深刻な問題だということを,アスぺの方の立場から理解してくださったと私は思いました。そしてその「深刻さ」の理解ということを,定型的には「共感」と表現してみたわけですが,その点についてかずきさんは,こんなふうにコメントをされています

 「おっしゃるとおり、それが「共感」的な所から出てきたかと言われると、そうではなくて、どちらかというと「申し訳なさ」から出てきた表現です。」

 やっぱりそうなのか。というふうにも思いましたし,でもちょっと違う感覚でも受け止めました。というのは,「申し訳なさ」という「感情」について書かれているからです。ちょっとそのことについて考えてみたい気分です。

 「共感」っていったいなんなの?と考えだすと,結構ややこしいことがいろいろありそうですけれど,まあ素朴に「相手の人と同じようなきもちになること」とすると,定型の側が「壊れるくらいに辛いことだ」という感覚を持っているのに対して,かずきさんが「申し訳ない」という感情を抱かれたということですから,「まったく同じ」でないことは確かなのだと思います。その意味では「共感」とは言いにくいかも。

 そこでちょっと定型的な感覚で「共感的」と言える場面を想像してみるのですが,たとえばカウンセラーの方が共感的にかかわる,という場合,学生時代に授業でこんな例を聞きました。

 まず共感的でない接し方の例ですが,相談に来た人が「私,もう死にたいんです」と言ったとします。そのとき,「え?なんで?」と言うのは共感的でないことになるようです。そういう言い方は「あなたの言うことは理解しがたい」と突き放していることになるからでしょうか。

 じゃあどういう言い方が共感的と言われるのかというと,たとえば「ああ,そんなにつらいんですね」というような言い方があげられました。この言い方は相手の人のつらさを受けとめて,その気持ちに寄り添おうとしているからだという話になります。

 そこにはちょっと前提があって,ただ機械的に口先で「ああ,そんなにつらいんですね」と言ってもダメなんですね。相手の人が勘が鋭い人だったら,そういうある種の「うそ」はすぐに見抜かれてしまって,「どうしてつらいとあなたがわかるんですか?」とか突っ込まれて応えられずにアウトになる。

 だからやっぱり「ああ,この人は私の気持ちを分かってくれた」と相手の人が感じられるくらいには,何か理解できることが必要でしょう。かといって,相手の人とまったくおんなじ感情になることは理屈からいってあり得ません。だからそこでいう共感に含まれた「理解」というのは「完全に同じになること」ではないはずです。

 じゃあそこでの共感って実際には何かというと,「私はあなたと違うし,あなたと同じようには判断も行動もしないけど,もし私があなたのような立場に立たされたら,そう感じることはよくわかる」といった意味なんだろうと思います。

 そんな風に接しられた場合,定型は「自分の気持ちが共有してもらえた」と感じてそれで支えられると同時に,「でも自分の感じ方や判断とは違う見方もありうるのかも」という,別の可能性にも目を向けられるようになるのでしょう。というのはカウンセラーの方は自分の気持ちを理解してくれるけど,でも自分とは違う生き方をされていることになるからです。

 そういう体験をすると,それまで自分の中で堂々巡りをしていた考え方に,別の出口が見つかる可能性が出てくるのだと思います。その時,カウンセラーの人は相手の人と自分が違うことを理解しながら,同時にある範囲ではその人の感情状態を共有しているともいえるでしょう。

 ……という感じで「共感」という言葉を仮に考えてみたとして,かずきさんの「申し訳なさ」の感情(?)は定型的には(?)どう理解されることになるでしょうか。

 かずきさんがその「申し訳なさ」を感じる理由はなんだろうと考えてみると,その前提には,やっぱり相手の人が「苦しんでいる」ということについて,それなりに深刻に感じ取る(理解する?)ことがあるんだろうと思えます。

 もちろん相手が苦しそうな表情をしていたり,そう言葉で語っていたり,痛そうな振る舞いをしていれば,頭では「この人は苦しんでいるんだろうな」ということはわかるのかもしれません。でもそれだけでは「申し訳なさ」にはならないと思うんですね。

 たとえば道を歩いていて,前を歩いている人が転んでけがをするのを見たとします。その人は血を流したり,痛そうに振る舞ったりして,それを見ていて「この人は苦しんでいる」ことはわかるわけですし,「かわいそう」と思うかもしれませんが,その時自分は「申し訳ない」とは思わないでしょう。なぜって,別に自分のせいでけがをしたのではないからです。

 つまりそこで「申し訳ない」と感じるということは「自分(たち?)にそのことへの責任がある」と感じられるからだろうと思えます。

 しかも,単に「自分の責任でそうなった」と思ったからと言って,それで「申し訳ない」という深刻な気持ちにすぐなれるかというと,必ずしもそうではないように思います。やっぱり相手の人の苦しみが結構大きいと感じ取れなければ,「申し訳ない」とまでは感じにくいように思えるんですね。

 ですから,「申し訳ない」と思われたということは,相手の人の辛さをそれなりの深刻さを持つものとして感じ取った(あるいは理解した?)という前提があって,そしてその原因として自分(たち)がかかわっていると理解したからだと思えるわけです。

 ちょっとごちゃごちゃと理屈っぽくなってますけど ('◇')ゞ, つまり,かずきさんはもちろん定型とまったく同じ感情になられたわけではないはずですが,でも相手が深刻にそう感じても無理はない,と思われているんじゃないでしょうか。そしてそのような状態について,「申し訳ない」という「感情的な応答」をされていることになります。

 もし仮にそうだとすれば,それはカウンセラーの例で説明したような意味での「共感」はある程度成り立っているようにも思えるんです。すくなくとも相手の「辛そう」な感情的状態に対して,「申し訳ない」という感情的な応答をされる,という形で「感情的コミュニケーション」は成り立っているような気がするんです。

 ……ということを前提に考えていいのかどうか。それともこういう理解の進め方自体,やっぱり定型的なパターンで,なにか落とし穴があるのか,知りたいところです。

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