「ずれ」=「つながり」
トマトさんのコメントでまたいくつかの私の「謎」が解け始めた気がします。
アスぺの方は自分の自然な感覚を殺すようにして,定型優位の世の中になんとか合わせて生きる工夫を続けなければならないわけですが,それがどれほど大変なことかについて,トマトさんはこんなたとえで想像されています。
「定型に合わそうとする努力が 本来の自分を全く出さない くらいの域になると、それは水の中で息を止めているような状態で」
もちろんこれは定型のトマトさんが想像して言葉にしたことですから,アスぺの方自身がそれを見てどれだけ「その通り」と感じられるかはわかりませんが,ただ同じ定型の私からすると,このたとえはアスぺの方の置かれた状況を想像するうえでとても分かりやすいものでした。少なくとも「定型語」で翻訳してみると,そんな表現が分かりやすいということでしょう。
もしそうだとすれば,トマトさんが「定型の多くは・・相手のASの人にうまく合わせられたり、理解が深まったりという、コミュニケーションの手応えに、喜びを見いだすわけですが、果たしてASの人の多くにはその事が喜びや励みになるのかなぁ?」と書かれることもよくわかります。
「それほどまでに自分以外の人のイメージや思惑に合わせる作業も、人と会って会話するということ自体にも「自分の自然体を放棄する」レベルの行為をしているのなら、「素地が出せるゾーン(相手)」と「完全演技のゾーン(相手)」を完全に隔離判別してしまうのも無理は無いと思いました。」というのも私としては納得です。
そう考えると,「一緒に暮らしているということ自体が,他人(完全演技の相手)とはあり得ない,特別なこと」と言うパートナーの説明も,今までは頭で「そういうこともあるのかなあ」という理解にとどまっていたのが,なんとなく感覚的にも納得ができてきます。
ああそうか。今ふと思ったんですが,私の場合は相手の人を「理解する」というとき,「頭で理解する」という理解の仕方と,「感情的にも納得する」という理解の仕方を分けて考えるのですが,こういう分け方をしてみること自体がとても定型的ということになるのかもしれません。「感情的にも納得する」というのはある意味で「定型的な共感的理解」でもあるからです。
ですから,これまでパートナーとの間でも,あるいはここでのアスぺの方とのやりとりでも,この「感情的にも納得する」という部分でいつも躓くような感じを漠然と持っていたのですが,そう理解するとわかりやすくなりますね。
だとすればそういう「定型的な共感的理解」はしないか,困難なアスぺの方の場合,定型のやり方を理解する,ということは基本的にすべて「頭で理解する」という形になります。それは自分の感覚とはほとんど相容れないものだったりするのに,ただ頭で「こうすべきだ」と理解して,そういう「形の理解」を積み重ねて定型の世の中で生きる工夫をされている。
アスぺの方にとっては,ですから定型の世の中で生きる,ということは,完全に「自分の自然な感覚」とは別の所に,「頭で組み立てた世界」を作って,そこで生きることになるのでしょう。そこはあくまで「意識的に頭で組み立てた世界」ですから,その中での一挙手一投足がやはり「頭で考えながら」やらなければならなくて,それはものすごく疲れることになるはずです。
たとえ話で考えてみると,私たちは無意識のうちに息をし,心臓を動かしていますけれど,もし「息を吸って,はいて」とか「心臓を収縮して,ゆるめて」とか,そういうことを意識してやらない限り,息もできず,心臓も動かない状態が訪れたとします。そうすると24時間絶え間なく呼吸や心臓のことを考えていなければすぐに死んでしまうのですから,これはほんとに大変なことで,それ以外のことはまったく手につかないくらいになってしまうでしょう。
ある程度慣れてくれば,少しはそれ以外のことにも注意をむけられるようになるかもしれませんが,ちょっと油断すればとたんに呼吸も脈も止まってしまうのですから,ほんとに気が抜けません。
定形にとってはほとんど無意識にこなしてしまう(定型的な)人間関係のやりとりも,アスぺの方にとっては常に意識的に「こういうやりかたでいいのか?」と考えながらひとつひとつこなしていかなければならないものなのでしょう。そう考えれば,パートナーが仕事をこなすことでどれほど疲れるか,が感覚的にも想像しやすくなります。
かずきさんが「ASモードが定型世界の中では非礼というか無礼だと分かっているので、気をつけてはいます。気を抜くと「えげつない言葉」で攻撃してしまっているようなのですが」と書かれているのもそれでよくわかる感じがします。
ふたたび呼吸や心臓のたとえ話で考えて,もし自分が「他人」といるときにはそうやって意識していないと呼吸も脈も止まってしまうけれど,一人でいるときや「身内」といるときは心臓も肺も意識せずに勝手に動いてくれるとします。そうすると,「あなたは身内だ」とアスぺの方に言われるということは,「あなたといるときは意識しなくても肺も心臓も動くし,意識しなくても生きていかれる」と言われているようなものだということになります。
そう考えればアスぺのパートナーに「あなたは身内だ」と言われることが,それだけでどれほど特別な,大きなことなのか,ということがちょっとわかってくる感じがあります。定型的な恋愛を表現する歌詞にときどき「あなたなしではもう生きていかれない」というようなのがありますが,アスぺの方の場合は「あなたとなら生きていける」なのかもしれないですね。それはほんとうに特別なことに違いありません。
トマトさんは定型の側にはアスぺの方に対する「永遠の片思いを楽しむ方法を自分なりに見いだすという感覚も必要」と書かれていますが,この「片思い」ということの意味を,上のような理解で表現しなおすと,定型の側は「あなたなしではもう生きていかれない」という思いで強く相手を「求める」感じになるのに対して,アスぺの方の場合は「あなたとは一緒に生きていける」といううふうに相手を「許容する」感じになる,その感じ方のズレと言えるかもしれません。
今思い返すと,パートナーはこれまでもそういう意味で私に私が特別な存在であることを繰り返し伝えてきているように思います。でも「あなたなしにはもう生きていかれない」というイメージ(そこまで強く言わなくても,「あなたは私にとって本当に大事な支え」)で「身内」を考えていた私には,「あなたとなら一緒に生活できるよ」というイメージを語られても,全然ぴんとこなかったわけですね。
なにしろ「一緒に暮らす」というだけなら,まあある程度気の合う友達同士でも十分可能なわけですから,それ以上特別の関係とは感じられない。だから「あなたとなら一緒に生活できるよ」と言われても,「あなたとはいいお友達だよね」と言われている以上には感じられないし,逆に言えば「あなたとはいいお友達以上ではないよ」と否定的に言われているような気にもなってしまうわけです。
それで,ここですこし視点を変え,表現を変えて,定型にとっては「あなたなしにはもう生きていかれない」タイプのつながりが,一応「最高レベルの強いつながり」だとしましょう。そうするとアスぺの方にとっては「あなたとなら一緒に生きていける」タイプのつながりはおなじく「最高レベルの強いつながり」になります。ですから,アスぺ語の「あなたとなら一緒に生きていける」は,定型語に翻訳すると「あなたなしにはもう生きていかれない」となるのだ,という理解もできそうです。
そう理解すれば,彼女が「あなたとなら一緒に生きていける」タイプの説明をされたときに,私が定型語で理解してがっかりすると,そのことに彼女がショックを受けていたということの意味も分かりやすくなります。彼女としては最高に肯定的に語ったのに,その気持ちを受け止められず,否定されたように感じたとすれば,ショックなのも当然だからです。
そうすると,トマトさんが「永遠の片思い」と表現されたことの意味は,「あなたとの関係は私にとっては最高の強いつながり」ということを,定型アスぺで異なる形で表現することだと言えそうです。そしてその表現の仕方のズレは「永遠に変わらない」のでしょう。と同時に,視点をずらせば二人は同じことを言っているとも言えます。「永遠の片思い」は,「最高のつながり」というふうに表現を翻訳して理解しなおせば,どちらも同じことを言っていることになって,「両想い」と考えることもできるからです。
もちろんこんなふうに言っても,それを単なる「言葉遊び」のように感じてしまえばそう考えることに意味はなくなります。私の経験からすると,私がいまそんな風な見方もできるようになってきたのは,やはり「彼女にとって」私に対するかかわり方は,他の人に対するかかわり方とは違う,最高のかかわり方なんだ,とうことを,実際に体験を積み重ねて「体で感じ取る」ことができてきたからだと思えるんですね。それなしに口先でそういわれたとしても,たぶん体が納得しないでしょう。
いまふと思い出したことは,トマトさんがなくなったASの友人の方について書かれていたことです。その方はなくなるときに,トマトさんに対する深い感謝の気持ちを周囲の方に伝えられていたとのことでした。その言葉は定型同士の間でなら,まあ「ものすごく特別」とはいえないものかもしれません。でもトマトさんにはその言葉のものすごく特別の重みが,普段のその友人とのやりとりの経験との対比で実感できるものだったのはないでしょうか。そしてその友人が残された言葉によって,トマトさんにとっても何らかの意味で特別だったその友人との関係が「両想い」のものとして深く刻み込まれたのではないかと想像しました。
こんなふうな表現もできるかもしれません。定型アスぺのそういう関係は,「片思い」という形の「両想い」で,ずれている形でつながっているものなんだ,ということです。
「定型に合わそうとする努力が 本来の自分を全く出さない くらいの域になると、それは水の中で息を止めているような状態で」
もちろんこれは定型のトマトさんが想像して言葉にしたことですから,アスぺの方自身がそれを見てどれだけ「その通り」と感じられるかはわかりませんが,ただ同じ定型の私からすると,このたとえはアスぺの方の置かれた状況を想像するうえでとても分かりやすいものでした。少なくとも「定型語」で翻訳してみると,そんな表現が分かりやすいということでしょう。
もしそうだとすれば,トマトさんが「定型の多くは・・相手のASの人にうまく合わせられたり、理解が深まったりという、コミュニケーションの手応えに、喜びを見いだすわけですが、果たしてASの人の多くにはその事が喜びや励みになるのかなぁ?」と書かれることもよくわかります。
「それほどまでに自分以外の人のイメージや思惑に合わせる作業も、人と会って会話するということ自体にも「自分の自然体を放棄する」レベルの行為をしているのなら、「素地が出せるゾーン(相手)」と「完全演技のゾーン(相手)」を完全に隔離判別してしまうのも無理は無いと思いました。」というのも私としては納得です。
そう考えると,「一緒に暮らしているということ自体が,他人(完全演技の相手)とはあり得ない,特別なこと」と言うパートナーの説明も,今までは頭で「そういうこともあるのかなあ」という理解にとどまっていたのが,なんとなく感覚的にも納得ができてきます。
ああそうか。今ふと思ったんですが,私の場合は相手の人を「理解する」というとき,「頭で理解する」という理解の仕方と,「感情的にも納得する」という理解の仕方を分けて考えるのですが,こういう分け方をしてみること自体がとても定型的ということになるのかもしれません。「感情的にも納得する」というのはある意味で「定型的な共感的理解」でもあるからです。
ですから,これまでパートナーとの間でも,あるいはここでのアスぺの方とのやりとりでも,この「感情的にも納得する」という部分でいつも躓くような感じを漠然と持っていたのですが,そう理解するとわかりやすくなりますね。
だとすればそういう「定型的な共感的理解」はしないか,困難なアスぺの方の場合,定型のやり方を理解する,ということは基本的にすべて「頭で理解する」という形になります。それは自分の感覚とはほとんど相容れないものだったりするのに,ただ頭で「こうすべきだ」と理解して,そういう「形の理解」を積み重ねて定型の世の中で生きる工夫をされている。
アスぺの方にとっては,ですから定型の世の中で生きる,ということは,完全に「自分の自然な感覚」とは別の所に,「頭で組み立てた世界」を作って,そこで生きることになるのでしょう。そこはあくまで「意識的に頭で組み立てた世界」ですから,その中での一挙手一投足がやはり「頭で考えながら」やらなければならなくて,それはものすごく疲れることになるはずです。
たとえ話で考えてみると,私たちは無意識のうちに息をし,心臓を動かしていますけれど,もし「息を吸って,はいて」とか「心臓を収縮して,ゆるめて」とか,そういうことを意識してやらない限り,息もできず,心臓も動かない状態が訪れたとします。そうすると24時間絶え間なく呼吸や心臓のことを考えていなければすぐに死んでしまうのですから,これはほんとに大変なことで,それ以外のことはまったく手につかないくらいになってしまうでしょう。
ある程度慣れてくれば,少しはそれ以外のことにも注意をむけられるようになるかもしれませんが,ちょっと油断すればとたんに呼吸も脈も止まってしまうのですから,ほんとに気が抜けません。
定形にとってはほとんど無意識にこなしてしまう(定型的な)人間関係のやりとりも,アスぺの方にとっては常に意識的に「こういうやりかたでいいのか?」と考えながらひとつひとつこなしていかなければならないものなのでしょう。そう考えれば,パートナーが仕事をこなすことでどれほど疲れるか,が感覚的にも想像しやすくなります。
かずきさんが「ASモードが定型世界の中では非礼というか無礼だと分かっているので、気をつけてはいます。気を抜くと「えげつない言葉」で攻撃してしまっているようなのですが」と書かれているのもそれでよくわかる感じがします。
ふたたび呼吸や心臓のたとえ話で考えて,もし自分が「他人」といるときにはそうやって意識していないと呼吸も脈も止まってしまうけれど,一人でいるときや「身内」といるときは心臓も肺も意識せずに勝手に動いてくれるとします。そうすると,「あなたは身内だ」とアスぺの方に言われるということは,「あなたといるときは意識しなくても肺も心臓も動くし,意識しなくても生きていかれる」と言われているようなものだということになります。
そう考えればアスぺのパートナーに「あなたは身内だ」と言われることが,それだけでどれほど特別な,大きなことなのか,ということがちょっとわかってくる感じがあります。定型的な恋愛を表現する歌詞にときどき「あなたなしではもう生きていかれない」というようなのがありますが,アスぺの方の場合は「あなたとなら生きていける」なのかもしれないですね。それはほんとうに特別なことに違いありません。
トマトさんは定型の側にはアスぺの方に対する「永遠の片思いを楽しむ方法を自分なりに見いだすという感覚も必要」と書かれていますが,この「片思い」ということの意味を,上のような理解で表現しなおすと,定型の側は「あなたなしではもう生きていかれない」という思いで強く相手を「求める」感じになるのに対して,アスぺの方の場合は「あなたとは一緒に生きていける」といううふうに相手を「許容する」感じになる,その感じ方のズレと言えるかもしれません。
今思い返すと,パートナーはこれまでもそういう意味で私に私が特別な存在であることを繰り返し伝えてきているように思います。でも「あなたなしにはもう生きていかれない」というイメージ(そこまで強く言わなくても,「あなたは私にとって本当に大事な支え」)で「身内」を考えていた私には,「あなたとなら一緒に生活できるよ」というイメージを語られても,全然ぴんとこなかったわけですね。
なにしろ「一緒に暮らす」というだけなら,まあある程度気の合う友達同士でも十分可能なわけですから,それ以上特別の関係とは感じられない。だから「あなたとなら一緒に生活できるよ」と言われても,「あなたとはいいお友達だよね」と言われている以上には感じられないし,逆に言えば「あなたとはいいお友達以上ではないよ」と否定的に言われているような気にもなってしまうわけです。
それで,ここですこし視点を変え,表現を変えて,定型にとっては「あなたなしにはもう生きていかれない」タイプのつながりが,一応「最高レベルの強いつながり」だとしましょう。そうするとアスぺの方にとっては「あなたとなら一緒に生きていける」タイプのつながりはおなじく「最高レベルの強いつながり」になります。ですから,アスぺ語の「あなたとなら一緒に生きていける」は,定型語に翻訳すると「あなたなしにはもう生きていかれない」となるのだ,という理解もできそうです。
そう理解すれば,彼女が「あなたとなら一緒に生きていける」タイプの説明をされたときに,私が定型語で理解してがっかりすると,そのことに彼女がショックを受けていたということの意味も分かりやすくなります。彼女としては最高に肯定的に語ったのに,その気持ちを受け止められず,否定されたように感じたとすれば,ショックなのも当然だからです。
そうすると,トマトさんが「永遠の片思い」と表現されたことの意味は,「あなたとの関係は私にとっては最高の強いつながり」ということを,定型アスぺで異なる形で表現することだと言えそうです。そしてその表現の仕方のズレは「永遠に変わらない」のでしょう。と同時に,視点をずらせば二人は同じことを言っているとも言えます。「永遠の片思い」は,「最高のつながり」というふうに表現を翻訳して理解しなおせば,どちらも同じことを言っていることになって,「両想い」と考えることもできるからです。
もちろんこんなふうに言っても,それを単なる「言葉遊び」のように感じてしまえばそう考えることに意味はなくなります。私の経験からすると,私がいまそんな風な見方もできるようになってきたのは,やはり「彼女にとって」私に対するかかわり方は,他の人に対するかかわり方とは違う,最高のかかわり方なんだ,とうことを,実際に体験を積み重ねて「体で感じ取る」ことができてきたからだと思えるんですね。それなしに口先でそういわれたとしても,たぶん体が納得しないでしょう。
いまふと思い出したことは,トマトさんがなくなったASの友人の方について書かれていたことです。その方はなくなるときに,トマトさんに対する深い感謝の気持ちを周囲の方に伝えられていたとのことでした。その言葉は定型同士の間でなら,まあ「ものすごく特別」とはいえないものかもしれません。でもトマトさんにはその言葉のものすごく特別の重みが,普段のその友人とのやりとりの経験との対比で実感できるものだったのはないでしょうか。そしてその友人が残された言葉によって,トマトさんにとっても何らかの意味で特別だったその友人との関係が「両想い」のものとして深く刻み込まれたのではないかと想像しました。
こんなふうな表現もできるかもしれません。定型アスぺのそういう関係は,「片思い」という形の「両想い」で,ずれている形でつながっているものなんだ,ということです。
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コメント
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パンダさんへ
彼と出会った頃、よく「この言い方でえんかな?俺、変な事言うたかな?」って自分で口にした事を言い直してた事を思い出しました!
私は、「なんでそんな誤解されるような言い方するの?」と何度も言ってたような覚えがあります…
そして慣れ親しんで行くうちに、思ったままをそのまま口にするようになったらなったで、些細な言葉で私が傷ついて(;_;)
彼は彼なりに、最初は気を使って言葉を言い直しての会話をしていた。そして慣れてきた(気を許した)から思ったままの言葉をそのまま言うのが普通だった。
って事なんでしょうね。
でもどっちにしても不器用だから、うまく私に言いたい事が伝わらなくてすれ違いばかりで…
近くなればなるだけ傷つけ合う。まるでヤマアラシのジレンマです…
同じ言葉を使ってるけど、訳し方が違うからお互い誤解しあってしまう。パンダさんのように上手に訳す事ができたなら、お互い幸せを感じられるのに…
アスペの人と定型の人が、お互いの言葉を間違わずに訳せるヒントになる辞書のようなものがあればいいのにね…
投稿: にゃんこ | 2014年6月19日 (木) 01時17分
にゃんこさん
> 同じ言葉を使ってるけど、訳し方が違うからお互い誤解しあってしまう。パンダさんのように上手に訳す事ができたなら、お互い幸せを感じられるのに…
この「言葉としては同じ」というところが誤解を生み出し、そしてそれに気づきにくい原因ですよね……
訳しかたについてはホントに手探り状態です。自分には定型的な感覚で少し分かったような気になっても、果たして私の訳でアスペの方がどの程度納得してくださるのかもホントに分かりませんし……
> アスペの人と定型の人が、お互いの言葉を間違わずに訳せるヒントになる辞書のようなものがあればいいのにね…
ここでのお互いの経験や理解のやりとりの積み重ねからも、いずれそういうものが生まれないかなと思ったりします。ヒントになるものは、きっとできる気がします。
投稿: パンダ | 2014年6月19日 (木) 22時37分
トマトです。
最近、思うのですが、定型の人間理解って、1対1で終始する人生は、あり得ないですよね。
赤ちゃんのときは、母親など特定の相手に安心感を抱くものですが、成長するに従ってほかの家族や親戚、近所の人・・・そして保育園や幼稚園などの集団デビューで「いろんなタイプの他者」の存在を知り、いろんな相手と接することによって「人」という存在を理解していくのではないでしょうか。
私は、目の前の大切なASの人のことを知る近道は、その人を見つめ続けることではなく、できるだけ多くの他のASの人と接するという、接遇の経験値を上げることだと思います。
(そうは言ってもそんな運良く、次々に出逢えるものではない、という正論はチト置いていただいて)
例えば色の「赤」を理解して、使いこなすには赤色一本を見つめ続け考え続けるより、緑や青や黄色や白というタイプの違う色を知って、初めて赤色の個性や役割や存在や使い方などが、無理無く一気に解るという、客観視。
大切な人がASであるならば、その人だけを探求していると10年かかって疲弊してしまうところ、ほかの様々なASの人に接遇することにより、大切なASの人のことがより冷静に早く自然に見えて来るし、長所が浮き上がってくるものだと思います。
定型とASの関わり方の根本的な危険性は、目の前のASの人を凝視し続ける2人っぽっちのワールドに陥りやすいということ。
相手から目が離せなくなり、そうすると「なんで? なんで?」のメビウスの輪状態になり、常に「解った」「理解した」ような錯覚や瞬間芸になってしまい、自分の中に理解が定着しにくくなり、せっかくの知識や理解をうまく使えないこと。
タイプは違えどASの人と3人関わると、それはもう自分にとって「少数派」ではなくなり、人としての群像をとらえることが出来て、良い意味の「これもフツー」に感じられるという
次第に・・・自分の悟りというか落ち着きや納得につながると思うのです。
特に、家庭や職場などで毎日くらい関わる頻度の人こそ、この立体的な体験が、自然にASの人の個性を受け入れたり受け流したり・・という
定型同士の関わりのような感覚にスライドしやすくなるのではないかと感じます。
ネットでのASの人とのやりとりは大いに有効です。
が、頭の理解にとどまりがちな点もあり、理解や納得が自分に定着するには、身をもって体験した経験値も必要かと思ったのです。
定型から見た、ASとの対等感に近づく方法だと思います。
投稿: トマト | 2014年6月20日 (金) 17時46分