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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年6月27日 (金)

二度目の「救い」

 このところの掲示板やコメントでのやりとりを拝見していて,いろいろ考えさせられることがありますが,今はまだうまく言葉になりそうにないので,いずれ言葉が熟しそうになったらまた書いてみたいと思っています。

 ところで,最近パートナーについて,私の感じ方にまたひとつ大きな変化が生じつつあるような気がします。

 彼女に知り合った頃,私はほんとうに彼女に救われる思いでした。これはまったく感覚的なもので,なにがそう感じさせたのかを言葉にすることはできませんでしたが,今思うと,たぶん私が母親との間で苦しんできたことについて,彼女がまったく違う世界を与えてくれたのだと思います。

 私の母親は激しく周囲の人を巻き込むタイプの人で,私は幼児のころから完全に巻き込まれ,今思えば「依存」され続けてきたのですが,子どもの常として親の期待には応えようと頑張り,かなりの程度そうしてきたものの,もともとタイプがまったく違いますから,客観的に見ればそれはとても負担でもあったのですね。そのことに気づくまでに大変時間がかかりましたが。

 巻き込まれた状態の私は長い間それこそが「当たり前」で,それ以外の世界とのギャップについて不適応な感じはずっと持っていましたが,その「当たり前」を疑うことはできなかったわけです。定型が自分の「当たり前」を「定型の当たり前」としてちょっと離れた目で見ることがとてもむつかしいのと,ある意味では一緒でしょう。

 でも,意識はできなくても,母親の「当たり前」に巻き込まれる形で作られた世界には,私はやっぱり辛さを感じながら生きてきたわけですね。だから知らず知らずのうちに,そういう「巻き込み」がまったくない世界を求めていたと,今は思えます。そしてその世界を与えてくれたのが彼女だったということになります。

 アスぺの方も私の母親とはまた違う形で,「結果的に」定型(特に子供とか妻とか,比較して弱い立場と思われる人)を意図することなく「巻き込んで」しまうことはあるのかもしれません。アスぺの方もまた自分の感覚を足場にした「当たり前」の世界を疑うことはむつかしいですから,世間でご自分が弱者の立場の時は逆にその世界に「巻き込まれ」て,合わせて生きざるをえないのですが,親しい関係の中で自分自身に戻れるときは,相手に対して自分が強い立場にあれば,その世界に結果的に相手の定型を巻き込むことになりうるからです。

 実際パートナーと子供の関係を考えたとき,そういう「巻き込み」が起こっていたと考えると,いろいろわかりやすくなる感じがします。

 ただ,そういうアスぺの方の結果的な巻き込みと,母親のような巻き込み方はまたまったく種類が違って,素朴に言えば母親のような巻き込み方は徹底して「感情的な巻き込み」なのにたいし,パートナーの結果的なそれは「非感情的な巻き込み」と言えそうな気がします。ただ彼女と私の関係では,私は男でもありますし,私が「弱者」ということはありませんでしたので,私に対してはそういう巻き込みは成り立ちにくかったのでしょう。

 そうすると,母親の「感情的な巻き込み」の世界に生き続けてきた自分が,そういう要素はほんとに持たないパートナーの世界に「救われた」という感じを持ったとしても,全然不思議はないと思えます。

 そして,母親のような「巻き込み方」は,相手を独占しようとする気持ちがとても強いので,その独占の相手であった私がパートナーと結婚すれば,それは母親にとっては大変に辛い状況になります。そしてやはり私に対してパートナーの激しい非難をするようになっていったんですね。

 母親は徹底して「感情的なコミュニケーション」をしていくタイプですから,そういうコミュニケーションスタイルをほとんど取らない(そして定型社会の中で不適応になる)パートナーのやり方はまったく「許しがたい」ものに感じられることになります。私もパートナーには救われる思いと共に,やはり定型として持っている「感情的コミュニケーション」の感覚からは彼女に「問題」も感じるようになりますので,その点では母親の非難はある程度私にも説得力があるのです。

 でもこれも直観的なことでしたが,私はそういう母親の非難に対して,必死で壁を作ってパートナーとの世界を守ろうとしていました。たぶん母親の巻き込みに再び巻き込まれれば,自分が抱えてきた問題は何も解決されないことを直観していたのでしょう。パートナーとの間では「感情的なコミュニケーション」の欲求は満たされない思いを持ちながら,でもその世界が自分を救ってくれる可能性への思いを捨てきれなかったのではないかと思います。

 だから,当時は「母親からパートナーを守らなければならない」という感覚でしたが,実際はそれは同時に,「自分が救われる可能性のある世界を母親から守らなければならない」ということでもあったのだろうと思います。

 ただ,そういう世界を守っても,「定型的で感情的なコミュニケーション」の部分ではやはり彼女との間で満たされないものを抱え続けますから,それはそれで苦しいことでしたし,母親との間で抱えた矛盾が,それとは裏返しのような形で彼女との間の矛盾に置き換わっただけともいえるのかもしれません。そしてその矛盾が,子どもの問題でとても大きく表れてしまったのでしょう。

 その構図に今また大きな変化が表れているように思います。それはこれまでも何度か触れてきた「介護」の問題によってです。

 上に書いたような流れで,結局私は親とはかなり距離をとる生活を続けてきたのですが,いよいよ介護が問題になってきて,それができなくなってきます。そうすると,これまで「距離をとる」ことによって,一応避けてきた「感情的な巻き込み」の問題にも,再び直面するしかないのですね。

 その時,パートナーが結果としてライフワークとした老人福祉関係の仕事やそこで培ったいろいろな知恵などが,全く異なった形で母親と私と彼女の関係を変えてくれるようになってきたのです。

 老人福祉の現場では,あらゆるタイプの方に対応する必要がありますから,その中には母親のように激しく周囲の人を感情的に巻き込むタイプの方もあります。そしてしばしばそういう方は家族の中でも厳しい状況になり,ちょうど私が母親と距離を取らざるを得なかったように,さらにはもっと決定的に断絶になる家族もあるわけです。

 そういうシビアな現実の中で,仕事としてそういう方たちの生活を支えていかなければならないわけですから,そういうタイプの方たちにどう接したら一番現実的な対処が可能かという,ノウハウのようなものも自然と蓄積されていくことになります。

 その時に,アスぺの方のように,「感情的には巻き込まれず,現実的な対処法を見つけようとする」という姿勢がとても力を発揮するのでしょう。少なくともパートナーを見ていると,そういう姿勢で親の介護の問題にサジェスチョンを呉れたり,手伝ったりしてくれるやりかたは,本当に勉強にもなり,また精神的にも救われるのです。

 以前なら「なんでそんな冷たい皮肉な見方や言い方をするんだ」と憤慨していたことが,親の介護という現実の中で,本当に大事な見通しを与えてくれる経験が積み重なってきます。そして結果として,激しく感情的に巻き込みをしてくる親に対して,それを完全に否定して壁を作り,関係を絶つのでもなく,逆に完全に巻き込まれてしまって振り回されるのでもなく,ある程度現実的な距離の取り方で支えることが可能になっていくのです。

 そんな経験が積み重なる中で,ほんとに最近のことですが,それは単に親を支える,ということではなく,実は私自身が改めて彼女に支えられることでもある,ということを感じるようになってきたのですね。再び彼女によって救われている自分を感じるようになってきた,という言い方もできるかもしれません。

 彼女との間で問題になり続けてきた「感情的なコミュニケーション」の問題は,たぶんそれで直接解決されるようなことではないのかもしれないのですが,ある意味では「それよりも大事なこと」が感じられるようになってきたのかもしれません。ちょっとこのあたりは微妙な問題ですので,ほんとにどうなのか,注意していきたいと感じます。
 
 
 

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コメント

パンダさんへ

私も、今まさしく親の介護の真っ最中で、喉頭癌で声のでなくなった父と、要支援の体の不自由な母の老老介護の生活に「ほどよい一人娘の関わり」が問われているというか、課されている現状です。

一番「努めている」部分は「冷静に淡々と」と、いう態度です。
この、自分の感情を持ってかれないクールさは、本来の私にはなかった部分で、自称共感名人で巻き込まれ名人だった私が
さまざまに状況が変化して、入退院を繰り返し、その度に弱気になったり強気になったり認知の波が大きくなったり子ども帰りしたりの親に「怒らないように自分をコントロール」すべく「その場、黙って次の状況を考える」ことができだしたのは
ASの友人や知人や同僚とのかかわりのおかげ大です。

まぁ・・本来の自然な私の姿ではないので、病院のエレベーターに入ると壁に「はあぁ~」ともたれかかる疲労感はありますが

もしASの人との接遇体験がなかったら、とっくに癇癪をおこして親を怒鳴っていたに違いありません。

そして、記憶の中に、AS同僚の「理性的な判断と合理的な意見で、仕事と人間関係の一線が濁り悩んでいた私の気持ちが救われた」ことが、モデルケースのように刻まれていて、自分はそれを何とかつかいこなそうとしているのだろうなと感じます。

1人のASの人と、真向いの関係ではわからなかった「良い点」は、ほかの場所でほかの誰かとの困難な場面で、鮮明に見えてきます。

そういう意味では、ASも定型も「時間差理解」という・・・
そのときはわからなくても・・という未来に据え置きの理解関係はあると信じます。


トマトさん

 そうなんですね……。
 やっぱり,定型アスぺ問題に定型の側がある意味深い「こだわり」を持つ理由には
 そういう「共感」をめぐる定型の側のなんらかの問題が背景にある,
 ということなのかもしれません。

 「未来据え置きの理解関係」というネーミングも考えさせられます。

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