定型の「裏表」
介護関係である経験をして、その話をパートナーにしたら、しばらくして「それは定型に対してずっと経験し続けることだ」と言われました。ああ、そういうことなのか、と思いました。それはこんなことです。
遠距離に終の棲家をわざわざ購入して住んでいた両親が、いよいよ二人とも体が悪くなり、しかも自宅で最期を迎えたいという父親がほぼ寝たきりになってしまいました。それで自分も体が悪い母親がいわゆる「老々介護」状態になりました。私たちも手伝いなどに行ったりはしますが、距離もありますし、とても毎日の対応は無理です。介護の方たちも大変によくやって下さっているのですが、もちろん24時間というのは無理で、夜中も何度も排泄の対応などで起こされたり、心身ともに疲労困憊してもう限界という状態が続いていました。
わたしたちは念のために身近な施設なども準備してはいましたが、何しろ父親は絶対に受け付けませんし、母親も介護士さんたちから心配されて、そんなに無理せずに、できる範囲でやって、あとは自分たちに援助を求めればいいと言ってくれるのに、父親が何かを訴えるともうその場で対応しないといられない性格なので、全く気も体も休めない状態だったのです。
でも結局なんどか大揺れをした後で母親は「もうだめ」となり、その混乱状態を見た介護のみなさんたちが緊急に父親の施設入所の可能性を探り、担当医の先生が「このままでは母親が倒れてしまう」と父親を説得して下さったのですね。
それで急遽近くの施設に入所して、母親がそこに通う形になって、私もその対応に行ってきたのですが、それまではもう限界状況で父親にも激しく当たっていた母親が、父親が入所していなくなった翌日の朝には、「いないのがさびしい」といって泣くんですね。それから施設に面会に行って父親の顔を見るなりまた泣き出して、「かわいそうに」とか顔や手や体をなでまわしているんです。
と、とても「感動的」な場面のように書くと、「もしかすると改めて入所させたことを後悔してあらためて家に連れて帰ろうとするんじゃないか」とか思われるかもしれません。実際その様子を私から聞いた介護の方は、そう考えられたようです。
ところが1時間ほどそこにいた後、帰るときになって(私はそこに立ち会わなかったのですが)、それまで「自分は毎日通う」と言っていた母親は父親に「毎日来てもしんどいから二日に一遍でいいでしょう?」と返事も待たずに言い渡してきたと、「そんなの当然じゃない」という感じでにこにこしながら私に話をするんですね。
この「劇的」な感情状態の切り替わりは母親の「特徴」のひとつなので、わたしは長年をかけてさんざんならされましたから、「ああ、ここでもそうか」という感じにはなりますが、以前のようにもうそれで混乱して振り回されてしまったりすることはありません。でもいくら慣れてもそのあまりに露骨な「裏表」にまあちょっとあきれる感じはあるんですね。本人はまったく悪気もないし、別にその時々で思ったことを正直に表現しているだけだという態度です。そしてその「裏表」ぶりを指摘しようものなら、逆切れされて手が負えなくなるだけです。
ただ、そういう「特徴」を持った人についてあまり経験のない方は、やはり相当混乱させられてしまいます。というか、家族ですら混乱させられ続け、家族が崩壊することもあるくらいですから、他人ならますます当然という感じでしょう。
で、家に帰ってからその話をパートナーにしたわけです。そうしたら冒頭に書きましたように、「それは定型に対してずっと経験していること」と言われたのですね。
たとえばアスぺ当事者の方のブログなどで書かれていることもありますが、本人がいないところで散々みんなで悪口を言っていたのに、その人が来たとたんにみんなにこにこしてしやさしく話をする、とか、そういう場面をアスぺの方が見て、大変にショックを受けられるわけです。そしてそうやって「裏切られる」思いをずっとし続けるので、「定型(定型アスぺの違いに気づかない段階では「他人」)の言うことは真に受けてはいけない」という理解が身に沁みつくことになります。
わたしたちは念のために身近な施設なども準備してはいましたが、何しろ父親は絶対に受け付けませんし、母親も介護士さんたちから心配されて、そんなに無理せずに、できる範囲でやって、あとは自分たちに援助を求めればいいと言ってくれるのに、父親が何かを訴えるともうその場で対応しないといられない性格なので、全く気も体も休めない状態だったのです。
でも結局なんどか大揺れをした後で母親は「もうだめ」となり、その混乱状態を見た介護のみなさんたちが緊急に父親の施設入所の可能性を探り、担当医の先生が「このままでは母親が倒れてしまう」と父親を説得して下さったのですね。
それで急遽近くの施設に入所して、母親がそこに通う形になって、私もその対応に行ってきたのですが、それまではもう限界状況で父親にも激しく当たっていた母親が、父親が入所していなくなった翌日の朝には、「いないのがさびしい」といって泣くんですね。それから施設に面会に行って父親の顔を見るなりまた泣き出して、「かわいそうに」とか顔や手や体をなでまわしているんです。
と、とても「感動的」な場面のように書くと、「もしかすると改めて入所させたことを後悔してあらためて家に連れて帰ろうとするんじゃないか」とか思われるかもしれません。実際その様子を私から聞いた介護の方は、そう考えられたようです。
ところが1時間ほどそこにいた後、帰るときになって(私はそこに立ち会わなかったのですが)、それまで「自分は毎日通う」と言っていた母親は父親に「毎日来てもしんどいから二日に一遍でいいでしょう?」と返事も待たずに言い渡してきたと、「そんなの当然じゃない」という感じでにこにこしながら私に話をするんですね。
この「劇的」な感情状態の切り替わりは母親の「特徴」のひとつなので、わたしは長年をかけてさんざんならされましたから、「ああ、ここでもそうか」という感じにはなりますが、以前のようにもうそれで混乱して振り回されてしまったりすることはありません。でもいくら慣れてもそのあまりに露骨な「裏表」にまあちょっとあきれる感じはあるんですね。本人はまったく悪気もないし、別にその時々で思ったことを正直に表現しているだけだという態度です。そしてその「裏表」ぶりを指摘しようものなら、逆切れされて手が負えなくなるだけです。
ただ、そういう「特徴」を持った人についてあまり経験のない方は、やはり相当混乱させられてしまいます。というか、家族ですら混乱させられ続け、家族が崩壊することもあるくらいですから、他人ならますます当然という感じでしょう。
で、家に帰ってからその話をパートナーにしたわけです。そうしたら冒頭に書きましたように、「それは定型に対してずっと経験していること」と言われたのですね。
たとえばアスぺ当事者の方のブログなどで書かれていることもありますが、本人がいないところで散々みんなで悪口を言っていたのに、その人が来たとたんにみんなにこにこしてしやさしく話をする、とか、そういう場面をアスぺの方が見て、大変にショックを受けられるわけです。そしてそうやって「裏切られる」思いをずっとし続けるので、「定型(定型アスぺの違いに気づかない段階では「他人」)の言うことは真に受けてはいけない」という理解が身に沁みつくことになります。
さて、そうすると、「パートナー(アスぺ?)→私(定型?)→母親(タイプ)」という並び方があるように思えてきます。母親のやりかたは私からすれば「裏表がある」もので「裏切られる」ようなものにも見えます。で、それに比べて自分は一貫していて「誠実」に思える。ところがその私(たち)のやりかたはパートナーから見れば「裏表があって」、「裏切られる」もので、誠実さに欠けて感じられるわけです。
そんなふうに考えてみると、アスぺの方はある面では私が母親に苦労してきたような苦労を定型との間で積み重ねてきているといえなくもないのかなと感じたのでした。
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