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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年6月11日 (水)

「自然」な感覚へのこだわりの強さ

 パートナーが「共感的なかかわり方」など,他人に対してはある程度できることを,私や身内にはできないということについて,「身内VS他人」にどのように対応することが自然なのかについての感じ方が定型アスぺで全然ずれていること,そしてアスぺの方はそこで身内に対して無理やり「共感的なかかわり方」などをすることに罪悪感を感じてしまう人が少なからずいらっしゃるらしいことを書いてきました。

 では,相手(定型の側)はそれを望み,またそうされることで喜んでいるのに,なぜそこに「罪悪感」を感じてしまうのでしょうか。ひとつの理由は昨日も少し書いたように,そういうやりかたは,自分は本当は自然に「共感的」に関わっているわけではなく,ただ定型社会の中ではそうやらないといけないのだと「頭で理解」していて,形を合わせているだけなので,それで相手の定型の人が喜んだりしていると,なんだか人を口先で操っているような,だましているような感覚になってしまう,ということにあるらしいのですね。だから本心で付き合うべき「身内」に対してそれをすることは,すごく不誠実なことになってしまうわけです。

 立場を変えて,たとえば病気で相手が辛そうにしているとき,定型の場合は「共感的に支える」ことがいいことと考えられているし,自然にそういうかかわりになりやすいし,逆に言えばそうしないことは人としてとても「冷たい」ことで,特に深く助け合うことが当然のはずの身内の場合にはそうしないことは相手を「他人」のように扱うことにもなってしまいます。たとえ相手(アスぺの方のがわ)が「一人にしておいてくれること」を望んでいて,そうされることでほっとできるとしても,定型の側はそうすることに罪悪感も感じてしまったりするのですね。

 その点では結局お互い同じことで,お互い様の感じでもありますが,少なくとも私とパートナーとの関係では,もうちょっと違う部分もあるような気がします。

 私が定型アスぺのそういうかかわり方の感覚の違いを「頭で理解する」ようになって,彼女に対しては「心配で共感的にかかわりたい」気持ちが起こっても,頭で考えて,「ここは本人から要求されない限りは放っておく方が本人にとって楽なんだ」とその自分の気持ちをセーブして,そう対応するようになっていきました。最初はかなり抵抗感がありましたが,でも最近はそうすることにだいぶなれてきたように思います。ある程度は「郷に入れば郷に従え」になっているのでしょうね。

 けれどもそれに比べると,パートナーの方は私に対して「共感的にかかわる」ということは,その後もほとんどない感じがします。彼女も私がそれを望むタイプの人間だということは頭では理解しているし,「テクニック」としてはそれはある程度はできないことはない。でもそうするには私を「他人」としてある意味「切り捨て」なければならないようなのです。

 そういうところでは定型の私の方は「いい加減」というか「適当」というか,相手に合わせて「融通が利く」というか,よく言えばある程度は柔軟に対応するのに対して,パートナーの方は自分の感覚にすごく忠実というか,誠実というか,あるいはなかなか融通が利かない感じがするんですね。

 そうすると,「私の方は彼女に合わせて譲っているのに,彼女の方はなかなか譲ってくれない」という「不公平感」も生まれてきてしまいます。

 ではなんでそういうことになりやすいのか,ということを考えるわけです。わかりやすいひとつの考え方は,「やっぱり定型はより柔軟に相手に合わせて調整するし,アスぺの方はそれがしにくく,自分のやり方にこだわり続けるからだ」という理解の仕方でしょう。そしてある程度そういう面はあるような気はします。

 でもそれだけかなと思うと,もうちょっと違う面もあるかもしれないと感じます。それは定型に比べ,アスぺの方の方が多数派の世の中で「自分の感覚に合わないこと,場合によって罪悪感を感じさせられるようなことでさえ,相手に合わせてやっていかないと生きていけない」という場面に出会うことが,定型に比べるとはるかに多いだろう,という問題です。ある意味,そういう事態が日常茶飯事だといえるかもしれません。

 もしアスぺの方がそういう事態の中でいつも苦しい思いをさせられているのだとすれば,そうでない,自分の感覚ですごす時間はものすごく貴重なものになるし,大切にしなければならないものになるでしょう。定型だって自分に素直にすごせる時間は大切ですけれど,そのレベルがはるかに違うのかもしれません。

 そういう「おかれた環境の厳しさの違い」が,もしかすると「自分の感覚の自然さ」にこだわる強さに影響するかもしれないとも思えたのですね。

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コメント

パンダさんへ トマトです。

定型には「これは思いやり」「これは心配」という無意識の自覚があってとっさに言動に出ているのだとします。
ASの人には「思いやりとか心配ってどんなものなのだろう」というツカミから探らなくてはいけないのだとしたら・・・定型の期待は方向違いになってしまいますね。

相手に合わせる、関わる、踏み込むという心配の仕方、世話の焼き方は定型のごく自然な思考と行動だと思いますが
それらの機能が働きにくい人に「不公平感」を持ってしまうのが・・・そもそもASと定型の宿命みたいな感じがするのてす。

パンダさんの おっしゃること とても よくわかります。

身内や 親しい人には なぜ??というくらい 冷たかったりしますよね・・・
あっけなく そっけなく その対応はないでしょう・・という対応をしますよね・・

そして アスペのかたが 職場・・ とか 地域・・とか 学校・・とか・・ とにかく
仕方なく・・というか どうしても 嫌でも付き合わないとならない方・・親しい人・・と
思ってらっしゃらない方には とても 社交的に 笑顔で・・ 親しいものにはしてくれないような 態度で 接している

それを見て なんだ できるんじゃない・・ 自分は ただ 意地悪されているだけ?
嫌われているだけ? と 思いこんでしまう・・・
そして 距離をとったほうが この関係はうまくいくのだろうか??と 
積極的に行動できなくなってしまう・・・

かといって 積極的に 行動すると あちらから いきなり なにか 見せしめのように
距離を取られてしまう・・・

難しいです。 うまく つきあっていける方法というものは 皆無・・なのだろうか・・と
思えます。

じっと 彼らが寄り添ってきてくれるのを 待つしか・・・ 方法はない気がします。
しかし その 待つ時間と言うのは 1か月のときもあれば 半年の時もある
10か月のときもある・・・・

そうしているうちに・・・ いつのまにか長い年月が過ぎ 彼らからしたら わたしたちは離れて行ってしまった・・と思われてしまう・・  
また 来るもの拒まず 去るもの追わず という感じのする アスペの方は 知らない間に あらたな世界を作っている・・・ 

待っている 自分たちは えぐられるような思いで これまでの日々はなんだったのだろう。・・と 長い年月をかけて 心をつくした日々に 途方に暮れ 心まで 病みかける

この関係に 報われる・・・・ということは ないと思えたりします。。。
たとえ 恋人関係であっても・・・ 夫婦であっても・・・・・・

パンダさん、かずきです。

罪悪感について、私の中では今更過ぎて書いてきませんでしたが、
定型モードの時は自分を裏切っている感は消えません。
仰るとおり相手が喜んでいても、それこそ、「本音」(以前議論になりましたがあえて。)では無いからですね。

私にとって
>「他人」としてある意味「切り捨て」なければならない
ような存在は、今の人間関係の「身内」認定している中には、まだ思い当たりません。

夫にも、頑張れば定型モードで対応できるからです。
親しき仲にも礼儀あり、と思っているからかもしれません。
ASモードが定型世界の中では非礼というか無礼だと分かっているので、気をつけてはいます。
気を抜くと「えげつない言葉」で攻撃してしまっているようなのですが、
出来る限り、気をつけられる相手なのです。
もっと言えば実家の家族はASモードでも通じるので切り替える必要がありませんし…
そういう意味で恵まれているのか、スペクトラムの浅瀬だからかは分かりませんが。

ただし、相手にそう望まれたら、「切り捨て」るかも知れません。

(昔、交際相手に「釣った魚に餌をやらないんだな」と言われた意味が、
10年経って、今やっと分かってきた気がします。
交際相手は、他人ではなく、身内の対応だったんです。)

そして「切り捨て」ればできる、と言う感覚は分かります。
「割きり」とか「見切り」に似た印象です。
そしてしてしまえば、難なくできると思います。
そして「切り捨て」た状態、それ自体が変わる事も無い気がします。
頑なですが…

そうやってどんどん自分を殺していく。仮面をかぶっていく。

こうして人間関係を築いてきた私には、
甘っちょろいかもしれませんが、まだ期待があるんです。

まだ、「いつかわかってくれる」人を、
自分が素直に思った事感じた事が、「感じたままで良いんだよ」と
素直に受け取ってくれる人を探しているので、

「切り捨て」て「他人」になるのは、
やっぱり自分を裏切って、傷つける事でもあります。

微笑んでしまうくらい、切なくなります。悲しくなります。
だから極力したくないんですよね、大事な人であればあるほど。
その状況が相手を苦しめてるなら話は別ですが。


まとまらなくなってしまいましたが、
私はパンダさんの様に
「いい加減」に「いい塩梅」にさじ加減できる人が、うらやましいですし
すごいなぁ、って思います。もっと胸張っていいと思いますよ。

あと、今のコメントの流れ(結婚関係)が理解しにくい(ごめんなさい)のも、
男性側の言い分に納得してしまうあたりも、
私がASなんだなぁ、とすごく感じています。
(再確認であって凹んでいる訳ではありません、念のため。)

かずきさん

 私にはかずきさんとのやりとりがとても「かみ合っている」ようにやはり感じられてしまうのですが,それがかずきさんの言われる「浅瀬」によるものなのかどうか,そのあたりも気になります。

 「そうやってどんどん自分を殺していく。仮面をかぶっていく。」

 とお書きになったことも,私がパートナーとの関係を考える上で,とても気になっていることの一つをそのまま言葉にしていただいた感じがしています。「ああ,アスぺの方にはやっぱりそういう感じがあるんだなあ」と思えました。定型的にはとても寂しさを感じるポイントでもあります。

 ただ,

 「「切り捨て」て「他人」になるのは、やっぱり自分を裏切って、傷つける事でもあります。」

 と書かれていることは,ひとつの大事な手がかりなのかなとも思いました。

 


パンダさん、かずきです。

返信ありがとうございます。

前から言って頂いていますが「かみ合っている」と感じてくださっていて安心しています。
もちろん、内容はAS思考回路についてですが、
極力定型モードで書くようにしているのと、
やっぱり「浅瀬」だからではないかと感じています。

記事やコメントの中の、定型側の苦労と、AS側の苦労と
どちらの状況も容易に想像がつくパターンが多い気がします。
でも、解決策は思い浮かばないのでお役に立てないんですけどね。


正直な所、自分を殺さずに生きていける方法があるとしたら知りたいです。
たぶん、それが本当の意味での「ありのまま」の自分でいられるという事だと思いますが、
「他人」に笑顔で同調しながら自分を否定していかなければ築いていけない人間関係、
気を抜くと出てしまう「えげつない言葉達」と付き合いながら
常に自分を律して生きていかなくてはならない。
そんな自分が「ありのまま」でられるわけなど無いと感じてしまいます。

最近、他人からの否定よりも、自分からの否定の方が重荷だったのだと気づきました。
私は常に自分で自分を否定しながら生きてきたようです。

自分がASだと知ってから、少しずつ「そう感じても仕方が無い」と思えるようになったのが
まだ救いのように思います。

仮面をかぶる事は定型の方にも有ると思うので、書くかどうか迷いましたが
ニュアンスが伝わっているようで安心しました。


「ありのまま」で居て、大切に思う人を傷つける事も
大切に思う人を「切り捨て」て望まれる対応をする事も
どちらも自分が傷つきます。
大切に思う人で有るほど、その人のそばに居たい自分が嫌いになっていきます。

いるかです。

かずきさんのコメントの中で、
>まだ、「いつかわかってくれる」人を、自分が素直に思った事感じた事が、「感じたままで良いんだよ」と素直に受け取ってくれる人を探しているので
「切り捨て」て「他人」になるのは、やっぱり自分を裏切って、傷つける事でもあります。
微笑んでしまうくらい、切なくなります。悲しくなります。だから極力したくないんですよね、大事な人であればあるほど。

という言葉。
非常にわたしにとって分かりやすく表現していただいたことに感謝しております。
ありがとうございます。
彼が言いたいのはこのようなことだったのか。。と思いました。

彼の「感じたままの気持ち」をこちらがそのままスポンジのように受容し、ありのままの彼を受け入れていても、
彼は「こんな自分じゃ、あなたが辛いでしょ?あなたの前で情緒不安定な姿を見せるのは、情緒不安をあなたに見せ続けていれば、
いつかあなたが限界を迎えて、あなたが去っていってくれるのを無意識で望んでいるからだと思う。」と言われました。
(何時間も無言で泣き続けたり、気分のコントロールができません。。)

そして、彼が幼児化するのはわたしの前だけなのです。世間には合わせられるのです。

そして、彼はどちらも本当の自分だと言っております。
社会適応できる自分(定型モード)もわたしの前で3歳児になる自分(ASモード)も。

そして彼は、「自分は世の中の誰より弱い。心のとても奥にある部分が誰より繊細なんだ。
それは昔から分かっているし、一度一定の気持ちになると何ヶ月も同じ気持ちから抜け出せない。」と言っていたことがあります。

また、彼は親友であっても、「他人」とは一緒には寝れません。「他人」とは安心して就寝することができないのです。
それが「身内」の私の前ですと、5秒もあれば寝ます。。安心しているのでしょうね。

そして、
かずきさんのコメントの、
>「ありのまま」で居て、大切に思う人を傷つける事も大切に思う人を「切り捨て」て望まれる対応をする事もどちらも自分が傷つきます。
大切に思う人で有るほど、その人のそばに居たい自分が嫌いになっていきます。

という言葉。
ありがとうございます。
「あなたを傷つけたくないし。自分も傷つきたくない。自分の父親と母親と同じように解決(父親がASのため別居中)するには、
両親のように離れるしか方法はないと思う。」と言われましたが、大切であればあるほど、離れなくてはいけなくなってくるのですね。。

そういう彼に
「大事な人であれば、(自分よりも)相手を大切にすることを努力する」ということは難しいのでしょうね。。
今は彼にこの部分のアプローチをしておりますが、
「分かっているけれど、無理だと思う」と言われました。。(涙

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