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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年6月21日 (土)

「あなたたち」の中の「あなた」

 

トマトさんのコメントに「タイプは違えどASの人と3人関わると、それはもう自分にとって「少数派」ではなくなり、人としての群像をとらえることが出来て、良い意味の「これもフツー」に感じられる」とあって,これは私としては「うーん!」とうなる感じがしました。なんかすごい重要なポイントをズバッと指摘されているような。

 すぐに思い出すことの一つは,学生時代にカナータイプの自閉の子や,その他の障害のある子たちと遊んだりしていたとき,最初のころはダウン症の子(ダウンちゃんとか呼ばれてました)が,みんな同じに見えて区別がつかなかったんです。

 普通ひとはいろんな顔をしていて,ひとりひとりすごく個性的ではっきり区別できるのに(一卵性の双子など,区別できなことが逆に驚きになるくらいですから),ダウンちゃんは顔かたちの特徴があまりに一般の「個性」の範囲を超えてしまっているように感じられるので,それ以上細かい区別が出来なくて,みんな同じ「ダウンちゃん」で判断されてしまうみたいです。

 考えてみると,別にダウンちゃんに限らず,いわゆる「人種」が違ったりすると,やっぱりみんな同じような顔に見えてしまったりすることもありますよね(え?ないですか?('◇')ゞ私だけ?)

 でも,そういう人たちとのかかわりが増えて,慣れてくると,だんだん一人一人の顔に「個性」が感じられるようになってきて,区別がついてきます。そうすると,「ダウンちゃん」とか「何々人」とかではなく,「○○ちゃん」「××ちゃん」「△△さん」など,一人ひとりが見えてくる。たぶんトマトさんが書かれる「群像」になるのかなと思います。

 そしてそうなると,自分の「フツー」とは違う,もうひとつの「フツー」を無理なく感じることができるようになる。「あ,この人たちにとってはこれは<あたりまえ>のことなんだ」という感覚でしょうか。

 面白い(?)なあと思うのは,「群像」として見えてくるというのは,言ってみたら相手の人を集団の一員としてひとくくりに見ることでもあるんだけど,逆にそうすることでその方の「個性」が見えてきて,そしてそういう個性的な人たちの「群像」が,自分とは違うもうひとつの「あたりまえ」を感じ取らせてくれるようになる,というこのちょっとややこしい関係です。

 もうちょっと単純にして言えば,相手一人だけを見ているときには個性と言いながら実は個性を見られず,ワンパターンの決めつけで見てしまいがちになり,逆に自分とは違う「ひとたち」の一人として見ると,個性が見えてくる,ということなのかもしれません。


 そういう新しい見え方を,いろんなアスぺの方との実際のかかわりを通して獲得していくことについて,トマトさんは「定型から見た、ASとの対等感に近づく方法」とも言われています。これもとても考えさせられることでした。「対等感」というのは,実は単に「一人と一人として向き合う」だけではなかなか得られないことなのですね。


 うーんと,そうすると,もし「私たち」と「あなたたち」という対比の中で「私」と「あなた」の「対等感」がようやく得られるのかもしれないとして,そうなると「私たち」という意識が持ちにくいように感じられるアスぺの方の場合は定型に対して対等感を持つこともまたひとつのむつかしさがあったりするのでしょうか。

 あるいは「対等感」はまた別の形でも成り立つのでしょうか。

 いや,ちょっとトマトさんの趣旨から外れてしまったかもしれませんが,ちょっと考えてみたい問題です。

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コメント

このブログを初めから、全て読んでいないのに、拾い読みして、コメントするのは、場違いになることもあるかなと思いつつ、突っ込ませてください。
私は、若い時に、聴覚に障害がある方達と交流があり、かなり多数の方と一緒に行動したり、旅行に行ったりする機会がありました。30人の聴覚障害の方と一人の私で過ごすと、もはや、障害があり、お荷物なのは、私の方になります。
聴覚障害も物理的に聞こえないということ以外に、コミュニケーション障害を生じることもあり、日常生活に、慣習その他、健常者と差異があることもあります。生活の中で神経を使うところも違ってくることを、想像できるでしょうか?そういった差異を、受容しながら、ろう文化を理解してiいくことで彼らと対等になれて、私は、お荷物にならずにすむようになるわけです。
聴覚障害の方と健常の方の結婚生活では、同じコミュニケーション障害でありながら、カサンドラのようなことは、起こらないのです。それは、なぜか。ここにハーンの妻達でも、大きな課題である「ASの夫は困らない」ということが出てきます。自覚というのは、診断されている、されていないでは、ありません。自覚がない、自分の障害が見えないということが、そもそも、カサンドラの孤独を引き起こし、解決に向かわない大きな壁だと私は思っています。テーマが「対等感」から、ずれてしまいました。別の機会で、また、取り上げて頂ければ、幸いです。

SORAさん

 聴覚障碍者の方たちの中にいると自分が「障碍者」になるというのはよくわかる気がします。そのひとたちにとっての当たり前から外れてしまうんですよね。

>自覚がない、自分の障害が見えない

 というところ,もう少し教えていただけると嬉しいんですが,私のパートナーの場合は自覚とかあるように思いますし,一時はそのことですごく私たちに対して「罪悪感」すら抱いていました。SORAさんの書かれている「自覚がない」というのは,そういう話とはまたちょっと違うのでしょうか?

発達障害は、わかりにくい障害と言われていますね。周りに理解されにくいと同時に、自分が、他の方と違うことに気づきにくいということです。目に見える障害に例えれば、両腕を事故で失った方に、両腕に抱きしめられたいと妻が願っても、それは、永遠に叶わない愛の形なわけです。ところが、発達障害の方は、そもそも、「腕」があるという感覚がわからない。「何それ?そんなことを思うお前がおかしい」と妻に言ってしまう。自分の腕がないということを本人が、わからない。腕がなくても、特に困った事が、なかったのです。もちろん、困った経験を持つ方もいます。その方達は、理不尽に叱られたり、誤解されてきた要因が、障害かもしれないと、気づき、支援を求めたり、定型との違いを知ろうとします。それが、歩み寄りになり、関係の修復につながるでしょう。この歩み寄りは、もちろん、定型からも必要です。こんな、回りくどい説明で良かったでしょうか。
パンダさんの奥様が「罪悪感」を持たれたというのは、自分が定型と同じではないということを、パンダさんに申し訳なく思ったという意味でしょうか。

SORAさん

ありがとうございました。
私はパートナーやほかのアスペの方のことを知れば知るほど、定型の社会で生きるって大変なことだなと感じるようになります。実際、彼女にもこれまで何度も「どうしてパンダがじぶんの言うことを分かってくれないのか」と言われました。もちろん「お互い様」な訳ですが、難しいです。

> パンダさんの奥様が「罪悪感」を持たれたというのは、自分が定型と同じではないということを、パンダさんに申し訳なく思ったという意味でしょうか。

特に子供に対してが大きかったと思いますが、定型アスペのずれが、定型にも大きな苦しみを生むことを知って、「自分のせいだ」と思ったようです。私は彼女が選んでアスペになったのではないし、それは私が選んで定型になったのではないのと同じで、「お互い様」のことだから、と何度も言いました。でも彼女は「違う親だったら子供もこんな風に苦しまなかった」と言って、納得しません。

私に言えることは「でも〇〇さんと僕の間にしかこの子は生まれなかったんだから」ということくらいで、そのことで彼女の気持ちが安らぐこともありませんでした。

ようやく最近になって、なんかの拍子に「本当にお互い様だね」と彼女が言うことが増えてきたように感じて、ちょっとほっとする部分があります。

パンダさん
私には難しいですが、興味深いです。
理解したいので、質問させてください。
対等感とは、字義通り、優劣・上下の差がない感じ、で合っていますでしょうか。
それとも、違う意味合いが、ありますか。
お答えいただけましたら、幸いです。

コルテオさん

>対等感とは、字義通り、優劣・上下の差がない感じ、で合っていますでしょうか。

 はい。そうだと思います。
 ちょっとややこしい話になっていると思いますので,
 もうすこしうまく整理できないかなと思いますが……
 私もだんだん考えていきます。

パンダさん
ご回答いただきまして、ありがとうございます。
すみませんが、もう少し、質問させてください。
「私」は、「私たち」と異なる「あなた」に、共感できないから、上下の差を感じる…で合っていますか?
相手によって、接し方が変わる背景には、もしかして、この感覚があるのでしょうか?
私は、周りの人たちの言動を、理解したいです。
的外れなことを言っていたら、お教えください。

コルテオさん

>「私」は、「私たち」と異なる「あなた」に、共感できないから、上下の差を感じる…で合っていますか?

 えっと,コルテオさんのご質問の意味を私がうまく理解できているかどうかあやしいですし,どういうふうにすれば比較的お互いの理解がかみ合いやすいか,手探りでのお答えになりますので,またわかりにくいところは御遠慮なくおっしゃってください。言い方をいろいろ工夫してみたいと思います。

 「あなた」に共感できないから,というより,その前の段階として「あなたとは一緒だね」という,「私たち」の間での共感が成り立ちやすいかどうか,がひとつのポイントかなと思います。「私たち」という感覚が成り立ちにくければ,「私」は常に孤立したひとになりますから,たとえば「定型のあなたたち」に対してはいつも「一人対多数」という関係になってしまいますよね。

 ですから,そうなると,単純に「多数派対少数派」というパターンの一番厳しい形(つまり「多数派対一人」)になってしまって,そこには力関係の「上下の差」が生まれやすくなると思うんです。(一人だけ異質だと,その人が迫害されたりいじめられたりしやすい)

 そしてその時,多数派(ここでは定型)は「あの人(ここではアスぺの方)は常識が無い。おかしいやつだ」という理解で一致しやすくなっていて,実はその方(ここではアスぺの方)の感じ方や振る舞い方は,その方の感覚ではとても自然だし,常識的なものなのに,そのことを認められなくなってしまっていると思うんです。そして孤立した状態に置かれたその方は,「やっぱり自分はおかしいのか」と思わざるをえない状態に追い込まれやすくなる。どちらの側から見ても,「対等」な関係はむつかしい状態が生まれるように思います。

 ところが(たぶんトマトさんがそのことを重視されているような気がしますが),もしアスぺの方が「私たちはこうで,これが私たちにとって自然だし,普通のことなんだ」と思えるような状況が生まれたり,定型の側が「こいつは変な奴だ,困った奴だ」としか理解できなかったのが,「ああ,自分とは違う別の普通を共有している人たちもあるんだ」と感じられるようになると,ちょっと状況が変わってくると思うんです。

 その時は「多数派対多数派」まではいかないかもしれませんが,少なくとも「多数派対何人もそういう人がいる少数派」といった感じくらいまではなって,「多数派対一人」という極端な状況ではなくなりますから,露骨な「上下関係」から抜け出す可能性が大きくなるように思います。

 えっと,もしかするとここも分かりにくいかもしれないと思ったので,蛇足になるかもしれませんが,ちょっと付け加えると,こういう言い方をしているのは,「多数派対少数派」とか「多数派対一人」という関係は,「多数派は少数派に対して支配力を持つことが多い」という理解を前提にしています。いわゆる「力関係」みたいな話です。

 ということで,「「私」は、「私たち」と異なる「あなた」に、共感できないから」というよりも,「私」は「私たち」という共感的な関係を作りにくいから,「あなたたち」という多数派に対してたったひとりで向き合うことになってしまい,上下関係が生まれやすい,というような理解があります。

> 相手によって、接し方が変わる背景には、もしかして、この感覚があるのでしょうか?

 ここは少し理解がすれ違っている「可能性」も感じますが(そうでないかもしれません),とりあえずこのことについてはお答えを控えておいて,まずは上のご質問についてやりとりができればと思います。そこである程度共通理解ができるようになれば,また次に進むという形ではいかがでしょうか。
 

パンダさん
お返事をくださり、ありがとうございます。
質問の文章が、曖昧で、ごめんなさい。
私は、「私たち」を多数派、「あなた」を少数派の意味で、使いました。

その、「異質な人は迫害されやすい」の、理由が知りたかったのです。
パンダさんのお話で、共感は関係していないと、知ることができました。
私は、「力関係」というものを、理解していないかもしれません。
きっと、「暗黙の前提」なのだろうと、思います。

もう少し、自分で、考えてみます。
パンダさんには、ご負担をお掛けし、申し訳ありません。
いつも、丁寧なご説明に、感謝しています。

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