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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年6月16日 (月)

「職場」&「家庭」とアスぺ定型問題

 今朝,先に仕事に出るパートナーが,私がパソコンを見ている傍らに来て立ちました。視線はなんとなく猫の方を見ています。しばらくそうやってじっとしているので,いつもとはちょっと違うその感じからいって何か話したいことがあるのかなと思い,聞いてみようかと考えました。

 これまでならたぶんそのまま「なにかあったの?」などと聞いたと思いますが,今日はなんとなく彼女の気持ちのままに任せた方がいいような気がして,あえて何も聞かず,ただ,猫の方を見ている彼女の顔を見ていました。

 しばらくして,彼女はかすかな笑顔で「のびてるね」と言いました。私はちょっとわからなくて「え?なに?」と聞き返しました。「猫がのびてるね」ともう一度彼女は言いました(そう聞こえました)。視線の先では猫が実際でれっとのびていました。そして「ああ,そうだね」と私は答えました。

 そのまま彼女は仕事に出かけました。私は「なにかあったの?」など,こちらから話しかけなくてよかったと思いました。

 話題は変わりますが,トマトさんがアスぺと思われる方との仕事の上でのサポート的なかかわりについて紹介してくださいました。仕事の場(ということはつまり,この定型優位の世の中で生きていくうえで避けて通れない場)で,トマトさんがどんな問題にどれほど真剣に向き合ってこられているのかが,ほんとうによくわかる気がしました。「すごい」という言葉は,ちょっと軽くて使えない感じがしています。

 トマトさんが日々直面されている状況を私なりに勝手に想像しながら,定型アスぺの問題というのは,やっぱりそれをどういう場で,どういう状況で,どういう文脈で考えるかによって,ほんとにいろんな姿で現れるんだなと実感しました。定型とアスぺの方の間をなんとか橋渡ししたいという同じ気持ちや目標でも,それをどういう場で実現しようとするのかによって,いったい何を具体的な目標とし,何に気を使い,何を考えて,何をしなければならないのかが,ほんとに多様なんだと思えました。

 同じく「職場で生きる」,ということを考えた場合でも,個人で職人的な仕事をする場と,ほかの人たちとの協力関係の中で仕事をしなければならない場とでは,そこで要求されることがかなり違ってきます。トマトさんが紹介してくださった方の場合は,基本的には職人芸になるのでしょう。そしてその職人芸の仕事をする分には,たぶんそんなに大きな問題は起こらないし,ご自分の才能をかなり生かすことができるのだと思います。

 ただその方は単に決められた仕事だけをやればいいのではなくて,仕事の内容を顧客との間で調整するという「協力関係のなかでの仕事」もする必要がある。そしてそこで定型アスぺの問題が強烈に出てきてしまうのですね。そこにトマトさんの橋渡しがものすごく大きな意味を持ってくるのだと思います。

 その時,ほとんどの職場は基本的には定型優位で,定型に便利なように作られているわけですし,そこでの暗黙の定型的な約束事から外れる人に対しては,からかいのような軽いものから排除のような厳しいものまで,いろんな制裁が加えられるようになっています。良し悪しの問題はさておき,そういう現実が簡単に変化するようなものでないことは明らかでしょう。

 なぜなら,「多数派」である定型は,そういう暗黙の定型的な約束事によって職場を維持していて,それによって仕事をしていて,それによって生活を成り立たせています。それを安易に崩すことは,つまり自分自身の生活を崩すことにもなりかねません。だからそういう暗黙の約束事をゆるがすような事態に対しては,ものすごく敏感に,それを排除しようと動くのは,ある意味で避けがたいことだからです。

 そういう状況の中で,アスぺの方たちは通常は,わけのわからない定型の約束事に従って生きざるを得ない状態に置かれています。定型の側から見れば,自分たちの暗黙の約束事はそれを守りさえすれば日々の仕事や生活はある程度うまくいくのですから,それを「破壊」するような振る舞いについては当然のように「悪」だと感じられ,激しく感情を揺さぶられるわけで,とてもではないけれど,「アスぺの方たちの(定型とはかなり違った)暗黙の常識」を理解しようというような方向には進めない。

 そしてそういう定型の感じ方は,決して単に個人の思い込みではない「正しい感じ方なのだ」ということは,同じ「暗黙の約束事」を共有している周りの定型の人たちから支持されますから,その意味でもなかなか揺らぐものではありません。

 そんな凝り固まった状態の中で単にアスぺの方を「定型のやり方」に従わせる,というスタンスではなく,アスぺの方の生き方を大事にしながら定型との関係を調整する必要に迫られたとすれば,間に立つ人がほんとに折り合いのつかない二つの「約束事」の間で引き裂かれるような状態になったとしても無理はありません。しかも二つの意味で引き裂かれてしまいそうになるのですから。ひとつは定型的に作られた職場の約束事と,アスぺの方が持つその方にとって自然な約束事との間で。もうひとつは自分自身が持つ定型的な感覚と,アスぺの方の感覚の間で。

 トマトさんの直面されている状況を,そんなふうに理解してみると,私にはこれまでトマトさんが繰り返し強調されてきたことの意味や,そこでの苦労,なすべき努力の内容が,「ああ,なるほど!」という感じでよりわかってくる感じがあります。そしてそこでどれほど大事なことが模索され続けているのか,ということも。

 そう考えてくると,今度は「家庭」という場で定型アスぺの問題を考えることについて,「職場」でそれを考えることとの間の共通点と違いがもう少しよく見えてくる感じがあります。

 職場では基本的に定型優位であることが動かないので,定型の側はそのことを前提にしてアスぺの方と接することになります。自分自身の持つ定型的な「暗黙の約束事」に確信が持てないような事態が起これば,周囲の定型の人に「これって常識だよね」と確認をとればそれで自分がゆらいでしまうようなことはかなり防げます。

 他方で家庭の場合は定型が「多数派」という立場にたよれなくなってしまう可能性が大きくなります。定型が男性の場合は,それでもまだ「男性優位」が残っている世の中ですから,その立場を利用して自分の論理で家庭でも押し通せるかもしれません。でも定型が女性の場合はそういう形で自分を「守る」ことも困難になる可能性が高いと思えるのです。

 二つのなかなか折り合わない「約束事」がぶつかり合ったとき,その「解決」の仕方は基本的にはそんなに数があるわけではないでしょう。ひとつは関係を断ち切ることで,「問題発生の前にもどる」形で対処することです。ふたつめは相手を自分に従わせるか,自分が相手に従うか,どちらか一方の「約束事」を優先させることでぶつかりあいを避けることです。そしてみっつめはお互いの「約束事」をなんとか調整する道を探し,そこにもうひとつ「バージョンアップ」した「約束事」を一緒に作り上げていくことです。

 離婚とか職場からのその人の排除,あるいは離職いう選択肢は一番目の解決の仕方になります。それがなんらかの理由でできなかったり,したくないという場合には二番目か三番目を選ぶしかありません。なんらかの理由で定型が圧倒的に優位だという現実を動かしようもない状況では,二番目をベースに,そこで生まれてしまう問題をいろいろな工夫でできる限り緩和する,という工夫が現実的なのでしょう。職場はそうなる可能性が大きいと思います。

 それに対して家庭という場は,三番目の可能性もより生まれやすい場と言えないでしょうか。なぜならその場に限れば「定型優位」という関係が崩れる可能性が大きくなるからです。むしろ上に書いたように,女性の場合などは特に「定型不利」という逆転も起こりやすいかもしれません。


 定型アスぺの問題は,そんなふうに「職場」という状況で考える場合と,「家庭」という場で考える場合など,その置かれた状況によって,違う意味を持ってくるかもしれません。だとすれば,それぞれの状況にあった対処の仕方を模索していくことが大事になりそうです。

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コメント

トマトです。

パンダさんの過分な褒め言葉に恐縮ですが・・・
努力と感情のベクトルが、ASと定型とでは違っている、ということを、アニメーターの彼の様子と、かずきさんのコメントで新たに感じました。

定型の多くは・・相手のASの人にうまく合わせられたり、理解が深まったりという、コミュニケーションの手応えに、喜びを見いだすわけですが、果たしてASの人の多くにはその事が喜びや励みになるのかなぁ?
もちろん「このやり方で良いんだ」という自己肯定感にも「この人は嫌ではない」という判断にもなるんでしょうが。

定型に合わそうとする努力が 本来の自分を全く出さない くらいの域になると、それは水の中で息を止めているような状態で、嬉しいなんて味わう余裕があるのかなぁと、
自分がAS(であろう相手)に言動調整してみた経験から、ふと思ったのでした。

AS(であろう)男性アニメーターさんと一緒に作品を作り上げた私の満足感や到達感の「一緒に」は、相手のアニメーターさんとは共有の無い「一緒」です。
彼は「トマトさんと一緒に完成させた」とは微塵も思っていません。

確かに彼が映像を作ったのですから「自分が作った」で良いのですが、全体から見ると、スポンサー企業に彼の作品力の話しを持ちかけた第三者が居て、彼の作品に命を吹き込むミュージシャンやナレーターさんや声優さんが居て、いろんな人の能力や努力が総合されてひとつの商業作品になったわけですから「自分も頑張ったが、ほかの人もよくやってくれた」という視野の広さも、社会感覚としては必要というか当然なわけです。

しかし彼は、自分が苦しかった事と自分の開放感や達成感しか感じられない。

それほどまでに自分以外の人のイメージや思惑に合わせる作業も、人と会って会話するということ自体にも「自分の自然体を放棄する」レベルの行為をしているのなら、
「素地が出せるゾーン(相手)」と「完全演技のゾーン(相手)」を完全に隔離判別してしまうのも無理は無いと思いました。

パンダさんの奥様も、パンダさんの前では本当にリラックスして、思う存分無表情やそっけない言動がとれるのでしょうね。

今思うと、アニメーターの彼は、スポンサーさんの前では「こんな場面で何をニヤついているのか」と思うほど、不自然ににこやかな表情でしたし、指示の全てに「ハイワカリマシタ」と答えていました。
それは、彼が精一杯かぶった(定型モードの)仮面だったのでしょう。
苦しかったでしょう。
ほどほどに自己主張するとか、少しは自分の意見を提示してみるとかの塩梅を持たないから、極端に完全迎合の演技をしていたわけですから。
演技することで精一杯で、相手の言うことの理解が飛んだ時間も多かったでしょう。

だから、私には存分に仏頂面でそっけなく、感情をぶつけてみたり、ひとつの疑問を繰り返し繰り返し繰り返し質問したり・・・そういうバランスをとりながら、作品をつくっていったのだと今さら納得します。
言った、言わないと、記憶違いが多かったのも納得できます。

ASと定型。
仕事という社会的要素のあることの共有と、日々の日常を共有することとは、勢いや関わり方が違います。
プライベートでは、お互いの素地を許容し「気にならなくなる」という慣れの問題と、永遠の片思いを楽しむ方法を自分なりに見いだすという感覚も必要だと感じます。
そして、定型はやはり、ブログでも日常会話でもとにかく、不安や疑問は誰かと共有、共感していないと・・精神のバランスはとれないと痛感します。


トマトさんのコメントで,またいくつかの謎が私にも(定型的に?)解けてきたような気がします。ちょっとあとで記事の方で考えてみます。

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