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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年6月10日 (火)

郷に入れば郷に従える?

 ひとさんが「「身内VS他人」のズレ」にこんなコメントを下さっています。

私も長いこと生きているので、定型発達者が望むような態度を取ることはある程度はできるのですが、それをやる時に「罪悪感」のようなものを感じてしまいます。「そんなふうに感じなくていいんだよ」って言ってくれる人がいますけど、やっぱり自分の気持ちに嘘をついているというか、正直でないというか、相手に悪いような気がするんですよね。自分にとって大切だと思う相手であればあるほど、正直な気持ちで接したい。でも、それは相手を無駄に傷つけてしまったり、ギクシャクした関係になってしまったりすることにつながる。私は未だに「自分にとっても相手にとってもベストな対応の仕方」といった正解が見いだせずにいます。」

 変な感想かもしれないけど,これを読んでなんか嬉しく感じたんですね。なんでかというと,パートナーの感覚ってやっぱり「アスぺの方にはかなり共通するらしい」ということが感じられたからです。これも変な言い方かもしれないけど,「それって(アスぺの方にとっては)当たり前のことなんだ」ということが分かってちょっとよかったと感じるというか。なんか,少し安定して考える足場が与えられたように思うからかもしれません。

 もうひとつ嬉しかった理由は,ひとさんが「私は未だ『自分にとっても相手にとってもベストな対応の仕方」といった正解が見いだせずにいます」と書いていらっしゃることについて,私は正反対の立場にいるわけですが,でも同じ状況にいて,同じことに悩まれていることが分かったからでしょう。「ああ,立場は違うけど,同じ問題をアスぺの方と共有できているんだ」と感じられることの嬉しさかもしれません。(こういう感じ方自体が定型的かもしれませんが)

 「自分にとってはこれが正しい」と感じるやり方が,他の人に共有されるとは限りません。時代や文化が違うと,そこは随分変化しますし,人によっても様々です。そして定型アスぺ間でもそこが大きくずれる場合がある。この「身内VS他人」のずれの問題もまたそういう問題の一つでしょう。そんなふうに自分の感覚とは違う「正しいやりかた」を持った人と共に生きようとするとき,果たしてどうしたらいいのか。

 ことわざには「郷に入れば郷に従え」というのがありますよね。地方によってやり方は異なるんだから,そこに合わせなければ,というような意味でしょう。でもそうはいっても,「礼儀作法」のような,「型を学べばよい」タイプのことならまだなんとかなるとして,ひとさんが言われるように「罪悪感」に関わるような違いの場合は,「郷に入れば郷に従う」ことはそうそう簡単なことではなくなります。

 ちょっと極端な例をあげれば,私は昔,インカ帝国の話としてだったと思うのですが,「太陽に捧げるためにいけにえの人の心臓を捧げ続ける」という話を聞いて,すごいショックだったことがありました。その時代のその人たちにとってはたぶん神聖な行為ということで,もしかすれば犠牲になる人も「誇り」を持っていたかもしれないですが,もし私がその時代のその場所にワープして行ったとしたら,とても耐えられないだろうとか,そんなことを思ったんですね。もう生理的に受け付けない感覚がありました。

 その後異文化の人たちとの接触の機会もそれなりにあって,そういう「文化差」については昔ほどはナイーブな拒否感はなくなってきてはいますが,でもたとえば自分がそういう人たちの一員になって誰かを犠牲にしたり,自分が犠牲になったり,さらには家族を犠牲にささげたりすることができるか,と言われれば,やっぱり到底耐えられないだろうと思います。他人が犠牲になるときでも,その場に居合わせられるかといえば,やっぱり無理でしょうね。

 まあ,それに比べれば定型アスぺ間の「身内VS他人」のずれはまだ穏やかと言えるのかもしれませんが,でもやっぱり「郷に入れば郷に従え」と簡単にはいかないでしょう。

 かふぇおれさん自分と違う人に対する許容範囲を広げることが、「受容」だ」と書かれていますが,そういう意味で言うと,どうやってどこまでその許容範囲を広げられるのか,という問題になるのかもしれません。

 そのむつかしさは,相手のやり方に合わせることが,自分の生き方の足場を崩すような可能性を持つときに深刻になるんでしょうね。そうならないで「受容」できる方法を見つけることが必要なのかもしれません。

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コメント

私も今の考えに至るには少々時間がかかりました。
発達障害の診断を受けた直後は、自分を非難ばかりしてきた人たちを本気で殺してやりたいぐらいに思っていましたし、今でも怒りはおさまってはいないんですけどね。

今まで無理やりに「自分は他の人と同じはず」っていう前提でやってきたんですけど、自分が発達障害者だっていうことがわかって「自分は他人(定型発達者)とは異なる」っていうことが判明しました。
定型発達者に理解とか配慮をしてもらえればうれしいですけど、それだけじゃなく、お互いに共存していくには、発達障害者の側も「定型発達者はどうして欲しいんだろう?」「どうやれば喜ぶんだろう?」「どういうことがイヤだと思うんだろう?」みたいな理解も必要だと思うのです。
「自分は他の人と違う」っていうことを早く知っていれば、そういう前提で世界を見ることができたんでしょうけど最近までわからなかったので、とても苦労しています。
自分も無理は最小限に、そして相手(定型発達者)にも極力無理はさせないっていうような状況を目指せればと思います。

ぱんださん、みなさん

こんにちは。最近ページの更新があまりないので、少し寂しく思う一方、ぱんださん家では穏やかな日々が続いていらっしゃるのかなと想像して和やかな気持ちにもなっています。今日はただ、最近読んだ本の中に、面白い記述があったのでこちらでシェアさせていただきたく投稿しています。

「到来する共同体」の著者ジョルジョ・アガンベンによると一般的に「悪の根源」とみなされてしまうものは、実際のところただ「無存在であること」であり、「なにもしない」「無力」なものであり、そこに本質的な悪の意味合いはない。むしろこうある状態によってそれは最も救済や祈りを必要としている弱い存在である。
その「無存在さ」や「無力さ」「なにもしない」状態に対し、どうにかして自己の存在価値や意義を見出そうと必死に誤った抵抗をし、そこから暴力や権力、服従などを持ち出すこと、その状態こそが悪魔的なものだ、と説明されています。

私はこれを読んで、ハッとしました。
アスペ定型間の軸で掘り出してみたとき、この「存在」(あるいは働きかけとも言えるでしょう)vs「不存在」(何もしないこと)こそが、ぱんださんがこの記事でおっしゃっている大きな「文化の差」となっていると感じるからです。アスペ側としては、関係性において相手が目の前に存在していようが、いなかろうが、自己の中で存在しているなら存在しているし、忘却あるいは不在の状態であれば不在であるわけで、相手に存在性や意義を求める必要はない。けれど定型からすれば、相手に存在していて欲しい、存在する相手と何らかのやり取りをし、自己を見出したい、相手を見出したい、だから不在は虚とうつりやすいわけですよね。でも、それは自分の虚であり関係性の虚とは言い切れない。

アガンベンは次のように続けます。
創造性、あるいは実質存在とは、不在であることと存在することが闘い、その結果存在することが勝利することではない。むしろ、それはただ不在であること、あるいはそのままのかたちでそれが無為であることを認め、許し、放っておけること、そしてそこから諸処のできごとが生起することをゆるすことで、それは神的なものの愛だ、と。

難しい文章でしたが、不在も含め、それでもただ「なにもしない無力なもの」を許し、あるいは存在したいと主張するなら、存在する姿そのままとして相手を受け入れることこそが、神なるものの愛の行為だと言っているのだと私は理解しました。

ただただ、そのままのかたちでの相手をゆるす、受け入れる。その表現、その無表現、その働きかけ、あるいは何もしないこと、目に見えるもの、見えないもの、聞こえるもの、聞こえないもの、表象となりえない、でもなんだかそこにあると・・・人間として感じるもの。そんなものをこの関係から学んでいるのかなと思います。

一方でコンセプトや、哲学理解だけでは追いつかない、自分の感情の速さともじっくり向き合い、そんな自分も許し、認めること。相手は私が感情の水に溺れている間も、手も言葉も差し出さずにただじっと隣に座り待っています。待つのが上手だな〜といつも感心してしまいます。私もそんなふうに相手の不在を待ってみたいです。私が相手のようにできたらいいのにな、と思うように、相手も私のようにできたらいいのにな、とどこかで思ってくれていたら・・・いいなぁ。

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