2021年4月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 「自然」な感覚へのこだわりの強さ | トップページ | 「定型モード」を使えるということ »

2014年6月14日 (土)

「できない」のか「違う」のか

 

にゃんこさんがコメントで,このブログで感じられたことのひとつとして「アスペと定型では根本的な価値観や考え方が全く違うんだ」ということを書かれています。これは私にはうれしい感想でした。その意味はこんなことです。

 定型とアスぺのコミュニケーションがしばしばとてもきびしいものになることについて,アスペルガー関係の解説の本など,よく見られる説明は「アスぺの方は定型のような気づかいが<できない>からだ」というもののように感じます。なぜ<できないか>の理由としては遺伝的なものとか,脳の違いとか,いくつかの説明がついたりしますけれど,なんにしても「すべきことができない」から定型を傷つけるんだ,という視点からの説明になっていることは変わりないでしょう。

 それは定型の「常識」からすると,そういうことになるんでしょうね。定型がそういう「常識」をもつこと自体がいいとか悪いとか,そういう問題はちょっと置いておきたいのですが,ただ,現実問題として,そういう「常識」だけから定型アスぺの問題を考えると,どうしても見えてこないことがあるように思えるのです。

 一番わかりすいかなと思える例は,アスぺの方が定型を傷つけると(定型には)感じられる場合でも,実はアスぺの方はある種の誠実さで対処されているのにそうなることもあるし,逆に定型の側が善意でアスぺの方に接しているつもりのことが,アスぺの方にとってはとても自分を傷つけることになってしまう,という悲しい「すれ違い」の例です。そういうすれ違いの実態については「常識」だけでは理解できなくなってしまうと思います。

 どうしてそうなるかといえば,自分の定型的な常識だけで,相手の人の行動が「善意」に基づくとか「悪意」に基づくとか判断してしまえば,アスぺの方の行動がその定型基準から外れることは,定型的に見ればあきらかだったりします。そうすると,理解の仕方としてはたぶん二通りしかなくなってしまいます。

 ひとつは相手の人が「悪意」を持ってそうしているのだろうと考えることです。もしそう判断されれば,相手の人への激しい憎悪が生まれるでしょう。

 けれどもどうも相手の人がそんなに露骨な悪意をもってはいないようだと感じられた場合には,「じゃあ,この人は自分の言っていることが相手を傷つけることを理解<できない>から,こんなふうにしてしまうんだろう」という理解になります。そう考えると,相手の人を「悪人」として考える必要は減りますから,ただ「理解する能力がないひと」として,「寛大に対処する」形になりそうです。

 それはそれでもちろん定型の側からのひとつの「善意」の努力で,否定されることではないのだと思うのですが,でもやはり限界を感じてしまいます。何かというと,その見方ではアスぺの方がアスぺの方なりに問題を解決しようと努力され続けてきているのに,その努力がまったく報われない状態におかれてしまっている,ということがみえにくくなってしまうように思えるのです。

 
 けれどもそこでちょっと引いて考えて,「この人は私とは違う<善意>や<悪意>の基準,価値観で生きているんじゃないだろうか」と考えてみると,そこから違う可能性が見え始めます。定型が自分の特徴を前提にして,どうやって人との関係をこなしていくかについてみんないろんな工夫や努力を積み重ね,「定型的な常識」を身に着けていっているように,アスぺの方もまた定型とは異なる特徴を前提にして,その方に理解しやすい形で価値観を作り上げ,それにもとづいて人との関係を調整しようと努力されている,という見方ができ始めるからです。

 そうすると,問題は「できるかできないか」の話とはちょっとちがって,それぞれのひとが自分の特徴や置かれた環境に応じてそれぞれの努力をしているのだけれど,その出発点や環境が違うから,お互いの努力がすれ違しまって,不幸な対立が生み出されていくんだ,という話になっていきます。

 もし対立の原因がそういう形で理解されるだとすれば,それぞれの立場の人の感覚を頭から否定する必要がなくなります。もちろん「こういう考え方や感じ方の人とは私はつきあえない」という形である種の「見切り」を付けることはありうるでしょうけれど,「この人はおかしな人で許しがたい」という一方的な「切り捨て」の感じにはならなくなります。

 また,お互いの対立を調整するときも,「正しい方に一方的に従わせる」という形ではなくて,自分の感覚も相手の感覚も,自分や相手がおかれた状況や性格からすれば「自然なこと」と考え,頭から否定はせず,そういう違いを抱えたもの同士が「お互いに」どう折り合いをつけて,一緒に少しでもよく生きていくか,ということが問題になってくるだろうと思います。

 もちろん自分にとって「自然」で「当たり前」のことの他に,相手にとって「自然」で「当たり前」のことを本当に認め合うというのはそうそう簡単なことではない,ということはここでもくりかえし考えてきました。それだけ自分にとって「自然」で「当たり前」のことは「相手にとっても当然そうだ」という感覚が体に深くしみついていて,柔軟に考えることがほんとにむつかしいからです。

 というか,「ひとはひと,わたしはわたし」と「口で言う」のは簡単なのですが,いざ実生活の中で違う感覚を持った人同士が共に生きていこうとすると,相手のやり方を認めることは自分のやり方が否定されることになり,その逆もまたそうなったりするので,そうそうあっさり認めるわけにはいかない,という状況にわりに簡単においこまれてしまいます。

 つまり,「相手の違う感覚をお互いに認め合う」ということが,「自分の感覚を否定する」という形にならないような道を見出さなければ,この問題は解決が着かないのではないかと思えるのですね。そしてアスぺの方を「できない」という視点からだけ理解しやすい定型的なやりかたは,少なくともそれだけではこの大きな問題の解決の方向にはつながりにくいのではないかと感じるのです。


 にゃんこさんがこのブログを通して,そういう「価値観の違い」ということに目を向けて下さったことは,ですから,私としてはこのブログでみなさんと一緒に考えてみたかったことそのものだし,にゃんこさんがこれまで読まれたアスペルガー関係の本ではそういう見方が得られなかったということだとすれば,それもまたこの場でみなさんとやりとりを続けさせていただいてきたことの意味を改めて感じます。

 ま,手を変え品を変えて同じことを言い続けているような気もしますが,でもここでのやり取りの中で改めてそうすることにも意味がありそうと感じたということで,ちょっと手前味噌の自己満足記事でした ('◇')

« 「自然」な感覚へのこだわりの強さ | トップページ | 「定型モード」を使えるということ »

コメント

パンダさん!
私が彼と今話してみたいと思う事をそのまま代弁してくれたようなこの記事!!!


嬉しくてたまりません(T_T)


でも今私と彼は、連絡を取り合う事も会う事もやめてしまったんです…


2人で会っても何も変わらない状況に耐えられなくなった私がきつい事を言ってしまい(>_<)

売り言葉に買い言葉のような言い争いをして…


でも、できる事なら彼に『あなたがずっと言いたかったのはこういう事だったの?』と今一度聞いてみたいと思ってます…(;_;)

パンダさま、トマトさま

いるかです。

知り合いの男性オーナーのお店に彼を連れて行った時のことです。
(オーナーさんは、わたしの親友の旦那さんが働いているレストランのオーナー)

オーナーに「彼氏?」と聞かれたので、「ハイ」と彼の目の前で挨拶をすると、
彼は不機嫌になり、オーナーさんに挨拶もせず、「早く帰るよ!!」と怒り、
そそくさとその場を退散することになりました。。。

後ほど、「僕の前で男性と話すのはやめて欲しい。色々と妄想して苦しくなるから」
と言われました。

いつものわたしであれば、「そうね。あなたの言うとおりにするね。ごめんね。」
と言ってさらっと流すのですが、この時ばかりはオーナーさんの前で怒られてしまったこともあり、
「世の中には男性と女性しかいないので、あなたの前で男性と今後話すこともあると思います。絶対に男性と話さないと言うと、あなたに対して嘘をつくことになります。
なので、話さない努力はするので、どうか理解してください。」
と言ってしまいました。。(汗

彼は、「僕は、知り合いの女性が働いているようなお店にあなたを連れては行かないし、あなたの前で知り合いの女性に遭遇しても、その女性を無視するよ。あなたの前では女性とは話さない!だからあなたも男性とは話さないで!!」
と言われ、理解し合うことが出来ませんでした。。

わたしは、彼がわたしの前で女性と話していても、あまり気になりませんし、
一緒に話します。。。

そして、
価値観が違うと彼には言われました。

彼に、「あなたと結婚して、おじいちゃんとおばあちゃんになって、
オイ!どこの爺さんと話しているんだ!!とはならないと思う。。でも、もしかすると、怒ってしまうかも知れないから、こんな僕と一緒にいても、あなたが苦しむと思う」
と言われました。。。
(ヤキモチや、嫉妬というよりも、わたしが誰かと彼の前で話すことで、
見捨てられ感や、不安感を強く感じるのだと最近は理解できましたが。。。)

この価値観の違いを同じにするには、
「ごめん。ごめん。あなたの前では絶対に男性とは話さないから安心してね☆」
と彼に言うことが正解だったのでしょうか??

いるかさんへ  トマトです。

【この価値観の違いを同じにするには、
「ごめん。ごめん。あなたの前では絶対に男性とは話さないから安心してね☆」
と彼に言うことが正解だったのでしょうか??】

彼に価値観をそろえる・・という意味では、この答えが正解だと思います。

ASの人の苦手や嫌悪は、話し合ってどうにかなるものではないと思うのです。
人間関係において・・社会生活において・・
「そうか。なるほどそれは克服しなければな」と納得できて解決すれば、定型とASの関係はさほど難しくはないと思います。

ASの人の方向から見ても、まったく同じことが言えるでしょう。

根本的にASの人は「変化」を嫌うそうです。
もしかしたら、今の関係が「結婚」という新しい関係性に変化することを不安がったり嫌がっているのかもしれないし
同様ににASの人は「こだわり」への変化が難しいと思います。
いるかさんが他の男性と会話するのが許せないという「こだわり」は簡単には変わらないと思います。

そんな・・・世間では通用しない類のこだわりに、どう合わせるか否か。

彼の選択もまた、いるかさんを思いやり、ご自分の苦痛の限界を訴えておられて、切ないですね。

にゃんこさん

 いろいろ激しく揺れる状況の中で,
 感じていること,考えていることがにゃんこさんとも重なっているのですね。

 実際にこういう考え方が,アスぺの方にとっても納得のいくものであるかどうかは
 ほんとによくわかりません。
 アスぺの方から頂くコメントにも,随分考えるポイントが重なる場合もありますし,
 なかなか共有がむつかしく感じることもありますし,もちろん人にもよるでしょうし。

 パートナーなどは私のブログの記事ややりとりを読んで
 やっぱり私の記事は「くどすぎてわかりにくい」と言います。
 いろんなことを考えながらぐちゃぐちゃ書くからでしょうか。
 もっとすっきりした割り切り方の方が共有されやすいのかもしれません

 トマトさんも「話し合ってどうにかなるものではない」と書かれていますが,
 「ああこれでもう分かり合ったね。ゴールだね」というようなものが
 あるというのではないような気がします。
 「過程」の共有,ということがどういう意味を持つのかでしょうか。

 もちろん定型同士の夫婦でもある意味そうなのでしょうけれど,
 アスぺ定型間のカップルにはやっぱり定型同士とは質の違う
 別の困難さがどうしても伴いますよね。
 昔の人はそのあたり,どうやって対応していたんでしょうか。


いるかさん

 異性と目の前で話すかどうか,という違いを「価値観」と考えれば,
 お互い違う価値観を持っているのですから,
 それを「同じ」にするにはどちらかが自分の価値観を放棄しないと
 どうしようもないのでしょうね。

 もしそうでない可能性があるとすれば,
 そのひとつは一見すると全然正反対に見える価値観の根っこに
 何か共通するもっと大きな価値観をお互いに見出せた時かもしれないと
 そんなことを考えたりもします。
 あるいは「価値観」などという大げさな話ではなくて,
 「一緒に生活する」という具体的なできごとの方を大事にするとか。

 いずれにしても 絶対の「正解」というものがあるのとは違うような気がします。
 ただ,その時,その人が置かれた状況の中で,
 「今の自分にはこれが正解と感じられる」というものが
 得られるかどうか,ということはあるでしょうけれど。

 …という「あいまい」な姿勢が,今のところ私の感じる「正解」なのかもしれません。

かずきです。

つくづく、「ひとはひと、わたしはわたし」という感覚が
定型の方とはひどく温度差があるのだなー、と感じます。

自分と違った事がある時、「あ、この人はそうなんだ。じゃぁどうしようか」と受け止める事と
「違うなんておかしい」と受け止める事と、
その位の温度差を感じます。
そういう人に限って「人それぞれでいい」とか、「個性を認めよう」とか言っていて
つじつまの合わない言動にげんなりします。

「違っていい」と言える範囲は、その人の振れ幅に限定されていると思うのです。
振れ幅を超えて違いを受け入れられればある程度の問題は解決するような気がしますが
それは定型の方にとって辛い事なのでしょうか。


某マイノリティ応援歌とされている曲の歌詞を読み解いていくと。

No1じゃなくていい、オンリーワンでいい。
それぞれの花を咲かせればいい。

でも、
花を咲かせないと認めてはくれないのでしょう?
そこに「花を咲かせない」という選択肢は認めてくれないのでしょう?

もっと言うと
100歩ゆずって花を咲かせたとしよう
その花が色鮮やかでなくては認めてはくれないのでしょう?
イネ科のような咲き方や
竹のような咲き方は、想定の範囲外なのでしょう?

という、ひねくれた考え方になるわけです。
一生懸命生きて居る事には変わりは無いのですけどね。


>相手のやり方を認めることは自分のやり方が否定されることになり,その逆もまたそうなったりする
のは、そういった自分の振れ幅の外を想定しないから、とも言えるのではないでしょうか。
振れ幅の外の意見を受け取ったとき、その人の真価が問われるような気もします。

そういった想定外な部分を許容する事は定型は得意としそうなのですが
共通点が大事な仲間意識のようなものが邪魔をするのでしょうか。


AS側から考えますと、自分の想定外の振れ幅の外の意見は、
パニックの原因になりかねません。
自分がASであり、考え方がコダワリすぎる傾向がある事を自覚した上で
自分を律しながら「みんなちがってみんないい」を地で行かないと苦労する、と
肝に銘じれば、何とかなりそうな気がしています。
あくまで私の場合、ですが。

答えの見つかりにくい問題ですね。

トマトさま

>根本的にASの人は「変化」を嫌うそうです。
>「こだわり」は簡単には変わらないと思います。

ありがとうございます。
「変化を嫌う」という点につきましては、正しくその通りでして、、、
急な予定変更ではパニックを起こして、泣き出します。

また、
>世間では通用しない類のこだわりに、どう合わせるか否か。
そうなのです。。。わたしからすると、「???」となるようなことは日々あります。
それは人間関係に限定されるワケではなく。。。

例えば、一個が何万円もするようなライターを1年で5回も紛失してしまい、
何度も警察に紛失届を出したものの、見つからず同じものを買いなおしたり。。
お財布を何度も無くしてしまったり。。。

付き合いだした当初は「AS」という「スペクトラム」の存在を知りませんでしたので、
「え?また無くしたの???」と普通に言ってしまっておりました。
その度に、彼を傷つけていました。

彼の言い分は、
「どうしても無くしてしまう。あなたはまたどうせ僕は色々無くすと思っているから、
また無くしたの?と言うのでしょう?!僕を馬鹿にしている!!」と言われ、
3日間ほど無視をされたこともありました。。。
(馬鹿にしてはいなかったのですが、彼にはそのように捉えられてしまいました。)

そして、わたしを大切に想えば想うほど、彼が苦しむという、
彼のアンビバレンスは定型では考えられないほどの独特な感情であり、
わたしも切なくなります。。。


パンダさま

>「あいまい」な姿勢が,今のところ私の感じる「正解」なのかもしれません。

ありがとうございます。
「あいまい」でいいんですよね☆

わたしは現時点で、
「進むも地獄、進まぬも地獄(一緒にいようとすることも、別れようとすることも)」というところまで来てしまったような気がしておりました。。。

できれば、この段階まで辿り着く前に、別の道を探したかったのですが、
もしかするとその「別の道」こそが、「曖昧にする」ということだったりするのかも知れないなと思いました。
(分かり難い文面で申し訳ございません。。)

今は、心療内科でお薬を処方してもらいつつ、円形脱毛にもなりましたので、皮膚科に行ったりしておりますが、
多分、わたしは「うつ病」というより、「カサンドラ症候群」なのだと想定されます。

彼には、定型にはない「輝き」がたくさんあります☆

彼と向き合うことは出来ないにしても、
これからの人生のベクトルが彼と同じ方向であればいいなと思います。

パンダさんへ
話しあってどうにかなるものでもない。これは私も何度となく感じてる事です…
でも分かり合いたくて何度も挑戦して疲れきる現実(-o-;)

彼も私も意地っ張りってのも原因の一つではあると思いますがね。(^_^;)
根本的な違いがある事を知った今なら、何かこれまでとは違う結果になるのでは?と少しだけ希望を持ってます。

絶望はしたくない気持ちが私の中に残されているんでしょうね☆

かずきさん

>振れ幅を超えて違いを受け入れられればある程度の問題は解決するような気がしますがそれは定型の方にとって辛い事なのでしょうか。

 これは個人による差と,経験による差がとても大きいと思います。「あの人は器が大きい」とか「小さい」とか,そういう評価の仕方もこのへんに関係がありそうです。違う文化の人とふれあって感じることですが,やはり日本の社会は「みんなが同じ」であることへの圧力がすごく強いと思いますし,日常的に言葉も通じないような異質な文化の人たちと接し,あるいは一緒に生きなけらばならない機会もこれまでは少なかったですから,そういう「わけのわからない人との関係」についての経験が足りず,鍛えられ方が足りないので,どうしても耐性が弱くならざるを得ないと思います。

 アスぺの方は物心ついたころにはもうまわりは「わけのわからない人」だらけ,という環境なのだと思うので,その意味では定型よりも異質なものへの耐性が鍛えられているのかもしれないですよね。

>そういった想定外な部分を許容する事は定型は得意としそうなのですが 共通点が大事な仲間意識のようなものが邪魔をするのでしょうか。

 変な言い方ですが,「想定された想定外」の範囲というのがありそうに思います。
 で,それが個人や社会によって大きかったり小さかったりする。
 定形にとっては「アスぺモード」は「想定された想定外」を超えてしまって
 どう考えていいか大混乱ということのだろうと思うんですね。
 ですから,アスぺの方が想定外に出会ってパニックになるといわれているように,
 定型もアスぺの方に出会ってその「想定外の想定外」にパニックになると思います。

>答えの見つかりにくい問題ですね。

 はい。これだけ多くの方が人生に関わるような難問として
 抱え続けられているのですし,なかなかむつかしいですよね。
 ただ,ここでのみなさんとのやりとりで私は感じるのですが,
 問題を個人とか「定型同士だけ」「アスぺ同士だけ」で抱えるのではなくて,
 お互いの異質な体験や感覚や価値観にふれあい続けることで
 いつかきっと新しいものが生まれてくるだろうと思うんです。
 それがどれほどの時間を必要とするのかはわかりません。
 自分の一生ではとてもたりず,次の世代やその次の世代に
 引き継がれるのかもしれませんけれど,でもきっと何かが生まれる。

 新しいものって,常に「異質なものの出会いの場」で生み出されるんですよね。

いるかさん

>彼と向き合うことは出来ないにしても、これからの人生のベクトルが彼と同じ方向であればいいなと思います。

 そう感じられるようになればきっと幸せですよね。
 
 今日,パートナーを「一緒にケーキでも食べに行こう」と誘ったのですが,
 「最近パンダはケーキが好きだよね」と言われました。
 「いや,そうじゃなくて,ケーキは○○さんがよろこんでくれるように感じて,
 だから一緒に楽しめるものを増やしていきたくて…」
 と言ったのですが,最初あまり乗り気でないように見えたのが,
 それからちょっと積極的になってくれたようなかすかな印象を受けました ('◇')ゞ

 お互いに理解しやすいような身近で小さな努力が意外に大事なのかも,
 という気もしています。


にゃんこさん

 そうですか。やっぱりにゃんこさんもいじっぱりなんですね。
 そういうところ,タイプが似ていると,同じような問題の抱え方になるのかも。

>絶望はしたくない気持ちが私の中に残されているんでしょうね☆

 そうですね。そのへんも私も「こだわり」とか「いじっぱり」が抜けきれません。
 そういうところ,自分は「悟り」の世界にはほど遠いというか … (´▽`)

パンダさんへ
修行・悟り…
私も彼と出会ってから、もともとわがままで我慢のできない私のための修行なのかなと思った事…何度もあります(^_^;)


そして意地っ張りで怒りっぽい自分が、もし悟りの境地にたどり着いたなら、すべてを許す事ができるんだろうなぁ…
な~んて考えた事も。

なんか次元を超えた話しになっちゃいましたねf^_^;

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「できない」のか「違う」のか:

« 「自然」な感覚へのこだわりの強さ | トップページ | 「定型モード」を使えるということ »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ