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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年6月

2014年6月29日 (日)

定型アスぺの不思議な「共感」?

 

かずきさんがコメントで「多分、ASと一緒に居ると、一度定型は壊れると思います。そこから再構築して自分の拠り所としていたものを、前向きに立て直していける人(トマトさんやパンダさんがいい例かと思います)そういった精神力と体力のある人が、一緒に居られる人なんだと思うんです。」と書いてくださって,この「一度定型は壊れると思います」と書かれているところを読んで,なんだかとても救われたような気持ちになりました。

 「壊れる」と言われて救われるというのも変なことかもしれませんが,どういったらいいのか,ひとつにはそのくらい大変なことではある,ということを認めていただけたことで,なんか「ああ,やっぱり自分がいろいろ苦しんだとしても,それは当然なのかな」と思えたことがあるのでしょう。言ってみればカサンドラ状態の逆ですね。

 それから,そうやって「認めて」下さったのが,定型ではなくて,アスぺとしての自覚を持たれているかずきさんであったことがもうひとつ大きいのかなという気がします。今までのところ,私のパートナーからそこまで深刻な言葉は言われたことが無くて,やはり定型の側が感じる大変さは,言葉としては伝わっても,その深刻さは実感しにくいのだろうな,と思っていました。

 でも少なくともかずきさんはさらに深刻な表現で受け止めてくださったと感じたのですね。だから,定型アスぺ間でもお互いに相手の大変さを,そのレベルで受け止めあう「可能性」を感じたのだと思います。

 これも定型的に表現すれば,ものすごい「共感能力」と言いたくなるところです。かずきさんご自身はそれをそういう風には理解されないのかもしれませんが,いずれにせよ,そういう,ある意味で「的を射た」というか,「ツボにはまった」表現がなぜできるようになられたのか,そのことはいい意味で「謎」だと感じています。

 あ,もちろんそれを「ツボにはまった」と感じるのは,定型だからと言っていいのか,あるいは私の個性がかずきさんの個性に不思議とシンクロしたからと言っていいのか,そこはまあ,いろんな可能性があるのでしょうけれど。

 いるかさんもかずきさんの話から大きな気づきが得られたということですし,私もかずきさんの表現から,何か自分の中で落ち着くものが得られた感じがありますし,定型アスぺ間で(?)こういうやりとりが成り立った,ということは,もしかするとなんだかすごいことかもしれないと思います。少なくとも私がこのブログを書きながら,「こんなことができたらいいなあ」と感じていたことのひとつが実現したような気分です。

2014年6月28日 (土)

定型アスぺ問題と第三者

 定型アスぺ問題が深刻になるタイミングにはいろいろなパターンがあると思います。その中でこのブログでのやり取りの中で見えてきたように思えるひとつのパターンは,「第三者がからんだとき」というものでした。

 たとえばカップルが二人でつきあっている間は,多少違和感があったとしてもなんとかやり過ごしていたのが,子どもという「第三者」が生まれての子育てという共同作業が始まって,そこで問題が深刻化してしまう,ということがあります。

 カップルが二人の時はなんとかなっても,そこに共通の知人といった第三者が絡んでくるとうまくいかなくなる,という例もあります。

 夫婦関係に親という「第三者」が絡んでくる場合も,問題が深刻になる場合がある。

 定型アスぺ間の関係は,定型間の関係とはかなり違ったものになりますから,二人の時はお互いに調整してなんとか保てたとしても,もうひとりの定型(場合によってはアスぺの方)がそこに加わると,それまで微妙に保たれてきたバランスが一挙に崩れてしまう可能性が出てくるのでしょう。

 そんなふうに,「第三者」については定型アスぺ間ではマイナスの意味を持ちやすいもの,という面に私はどちらかというと注目してきました。

 けれども,ここにきて「第三者」がまたまったく違った意味を持つ可能性が気になっています。ひとつはたとえば昨日の記事にも書いたように,私とパートナーとの関係では,今「介護する親」という「第三者」をパートナーとの間で共有できることが,お互いの関係を作り直すうえでとても大きな意味を持ってきています。

 もちろん,トマトさんがずっと取り組んでこられたような,定型とアスぺの方の橋渡し的な仕事も,また「第三者(この場合トマトさん)」が重要な意味を持つ例になるでしょう。同じことはいるかさんかずきさんの(ちょっと感動的な)やり取りでも感じられます。トマトさんは定型の立場から,かずきさんはアスぺの立場から,定型アスぺ間に生ずるむつかしい問題で悩んでいる方に対して,橋渡しという第三者の役割をされています。

 第三者がからむということは,私だけでも,相手だけでも,私と相手だけでもない,私も相手もともに「客観的に見る」見方が必要になる場面だと思いますが,そういう場面は状況次第で二人の関係にとって危機にもなるし,逆に新しいものを生み出すきっかけにもなりうるということでしょうか。

 このことにはいろいろややこしいことが絡んできそうですが,ちょっとそういう点も気にしていきたいと思います。

 

2014年6月27日 (金)

二度目の「救い」

 このところの掲示板やコメントでのやりとりを拝見していて,いろいろ考えさせられることがありますが,今はまだうまく言葉になりそうにないので,いずれ言葉が熟しそうになったらまた書いてみたいと思っています。

 ところで,最近パートナーについて,私の感じ方にまたひとつ大きな変化が生じつつあるような気がします。

 彼女に知り合った頃,私はほんとうに彼女に救われる思いでした。これはまったく感覚的なもので,なにがそう感じさせたのかを言葉にすることはできませんでしたが,今思うと,たぶん私が母親との間で苦しんできたことについて,彼女がまったく違う世界を与えてくれたのだと思います。

 私の母親は激しく周囲の人を巻き込むタイプの人で,私は幼児のころから完全に巻き込まれ,今思えば「依存」され続けてきたのですが,子どもの常として親の期待には応えようと頑張り,かなりの程度そうしてきたものの,もともとタイプがまったく違いますから,客観的に見ればそれはとても負担でもあったのですね。そのことに気づくまでに大変時間がかかりましたが。

 巻き込まれた状態の私は長い間それこそが「当たり前」で,それ以外の世界とのギャップについて不適応な感じはずっと持っていましたが,その「当たり前」を疑うことはできなかったわけです。定型が自分の「当たり前」を「定型の当たり前」としてちょっと離れた目で見ることがとてもむつかしいのと,ある意味では一緒でしょう。

 でも,意識はできなくても,母親の「当たり前」に巻き込まれる形で作られた世界には,私はやっぱり辛さを感じながら生きてきたわけですね。だから知らず知らずのうちに,そういう「巻き込み」がまったくない世界を求めていたと,今は思えます。そしてその世界を与えてくれたのが彼女だったということになります。

 アスぺの方も私の母親とはまた違う形で,「結果的に」定型(特に子供とか妻とか,比較して弱い立場と思われる人)を意図することなく「巻き込んで」しまうことはあるのかもしれません。アスぺの方もまた自分の感覚を足場にした「当たり前」の世界を疑うことはむつかしいですから,世間でご自分が弱者の立場の時は逆にその世界に「巻き込まれ」て,合わせて生きざるをえないのですが,親しい関係の中で自分自身に戻れるときは,相手に対して自分が強い立場にあれば,その世界に結果的に相手の定型を巻き込むことになりうるからです。

 実際パートナーと子供の関係を考えたとき,そういう「巻き込み」が起こっていたと考えると,いろいろわかりやすくなる感じがします。

 ただ,そういうアスぺの方の結果的な巻き込みと,母親のような巻き込み方はまたまったく種類が違って,素朴に言えば母親のような巻き込み方は徹底して「感情的な巻き込み」なのにたいし,パートナーの結果的なそれは「非感情的な巻き込み」と言えそうな気がします。ただ彼女と私の関係では,私は男でもありますし,私が「弱者」ということはありませんでしたので,私に対してはそういう巻き込みは成り立ちにくかったのでしょう。

 そうすると,母親の「感情的な巻き込み」の世界に生き続けてきた自分が,そういう要素はほんとに持たないパートナーの世界に「救われた」という感じを持ったとしても,全然不思議はないと思えます。

 そして,母親のような「巻き込み方」は,相手を独占しようとする気持ちがとても強いので,その独占の相手であった私がパートナーと結婚すれば,それは母親にとっては大変に辛い状況になります。そしてやはり私に対してパートナーの激しい非難をするようになっていったんですね。

 母親は徹底して「感情的なコミュニケーション」をしていくタイプですから,そういうコミュニケーションスタイルをほとんど取らない(そして定型社会の中で不適応になる)パートナーのやり方はまったく「許しがたい」ものに感じられることになります。私もパートナーには救われる思いと共に,やはり定型として持っている「感情的コミュニケーション」の感覚からは彼女に「問題」も感じるようになりますので,その点では母親の非難はある程度私にも説得力があるのです。

 でもこれも直観的なことでしたが,私はそういう母親の非難に対して,必死で壁を作ってパートナーとの世界を守ろうとしていました。たぶん母親の巻き込みに再び巻き込まれれば,自分が抱えてきた問題は何も解決されないことを直観していたのでしょう。パートナーとの間では「感情的なコミュニケーション」の欲求は満たされない思いを持ちながら,でもその世界が自分を救ってくれる可能性への思いを捨てきれなかったのではないかと思います。

 だから,当時は「母親からパートナーを守らなければならない」という感覚でしたが,実際はそれは同時に,「自分が救われる可能性のある世界を母親から守らなければならない」ということでもあったのだろうと思います。

 ただ,そういう世界を守っても,「定型的で感情的なコミュニケーション」の部分ではやはり彼女との間で満たされないものを抱え続けますから,それはそれで苦しいことでしたし,母親との間で抱えた矛盾が,それとは裏返しのような形で彼女との間の矛盾に置き換わっただけともいえるのかもしれません。そしてその矛盾が,子どもの問題でとても大きく表れてしまったのでしょう。

 その構図に今また大きな変化が表れているように思います。それはこれまでも何度か触れてきた「介護」の問題によってです。

 上に書いたような流れで,結局私は親とはかなり距離をとる生活を続けてきたのですが,いよいよ介護が問題になってきて,それができなくなってきます。そうすると,これまで「距離をとる」ことによって,一応避けてきた「感情的な巻き込み」の問題にも,再び直面するしかないのですね。

 その時,パートナーが結果としてライフワークとした老人福祉関係の仕事やそこで培ったいろいろな知恵などが,全く異なった形で母親と私と彼女の関係を変えてくれるようになってきたのです。

 老人福祉の現場では,あらゆるタイプの方に対応する必要がありますから,その中には母親のように激しく周囲の人を感情的に巻き込むタイプの方もあります。そしてしばしばそういう方は家族の中でも厳しい状況になり,ちょうど私が母親と距離を取らざるを得なかったように,さらにはもっと決定的に断絶になる家族もあるわけです。

 そういうシビアな現実の中で,仕事としてそういう方たちの生活を支えていかなければならないわけですから,そういうタイプの方たちにどう接したら一番現実的な対処が可能かという,ノウハウのようなものも自然と蓄積されていくことになります。

 その時に,アスぺの方のように,「感情的には巻き込まれず,現実的な対処法を見つけようとする」という姿勢がとても力を発揮するのでしょう。少なくともパートナーを見ていると,そういう姿勢で親の介護の問題にサジェスチョンを呉れたり,手伝ったりしてくれるやりかたは,本当に勉強にもなり,また精神的にも救われるのです。

 以前なら「なんでそんな冷たい皮肉な見方や言い方をするんだ」と憤慨していたことが,親の介護という現実の中で,本当に大事な見通しを与えてくれる経験が積み重なってきます。そして結果として,激しく感情的に巻き込みをしてくる親に対して,それを完全に否定して壁を作り,関係を絶つのでもなく,逆に完全に巻き込まれてしまって振り回されるのでもなく,ある程度現実的な距離の取り方で支えることが可能になっていくのです。

 そんな経験が積み重なる中で,ほんとに最近のことですが,それは単に親を支える,ということではなく,実は私自身が改めて彼女に支えられることでもある,ということを感じるようになってきたのですね。再び彼女によって救われている自分を感じるようになってきた,という言い方もできるかもしれません。

 彼女との間で問題になり続けてきた「感情的なコミュニケーション」の問題は,たぶんそれで直接解決されるようなことではないのかもしれないのですが,ある意味では「それよりも大事なこと」が感じられるようになってきたのかもしれません。ちょっとこのあたりは微妙な問題ですので,ほんとにどうなのか,注意していきたいと感じます。
 
 
 

2014年6月23日 (月)

アスペルガー者にとっての世界観

 ひとさんからコメントをいただいて,主宰されているブログをのぞかせていただきました。アスぺ当事者の方のブログはちょっと久しぶりに読ませていただいた気がします。ご自分の体験や感じ方をいろいろ書いていらっしゃる内容を見て,なんだか以前の私よりも随分とリアルに「ああ,やっぱりそうなんだ!」と感じることがたくさんあって,とても勉強にもなりました。


 「アスペルガーと定型を共に生きる」も紹介もしてくださっています。あんなふうに読んでいただければ本にした甲斐があったと感じます。またいろいろな本を紹介されているのも参考になりましたし,米田さんの「アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか」という本に興味を持ちました。アマゾンの「なか見検索」でちょっと覗いてみたら


 「本書で十分には扱いきれなかった問題の一つに,アスペルガー者にとっての世界観や価値観の問題があります。……これはむしろ,いつか当事者自身が提起して,探求していくべきことなのでしょうが」


 という一文もあって(おわりに),興味を惹かれました。ひとさんのブログもそういう探求の一つでもあるのだろうと感じます。あと私が思ったのは,米田さんの「あとがき」ではあまり強調されていないように思いましたが,「アスペルガー者にとっての世界観や価値観」を考えるという作業は,実は「定型者にとっての世界観や価値観を振り返る」ことでもある,ということを私はすごく感じています。お互いがお互いの鏡になるとでも言えばいいでしょうか。

 また「自分をアスペルガーとして(あるいは定型として?)理解する」ことについて,周囲から無理やり「おまえは○○だ」というような「押しつけ」的な形でそれをさせられる状態は多くの場合問題を生みそう,ということを何度かここで書いてきましたが,ひとさんはまたちょっと違った視点からその問題を書かれています。


>「自分は他の人と違う」っていうことを早く知っていれば、そういう前提で世界を見ることができたんでしょうけど最近までわからなかったので、とても苦労しています。

 お互いに「同じだ」という前提だけで違いに目を向けられない状態は,アスぺの方にとってもかえってむつかしい状態を持続させてしまうということですよね。ひとさんのブログには定型の考え方に出会って,「え?そういう感じ方をするわけ?」と驚かれる経験がいくつも書かれていて,すごく参考になりますが,「こういう基本的なことでものすごく感じ方が違うんだ」という大事な発見も,「同じだ」という前提だけからはなかなか得られないのですよね。

 押しつけ的に言うことはよくないとして,でもやっぱりお互いの大事な「個性」のひとつとして,それぞれが「アスぺ」でありあるいは「定型」である,ということを確認しあうことは,お互いにとってとても大事なことなのだと改めて思いました。

>自分も無理は最小限に、そして相手(定型発達者)にも極力無理はさせないっていうような状況を目指せればと思います。

 お互いのマイナスを最小限に抑える努力と,お互いの関係をプラスにしていこうとする姿勢と,その二つの関係ってどんなものなんでしょう。そんなことをちょっと考えました。

2014年6月22日 (日)

カサンドラ駆け込み寺

 昨日,このブログをお読みになったSORAさんという方からメールをいただきました。最近ここを見つけて下さったとのことで,アスぺや定型のどちらかの立場で書かれているブログではなくて,その共生を考える場としてはここが初めてたどりついたところだということでした。

 実際,定型にしても,アスぺの方にしても,それぞれがそれぞれの立場で本当に苦しい思いを積み重ね,もうどうしようもない,というくらいまで煮詰まった経験を持ってブログなどをされる方も少なくないはずです。ですから,そういう苦しむ自分自身をどう支えるか,ということが大きな問題になったとして,それは当然のことと思います。相互理解についてはすでにそれまでに十分「絶望的な思い」を繰り返されていて,改めてそのことをメインに考えるということはそう簡単なことではなくなりますよね。

 考えてみると,私の場合はいろんな意味でとてもしんどい状態になった時に,パートナーがある意味≪腹をくくった≫ように,一緒に乗り越えていこうという姿勢になってくれたことが大きかったのかなと思います。もちろん「一緒に」と言っても,その「一緒に」がむつかしいのが定型アスぺ問題ですから,それで問題が解決しているわけではありませんが,ただ二人にあった「一緒」のありかたを探していこうという気持ちは,その彼女の態度で私は持つことはできたのでしょう。


 SORAさんの場合は夫がかつてアスペルガーとの診断を受けられたとのことで,いろいろな模索を何年も続けられた後,ご自分の体験を活かせることがあればと,カサンドラ症候群に悩まされる女性たちのための自助グループ的な活動やいろいろなワーク,相談などを精力的に進めてこられたとのことでした。ご紹介いただいたSORAさんのブログは以下です。  

カサンドラ駆け込み寺 ハーンの妻達へ

 今はアスぺの夫との間で辛い思いをされている女性の方の集まりのようですが,いずれアスぺの方たちとつながりを模索する,実際の場作りを考えていらっしゃるとのことでした。

 トマトさんは定型の立場から,アスぺの方たちの現実の生活をどう支えられるのか,ということについて,「仕事」という領域で現実的な模索を続けてこられているわけですよね。他方でSORAさんは定型アスぺの関係に苦しむ定型女性をまずは支えるところから出発されています。

 定型アスぺ問題との出会い方自体がそれぞれですし,その問題へのかかわり方もほんとに様々ですよね。定型アスぺ問題は人がそれなしでは生きていかれない「コミュニケーション」それ自体の問題ですし,それだけこの問題は多面的なのでしょう。

 いろんな角度からいろんな試みをして,そしてそのいろいろな試みがお互いにつながっていかないと,孤立していては問題に向き合うことすらむつかしくなるのだろうと思います。そこはトマトさんがおっしゃる通りのように思います。そしてその見方や取り組み方が多様であればあるほど,「これがだめなら他もある」という「柔軟性」が増えていきますから,いろんな試みがあってほしいですね。私もそのいろんな試みの小さなひとつを,たとえばこんな形で続けられればと思います。

 SORAさんは東京を中心として,関東の方でまずは自助グループをいろいろ作っていきたいと考えていらっしゃるようなので,特に東京周辺で関心をお持ちの方は一度ブログを見にいらしてはいかがでしょうか。

2014年6月21日 (土)

「あなたたち」の中の「あなた」

 

トマトさんのコメントに「タイプは違えどASの人と3人関わると、それはもう自分にとって「少数派」ではなくなり、人としての群像をとらえることが出来て、良い意味の「これもフツー」に感じられる」とあって,これは私としては「うーん!」とうなる感じがしました。なんかすごい重要なポイントをズバッと指摘されているような。

 すぐに思い出すことの一つは,学生時代にカナータイプの自閉の子や,その他の障害のある子たちと遊んだりしていたとき,最初のころはダウン症の子(ダウンちゃんとか呼ばれてました)が,みんな同じに見えて区別がつかなかったんです。

 普通ひとはいろんな顔をしていて,ひとりひとりすごく個性的ではっきり区別できるのに(一卵性の双子など,区別できなことが逆に驚きになるくらいですから),ダウンちゃんは顔かたちの特徴があまりに一般の「個性」の範囲を超えてしまっているように感じられるので,それ以上細かい区別が出来なくて,みんな同じ「ダウンちゃん」で判断されてしまうみたいです。

 考えてみると,別にダウンちゃんに限らず,いわゆる「人種」が違ったりすると,やっぱりみんな同じような顔に見えてしまったりすることもありますよね(え?ないですか?('◇')ゞ私だけ?)

 でも,そういう人たちとのかかわりが増えて,慣れてくると,だんだん一人一人の顔に「個性」が感じられるようになってきて,区別がついてきます。そうすると,「ダウンちゃん」とか「何々人」とかではなく,「○○ちゃん」「××ちゃん」「△△さん」など,一人ひとりが見えてくる。たぶんトマトさんが書かれる「群像」になるのかなと思います。

 そしてそうなると,自分の「フツー」とは違う,もうひとつの「フツー」を無理なく感じることができるようになる。「あ,この人たちにとってはこれは<あたりまえ>のことなんだ」という感覚でしょうか。

 面白い(?)なあと思うのは,「群像」として見えてくるというのは,言ってみたら相手の人を集団の一員としてひとくくりに見ることでもあるんだけど,逆にそうすることでその方の「個性」が見えてきて,そしてそういう個性的な人たちの「群像」が,自分とは違うもうひとつの「あたりまえ」を感じ取らせてくれるようになる,というこのちょっとややこしい関係です。

 もうちょっと単純にして言えば,相手一人だけを見ているときには個性と言いながら実は個性を見られず,ワンパターンの決めつけで見てしまいがちになり,逆に自分とは違う「ひとたち」の一人として見ると,個性が見えてくる,ということなのかもしれません。


 そういう新しい見え方を,いろんなアスぺの方との実際のかかわりを通して獲得していくことについて,トマトさんは「定型から見た、ASとの対等感に近づく方法」とも言われています。これもとても考えさせられることでした。「対等感」というのは,実は単に「一人と一人として向き合う」だけではなかなか得られないことなのですね。


 うーんと,そうすると,もし「私たち」と「あなたたち」という対比の中で「私」と「あなた」の「対等感」がようやく得られるのかもしれないとして,そうなると「私たち」という意識が持ちにくいように感じられるアスぺの方の場合は定型に対して対等感を持つこともまたひとつのむつかしさがあったりするのでしょうか。

 あるいは「対等感」はまた別の形でも成り立つのでしょうか。

 いや,ちょっとトマトさんの趣旨から外れてしまったかもしれませんが,ちょっと考えてみたい問題です。

2014年6月18日 (水)

「ずれ」=「つながり」

トマトさんのコメントでまたいくつかの私の「謎」が解け始めた気がします。

 アスぺの方は自分の自然な感覚を殺すようにして,定型優位の世の中になんとか合わせて生きる工夫を続けなければならないわけですが,それがどれほど大変なことかについて,トマトさんはこんなたとえで想像されています。

 「定型に合わそうとする努力が 本来の自分を全く出さない くらいの域になると、それは水の中で息を止めているような状態で」

 もちろんこれは定型のトマトさんが想像して言葉にしたことですから,アスぺの方自身がそれを見てどれだけ「その通り」と感じられるかはわかりませんが,ただ同じ定型の私からすると,このたとえはアスぺの方の置かれた状況を想像するうえでとても分かりやすいものでした。少なくとも「定型語」で翻訳してみると,そんな表現が分かりやすいということでしょう。

 もしそうだとすれば,トマトさんが「定型の多くは・・相手のASの人にうまく合わせられたり、理解が深まったりという、コミュニケーションの手応えに、喜びを見いだすわけですが、果たしてASの人の多くにはその事が喜びや励みになるのかなぁ?」と書かれることもよくわかります。

 「それほどまでに自分以外の人のイメージや思惑に合わせる作業も、人と会って会話するということ自体にも「自分の自然体を放棄する」レベルの行為をしているのなら、「素地が出せるゾーン(相手)」と「完全演技のゾーン(相手)」を完全に隔離判別してしまうのも無理は無いと思いました。」というのも私としては納得です。

 そう考えると,「一緒に暮らしているということ自体が,他人(完全演技の相手)とはあり得ない,特別なこと」と言うパートナーの説明も,今までは頭で「そういうこともあるのかなあ」という理解にとどまっていたのが,なんとなく感覚的にも納得ができてきます。

 ああそうか。今ふと思ったんですが,私の場合は相手の人を「理解する」というとき,「頭で理解する」という理解の仕方と,「感情的にも納得する」という理解の仕方を分けて考えるのですが,こういう分け方をしてみること自体がとても定型的ということになるのかもしれません。「感情的にも納得する」というのはある意味で「定型的な共感的理解」でもあるからです。

 ですから,これまでパートナーとの間でも,あるいはここでのアスぺの方とのやりとりでも,この「感情的にも納得する」という部分でいつも躓くような感じを漠然と持っていたのですが,そう理解するとわかりやすくなりますね。

 だとすればそういう「定型的な共感的理解」はしないか,困難なアスぺの方の場合,定型のやり方を理解する,ということは基本的にすべて「頭で理解する」という形になります。それは自分の感覚とはほとんど相容れないものだったりするのに,ただ頭で「こうすべきだ」と理解して,そういう「形の理解」を積み重ねて定型の世の中で生きる工夫をされている。

 アスぺの方にとっては,ですから定型の世の中で生きる,ということは,完全に「自分の自然な感覚」とは別の所に,「頭で組み立てた世界」を作って,そこで生きることになるのでしょう。そこはあくまで「意識的に頭で組み立てた世界」ですから,その中での一挙手一投足がやはり「頭で考えながら」やらなければならなくて,それはものすごく疲れることになるはずです。

 たとえ話で考えてみると,私たちは無意識のうちに息をし,心臓を動かしていますけれど,もし「息を吸って,はいて」とか「心臓を収縮して,ゆるめて」とか,そういうことを意識してやらない限り,息もできず,心臓も動かない状態が訪れたとします。そうすると24時間絶え間なく呼吸や心臓のことを考えていなければすぐに死んでしまうのですから,これはほんとに大変なことで,それ以外のことはまったく手につかないくらいになってしまうでしょう。

 ある程度慣れてくれば,少しはそれ以外のことにも注意をむけられるようになるかもしれませんが,ちょっと油断すればとたんに呼吸も脈も止まってしまうのですから,ほんとに気が抜けません。

 定形にとってはほとんど無意識にこなしてしまう(定型的な)人間関係のやりとりも,アスぺの方にとっては常に意識的に「こういうやりかたでいいのか?」と考えながらひとつひとつこなしていかなければならないものなのでしょう。そう考えれば,パートナーが仕事をこなすことでどれほど疲れるか,が感覚的にも想像しやすくなります。

  かずきさんが「ASモードが定型世界の中では非礼というか無礼だと分かっているので、気をつけてはいます。気を抜くと「えげつない言葉」で攻撃してしまっているようなのですが」と書かれているのもそれでよくわかる感じがします。

 ふたたび呼吸や心臓のたとえ話で考えて,もし自分が「他人」といるときにはそうやって意識していないと呼吸も脈も止まってしまうけれど,一人でいるときや「身内」といるときは心臓も肺も意識せずに勝手に動いてくれるとします。そうすると,「あなたは身内だ」とアスぺの方に言われるということは,「あなたといるときは意識しなくても肺も心臓も動くし,意識しなくても生きていかれる」と言われているようなものだということになります。

 そう考えればアスぺのパートナーに「あなたは身内だ」と言われることが,それだけでどれほど特別な,大きなことなのか,ということがちょっとわかってくる感じがあります。定型的な恋愛を表現する歌詞にときどき「あなたなしではもう生きていかれない」というようなのがありますが,アスぺの方の場合は「あなたとなら生きていける」なのかもしれないですね。それはほんとうに特別なことに違いありません。

 トマトさんは定型の側にはアスぺの方に対する「永遠の片思いを楽しむ方法を自分なりに見いだすという感覚も必要」と書かれていますが,この「片思い」ということの意味を,上のような理解で表現しなおすと,定型の側は「あなたなしではもう生きていかれない」という思いで強く相手を「求める」感じになるのに対して,アスぺの方の場合は「あなたとは一緒に生きていける」といううふうに相手を「許容する」感じになる,その感じ方のズレと言えるかもしれません。

 今思い返すと,パートナーはこれまでもそういう意味で私に私が特別な存在であることを繰り返し伝えてきているように思います。でも「あなたなしにはもう生きていかれない」というイメージ(そこまで強く言わなくても,「あなたは私にとって本当に大事な支え」)で「身内」を考えていた私には,「あなたとなら一緒に生活できるよ」というイメージを語られても,全然ぴんとこなかったわけですね。

 なにしろ「一緒に暮らす」というだけなら,まあある程度気の合う友達同士でも十分可能なわけですから,それ以上特別の関係とは感じられない。だから「あなたとなら一緒に生活できるよ」と言われても,「あなたとはいいお友達だよね」と言われている以上には感じられないし,逆に言えば「あなたとはいいお友達以上ではないよ」と否定的に言われているような気にもなってしまうわけです。

 それで,ここですこし視点を変え,表現を変えて,定型にとっては「あなたなしにはもう生きていかれない」タイプのつながりが,一応「最高レベルの強いつながり」だとしましょう。そうするとアスぺの方にとっては「あなたとなら一緒に生きていける」タイプのつながりはおなじく「最高レベルの強いつながり」になります。ですから,アスぺ語の「あなたとなら一緒に生きていける」は,定型語に翻訳すると「あなたなしにはもう生きていかれない」となるのだ,という理解もできそうです。

 そう理解すれば,彼女が「あなたとなら一緒に生きていける」タイプの説明をされたときに,私が定型語で理解してがっかりすると,そのことに彼女がショックを受けていたということの意味も分かりやすくなります。彼女としては最高に肯定的に語ったのに,その気持ちを受け止められず,否定されたように感じたとすれば,ショックなのも当然だからです。

 そうすると,トマトさんが「永遠の片思い」と表現されたことの意味は,「あなたとの関係は私にとっては最高の強いつながり」ということを,定型アスぺで異なる形で表現することだと言えそうです。そしてその表現の仕方のズレは「永遠に変わらない」のでしょう。と同時に,視点をずらせば二人は同じことを言っているとも言えます。「永遠の片思い」は,「最高のつながり」というふうに表現を翻訳して理解しなおせば,どちらも同じことを言っていることになって,「両想い」と考えることもできるからです。

 もちろんこんなふうに言っても,それを単なる「言葉遊び」のように感じてしまえばそう考えることに意味はなくなります。私の経験からすると,私がいまそんな風な見方もできるようになってきたのは,やはり「彼女にとって」私に対するかかわり方は,他の人に対するかかわり方とは違う,最高のかかわり方なんだ,とうことを,実際に体験を積み重ねて「体で感じ取る」ことができてきたからだと思えるんですね。それなしに口先でそういわれたとしても,たぶん体が納得しないでしょう。

 いまふと思い出したことは,トマトさんがなくなったASの友人の方について書かれていたことです。その方はなくなるときに,トマトさんに対する深い感謝の気持ちを周囲の方に伝えられていたとのことでした。その言葉は定型同士の間でなら,まあ「ものすごく特別」とはいえないものかもしれません。でもトマトさんにはその言葉のものすごく特別の重みが,普段のその友人とのやりとりの経験との対比で実感できるものだったのはないでしょうか。そしてその友人が残された言葉によって,トマトさんにとっても何らかの意味で特別だったその友人との関係が「両想い」のものとして深く刻み込まれたのではないかと想像しました。

 こんなふうな表現もできるかもしれません。定型アスぺのそういう関係は,「片思い」という形の「両想い」で,ずれている形でつながっているものなんだ,ということです。

2014年6月16日 (月)

「職場」&「家庭」とアスぺ定型問題

 今朝,先に仕事に出るパートナーが,私がパソコンを見ている傍らに来て立ちました。視線はなんとなく猫の方を見ています。しばらくそうやってじっとしているので,いつもとはちょっと違うその感じからいって何か話したいことがあるのかなと思い,聞いてみようかと考えました。

 これまでならたぶんそのまま「なにかあったの?」などと聞いたと思いますが,今日はなんとなく彼女の気持ちのままに任せた方がいいような気がして,あえて何も聞かず,ただ,猫の方を見ている彼女の顔を見ていました。

 しばらくして,彼女はかすかな笑顔で「のびてるね」と言いました。私はちょっとわからなくて「え?なに?」と聞き返しました。「猫がのびてるね」ともう一度彼女は言いました(そう聞こえました)。視線の先では猫が実際でれっとのびていました。そして「ああ,そうだね」と私は答えました。

 そのまま彼女は仕事に出かけました。私は「なにかあったの?」など,こちらから話しかけなくてよかったと思いました。

 話題は変わりますが,トマトさんがアスぺと思われる方との仕事の上でのサポート的なかかわりについて紹介してくださいました。仕事の場(ということはつまり,この定型優位の世の中で生きていくうえで避けて通れない場)で,トマトさんがどんな問題にどれほど真剣に向き合ってこられているのかが,ほんとうによくわかる気がしました。「すごい」という言葉は,ちょっと軽くて使えない感じがしています。

 トマトさんが日々直面されている状況を私なりに勝手に想像しながら,定型アスぺの問題というのは,やっぱりそれをどういう場で,どういう状況で,どういう文脈で考えるかによって,ほんとにいろんな姿で現れるんだなと実感しました。定型とアスぺの方の間をなんとか橋渡ししたいという同じ気持ちや目標でも,それをどういう場で実現しようとするのかによって,いったい何を具体的な目標とし,何に気を使い,何を考えて,何をしなければならないのかが,ほんとに多様なんだと思えました。

 同じく「職場で生きる」,ということを考えた場合でも,個人で職人的な仕事をする場と,ほかの人たちとの協力関係の中で仕事をしなければならない場とでは,そこで要求されることがかなり違ってきます。トマトさんが紹介してくださった方の場合は,基本的には職人芸になるのでしょう。そしてその職人芸の仕事をする分には,たぶんそんなに大きな問題は起こらないし,ご自分の才能をかなり生かすことができるのだと思います。

 ただその方は単に決められた仕事だけをやればいいのではなくて,仕事の内容を顧客との間で調整するという「協力関係のなかでの仕事」もする必要がある。そしてそこで定型アスぺの問題が強烈に出てきてしまうのですね。そこにトマトさんの橋渡しがものすごく大きな意味を持ってくるのだと思います。

 その時,ほとんどの職場は基本的には定型優位で,定型に便利なように作られているわけですし,そこでの暗黙の定型的な約束事から外れる人に対しては,からかいのような軽いものから排除のような厳しいものまで,いろんな制裁が加えられるようになっています。良し悪しの問題はさておき,そういう現実が簡単に変化するようなものでないことは明らかでしょう。

 なぜなら,「多数派」である定型は,そういう暗黙の定型的な約束事によって職場を維持していて,それによって仕事をしていて,それによって生活を成り立たせています。それを安易に崩すことは,つまり自分自身の生活を崩すことにもなりかねません。だからそういう暗黙の約束事をゆるがすような事態に対しては,ものすごく敏感に,それを排除しようと動くのは,ある意味で避けがたいことだからです。

 そういう状況の中で,アスぺの方たちは通常は,わけのわからない定型の約束事に従って生きざるを得ない状態に置かれています。定型の側から見れば,自分たちの暗黙の約束事はそれを守りさえすれば日々の仕事や生活はある程度うまくいくのですから,それを「破壊」するような振る舞いについては当然のように「悪」だと感じられ,激しく感情を揺さぶられるわけで,とてもではないけれど,「アスぺの方たちの(定型とはかなり違った)暗黙の常識」を理解しようというような方向には進めない。

 そしてそういう定型の感じ方は,決して単に個人の思い込みではない「正しい感じ方なのだ」ということは,同じ「暗黙の約束事」を共有している周りの定型の人たちから支持されますから,その意味でもなかなか揺らぐものではありません。

 そんな凝り固まった状態の中で単にアスぺの方を「定型のやり方」に従わせる,というスタンスではなく,アスぺの方の生き方を大事にしながら定型との関係を調整する必要に迫られたとすれば,間に立つ人がほんとに折り合いのつかない二つの「約束事」の間で引き裂かれるような状態になったとしても無理はありません。しかも二つの意味で引き裂かれてしまいそうになるのですから。ひとつは定型的に作られた職場の約束事と,アスぺの方が持つその方にとって自然な約束事との間で。もうひとつは自分自身が持つ定型的な感覚と,アスぺの方の感覚の間で。

 トマトさんの直面されている状況を,そんなふうに理解してみると,私にはこれまでトマトさんが繰り返し強調されてきたことの意味や,そこでの苦労,なすべき努力の内容が,「ああ,なるほど!」という感じでよりわかってくる感じがあります。そしてそこでどれほど大事なことが模索され続けているのか,ということも。

 そう考えてくると,今度は「家庭」という場で定型アスぺの問題を考えることについて,「職場」でそれを考えることとの間の共通点と違いがもう少しよく見えてくる感じがあります。

 職場では基本的に定型優位であることが動かないので,定型の側はそのことを前提にしてアスぺの方と接することになります。自分自身の持つ定型的な「暗黙の約束事」に確信が持てないような事態が起これば,周囲の定型の人に「これって常識だよね」と確認をとればそれで自分がゆらいでしまうようなことはかなり防げます。

 他方で家庭の場合は定型が「多数派」という立場にたよれなくなってしまう可能性が大きくなります。定型が男性の場合は,それでもまだ「男性優位」が残っている世の中ですから,その立場を利用して自分の論理で家庭でも押し通せるかもしれません。でも定型が女性の場合はそういう形で自分を「守る」ことも困難になる可能性が高いと思えるのです。

 二つのなかなか折り合わない「約束事」がぶつかり合ったとき,その「解決」の仕方は基本的にはそんなに数があるわけではないでしょう。ひとつは関係を断ち切ることで,「問題発生の前にもどる」形で対処することです。ふたつめは相手を自分に従わせるか,自分が相手に従うか,どちらか一方の「約束事」を優先させることでぶつかりあいを避けることです。そしてみっつめはお互いの「約束事」をなんとか調整する道を探し,そこにもうひとつ「バージョンアップ」した「約束事」を一緒に作り上げていくことです。

 離婚とか職場からのその人の排除,あるいは離職いう選択肢は一番目の解決の仕方になります。それがなんらかの理由でできなかったり,したくないという場合には二番目か三番目を選ぶしかありません。なんらかの理由で定型が圧倒的に優位だという現実を動かしようもない状況では,二番目をベースに,そこで生まれてしまう問題をいろいろな工夫でできる限り緩和する,という工夫が現実的なのでしょう。職場はそうなる可能性が大きいと思います。

 それに対して家庭という場は,三番目の可能性もより生まれやすい場と言えないでしょうか。なぜならその場に限れば「定型優位」という関係が崩れる可能性が大きくなるからです。むしろ上に書いたように,女性の場合などは特に「定型不利」という逆転も起こりやすいかもしれません。


 定型アスぺの問題は,そんなふうに「職場」という状況で考える場合と,「家庭」という場で考える場合など,その置かれた状況によって,違う意味を持ってくるかもしれません。だとすれば,それぞれの状況にあった対処の仕方を模索していくことが大事になりそうです。

2014年6月15日 (日)

「定型モード」を使えるということ

かずきさんからのコメントで,またとても考えさせられています。

>前から言って頂いていますが「かみ合っている」と感じてくださっていて安心しています。もちろん、内容はAS思考回路についてですが、極力定型モードで書くようにしているのと、やっぱり「浅瀬」だからではないかと感じています。

 私の場合アスぺの方とのやりとりでは,話が「かみ合う」感覚がその方によってさまざまです。かずきさんとのやりとりは私としてはとても「かみ合う」感覚が強いのですが,その理由としてはかずきさんが「極力定型モードで書くように」されていることがたぶん大きいのだと,このコメントで思いました。

 そしてすぐにこんなことに気が付いたんです。かずきさんは私(定型?)にわかりやすい書き方,つまり「定型モード」を使うことができる。でも私は自分が「アスぺモード」を使えるようにはとても思えないということです。

 というか,それ以前の問題として,私は「定型モード」が具体的にはどういうことで,「アスぺモード」とは何なのかをわかっていないのです。ですからもちろんそのモードをつかえるなどということはあり得ないでしょう。

>記事やコメントの中の、定型側の苦労と、AS側の苦労とどちらの状況も容易に想像がつくパターンが多い気がします。

 これも私はおよそそういう理解力を持てていません。もちろん謙遜やお世辞などとは一切関係なく,こういうふうに書けて,そして実際に私との間で私には違和感がないくらいにやりとりをして下さるかずきさんの理解力のすごさを感じずにはおれないのです。

 かずきさんのコメントを読んでもらったうえで,パートナーにそのことを話してみました。彼女は「それは当然でしょう」という感じでした。アスぺの方はそんなふうに「定型モード」をなんとか使いこなす努力をずっと続けない限り,この社会で生きていけないからです。逆に「アスぺモード」を学ぶなどということをしてしまえば,簡単にひとびとからはじかれてしまうと彼女は言います。

 もちろんそんなふうに「定型モード」を使いこなす努力を続けてこられたとしても,それがどこまでうまく身に着けられるかどうかについては,その方によってずいぶん個人差があるのだと思います。そこがかずきさんが書かれる「浅瀬だから」というところに関わるかもしれません。

 でも,それが「浅瀬」であろうとなかろうと,かずきさんが御自分のベースがアスぺの側にありながら,それでも両方の感覚をここまでこなされている,ということのすごさはほんとにおどろきです。私はこのブログを通じてなんとか「アスぺモード」を私なりに体得したいと思い続けているのですが,ほんとにむつかしいことだと感じていますから,ますますかずきさんのことをすごいと感じるのでしょう。

>でも、解決策は思い浮かばないのでお役に立てないんですけどね。

 かずきさんはこう書かれているのですが,実際にここまで「定型モード」に迫れる方がいらっしゃるということ自体,私たち当事者の双方にとってはとても大きな「手がかり」を与えてくださっているように思えます。定型の側からいえば,もっと「アスぺモード」を学ぶ現実的な可能性も感じることができるわけですし。とはいえ,もちろん

正直な所、自分を殺さずに生きていける方法があるとしたら知りたいです。……そんな自分が「ありのまま」でられるわけなど無いと感じてしまいます。

 というかずきさんの思いは,この定型社会の中ではどうしてもそうなってしまうのでしょうね。もちろん定型も全く自分を殺さないで生きていかれる人などいないでしょうけれど,ちょっとそのこととは話の質が違うでしょうし。

 ただ,たとえばかずきさんが,ご自分の実家ではアスぺモードを切り替える必要がない,と書かれていたように,身の回りに限定された範囲ではあっても,そういう場所ができることはありうるのだろうと思います。じゃあなんで実家ではそれができるのか?ということを考えてみることは結構重要な手がかりを与えてくれる問題かもしれません。

2014年6月14日 (土)

「できない」のか「違う」のか

 

にゃんこさんがコメントで,このブログで感じられたことのひとつとして「アスペと定型では根本的な価値観や考え方が全く違うんだ」ということを書かれています。これは私にはうれしい感想でした。その意味はこんなことです。

 定型とアスぺのコミュニケーションがしばしばとてもきびしいものになることについて,アスペルガー関係の解説の本など,よく見られる説明は「アスぺの方は定型のような気づかいが<できない>からだ」というもののように感じます。なぜ<できないか>の理由としては遺伝的なものとか,脳の違いとか,いくつかの説明がついたりしますけれど,なんにしても「すべきことができない」から定型を傷つけるんだ,という視点からの説明になっていることは変わりないでしょう。

 それは定型の「常識」からすると,そういうことになるんでしょうね。定型がそういう「常識」をもつこと自体がいいとか悪いとか,そういう問題はちょっと置いておきたいのですが,ただ,現実問題として,そういう「常識」だけから定型アスぺの問題を考えると,どうしても見えてこないことがあるように思えるのです。

 一番わかりすいかなと思える例は,アスぺの方が定型を傷つけると(定型には)感じられる場合でも,実はアスぺの方はある種の誠実さで対処されているのにそうなることもあるし,逆に定型の側が善意でアスぺの方に接しているつもりのことが,アスぺの方にとってはとても自分を傷つけることになってしまう,という悲しい「すれ違い」の例です。そういうすれ違いの実態については「常識」だけでは理解できなくなってしまうと思います。

 どうしてそうなるかといえば,自分の定型的な常識だけで,相手の人の行動が「善意」に基づくとか「悪意」に基づくとか判断してしまえば,アスぺの方の行動がその定型基準から外れることは,定型的に見ればあきらかだったりします。そうすると,理解の仕方としてはたぶん二通りしかなくなってしまいます。

 ひとつは相手の人が「悪意」を持ってそうしているのだろうと考えることです。もしそう判断されれば,相手の人への激しい憎悪が生まれるでしょう。

 けれどもどうも相手の人がそんなに露骨な悪意をもってはいないようだと感じられた場合には,「じゃあ,この人は自分の言っていることが相手を傷つけることを理解<できない>から,こんなふうにしてしまうんだろう」という理解になります。そう考えると,相手の人を「悪人」として考える必要は減りますから,ただ「理解する能力がないひと」として,「寛大に対処する」形になりそうです。

 それはそれでもちろん定型の側からのひとつの「善意」の努力で,否定されることではないのだと思うのですが,でもやはり限界を感じてしまいます。何かというと,その見方ではアスぺの方がアスぺの方なりに問題を解決しようと努力され続けてきているのに,その努力がまったく報われない状態におかれてしまっている,ということがみえにくくなってしまうように思えるのです。

 
 けれどもそこでちょっと引いて考えて,「この人は私とは違う<善意>や<悪意>の基準,価値観で生きているんじゃないだろうか」と考えてみると,そこから違う可能性が見え始めます。定型が自分の特徴を前提にして,どうやって人との関係をこなしていくかについてみんないろんな工夫や努力を積み重ね,「定型的な常識」を身に着けていっているように,アスぺの方もまた定型とは異なる特徴を前提にして,その方に理解しやすい形で価値観を作り上げ,それにもとづいて人との関係を調整しようと努力されている,という見方ができ始めるからです。

 そうすると,問題は「できるかできないか」の話とはちょっとちがって,それぞれのひとが自分の特徴や置かれた環境に応じてそれぞれの努力をしているのだけれど,その出発点や環境が違うから,お互いの努力がすれ違しまって,不幸な対立が生み出されていくんだ,という話になっていきます。

 もし対立の原因がそういう形で理解されるだとすれば,それぞれの立場の人の感覚を頭から否定する必要がなくなります。もちろん「こういう考え方や感じ方の人とは私はつきあえない」という形である種の「見切り」を付けることはありうるでしょうけれど,「この人はおかしな人で許しがたい」という一方的な「切り捨て」の感じにはならなくなります。

 また,お互いの対立を調整するときも,「正しい方に一方的に従わせる」という形ではなくて,自分の感覚も相手の感覚も,自分や相手がおかれた状況や性格からすれば「自然なこと」と考え,頭から否定はせず,そういう違いを抱えたもの同士が「お互いに」どう折り合いをつけて,一緒に少しでもよく生きていくか,ということが問題になってくるだろうと思います。

 もちろん自分にとって「自然」で「当たり前」のことの他に,相手にとって「自然」で「当たり前」のことを本当に認め合うというのはそうそう簡単なことではない,ということはここでもくりかえし考えてきました。それだけ自分にとって「自然」で「当たり前」のことは「相手にとっても当然そうだ」という感覚が体に深くしみついていて,柔軟に考えることがほんとにむつかしいからです。

 というか,「ひとはひと,わたしはわたし」と「口で言う」のは簡単なのですが,いざ実生活の中で違う感覚を持った人同士が共に生きていこうとすると,相手のやり方を認めることは自分のやり方が否定されることになり,その逆もまたそうなったりするので,そうそうあっさり認めるわけにはいかない,という状況にわりに簡単においこまれてしまいます。

 つまり,「相手の違う感覚をお互いに認め合う」ということが,「自分の感覚を否定する」という形にならないような道を見出さなければ,この問題は解決が着かないのではないかと思えるのですね。そしてアスぺの方を「できない」という視点からだけ理解しやすい定型的なやりかたは,少なくともそれだけではこの大きな問題の解決の方向にはつながりにくいのではないかと感じるのです。


 にゃんこさんがこのブログを通して,そういう「価値観の違い」ということに目を向けて下さったことは,ですから,私としてはこのブログでみなさんと一緒に考えてみたかったことそのものだし,にゃんこさんがこれまで読まれたアスペルガー関係の本ではそういう見方が得られなかったということだとすれば,それもまたこの場でみなさんとやりとりを続けさせていただいてきたことの意味を改めて感じます。

 ま,手を変え品を変えて同じことを言い続けているような気もしますが,でもここでのやり取りの中で改めてそうすることにも意味がありそうと感じたということで,ちょっと手前味噌の自己満足記事でした ('◇')

2014年6月11日 (水)

「自然」な感覚へのこだわりの強さ

 パートナーが「共感的なかかわり方」など,他人に対してはある程度できることを,私や身内にはできないということについて,「身内VS他人」にどのように対応することが自然なのかについての感じ方が定型アスぺで全然ずれていること,そしてアスぺの方はそこで身内に対して無理やり「共感的なかかわり方」などをすることに罪悪感を感じてしまう人が少なからずいらっしゃるらしいことを書いてきました。

 では,相手(定型の側)はそれを望み,またそうされることで喜んでいるのに,なぜそこに「罪悪感」を感じてしまうのでしょうか。ひとつの理由は昨日も少し書いたように,そういうやりかたは,自分は本当は自然に「共感的」に関わっているわけではなく,ただ定型社会の中ではそうやらないといけないのだと「頭で理解」していて,形を合わせているだけなので,それで相手の定型の人が喜んだりしていると,なんだか人を口先で操っているような,だましているような感覚になってしまう,ということにあるらしいのですね。だから本心で付き合うべき「身内」に対してそれをすることは,すごく不誠実なことになってしまうわけです。

 立場を変えて,たとえば病気で相手が辛そうにしているとき,定型の場合は「共感的に支える」ことがいいことと考えられているし,自然にそういうかかわりになりやすいし,逆に言えばそうしないことは人としてとても「冷たい」ことで,特に深く助け合うことが当然のはずの身内の場合にはそうしないことは相手を「他人」のように扱うことにもなってしまいます。たとえ相手(アスぺの方のがわ)が「一人にしておいてくれること」を望んでいて,そうされることでほっとできるとしても,定型の側はそうすることに罪悪感も感じてしまったりするのですね。

 その点では結局お互い同じことで,お互い様の感じでもありますが,少なくとも私とパートナーとの関係では,もうちょっと違う部分もあるような気がします。

 私が定型アスぺのそういうかかわり方の感覚の違いを「頭で理解する」ようになって,彼女に対しては「心配で共感的にかかわりたい」気持ちが起こっても,頭で考えて,「ここは本人から要求されない限りは放っておく方が本人にとって楽なんだ」とその自分の気持ちをセーブして,そう対応するようになっていきました。最初はかなり抵抗感がありましたが,でも最近はそうすることにだいぶなれてきたように思います。ある程度は「郷に入れば郷に従え」になっているのでしょうね。

 けれどもそれに比べると,パートナーの方は私に対して「共感的にかかわる」ということは,その後もほとんどない感じがします。彼女も私がそれを望むタイプの人間だということは頭では理解しているし,「テクニック」としてはそれはある程度はできないことはない。でもそうするには私を「他人」としてある意味「切り捨て」なければならないようなのです。

 そういうところでは定型の私の方は「いい加減」というか「適当」というか,相手に合わせて「融通が利く」というか,よく言えばある程度は柔軟に対応するのに対して,パートナーの方は自分の感覚にすごく忠実というか,誠実というか,あるいはなかなか融通が利かない感じがするんですね。

 そうすると,「私の方は彼女に合わせて譲っているのに,彼女の方はなかなか譲ってくれない」という「不公平感」も生まれてきてしまいます。

 ではなんでそういうことになりやすいのか,ということを考えるわけです。わかりやすいひとつの考え方は,「やっぱり定型はより柔軟に相手に合わせて調整するし,アスぺの方はそれがしにくく,自分のやり方にこだわり続けるからだ」という理解の仕方でしょう。そしてある程度そういう面はあるような気はします。

 でもそれだけかなと思うと,もうちょっと違う面もあるかもしれないと感じます。それは定型に比べ,アスぺの方の方が多数派の世の中で「自分の感覚に合わないこと,場合によって罪悪感を感じさせられるようなことでさえ,相手に合わせてやっていかないと生きていけない」という場面に出会うことが,定型に比べるとはるかに多いだろう,という問題です。ある意味,そういう事態が日常茶飯事だといえるかもしれません。

 もしアスぺの方がそういう事態の中でいつも苦しい思いをさせられているのだとすれば,そうでない,自分の感覚ですごす時間はものすごく貴重なものになるし,大切にしなければならないものになるでしょう。定型だって自分に素直にすごせる時間は大切ですけれど,そのレベルがはるかに違うのかもしれません。

 そういう「おかれた環境の厳しさの違い」が,もしかすると「自分の感覚の自然さ」にこだわる強さに影響するかもしれないとも思えたのですね。

2014年6月10日 (火)

共感と罪悪感

 記事「郷に入れば郷に従える?」からの続きのようなことです。

 定型的な形での「共感的なかかわり方」を,私のパートナーもひとさんもある程度はできるということです。パートナーについては私自身がそういうかかわり方をしているところを何度も見ています。でもそれはあくまで相手が他人だからできることで,本当の気持ちでそうしているわけではないので,そこには(たぶん人を操っているような感覚になることで)「罪悪感」も生まれうるということでした。

 私はパートナーに対して,その「共感的なかかわり」を求めてきたし,また子どもたちに対してそうすることを求めてきたわけです。でもそれは彼女にとっては理解しがたいことだったり,あるいは「身内にはすべきでないこと」だったりするわけです。そこまではだんだん理解できるようになって「身内VS他人」の区別が定型アスぺでずれている問題として考えられるようになってきてはいたのですが,今回そこに「罪悪感」という問題が加わって理解されるようになったようです。

 で,そのことを含めて考えると,私がパートナーに「共感的なかかわり」を求めることは,単に彼女に「苦手なことを要求する」というレベルの話ではなくて,「罪悪感をいだくような行為を要求する」ことになってしまうのだと思えたのです。そしてそのことに気が付くと同時に,「ああ,彼女に罪悪感を持たせるような要求をするのはよくないな」と,割に自然に思えたのですね。それまでは「我慢する」という感じだったのが,より自然体に近い感じで受け止められた気がするのです。

 単に「苦手なこと」であれば,「それでも少しずつ努力して相手の要求に少しでもこたえられるようにするのが<思いやり>のひとつだ」ということになるでしょう。でも「罪悪感を抱く」となると話は違ってきます。少し大げさな言い方をすれば,そのような行為を要求することは,相手の「人格を否定する」ことになるとも言えそうだからです。それは「努力」の話ではなくなります。

 私の場合,たぶん「共感的なかかわり」を求める気持ち自体はなくならないような気がします。で,一方では彼女に対して「罪悪感を持たせるような要求はよくない」ということも割に自然に感じられるようになったとして,そうすると矛盾するこの二つの気持ちがどう折り合いをつけていくことになるのか,今後のなりゆきを気にしていきたいと思っています。

郷に入れば郷に従える?

 ひとさんが「「身内VS他人」のズレ」にこんなコメントを下さっています。

私も長いこと生きているので、定型発達者が望むような態度を取ることはある程度はできるのですが、それをやる時に「罪悪感」のようなものを感じてしまいます。「そんなふうに感じなくていいんだよ」って言ってくれる人がいますけど、やっぱり自分の気持ちに嘘をついているというか、正直でないというか、相手に悪いような気がするんですよね。自分にとって大切だと思う相手であればあるほど、正直な気持ちで接したい。でも、それは相手を無駄に傷つけてしまったり、ギクシャクした関係になってしまったりすることにつながる。私は未だに「自分にとっても相手にとってもベストな対応の仕方」といった正解が見いだせずにいます。」

 変な感想かもしれないけど,これを読んでなんか嬉しく感じたんですね。なんでかというと,パートナーの感覚ってやっぱり「アスぺの方にはかなり共通するらしい」ということが感じられたからです。これも変な言い方かもしれないけど,「それって(アスぺの方にとっては)当たり前のことなんだ」ということが分かってちょっとよかったと感じるというか。なんか,少し安定して考える足場が与えられたように思うからかもしれません。

 もうひとつ嬉しかった理由は,ひとさんが「私は未だ『自分にとっても相手にとってもベストな対応の仕方」といった正解が見いだせずにいます」と書いていらっしゃることについて,私は正反対の立場にいるわけですが,でも同じ状況にいて,同じことに悩まれていることが分かったからでしょう。「ああ,立場は違うけど,同じ問題をアスぺの方と共有できているんだ」と感じられることの嬉しさかもしれません。(こういう感じ方自体が定型的かもしれませんが)

 「自分にとってはこれが正しい」と感じるやり方が,他の人に共有されるとは限りません。時代や文化が違うと,そこは随分変化しますし,人によっても様々です。そして定型アスぺ間でもそこが大きくずれる場合がある。この「身内VS他人」のずれの問題もまたそういう問題の一つでしょう。そんなふうに自分の感覚とは違う「正しいやりかた」を持った人と共に生きようとするとき,果たしてどうしたらいいのか。

 ことわざには「郷に入れば郷に従え」というのがありますよね。地方によってやり方は異なるんだから,そこに合わせなければ,というような意味でしょう。でもそうはいっても,「礼儀作法」のような,「型を学べばよい」タイプのことならまだなんとかなるとして,ひとさんが言われるように「罪悪感」に関わるような違いの場合は,「郷に入れば郷に従う」ことはそうそう簡単なことではなくなります。

 ちょっと極端な例をあげれば,私は昔,インカ帝国の話としてだったと思うのですが,「太陽に捧げるためにいけにえの人の心臓を捧げ続ける」という話を聞いて,すごいショックだったことがありました。その時代のその人たちにとってはたぶん神聖な行為ということで,もしかすれば犠牲になる人も「誇り」を持っていたかもしれないですが,もし私がその時代のその場所にワープして行ったとしたら,とても耐えられないだろうとか,そんなことを思ったんですね。もう生理的に受け付けない感覚がありました。

 その後異文化の人たちとの接触の機会もそれなりにあって,そういう「文化差」については昔ほどはナイーブな拒否感はなくなってきてはいますが,でもたとえば自分がそういう人たちの一員になって誰かを犠牲にしたり,自分が犠牲になったり,さらには家族を犠牲にささげたりすることができるか,と言われれば,やっぱり到底耐えられないだろうと思います。他人が犠牲になるときでも,その場に居合わせられるかといえば,やっぱり無理でしょうね。

 まあ,それに比べれば定型アスぺ間の「身内VS他人」のずれはまだ穏やかと言えるのかもしれませんが,でもやっぱり「郷に入れば郷に従え」と簡単にはいかないでしょう。

 かふぇおれさん自分と違う人に対する許容範囲を広げることが、「受容」だ」と書かれていますが,そういう意味で言うと,どうやってどこまでその許容範囲を広げられるのか,という問題になるのかもしれません。

 そのむつかしさは,相手のやり方に合わせることが,自分の生き方の足場を崩すような可能性を持つときに深刻になるんでしょうね。そうならないで「受容」できる方法を見つけることが必要なのかもしれません。

2014年6月 7日 (土)

助手席の床を踏む

 車を運転していて,「ああそういえば」とふと思い出したことがありました。

 パートナーは私が運転していて助手席に座っているとき,すごく緊張した感じになって,ときどき助手席側の車の床を踏んでいることがありました。つまり,まえから対向車が迫ってきたりとか,誰かが車のまえに飛び出すかもしれないと思った時など,思わず「ブレーキ」を踏んでいるんです。

 最初のうちは私はそれを見て,怖がりだなあとか,からかっていたのですが,本人は冗談ではない感じで,逆に怒られました。そしてそのような状態はずっと続きましたので,私はだんだんと「なんでこの人は私の運転を信用できないんだろうか?」とか,「どうして私の運転に身をゆだねる,といった感覚になれないんだろうか?」とか,そういう不思議さを感じるようになっていったんです。

 その「信用してくれない」感じは,運転のことだけではなくて,いろんな場面であるような感じもあったから,余計に私が気になったのでしょう。 「私を信用してくれない」「私に身をゆだねてくれない」「私を受け入れてくれない」「私を拒絶している」……といった感覚がなんとなくつながってきて,しんどくなるんですね。

 でも今改めてそのことを思い起こしてみると,彼女にはそういう気持ちはないんだろうと思えます。彼女が助手席に座るときには,言わば運転手の視点を持ってそこにいることになりますから,目の前に展開する情景に対しては,運転手的に反応してしまって,そこで「運転しているのは自分ではなくパンダだ」という意識が薄れてしまうんじゃないかと想像するんです。

 つまり,定型は何かの問題に対処するとき,ほかの人を巻き込んで,人にゆだねたり,協力し合ったり,あまえたり,といったやりかたをかなり自然にとると思うんですが,それに比べるとアスぺの方は「自分で対処する」という姿勢がとても強いように思います。助手席の床をパートナーが一生懸命踏むのも,なんかそういうことの一つじゃないかという気がするんです。

 それは私を信用していないとか,身をゆだねてくれないとかいうことではなくて,自分が感じた危険に自分個人として自然に対処しようとしているのではないかと。その時は私を無視しているということではなくて,単に私が意識から消えている状態に一瞬なっているんじゃないかと。

 運転というのは頭で考えてやるよりも,とっさに状況判断をして反射的に対処しなければならない状況ですから,緊急事態への対処の仕方について,定型アスぺの基本的な感覚の違いがストレートに表れやすいのかもしれないと,そんなことを思いました。

 

 

2014年6月 3日 (火)

「復縁はあり得ない」

 あひるさんからいただいたコメントの中にこんな表現がありました。

 「ひとつ、彼は一度別れた人との復縁はあり得ないと言っていた事を思い出しました。」

 なにか私がパートナーとの関係で感じていることにつながるように感じました。

 それは「修復」とか,「回復」ということのむつかしさの感じです。  お互いの関係がむつかしくなったとき,調整をはかるのは別に定型だけではなく,  アスぺの方も同じだと思うのですが,それがなかなかうまくいかないとき,  アスぺの方の方が「見切り」が速かったり,断固としていたりして,  一旦そうなるとなかなかそれ以上の調整はむつかしくなる印象を持ちます。

 長く共同生活をしていると,小さなことでそういう「見切り」が積み重なるわけですが,  その「見切り」が,それによって「新しい関係を作っていくきっかけになる」感じより,  「あきらめ」てしまう感じになることが多いような気がするんです。

 わたしの場合は「ああ,ここはこういうふうに違うんだ」と理解ができることは,  「じゃあそういことを前提にしたら次にどんな新しい関係が作れるだろうか」  というある種の「期待」を生む感じにもなることが多いんですが,  その感覚がなかなか共有されません。  「違う」ということは,そのことについてはもう「終わり」で「考えない」という  そんな展開に直結しやすいように思えるのですね。

 そういうスタイルは,何か人との間で問題が生じたときに  関係を広げたり深めたりする方向で解決を探るのではなくて,  「関係を避けて自分に閉じこもる」方向で問題を解消しようとする,  という形になるように思います。

 なんか私にはまだ一方的で単純な見方しかできませんけれど,  なんとなくずっと気になっていることのひとつです。

2014年6月 2日 (月)

直観的な感情理解

 定型に比べると、アスぺの方は自分や他人の感情を意識したり、言葉で理解したり、交流したり、調整したりということについて、どうも「苦手」だったり、ぴんと来なかったりされる方が多い、ということは、このブログでやり取りさせていただいた経験から言えば、たぶん言えそうです。

 ただ、それは「感情が無い」ということとも違いますし、相手の人の感情をまったく理解しないということでもなく、ただ「意識する」「言葉にする」「調整する」といった方向に行きにくい、ということなのじゃないかなと感じています。

 ではそのアスぺ的な(?)感情の理解のされ方はどんな特徴があるのだろうかと考えてふと思ったのですが、「直観的な理解」という感じなんじゃないでしょうか。

 以前使った例を比喩で使えば、私は自転車に乗れますが、どうやって倒れずに自転車をこぐことができるのかをちゃんと言葉で説明しなさい、といわれると私には無理です ('◇')ゞ それは言葉では曰く言い難いもので、「いや、なんとなく、こんな風に」とか、体でやってみるとか、なんかそんな表現しかできない。感情も同じで自分の中で感情があって、それをなんとなく感じ取れることと、それを人に説明できることとはイコールではない。

 直観型の天才、長嶋茂雄の愉快なエピソードのひとつに、電話でバッティングの仕方を相手に説明した話を聞いたことがあるのですが、電話で話をしながら、電話口で相手に一生懸命「こうやって打つんだ」と形をして見せていたというんですね、もちろん相手には何も見えないわけですが、直観型の天才はそこになかなか気づかない (笑)

 つまり、直観タイプの場合、言葉でいろい分析して相手に説明する、といったことにならない。自分はまさに「直観的」に分るわけで、だから逆に言えば人に伝えるのはむつかしいわけです。で、ひとに言葉で説明がむつかしいということは、改めて自分で言葉を使って意識して理解することもしにくいことになります。(意識するって、言ってみれば自分で自分に語ったり説明するようなものですから)

 

 なんで私がそういうことを思ったかというと、パートナーがこんな話をしたからでした。私がネットでドラマを見ていたのですが、その時の音楽とかを聞いて、彼女はそれがとても苦手だというのです。なぜかというと、その音楽とかが自分のとてもいやな思い出と結びついてしまっていて、とても嫌な気持ちになってしまうからだということでした。それから彼女は「そういうことは定型の人にもあるんでしょ?」と聞きました。

 確かにそういうことは定型でもあります。有名どころでは「トラウマ」なんかそういう仕組みが関係していますよね。そういう場合、頭では「これは関係ないことだから不快感や恐怖感を持つのはおかしい」と分かっていても、体が勝手に反応してしまってどうしようもありません。

 ただ、なんとなく私はそのことを今まで感じ続けてきたのですが、パートナーの場合、そういう感じになることがとても多く、また強いように思えるのです。

 直観的な判断というのは、理屈で「これこれこういうことだから、こうなって、こうなって…」というふうに、だんだん考えていくのではなくて、ある時「これはこうだ!」と突然ひらめいてしまうわけです。「だんだんわかる」というより「一挙にわかる」感じになり、白黒がはっきりしている。で、一旦ある理解が成り立つと、それは崩れにくいし、細かく調整するという感じにもなりにくい。

 定型はたぶん感情がかかわるような理解について、直観的な判断ではなくて、だんだんと言葉でやりとりしながら細かく理解していくような方向に進んでいくんだと思います。で、そこでアスぺの方はそちらの方向にあまり進まずに、直観的な理解で進んでいかれると考えてみると、ちょっとわかりやすくなる気がします。

 昨日書いたことにつなげていえば、アスぺの方が定型のやりとりに「表と裏」を感じてショックを受けられる理由も、ここからちょっとわかるかもしれません。

 定型の目から見ればこの「表と裏の使いわけ」は、表現を柔らかくすることで「クッションを作る」という工夫の一つでもあります。そしてそんな風に「表」と「裏」の二つの表現をお互いに組み合わせて使う、というのも「直観的」ではないやりかたです。「白か黒か」という形ではなくて、「灰色」とか「いろんな色が混じった状態」をわざわざ作るわけですから。

 でも直観的なスタイルで感情問題を判断される方は、それはとても分かりにくくて、その結果なにか嘘をつかれているように感じてしまうのでしょう。「白か黒かはっきり分けて考える」タイプの方にとっては、「白でもない、黒でもない。じゃいったい何なの?」ということになるからです。パートナーと話をしていると、なんかそんな疑問を投げかけられることが多いような気もします。

 もしそういうことがある程度言えるのだとすれば、定型アスぺのやりとりで、感情的な問題の理解について、定型の側があまり理屈にこだわるようだと、関係がつくりにくいかもしれません。逆に定型でも言葉にたよらない直観的な理解が得意な方は、比較的うまくいきやすいかもしれない。ただ、その場合は「相性」がとても大きな意味を持つのでしょうね。お互いに「ピンとくる」、「馬が合う」感覚の持ち主の場合には直観的な通じ合いでわりにスムーズにいくのでしょうけれど、そこがずれてしまうと調整はむつかしくなる。

 そういえば私とパートナーの恋愛時期も、そういう「感覚的(直観的)なつながり」が大きかったような気がしてきました。そこですごく深くつながった感じがあった。

 でもだんだんと共同生活を続けて来て、よくわからない感覚的な細かいずれが積み重なってくると、そこでは「直観的な調整」というのはむつかしいので、「言葉で調整する」ことを試み始めるんだけど、だいたいそれは失敗してしまう。で、私の方はなぜそれが失敗するのかわけがわからず、定型同士だとうまくいくことがまったく通用しないので、途方に暮れる、という感じになるわけですね。


 うーんと、こういう理解の仕方もまた直観的というより「言葉でああでもないこうでもないと考える」形ですから、アスぺのみなさんとどこまで共有できるスタイルなのか、ちょっと私にはわかりません。その意味では自己満足かもしれませんが、自分のなかではなんとなく整理できる部分があるように感じます。
 

2014年6月 1日 (日)

定型の「裏表」

 介護関係である経験をして、その話をパートナーにしたら、しばらくして「それは定型に対してずっと経験し続けることだ」と言われました。ああ、そういうことなのか、と思いました。それはこんなことです。

 遠距離に終の棲家をわざわざ購入して住んでいた両親が、いよいよ二人とも体が悪くなり、しかも自宅で最期を迎えたいという父親がほぼ寝たきりになってしまいました。それで自分も体が悪い母親がいわゆる「老々介護」状態になりました。私たちも手伝いなどに行ったりはしますが、距離もありますし、とても毎日の対応は無理です。介護の方たちも大変によくやって下さっているのですが、もちろん24時間というのは無理で、夜中も何度も排泄の対応などで起こされたり、心身ともに疲労困憊してもう限界という状態が続いていました。

 わたしたちは念のために身近な施設なども準備してはいましたが、何しろ父親は絶対に受け付けませんし、母親も介護士さんたちから心配されて、そんなに無理せずに、できる範囲でやって、あとは自分たちに援助を求めればいいと言ってくれるのに、父親が何かを訴えるともうその場で対応しないといられない性格なので、全く気も体も休めない状態だったのです。

 でも結局なんどか大揺れをした後で母親は「もうだめ」となり、その混乱状態を見た介護のみなさんたちが緊急に父親の施設入所の可能性を探り、担当医の先生が「このままでは母親が倒れてしまう」と父親を説得して下さったのですね。

 それで急遽近くの施設に入所して、母親がそこに通う形になって、私もその対応に行ってきたのですが、それまではもう限界状況で父親にも激しく当たっていた母親が、父親が入所していなくなった翌日の朝には、「いないのがさびしい」といって泣くんですね。それから施設に面会に行って父親の顔を見るなりまた泣き出して、「かわいそうに」とか顔や手や体をなでまわしているんです。

 と、とても「感動的」な場面のように書くと、「もしかすると改めて入所させたことを後悔してあらためて家に連れて帰ろうとするんじゃないか」とか思われるかもしれません。実際その様子を私から聞いた介護の方は、そう考えられたようです。

 ところが1時間ほどそこにいた後、帰るときになって(私はそこに立ち会わなかったのですが)、それまで「自分は毎日通う」と言っていた母親は父親に「毎日来てもしんどいから二日に一遍でいいでしょう?」と返事も待たずに言い渡してきたと、「そんなの当然じゃない」という感じでにこにこしながら私に話をするんですね。

 この「劇的」な感情状態の切り替わりは母親の「特徴」のひとつなので、わたしは長年をかけてさんざんならされましたから、「ああ、ここでもそうか」という感じにはなりますが、以前のようにもうそれで混乱して振り回されてしまったりすることはありません。でもいくら慣れてもそのあまりに露骨な「裏表」にまあちょっとあきれる感じはあるんですね。本人はまったく悪気もないし、別にその時々で思ったことを正直に表現しているだけだという態度です。そしてその「裏表」ぶりを指摘しようものなら、逆切れされて手が負えなくなるだけです。

 ただ、そういう「特徴」を持った人についてあまり経験のない方は、やはり相当混乱させられてしまいます。というか、家族ですら混乱させられ続け、家族が崩壊することもあるくらいですから、他人ならますます当然という感じでしょう。

 で、家に帰ってからその話をパートナーにしたわけです。そうしたら冒頭に書きましたように、「それは定型に対してずっと経験していること」と言われたのですね。

 たとえばアスぺ当事者の方のブログなどで書かれていることもありますが、本人がいないところで散々みんなで悪口を言っていたのに、その人が来たとたんにみんなにこにこしてしやさしく話をする、とか、そういう場面をアスぺの方が見て、大変にショックを受けられるわけです。そしてそうやって「裏切られる」思いをずっとし続けるので、「定型(定型アスぺの違いに気づかない段階では「他人」)の言うことは真に受けてはいけない」という理解が身に沁みつくことになります。
 
 さて、そうすると、「パートナー(アスぺ?)→私(定型?)→母親(タイプ)」という並び方があるように思えてきます。母親のやりかたは私からすれば「裏表がある」もので「裏切られる」ようなものにも見えます。で、それに比べて自分は一貫していて「誠実」に思える。ところがその私(たち)のやりかたはパートナーから見れば「裏表があって」、「裏切られる」もので、誠実さに欠けて感じられるわけです。

 そんなふうに考えてみると、アスぺの方はある面では私が母親に苦労してきたような苦労を定型との間で積み重ねてきているといえなくもないのかなと感じたのでした。
 
 

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