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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年5月10日 (土)

愛のズレ

 愛を二種類に分けるという考え方を聞いたことがあります。ひとつはエロスで,性愛的な愛。肉体的な欲望が重要で,自分が中心になる。もうひとつはアガペーで,精神的な愛。無償の愛など,相手が中心になる。 いやこれは全然素人の聞きかじりなんで,大雑把な勝手な理解なんですけど……(^ ^;)ゞ

 「愛は奪う」という言葉と「愛は惜しみなく与える」みたいな言葉とをセットにして考えると,まあそんな感じなのかなと思ったりもします。

 人が助け合って生きのびていくには,そのどちらの愛も必要ですよね。エロスが無ければ子孫が絶えてしまいますし,アガペーがなければ信じ合って助け合うことがむつかしい。ありきたりかもしれないけど,でもやっぱり要はバランスなのかなと思います。そのどちらからも完全に逃れることはなかなか難しそう。

 ただ,バランスとは言っても,その時によって,あるいは人によって,どちらが強く出てくるかはいろいろだし,同時に両方が混じり合った関係もありそうです。性愛的な愛だって,「相手の喜びが自分の喜びになる」みたいな要素もあるでしょうし,無償の愛といっても,やっぱり「相手が幸せになってくれることで自分が救われる」みたいな要素はありそうです。やっぱりそんなに簡単には分けられないのかもしれません。

 いずれにしても,定型アスペのズレの問題を考えるときにも,この愛の考え方や理解の仕方のズレも,もしかすると結構大きいのかなと思いました。

 なにがどうずれるのかというと……,うーん,ちょっと頭が整理しきれません (^ ^;)ゞ
 またぼちぼち考えてみたい問題です (^o^)

 

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コメント

パンダさん

今朝こちらの記事を読ませていただいて、「シンクロニシティ」って本当にあるのだなと、驚いていると共に、感動しています。
パンダさん、この記事を書いて下さり、本当にありがとうございます。
自分自身のことを考えるきっかけが、またいただけたように思っています。

私は、自分自身の経験から考えたとき、「性愛的な愛」と「精神的な愛」は、ある意味表裏一体ではないかと思います。
性愛的な愛でも、相手に寄れば、「相手に尽くす喜びが自分の喜び(満足)になる」みたいなこともあると思います。
また、無償の愛といっても,やっぱり「相手が幸せになってくれることで自分が幸せな気持ちになれる」みたいな、相手に直に見返りは求めないけれど、尽くした結果、自分が幸せな気持ちになれるというような報酬が与えられることもあるのではないでしょうか。

ただ、これは全てのカップル(人)に当てはまるものではないのかなとは思いますが。
いろいろな条件が満たされてはじめて、性愛的な愛と精神的な愛のバランスの良いカップルになれるのではないでしょうか。
言葉で伝えることが苦手な人が誠心誠意を込めて、性愛的な行為で伝えることで、二人の信頼関係や、絆が強くなり、精神的な繋がりもより強いカップルになっていくこともあるでしょうし、その逆も然りでしょうし。
パンダさんも仰っているように、この辺りのバランスが大切なのでしょうか・・・。
どちらの要素も少ないと感じてしまうと、けっこう精神的にも、肉体的にもきつくなってしまうかもしれないですね。
どちらか一人が求めるだけでも、与えるだけでも難しく、二人の足並みがそろっていくことが、必要(大切)になるのではないでしょうか。
二人の足並みをそろえるためには、相手へ愛情、相手から愛されたいという気持ちなどをベースに、自分の持てる五感を最大限に(できるだけ)働かせて、相手に愛される女性(男性・人)であるように、各人が努力をすることが、大切なことであるように感じています。
もちろん、いろいろな相性も良くないと難しいかもしれませんし、考え方も人それぞれですから、一概には言えないのですがね。
「愛について」考えることは、この世に「男性」と「女性」という性がある限り、永遠のテーマの一つであるように感じています。

パンダさん、私に、素敵なシンクロニシティを起こしてくれてありがとうございました。
大切な人から大切にしてもらっていることも、伝えることの大切さも、再確認させていただけました。
とても、とても、感謝しています。(*v.v)。


星さん

>どちらの要素も少ないと感じてしまうと、けっこう精神的にも、肉体的にもきつくなってしまうかもしれないですね。

 そうですね。そうなるとつながり続けることへの手がかりがなくなる感じですね。
 
>私は、自分自身の経験から考えたとき、「性愛的な愛」と「精神的な愛」は、ある意味表裏一体ではないかと思います。

 アガペーというのは一種の「悟り」のレベルで成り立つ愛なのかとも思ったのですが,
 考えてみるとそのレベルになると特定の人への愛を越えて
 「万人への愛」みたいになるのかもしれないので,
 カップルについて考えるときにはやっぱりワンセットなのかもしれませんね。

パンダさん

お返事ありがとうございます。

>アガペーというのは一種の「悟り」のレベルで成り立つ愛なのかとも思ったのですが,

厳密にはそうだと思います。(*^-^)
私はパンダさんの記事の中の
「精神的な愛。無償の愛など,相手が中心になる。 いやこれは全然素人の聞きかじりなんで,大雑把な勝手な理解なんですけど……(^ ^;)ゞ」
のイメージで書き込みをさせていただいていました。本当にごめんなさい。o(_ _)oペコッ

以前、ある方のご縁で、数年間誰とも話さず、洞窟で一人で瞑想修行をされたチベットの高僧の方(ダライラマ猊下の御弟子さん)の講演を聴く機会があり、講演のあとの座談会で「長年厳しい修行を積んでこられても、怒りを感じることはありますか?」と質問させていただきました。
厳しい修行を積んでこられた方で、とても柔和な表情をされた、とても穏やかな、怒りなど感じることがないような方にお見受けしましたが、それでも、「怒りを感じることはあります。いかに修行を積んでも、それを完全に克服することは難しい」とおっしゃっていらしたように記憶しています。
渡辺和子さんも講演で、内容は違いますが、そのような意味の話をされていたように思います。
色々な方の講演を聴いたり、本を読んだりしてきて、アガペー(悟りの境地の意味も含む)には、いかに修行や修養を積んでも、なかなか到達できるものではないと、私は感じています。
そういったこともあり、私は、「アガペー≒相手を中心に考える精神的愛」というような意味で、先ほどはコメントさせていただいていました。

お伝えしたかったのは、「あるカップルにおいて、自分中心でなく、相手を中心に考える、性愛的な愛と精神的な愛が存在する時、その二つの愛は表裏一体であると感じています」です。
私の経験からくる思いなので、ほかの方にうまく伝わるかどうかが不安です。
パンダさん、いつも、誠実なお言葉を下さり、本当にありがとうございます。

星さん

>いかに修行を積んでも、それを完全に克服することは難しい」とおっしゃっていらしたように記憶しています。

 なるほど……。
 まあ当然のことなのかもしれませんが,改めて高僧からそう語られると
 大事な手がかりをいただける感じがします。

 なかなか意味深いするどい質問をされたんですね (^。^)

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