言葉にならないつながり
昨日,コルテオさんのコメントに触発されて,アスペの方がご自分の感覚で人とのつながりを考えるとき,「自分の中にある,言葉にはしづらい<何か>で,それが同時に自分を越えた世界(全宇宙とか)とつながっていて,そこで他の人とつながる」といったイメージになられることがあるのかなと勝手に想像したのでした。
といってもやっぱりすべてのアスペの方がそんな感覚なのかは私にはわからないのですが(というか,そもそもコルテオさんのイメージをうまくつかめているかどうかも怪しいですけど (^ ^;)ゞ),ただ,以前にもここで少し問題になったことや,私のパートナーのことを考えると,なんかちょっと手がかりのひとつかなという気がしています。
以前少し問題になったことというのは,アスペの方は,自分が「これはいいな」と思ったものについて,誰かに「見せてあげたい」と感じたときは,「ただだまってそれを見せてあげて,その人の自由な感じ方に任せ,自分の感想などを言って共感を求めるようなことはしない」というスタイルを大事にされることがある,という話です。
パートナーとつきあい始めた頃も,やっぱりそんなことがあって,彼女がきれいだと思った(と思う)ものをただそこに連れて行って,なにも言わずに見せてくれたことがありました。うれしくはありましたけど,自分の意見を言うわけでもないし,私の感想を聞くわけでもないし,当然語り合うことにもならないし,なんか不思議な感じが印象に残ったんですね。
でもコルテオさんのイメージ(かなという私の理解)で考えると,そういうスタイルがなんか「なるほどな」という感じがするわけです。
定型でも,人によっては,たとえば一緒に映画を見に行ったり,絵を見に行ったりして,その後とかその場でとか,いろいろ感想を言い合いたい人もいれば,どっちかといえば,自分の中で余韻を静かに楽しみたい,というタイプの人もいるように思います。また同じ人でも,感動がとても強ければ「言葉にならない」とか「言葉にしたくない」感じになったりすることもあるでしょう。
そういう感じの延長上にアスペの方の感覚を想像してみています。
そうすると,もともと自分の内面的なことや,感情的なひととのつながりについては「言葉にしにくい」感じを持たれているアスペの方が,ひととのつながりをそれでも自分の中で感じ取っているときに,どうするかというと,やっぱり「言葉にならない」ものを,ただそのままに相手に見せてあげる,という形で「共有する」スタイルになっても不思議はないなと。そしてその「言葉にならない」感じが大事だとすれば,相手の人の感じ方を自分の感想などで乱してしまわないことが,その人を大事にすることでもある,という感じになりそうです。
ま,相変わらず定型の私の勝手な想像ですけど,そう考えるとちょっと私的には理解がひろがるかんじがするのでした (^ ^;)ゞ
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