修行?
前の記事でアスペ定型問題を考えることは「人生を考えること」みたいなことを書きましたけど,少なくとも私とパートナーの間では,ほんとうに「気持ちの動き方」が違うと感じさせられることが多いので,それを乗りこえようとするとどうしてもそんな感じになるのかなと思います。
感情までを含めた気持ちの動きというのは,意識してそうなっているより,もう小さい頃から長い時間かけて作り上げて,体の深いところまでしみこんだ動きになってしまっていますし,定型アスペではさらには生まれながらの違いもその背景にあるわけですから,自分にとって「自然」な心の動きではやっぱり対応しきれないわけですよね。
そこを越えて関係を変えていこうとすれば,多かれ少なかれ,自分にとって「自然」な気持ちの動きから一旦は距離をとる必要が出てきてしまいます。自分にとって「これは人として当たり前の感じ方だ」と思っていたことが通用しなかったりするわけですから(しかも決してパートナーに悪意があるわけではなく,むしろ彼女にとっては善意だったりするわけで),どうしてもそうなってしまう。
あ,このあたりはやっぱり「自分のやり方へのこだわり」の強さによっても変わるかもしれません。もしものすごく柔軟に考えられる人なら,もともと自分にとっての「自然」な気持ちの動きにもそんなにこだわる必要がないとか,あるいは「相手に自然に合わせられる」ということがあるかもしれないわけですし。あるいは細かいことにはこだわらない性格の方とか,ある種の「見切り」が早い方とか。
私の場合はそういう柔軟性がないので (^ ^;)ゞ,自分の感じ方をすっと切り換えることはできなくて,そういう状態で違う気持ちの動き方を理解しようとすれば,どうしても自分の感じ方に一旦蓋をしてしまわないといけないところが出てきます。
そうやって今までの自分にとっての「自然」な感じ方とは違う世界をなんとか理解しようとして,一寸ずつはそれが出来る部分も出てきたとしても,そのままだと自分の感じ方が否定されたままになってしまいます。そういう状態は私はだめなんですね。実際にはそうではないのかもしれませんが,でもその状態は少なくとも私にとっては「一方的な自己犠牲」になってしまっているように感じてしまいますから,そのままではどっかで破綻しそう。
そういう状態を抜けようとして,改めて一旦蓋をした自分の感じ方とその理解をつなげて,お互いに通じるより深まった「自然」な感じ方を模索しようとしたとします。そうするとどうしても自分のそれまでの「生き方」にまで目を向け直さないと,先に進めないような気がするわけです。それってなんというか,「人生の一大修行」みたいな感じじゃないでしょうか。
まあ,そういう大げさな話しを必要としないでもっとスマートに乗りこえられる方とか,そのやり方とかもあるのかもしれないなあとは思うのですが,残念ながら今のところ私にはそこは見えてきません。
« 個性としてのアスペ | トップページ | 高熱なのになんで?の話 »
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
自分を知るきっかけは、抵抗感、嫌悪感、違和感、恐怖感、怒りなどマイナスの感情に起因することが多いように思います。
ASと定型のそれぞれの自己認識は、相手への混乱や否定感から始まるのではないかと感じます。
相手を否定しながら、自分をも自覚していく・・・
感情の流れのまま融合する関係性ではないので、常に頭で考えながらの付き合いになっていく。
思考と感情がせめぎあう時期も長いので、ふと気がついたときのフラットな瞬間は当事者でないとわからない幸福感があると感じます。
投稿: トマト | 2014年5月24日 (土) 23時38分
トマトさん
「目には青葉山ほととぎす初鰹」
昨夜、今年初めて、ほととぎすの「てっぺんたけたか てっぺんたけたか・・・・」という鳴き声を聞き、もうほととぎすが鳴く頃になったのだなと思いながら、眠りについていましたが・・・。
トマトさんのお声も聴けた嬉しい夜になりました。(*^-^)
久しぶりにトマトさんの美声を聴いて、心がほんわかしてしまい、つい、記事のコメントとは関係ありませんが、お顔を出してしまいました。(*v.v)。
投稿: 星 | 2014年5月25日 (日) 11時15分
トマトさん
おっしゃることがいちいちその通りという感じがします。
「思考と感情」のせめぎあいが,
お互いの経験の蓄積や交流で
すこしでもうまく乗り切れるようになるといいのにと思います。
投稿: パンダ | 2014年5月25日 (日) 21時35分