「身内VS他人」のズレ
前の記事について,トマトさんから経験談を踏まえたコメントを頂きました。以下はどうしても「定型の目」からの理解にならざるを得ないので,果たしてそういう見方でアスペの方が納得がいくのかどうかは分かりませんが,またご意見など教えていただけることがあればありがたく思います。
トマトさんはご自身の経験から,ASの友人の方が「この人(またはこれらの人たち)はこういう人だ」「この(これらの)ひと(たち)にたいしてはこういう対応をすればいい」という理解が一旦成り立つと,他の人(たち)に対する理解や対応にそれを応用したり,あるいは「この人(これらの人たち)」について別の文脈で別の理解や対応をしたり,ということは難しいのではないか,ということを書いて下さいました。
だから「世間的にはこういう理解や対応が求められている」ということを学んだとしても,それを世の中の他人に対しては応用できても,「他人ではない身内(家族)」については使えない,ということになります。
ところで,このところパートナーが割に強調するようになってきたかなと感じるのですが,パートナーは私が望んでいる対応の仕方についてはある程度理解はできるし,やろうと思えばある程度できると言います。ただ,その時は私を完全に「他人」として感じるようになる,ということなんですね。そう言われてしまうと,「望んだ対応をしてもらう」ことで「他人」になってしまうのは困るので,「そうして!」とも言えず,板挟み状態になってなかなかつらいものがあります(^ ^;)ゞ
そのことを考えてみると,少なくとも私のパートナーの場合は,「この人はこういう人間だからこういう対処」しかできない,という感じとは少し違って,「違う対処も分かるし出来るんだけど,それは他人モードだから今の自分にはそれができない」という感じなのかなと思うわけです。
このあたりはもしかすると例の「スペクトラム」の問題かもしれません。つまり,いわゆる「自閉度」の強い方の場合は「この人はこういう人間」という理解がかなり強固で,一旦それが固まってしまうとそれ以外の見方をすることがとても困難になる傾向があり,「自閉度」の弱い方はそこにある程度の柔軟性が加わるんだけれど,けれども「身内VS他人」という区別でそこはアスペ的に固く別れてしまって,定型が望むような調整は難しい,ということである可能性です。
この見方がどの程度実際に意味があるのかはもちろん分かりませんが,仮にある程度そういうことが言えそうだとすると,この「身内VS他人」という分け方については,定型も当然そうしているわけで,ただその内容が定型アスペでずれるわけですよね。「身内にはこう対応するのが当然」「他人にはこう対処するのが当たり前」というその中身がお互いにずれてしまう。
で,アスペの方がそのアスペ的な分け方を柔軟に調整することが難しいように,定型(私)も自分の「身内VS他人」の分け方をアスペ的なものに合わせることは本当に困難です。その点はやはり「お互い様」なのかなとも思います。でもどうしてそういう「身内VS他人」という分け方の違いがおたがいに生まれていくのか,その辺りはもうすこし理解できればなあと思います。
最近のコメント