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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年5月

2014年5月28日 (水)

「身内VS他人」のズレ

 前の記事について,トマトさんから経験談を踏まえたコメントを頂きました。以下はどうしても「定型の目」からの理解にならざるを得ないので,果たしてそういう見方でアスペの方が納得がいくのかどうかは分かりませんが,またご意見など教えていただけることがあればありがたく思います。

 トマトさんはご自身の経験から,ASの友人の方が「この人(またはこれらの人たち)はこういう人だ」「この(これらの)ひと(たち)にたいしてはこういう対応をすればいい」という理解が一旦成り立つと,他の人(たち)に対する理解や対応にそれを応用したり,あるいは「この人(これらの人たち)」について別の文脈で別の理解や対応をしたり,ということは難しいのではないか,ということを書いて下さいました。

 だから「世間的にはこういう理解や対応が求められている」ということを学んだとしても,それを世の中の他人に対しては応用できても,「他人ではない身内(家族)」については使えない,ということになります。

 ところで,このところパートナーが割に強調するようになってきたかなと感じるのですが,パートナーは私が望んでいる対応の仕方についてはある程度理解はできるし,やろうと思えばある程度できると言います。ただ,その時は私を完全に「他人」として感じるようになる,ということなんですね。そう言われてしまうと,「望んだ対応をしてもらう」ことで「他人」になってしまうのは困るので,「そうして!」とも言えず,板挟み状態になってなかなかつらいものがあります(^ ^;)ゞ

 そのことを考えてみると,少なくとも私のパートナーの場合は,「この人はこういう人間だからこういう対処」しかできない,という感じとは少し違って,「違う対処も分かるし出来るんだけど,それは他人モードだから今の自分にはそれができない」という感じなのかなと思うわけです。

 このあたりはもしかすると例の「スペクトラム」の問題かもしれません。つまり,いわゆる「自閉度」の強い方の場合は「この人はこういう人間」という理解がかなり強固で,一旦それが固まってしまうとそれ以外の見方をすることがとても困難になる傾向があり,「自閉度」の弱い方はそこにある程度の柔軟性が加わるんだけれど,けれども「身内VS他人」という区別でそこはアスペ的に固く別れてしまって,定型が望むような調整は難しい,ということである可能性です。

 この見方がどの程度実際に意味があるのかはもちろん分かりませんが,仮にある程度そういうことが言えそうだとすると,この「身内VS他人」という分け方については,定型も当然そうしているわけで,ただその内容が定型アスペでずれるわけですよね。「身内にはこう対応するのが当然」「他人にはこう対処するのが当たり前」というその中身がお互いにずれてしまう。

 で,アスペの方がそのアスペ的な分け方を柔軟に調整することが難しいように,定型(私)も自分の「身内VS他人」の分け方をアスペ的なものに合わせることは本当に困難です。その点はやはり「お互い様」なのかなとも思います。でもどうしてそういう「身内VS他人」という分け方の違いがおたがいに生まれていくのか,その辺りはもうすこし理解できればなあと思います。

 
 

2014年5月26日 (月)

高熱なのになんで?の話

 

東山家のエピソードでも紹介されましたし,パートナーと私や子どもとの間でもそういうことがあったので,定型アスペのズレとしてはある程度生じやすいことなのかもしれないと思うのですが,定型の側が病気で高熱を出しているときに,アスペの方から一緒に寒空に外出することを求められたり,家事をすることを求められたりして定型がショックを受ける,ということがあります。

 定型の感覚では,そう言う場合,「なんて残酷なんだ。思い遣りが全くないのか」と思ってしまうわけですが,これまでいろいろみなさんとやりとりしてきたことから考えると,どうもアスペの方にはそういう「つもり」はないようですよね。「つもり」というのはつまり,「この人は熱で苦しんでいて,本当は静かに休んでいなければならない。でも私はこの人には同情する気持ちにならないから,わざと苦しめてやろう」ということです。そういうことは多分考えていらっしゃらないんだろうなと思える。

 でも不思議なのは,たとえば私のパートナーの場合には,仕事で老人の世話をする場合には,「こういう状態だとしんどいだろうから,それは可哀想だから,こうしてあげたほうがいい」といった判断は,場合によって私なんかよりも上手にするんです。だから「当然誰に対してもそういうことはできるはず」という判断が定型の側には出来てしまうわけで,「にもかかわらず,自分にはそういう配慮をしてくれない」ことにますますショックを受けることになります。

 この問題はこれまでも別の点で何度か考えてきたことですが,アスペの方は相手に対してどういう配慮をするか,ということについて,相手が身内でない場合と身内の場合とでびっくりするような違いがあったりするようです。仕事上とか社会的なつきあいの場では「このように振る舞うべき」という一種の「テクニック」を身につけて,それを頑張ってやるんだけど,身内とはそういう「不自然な気の使い方」をする気にはならない。とりあえずそんな感じで私は理解しています。

 ですから,高熱の時に,定型からすると「無慈悲」な要求をしたりされるのは,「身内」だからなのかもしれません。

 じゃあなんで身内に対してはそこで「じゃあしっかり休んでいてね」と言わずに普段通りに何かを要求されたりするのでしょう?

 これも私の勝手な想像でいくつか考えてみることですが,ひとつには,自分が子どもの頃とか,同じ状況でつらさをうまく訴えられないまま,親がその状態を知らずにいろいろ要求してこられ,「こういう状態でもいろいろやらされるのは当然だ」という感覚を身につけられてしまっている可能性もありそうです。「自分だって同じ扱いを受けてきているんだから」というわけですね。

 そしてその後,世の中で他人に対してはそれをやると問題になるので,「他人向けの対処の仕方」を別に学ぶけど,身内に対しては自分が家族の中で体得したやりかたでやる。アスペの方は自分の辛さをうまく周囲の定型に伝えられないことが多いように思えるので,そういうことが起こっても無理はなさそうです。

 もうひとつ思いついたことは,「高熱」=「安静にさせてあげなければならない」ということがストレートには結びつきにくくて,高熱状態でもできることはあるし(まあ,物理的には実際無理すればできたりもしますから),どうしても辛いなら本人がそう言うはずだから,言わない以上問題はない,という感覚がアスペの方にはあるかもしれないということです。

 もし後者なら,定型の側が遠慮無く「熱で辛いからそれはむり」と断言すれば一応は解決と言うことになるのでしょうか。(ただし,仮にアスペの方が「自分は平気なんだから,相手も平気だろう」とまで考えられている場合にはそのやり方でも無理でしょうけれど)

 そんなときどうやったらうまく状況を切り抜けられたか,何か方法をご存知の方があれば教えていただければ嬉しいです m(_ _)m

2014年5月24日 (土)

修行?

 前の記事でアスペ定型問題を考えることは「人生を考えること」みたいなことを書きましたけど,少なくとも私とパートナーの間では,ほんとうに「気持ちの動き方」が違うと感じさせられることが多いので,それを乗りこえようとするとどうしてもそんな感じになるのかなと思います。

 感情までを含めた気持ちの動きというのは,意識してそうなっているより,もう小さい頃から長い時間かけて作り上げて,体の深いところまでしみこんだ動きになってしまっていますし,定型アスペではさらには生まれながらの違いもその背景にあるわけですから,自分にとって「自然」な心の動きではやっぱり対応しきれないわけですよね。

 そこを越えて関係を変えていこうとすれば,多かれ少なかれ,自分にとって「自然」な気持ちの動きから一旦は距離をとる必要が出てきてしまいます。自分にとって「これは人として当たり前の感じ方だ」と思っていたことが通用しなかったりするわけですから(しかも決してパートナーに悪意があるわけではなく,むしろ彼女にとっては善意だったりするわけで),どうしてもそうなってしまう。

 あ,このあたりはやっぱり「自分のやり方へのこだわり」の強さによっても変わるかもしれません。もしものすごく柔軟に考えられる人なら,もともと自分にとっての「自然」な気持ちの動きにもそんなにこだわる必要がないとか,あるいは「相手に自然に合わせられる」ということがあるかもしれないわけですし。あるいは細かいことにはこだわらない性格の方とか,ある種の「見切り」が早い方とか。

 私の場合はそういう柔軟性がないので (^ ^;)ゞ,自分の感じ方をすっと切り換えることはできなくて,そういう状態で違う気持ちの動き方を理解しようとすれば,どうしても自分の感じ方に一旦蓋をしてしまわないといけないところが出てきます。

 そうやって今までの自分にとっての「自然」な感じ方とは違う世界をなんとか理解しようとして,一寸ずつはそれが出来る部分も出てきたとしても,そのままだと自分の感じ方が否定されたままになってしまいます。そういう状態は私はだめなんですね。実際にはそうではないのかもしれませんが,でもその状態は少なくとも私にとっては「一方的な自己犠牲」になってしまっているように感じてしまいますから,そのままではどっかで破綻しそう。

 そういう状態を抜けようとして,改めて一旦蓋をした自分の感じ方とその理解をつなげて,お互いに通じるより深まった「自然」な感じ方を模索しようとしたとします。そうするとどうしても自分のそれまでの「生き方」にまで目を向け直さないと,先に進めないような気がするわけです。それってなんというか,「人生の一大修行」みたいな感じじゃないでしょうか。

 まあ,そういう大げさな話しを必要としないでもっとスマートに乗りこえられる方とか,そのやり方とかもあるのかもしれないなあとは思うのですが,残念ながら今のところ私にはそこは見えてきません。

2014年5月21日 (水)

個性としてのアスペ

 しばらくご無沙汰してしまいました。ご心配下さる方もあって,失礼いたしました。多少ばたばたはしていますが,だいたいいつも通りに過ごしています。

 ごぶさたになったのは,「これを書きたい」とか「これを書かなければ」ということをここしばらく強くは感じなかったので,まあそういうときは無理に下手なことを書かない方がいいかなとか思ったからでした。そうこうしているうちに結構日が過ぎていました (^ ^;)ゞ

 パートナーとの大きなズレが無くなったとか,そういうことではもちろんないのですが,なんとなくある意味で一段落した部分もあるのかなと思います。何がどう一段落したのかはまだよくわかりません。ひとつこの間思ったのは,「アスペルガー」ということを,なんとなくひとつの「個性」と感じ始めているかもしれないと言うことです。なにかものすごく特別のことというより。

 とりあえず一段落したかもしれないとして,でもまた,次にどんな問題が改めて浮かび上がってくるのか今のところは見えてきませんが,そのうちに見えてくるでしょうし,それにあわせてぼちぼち書いていきたいと思います。

 また,みなさんからのコメントや投稿(私宛にメールでお送りいただければ,記事の欄に掲載させていただきます)を頂いたときには,そこでの問題提起などについては引き続き考えさせていただきたく思いますので,どうぞよろしくお願いいたします。

 
 パートナーにとても助けてもらっている介護の方は,だんだんとひとつの終着点に近づきつつある感じですけれど,人が終わりに向かう,というのは大きなことだなと改めて感じています。「裏を見せ,表を見せて,散る紅葉」というのがありましたが,「紅葉」と言えるかどうかは別にして,なるほどなあと思わせられます。自分が最後に向かうときにはどんな形で「醜態」を晒すのかとか思うとちょっと考えちゃいますね (^ ^;)ゞ

 ……うーんと,なんというか,やっぱりアスペ定型問題を考えるというのは,いろんな意味で「人生を考える」ということかなとも思います。介護問題を通してもそう感じますね。

 

2014年5月12日 (月)

言葉にならないつながり

 昨日,コルテオさんのコメントに触発されて,アスペの方がご自分の感覚で人とのつながりを考えるとき,「自分の中にある,言葉にはしづらい<何か>で,それが同時に自分を越えた世界(全宇宙とか)とつながっていて,そこで他の人とつながる」といったイメージになられることがあるのかなと勝手に想像したのでした。

 といってもやっぱりすべてのアスペの方がそんな感覚なのかは私にはわからないのですが(というか,そもそもコルテオさんのイメージをうまくつかめているかどうかも怪しいですけど (^ ^;)ゞ),ただ,以前にもここで少し問題になったことや,私のパートナーのことを考えると,なんかちょっと手がかりのひとつかなという気がしています。

 以前少し問題になったことというのは,アスペの方は,自分が「これはいいな」と思ったものについて,誰かに「見せてあげたい」と感じたときは,「ただだまってそれを見せてあげて,その人の自由な感じ方に任せ,自分の感想などを言って共感を求めるようなことはしない」というスタイルを大事にされることがある,という話です。

 パートナーとつきあい始めた頃も,やっぱりそんなことがあって,彼女がきれいだと思った(と思う)ものをただそこに連れて行って,なにも言わずに見せてくれたことがありました。うれしくはありましたけど,自分の意見を言うわけでもないし,私の感想を聞くわけでもないし,当然語り合うことにもならないし,なんか不思議な感じが印象に残ったんですね。

 でもコルテオさんのイメージ(かなという私の理解)で考えると,そういうスタイルがなんか「なるほどな」という感じがするわけです。

 定型でも,人によっては,たとえば一緒に映画を見に行ったり,絵を見に行ったりして,その後とかその場でとか,いろいろ感想を言い合いたい人もいれば,どっちかといえば,自分の中で余韻を静かに楽しみたい,というタイプの人もいるように思います。また同じ人でも,感動がとても強ければ「言葉にならない」とか「言葉にしたくない」感じになったりすることもあるでしょう。

 そういう感じの延長上にアスペの方の感覚を想像してみています。

 そうすると,もともと自分の内面的なことや,感情的なひととのつながりについては「言葉にしにくい」感じを持たれているアスペの方が,ひととのつながりをそれでも自分の中で感じ取っているときに,どうするかというと,やっぱり「言葉にならない」ものを,ただそのままに相手に見せてあげる,という形で「共有する」スタイルになっても不思議はないなと。そしてその「言葉にならない」感じが大事だとすれば,相手の人の感じ方を自分の感想などで乱してしまわないことが,その人を大事にすることでもある,という感じになりそうです。

 ま,相変わらず定型の私の勝手な想像ですけど,そう考えるとちょっと私的には理解がひろがるかんじがするのでした (^ ^;)ゞ

 

2014年5月11日 (日)

「私の中」のつながり

 コルテオさんのコメントを拝見していて,
 なにか「アスペ的な世界」へのイメージがちょっとふくらんだかも,
 という気持ちになりました。
 (もちろん誤解かもしれません (^ ^;)ゞ )

>レオ・バスカリアさんという方の、本の中の言葉です。――インドでは、だれかに会うたびに、あるいは別れを告げるたびに、両手を合わせて「ナマステ」という。これは、あなたのなかの全宇宙が宿る場所に向かって私は手を合わせる、ということをあらわしている。そこにあなたがいるのなら、そして、私のなかの同じ場所に私がいるのなら、私たちはひとつだというのである。――「その人と私を関わらせる何か」は、この感じに似ています。

 wikiで見たら,イタリア系のアメリカの教育学者の方でした。
 それぞれの人が自分の中で,あるいは自分の深いところでひとりひとりが
 全宇宙につながっていて,実はその全宇宙の中で人は他の人と共にいる,
 みたいな感じなのでしょうか。私の中にある「普遍」みたいな。

 アスペの方が他者とつながりにくい自分の世界を感じながら,
 でもやはりそれが他者とつながっていると思えるときには
 もしかすると「私の中の深みで他の人とつながる」みたいなイメージを
 持たれるのかもしれないなと感じたのでした。

 多分そういう感じだと,その世界は「言葉を越えたもの」でしょうし,
 「私の中にあって私を越えたもの」になるのでしょうね。

 仮にそんなイメージである程度理解できるものだとすれば,
 バスカリア(ブスカリア)さんやインドの多くの方は定型なのでしょうから,
 定型とアスペの方の「ひととのつながり」の感覚については
 そういうイメージで考えれば「通じ合える」可能性があるのかもしれません。

>パンダさんが他の記事で仰っているとおり、内面を説明することは、苦手です。どうしても、それを、掴めません。いつも、すぐそばに、確かにあるのですが。本の中に、言葉を見つけたときは、光が差すように感じます。

 この「いつも,すぐそばに,確かにある」という感覚が新鮮でした。
 言葉にはなかなかならないんだけど,感じ取ることが出来る「何か」。
 ただ,まったく言葉にならないのでもなくて,他の人の言葉によって
 それがご自身にも見えてくる感じになられることもある。

 私の勝手な想像ですけれど,上のブスカリアさんの話とつなげて考えれば,
 他者とのつながりは「私のなか」に感じ取れる何かで,
 そして自分の内面も「そこ」にあって感じ取れる何かで,
 どちらも言葉にはなりにくいけど,確かに「いつも,すぐそばに」あるもの
 というイメージではつながっているのかもしれません。

 アスペの方がみなさん同じような考え方をされるのかどうかは
 難しいところですけれど,ひとつの考え方(感じ方?)として
 そういう見方があるのかなということについては
 「なるほどなあ」という気がしたのでした。
 (いや,ほんとに誤解かもしれませんけど (^ ^;)ゞ )

(コルテオさん:また触発されたので,ちょっと私の感想を書かせていただきましたが,お返事ということはお気になさらず,もし書きたい気持ちになられたときがあれば,その時に自由にお書き下さい。)
 

2014年5月10日 (土)

愛のズレ

 愛を二種類に分けるという考え方を聞いたことがあります。ひとつはエロスで,性愛的な愛。肉体的な欲望が重要で,自分が中心になる。もうひとつはアガペーで,精神的な愛。無償の愛など,相手が中心になる。 いやこれは全然素人の聞きかじりなんで,大雑把な勝手な理解なんですけど……(^ ^;)ゞ

 「愛は奪う」という言葉と「愛は惜しみなく与える」みたいな言葉とをセットにして考えると,まあそんな感じなのかなと思ったりもします。

 人が助け合って生きのびていくには,そのどちらの愛も必要ですよね。エロスが無ければ子孫が絶えてしまいますし,アガペーがなければ信じ合って助け合うことがむつかしい。ありきたりかもしれないけど,でもやっぱり要はバランスなのかなと思います。そのどちらからも完全に逃れることはなかなか難しそう。

 ただ,バランスとは言っても,その時によって,あるいは人によって,どちらが強く出てくるかはいろいろだし,同時に両方が混じり合った関係もありそうです。性愛的な愛だって,「相手の喜びが自分の喜びになる」みたいな要素もあるでしょうし,無償の愛といっても,やっぱり「相手が幸せになってくれることで自分が救われる」みたいな要素はありそうです。やっぱりそんなに簡単には分けられないのかもしれません。

 いずれにしても,定型アスペのズレの問題を考えるときにも,この愛の考え方や理解の仕方のズレも,もしかすると結構大きいのかなと思いました。

 なにがどうずれるのかというと……,うーん,ちょっと頭が整理しきれません (^ ^;)ゞ
 またぼちぼち考えてみたい問題です (^o^)

 

2014年5月 6日 (火)

レタスが好き

 パートナーの言葉に,自分が否定されたり,不当に責められているように感じたとき,以前はむすっとしたり,反論したりということが多かったと思うのですが,彼女にはそういうつもりはないらしいということが何となくわかってきてからは,あまり反論したりもせず,「これ,どういう意味で言ってるのかな?」とか「何を伝えたいんだろう?」とか「どうしてこんな風な表現になるんだろう?」ということをちょっと引いて考えることが多くなっています。

 そんな風に私の考え方とかが変わってきていることについては彼女にも時々話していますが,そのせいもあるのでしょうか。最近は私が反論もせずにいると,彼女の方から「怒ったり,責めたりしてるんじゃないからね」と言って,改めて何が言いたかったのかを考えて話してくれたりすることがぼちぼち出てきたように思います。そして以前なら私が一人で「パートナーは何を言いたいんだろう?」「お互いに何がずれているんだろう?」と考えていたことについて,なんとなく一緒に話し合える感じも出てき始めています。

 それはそんなに大げさな話というより,日常のほんの些細なことについてであることもよくあります。今朝も私が朝食にレタスを食べようとしていたら,「あなたほんとにレタス好きだよね」というので,「最近ちょっと野菜に飢えてるみたい」と言ったんです。実際昨日も二人で外食した時に,メニューの中の野菜中心のスープにすぐ目がいって頼みましたし,なんか野菜ジュースを飲みたくなったりとか,このところちょっとそんな気分がしていたんです。で,なんかそういう気分か体調か,そういうのを伝えたかったんですね。それに対して彼女はほぼ即座に「野菜じゃなくてレタスが好きなんだよ」と返してきました。

 で,以前なら私が「そういうことじゃなくて」と反論して,そうすると彼女がその「反論」に緊張するのか,私には理解しにくい反論をすぐに返してきたりして,話が混乱してきてわけがわからなくなってげっそりして終わる,ということもままあったのです。でも今朝は私が反論を控えていたら,彼女の方から「文句を言ってるんじゃないからね」,と改めて言いたいことを考えながら説明してくれて,私も納得できるところは積極的に同意して,そうでないところはまた話をして,という感じで,それなりにおだやかに納得して終わりました。

 そう言えば,最近,彼女の目から見たら,私のような人間はどんなふうに見えるのか,と言うことについてなんとなく分かるところも出てきた感じがあるのですが,そうするとこれまでは「なんでそんな見方になるんだ!」とか憤慨したり,自分の大事な面を「理解されない」ことにがっかりしたり感じることが多かったのが,逆に「たしかに言われるような面はあるなあ」とか,「彼女からすれば自分のこういう面はすごく気になるし,迷惑なんだろうなあ」とか,なんとなく分かる気がして,言われても同意することがぼちぼち増えてきています。

 なんか,そんなふうに受け止めあえる関係にちょっとなってきているのかなと,そんな風にも感じるのでした。もちろん定型同士の関係でも,ズレが重なってお互いに緊張した,対立した固い関係になってしまった後,改めてお互いに受け入れ会う状態に進めるときには,同じようなことが起こっていると思います。ということは,「ズレの中身」とか「ズレの質」みたいなものには定型同士の関係とアスペ定型の関係では違いがあるでしょうし,それを乗りこえるのに必要な具体的な努力の中身もまた違うのでしょうけれど,その「ズレ」や「対立」や「緊張」を乗りこえていく過程というのは,大きく見ればどちらもそんなに違いはないのかもしれませんね。

2014年5月 5日 (月)

「解答」への道

 

かふぇおれさんからコメントを頂いて,その中にこんな一節もありました。

 「長い年月を経て、今はもう、そのへんは私と夫の決定的違いであって、同じになるということに、意味はないな、と思うようになりました。なんというか・・根本的に、信頼というか、一緒に暮らしている楽しさとか、もちろん、経済的に夫に頼る部分も多いし家のことは私がすることが多く、それで支え合っていて夫婦でいるからこそ、2人の生活は回っていてそこに子供がいて、暮らしがある、ということが一番大事であって、分かり合う、共感する、キモチを共有することだけが大事なことではないという結論にいたり・・・今があります。」

 ああ,これがもしかするとアスペ定型のズレを抱えたカップルの中で,定型の側に生まれるひとつの「解答」なのかもしれないな」と思いました。私自身もその「解答」に向かうステップの一つを歩んでいるのかもしれません。もちろんこれは「定型の側の解答のひとつ」であって,アスペの方はまた違う形で「解答」に辿り着くのでしょうし,同じ定型でもまた違うパターンもあるでしょう。もちろん「別れる」という別の選択肢もありうるわけですし。

 いずれにせよ,カフェオレさんがその「解答」に辿り着くまでには,随分といろいろな道のりがあったのだろうなと思います。人によってその「解答」に比較的早く辿り着く方と,私のように鈍くさくうろうろしながらゆっくり進む人間と,そこもまたいろいろでしょうけれど,みなさんがどんなふうにその道をたどっていらっしゃるのか,さらに交流できるといいなと感じました。というか,それ以前の問題として,似たような方向で進んでこられた方が他にもやっぱりいらっしゃると知ることが出来たのは大きいです。

 カフェオレさんの場合,さらに息子さんとの関係がそこに加わっていて,ちょっと違った視点から立体的に定型アスペ関係について教えていただけそうな気もしました。またこんなことも書いて下さっています

 「夫とは、私が勉強したカウンセリングの内容を話したりしているので、「ああそういうのは、聞いたら、うん、って頷いてればいいんでしょ。」とか言われて初めは、なんて馬鹿にしてるんだろう~って腹が立ったりしたのですケド悪気ないな、ってことが分かって来て、そういう反応か、って内心、笑っちゃって楽しんだりしてます。こちらがこう言うと、次はどう返ってくるんだろう?って、それが自分の想像することとは、ほんとに違うので逆に楽しみだったりするのです。」

 これも「腹が立つことを言われる」→「悪気はないことが分かってくる」→「違いに興味を持つ」→「違いを楽しめるようになる」という気持ちの移り変わり方が,「ああやっぱりそんな風に変化していくんだなあ」と,自分のこれまでの経験からも想像できました。特に「楽しめるようになる」ところまで行くのはなかなか大変だと思いますけど,逆に言えば,そこまで行ければ基本的に「問題クリア」と言えるのかもしれないと思ったりします。

 じゃあどうやったら比較的スムーズにそこにたどり着けるのか,というコツみたいなものが見つかるといいですよね。もちろん個人個人違うところも大きいでしょうし,パートナーとの相性などによっても随分変わるとは思いますけれど。

 

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