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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年4月11日 (金)

冷徹なやさしさ

 引き続きパートナーの「生き方の重み」みたいなものが私の中でずっしりと感じられるようになってきています。

 これは必ずしも定型アスペのズレの問題ではないかもしれないのですけれど、これまではほんとにお互いに生きる世界が違っていて、私の生き方から見ると、彼女の生き方はなんだか説得力が無くて、大事なことを無視しているような、逆にどうでもいいことに激しくこだわっているような、意味がよく分からない薄っぺらい世界に感じられてしまっていたんだと思います。

 それが少しずつでもパートナーの生きてきた世界を私なりに感じ取ることが出来るようになって、その視点から見たときに、これまで私が全然見ていなかった違う世界を見て、その中で頑張って生きてきた彼女が感じ取れてきます。そしてその彼女が見ている世界は、実は私自身にとってもすごく重要なんだ、ということを思うようになってくる。そうすると、彼女の世界がぐっと重みを持って感じられてくるんですね。

 最近しみじみ感じていることの一つは、パートナーの「やさしさ」についてです。老人福祉の現場では、ほんとに「壮絶」な家庭だとか、あるいは老人の生き方などに出会うことが少なくないようで、まあ普通の(?)感覚から言えば「この人はなんてめちゃくちゃな人なんだ!」とか「なんてひどいひとなんだ!」と憤りを感じるような人もあるわけです。もしその人が高齢でいろんな困難を抱えていても、「自業自得でしょう」と言いたくなるような、そんな場合だってありうる。もし私なら「こんな人のケアなんかしてやるものか」と思ってしまうかもしれません。まあ、仕事だからしたとしても「いやいや」でしょう。

 でも、最近改めてパートナーの生き方を見ていたり、時々語る言葉を聞いていたりすると、私ならとてもじゃないけど、同情なんて出来なさそうなケースでも、それはそれとして、でも現に生きていく上で困っていることについて、それを「可哀想(? ちょっと感覚は違うかも)」と思えて、必要な対応を出来るみたいなんですね。

 なんか、「人間なんて、ほんとにひどいことをするし、ひどい人もいる」ことをストレートに見つめた上で、「それが人間だ」と思い、そういう人間を相手にしてケアをするのが自分の大事な仕事だと彼女が思えているように私は感じるのです。

 それは「優しく共感してあげる」とか、そういう世界とはちょっと違います。その人の「えぐい」ところとか、そういうこともちゃんと冷徹に見ていて、必要な警戒や注意はしながら、でもその人が生きていく上で必要な援助をちゃんとするんですね。ある意味でその「えぐい」ところもそのまま受け止めているわけです。

 今何かうまい表現を探そうとしているのですが、「暖かく優しい共感的関わり」などではなく、「冷徹で現実的な援助の関わり」とでも言えるもので、でもそれはその人が一番基本の所で生きていくことを支える「やさしさ」なんですね。

 そういう目で見ると、自分がパートナーに求めているような「暖かい関係」は、なんだか上っ面の甘えた気持ちに過ぎない、という風にも見えてきます。もちろん自分のそういう部分を意味がないものとして頭から否定してしまう気持ちは全くありませんけれど、でもある面ではそういう「甘えに過ぎない」ところもあるんだなあという気がするんです。

 なんだかほんとにいろいろ考えさせられます。
 

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コメント

パンダさんへ  トマトです。

下手に「共感」しないから、相手や周囲に振り回されたり、巻き込まれたりしないで、仕事の基本に忠実に「自分から発信」の思いやりで、対応できる、
ということは素晴らしいことですね。

定型の多くは、自らの思いでした行為も、予定調和が崩れたとたん「あんなにしてあげたのに」と欲求不満や被害者意識におちいってしまいがちなので。

こういうことを考えると「共感」というのは、相手と同じ感覚になるという自発的行為と同時に相手にも、潜在意識下でなんらか期待も生じているのでしょうかね?

例えば、「生き方やその発言に深く共感した」と思っていた相手が「こんな人だと思わなかった」に反転することは多いと思うからです。

相手に期待せず、自己完結の親切や思いやりを持つというのは、なかなか難しく尊い姿勢に感じます。

トマトさん

>こういうことを考えると「共感」というのは、相手と同じ感覚になるという自発的行為と同時に相手にも、潜在意識下でなんらか期待も生じているのでしょうかね?

 はい。私はそう思います。常にお互いの間で何かのバランスを求めている。
 定型アスペ間のズレは、そのバランスが取りにくいこと、とも言えるのじゃないでしょうか。

>相手に期待せず、自己完結の親切や思いやりを持つというのは、なかなか難しく尊い姿勢に感じます。

 信仰を持つ方なら、相手から見返りが無くても、
 「神」とかなにかそういう人を越えた者から「認めてもらう」とか「受け入れてもらう」とか、
 あるいはそういう大きな者に「感謝を捧げる行為と考える」とか、
 なんかそんな形でバランスがとれるのかもしれないと思います。
 
 私はそういう感覚はあんまりないので、
 やっぱり現実世界の中でなにかバランスを求めてしまいますね (^ ^;)ゞ

パンダさんへ トマトです。

【信仰を持つ方なら、相手から見返りが無くても、
 「神」とかなにかそういう人を越えた者から「認めてもらう」とか「受け入れてもらう」とか、
 あるいはそういう大きな者に「感謝を捧げる行為と考える」とか、
 なんかそんな形でバランスがとれるのかもしれないと思います。】

これ、理想ですわぁ。この生き方を実践しようとすると、Theこの世の修行 ですね。

定型とAS、定型と定型、の関係性ではバランスをとる神経や感覚のポイントが違います。
でも、許容や理解には、お互いの歩み寄りという姿勢は同じような気がします。

パンダさんと奥様には、その歩み寄りがあるから、コメントの中に暮らしの香りがするのだと思います。


トマトさん

>パンダさんと奥様には、その歩み寄りがあるから、コメントの中に暮らしの香りがするのだと思います。

 この「暮らしの香り」という評価はうれしいです。
 やっぱり、できるだけ生の暮らし、生活の中で問題を考えたいと思っているので。
 

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