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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年4月29日 (火)

共感は不誠実?

 最近仕事がらみでちょっと「まいったな~!」と思うことがあって,パートナーに話したんですね。パートナーもそれに関することでは前から腹立たしく思っていたのですが,さらに今回のことがあって彼女は「もう私はしんどい」というようなことを言いました。

 それで,その思いは私も同じなので,思いっきり共感モードで「ほんとにそうだよね!」と言ったのですが,それに対して即座に帰ってきた言葉は「じゃあどうするの?」というものでした。

 「まいったな~!」と私が言っているのは,困るけれど,どうしようもないからそう言っている訳なので,そんなふうに「責められる(と感じます)」ことにちょっと傷つきながら,「いや,どうすると言われてもどうしようもないんじゃない?」と言ったんですね。

 そしたら彼女が言うのは,「それなら最初から「どうしようもない」と言ってくれないと。「ほんとにそうだよね!」と言われたら,じゃあなにか対策があるのかと期待してしまうじゃない。そうやって期待を抱かせておいて「どうしようもない」と言われるのはしんどいから,最初から「どうしようもないじゃない」と言われる方が誠実だ」ということでした。

 私は「いや,そこは定型はやっぱり評価を共有するところが大事なんだ」と言うんですが,そういうことはこれまでも何回か説明してきたので,彼女も一応は分かっているようです。でもやっぱり彼女にとっては定型的な「共感」の言葉は,「口先だけで誤った(無責任な?)期待を持たせて,結局裏切る」という不誠実な態度に感じられて仕方ないようです。

 なんだか定型アスペのズレがすごく分かりやすい形で見えてきてるなあと思いました。定型的に考えれば,にっちもさっちもいかなくて「こまったなあ!」となっているときに,「ほんとにそうだよね」と分かってもらえることは大事な支えになりますし(カウンセリングで強調される「共感的態度」なんてそれそのものですよね),逆にそこで「しょうがないじゃない」といきなり言われるのは,自分のつらさを切り捨てられたような,ものすごく冷たい態度を取られたように感じて傷つきやすいでしょう。

 ところがアスペ(少なくとも私のパートナー)の場合は,「解決策もないくせに,口先で同情してみせる」ことのほうが,よほど冷たい態度だと言うことになるようなのです。

 たしかにそういう見方はわからないでもありません。定型的な共感は,そこから「じゃあどうしようか」という解決策の模索に結びついていくこともありますし,逆にある種の「ガス抜き」じゃないですけど,「共感しておしまい」という場合も少なくありません。そしてひどいときには表面的には同情するふりをしておいて,蔭ではぼろくそに言ったり,相手を馬鹿にしていたり,ということも無いとは言えません。それ自体が変な「駆け引き」に使われることもありうる。

 定型の場合は「共感される」こと自体である程度はホッと出来る部分がありますし,さらに相手の共感がどれほど「誠実」なものかを「見分ける」姿勢や,ある程度の技も経験的に積み重ねていっているのだと思います。だから「あ,これは単なるお愛想だね」と感じれば,それほど期待もせず,社交辞令としてさらっとうけとめてすませるし,「ほんとに誠実だし本気だ」と思える場合はさらに期待もでてきたりして,そこでバランスをとるようにしているでしょう。

 けれどもパートナーも言いますけど,多分アスペの方はそういうことを「見分ける」ということはほんとに困難であるようです。定型にとってもそこを見分けるのはしばしば容易ではなく,「裏切られた」とかいう話しもいくらもあるわけですから,アスペの方がそれが難しくても当然かもしれません。

 だからアスペの方は相手のかけてくれる「同情的な言葉」を真に受けて,痛い目に遭う,ということはずっと繰り返し体験されてきているのでしょう。その結果そもそういう共感的な言葉全体が不誠実に感じられるようになってくるとしても,さほど不思議はないように思います。そしてそんな「誤魔化し」の不誠実な言葉を掛けられるより,ストレートに「仕方ないじゃない」といった「現実的」な言葉を掛けられる方が,よほど実際の自分の対処に役に立つ情報なので,誠実に感じられることになります。

 このあたりが,以前クッションのことを書いたことにもつながっていくように思います。

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コメント

最近、ブログを発見しまして読ませていただいています。

特にこの記事で書かれていることが腑に落ちる感じで、コメントさせていただきました。

成人した息子が発達障害、の疑いありです。中学から学校へなじめず、独自の成長をしています。
病院拒否で診断は受けてないのですが、特性ありと思うと納得いくことばかりです。

でも今回のお話、表面的な共感のことは、私も日ごろ感じることです。

相手の本音は分かりにくいという体験は多いですし、自分も本音だけで生きられないので、
社交辞令での共感や、思いやりの態度をとることが社会適応か、と思うことがありますね。

カウンセリングのことも息子の問題から学んでみて、
基本が相手の話に共感することで
相手がエネルギーを得て悩みを考える見方が変わったりして悩みが軽減されたり解決の道が見えたりする
ということだと思うのでそれが万人へ通用するかと思いきや
息子へはあまり通用しないのでした。

人に共感されたって、それで自分の悩みが解決するわけない、
人に共感されることを求める人にしか、カウンセリングなんて意味ないよ、というのが息子に言い分で
でも私もそれ、分かるな~と思う部分があります。

感情的なことを共有したい、同じ感覚を確かめ合いたいと思うことが人間らしさ、と思うと
それに意味ないというタイプは冷たい人間となるのかもしれないですが
そういうことばかりが重視される今の社会も、特性ある人たちの生きづらさを強めているんだろうな~と思ったりします。

カフェオレさん

 初めまして。どうぞよろしくお願いします。

 書いて下さったこと,「いや~ほんとにそうだよな~」と思ってしまいました。
 (これ,思いっきり定型的反応ですね (^ ^;)ゞ )

 少なくとも定型目線でこの問題を理解しようとすると
 そんな風に理解してみると少し分かりやすくなる気がします。
 ただ,そういう言い方でアスペの方が納得できるのかどうかは
 やっぱり私にはなんとも言えませんけど……

 でも一寸ずつでもパートナーとの間に
 足場として共有できる部分が増えてきているように感じています。
 「違う」ということを前提にしてはじめてできる「共有」でしょうか。

 カフェオレさんと息子さんの関係はそのあたり,「共有」はどんな感じなんでしょうね。
 夫婦と親子ではまた違いもあるんだろうと思いますし。

早速のお返事、ありがとうございます。よろしくお願いします。

私も自分が定型なのか、アスペなのか?と疑うこともあったりして・・絶対的な定型です、とは言い切れないところがあります。

でも誰でも、そこは分からない部分じゃないかな、と私は思ったりしています。

アスペだから、こういう性格になる、ってことなんでしょうかねぇ・・

そのへんも、いつも考えています。

息子との関係の「共有」の前に、私は夫との関係がまず、問題となっていたので、そこを書きたいと思います。

私の夫も、特性あるな~と思うところ満載です。
世の男性は結構、そうなのかもと今は思います。

息子の不登校の問題が出たとき、
夫婦なのだから話し合い、感情や考えを共有しあい、なにかと支え合うことが当然と私はそのへんをとても夫へ求めたのですが
夫は、「分からない」というのが口癖で。

私はただ、自分の言ったことに、共感してほしかったんだと今なら思うのですが
それが夫には、何か解決する方法が分からなければ答えられないというキモチになるようで
まず、共感する、それで相手が安心する、という構造が理解できない感じでした。

長い年月を経て、
今はもう、そのへんは私と夫の決定的違いであって、
同じになるということに、意味はないな、と思うようになりました。
なんというか・・
根本的に、信頼というか、一緒に暮らしている楽しさとか、もちろん、経済的に夫に頼る部分も多いし
家のことは私がすることが多く、それで支え合っていて夫婦でいるからこそ、2人の生活は回っていて
そこに子供がいて、暮らしがある、ということが一番大事であって、
分かり合う、共感する、キモチを共有することだけが大事なことではない
という結論にいたり・・・今があります。

まだ息子にはそこまでのキモチになっていないのが、現状ですが
やはり夫婦、親子では、立場も違うし
息子の生活が経済的精神的にも、しっかり自立すれば
また夫へ感じているようなキモチに自分がなるだろうな、と思ったりします。

人は違う、ということを、とても感じて、
違うままでいいのだな~~ということを、長い年月をかけて、学習した、という感じの私です。

(本当に想って欲しいと言う意味で(こう書かないと…)同情が欲しく無いのではなく、なんというか言い方の問題なんじゃないでしょうか…「そうだよね」と言う言い回しには、同情というより、何か解決策が有って言っていなければ、勝手に先に相手が事を受容しているように感じ、酷いと感じるのでは無いでしょうか?

(自分を本当に想って欲しくないと言うような)、「同情(共感)が欲しく無い」のではなくて、なんというか言い方の問題なんじゃないでしょうか…「そうだよね」と言う言い回しには、同情(想ってくれるもの)というより、何か解決策が有って言っていなければ、勝手に先に相手が事を受容しているように感じ、酷いと感じるのでは無いでしょうか?

すみません、わかりずらく成っていたので、もう一度投稿しました

名無しさん、こんばんは!
ガーディナーです。
久し振りに新しいコメントを見て嬉しかったです。
嬉しかったついでに、私も書いちゃいますね。
(何だか終演後の劇場に、こっそり忍び込んだような気分です。)

この記事で、私の目に飛び込んできたのは、このフレーズでした。

>だからアスペの方は相手のかけてくれる「同情的な言葉」を真に受けて,
>痛い目に遭う,ということはずっと繰り返し体験されてきているのでしょう。

確かにそうだな、と思いました。
「真に受けちゃう」癖は未だに直りません。
直しようがないんですよね。

で、その対処の仕方として、共感的な、同情的な言葉に
「流されないぞ!」と、ちょっと鎧兜を着たように身構えてしまう。
…というような構造でしょうか?

ここからは回想シーンです。
私が今よりずっと若くて、
アスペルガー真っ盛りだった頃のことを思い出して書いてみますね。

あの頃私は、社会全体が敵のように思えていました。

まずははじめに相手が
「分かるよ、あんたの気持ちすごくわかる」と私を懐柔するのです。
その後、「でも、だからこそ、今必要なことはね・・」などといいながら、
結果としてとんでもない要求を押し付けられる。
自分が大損をした、と気が付くのは、たいていことが終わってから・・・。
というような失敗を、私もずいぶん重ねました。
だから、つい鎧兜を着てみたくもなるのです。

それから、そんなに悪気はなくても、
ただただ私の言うことをおうむ返しに聞いて頷いて、
復唱と共感を示してくるのも
「あなたにいったい私の何がわかるの?」と遮断したくもなりました。
だって、どう見たって相手はまっすぐに成長してきて、
そんなに深い悩みも持たずに、明るく楽しく生活しているわけで、
そんな健全な人に、私の複雑な気持ちがわかるわけない、と思っていたのです。

自分のことを分かってくれる人なんて、誰だってそんなにはいない、
ということに当時の私は気が付いていませんでした。
何となく自分だけが、特別に独りぼっちだと思い込んでいたんですね。
私以外の人は皆、何かつながっていて、
自分だけはいつでも孤独であったという思いが、ベースには流れていました。
別にひがんでいたわけでもなく、それがスタンダードな気分だったのです。

というような古い私の記憶をたどってみれば、
当時の私は曖昧な優しさのようなものを受け入れるよりも、
もっと確かな<正答>のようなものを求めていたと思います。

で、時は流れ・・・、今はどうでしょうか?

人の共感的な言葉が、素直に嬉しいと感じられるようになりました。
昔に比べ、厳しい状況下で生活しなくなったということもありますが、
相手に何かの<答え>を求めなくなったということも、
その理由となっていると思います。
それよりも、私に思いを寄せてくれているんだ、という喜びの方が大きいのです。
中には、パンダさんのおっしゃる極端な例のように、
>ひどいときには表面的には同情するふりをしておいて,
>蔭ではぼろくそに言ったり,相手を馬鹿にしていたり

ということもあるのでしょうが、
相変わらず私はそういう「裏事情」には疎いままなので、
ここは笑って騙されましょう、ぐらいに思っています。
心から私に思いを寄せてくれているかも知れない人をまずは信じて、
「ありがとう」の気持ちを、言葉に出して伝えるようにしています。
(知らないところで何を言われても平気ですから)

すみません、先ほどの投稿、名前を書きそびれました。
ガーディナーです(本文には書きました)。

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