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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年4月12日 (土)

同じと違うと同じ

 今日も、このところの自分の中での変化を振り返ってみるシリーズです。

 最近パートナーに対して私の方が感じていること(彼女がどう感じているかはとりあえず置いておくとして)は、なんだか改めてひとりの人間と人間として一緒に生きている、という感じが出てきはじめていることです。

 そんなこと、最初から当たり前じゃない、と言われそうですし、実際離婚を真剣に考えるに至るまでは、「同じ人間同士」として考えていたわけですから、じゃあそれと何が違うんだろうか、ということがポイントになると思います。

 かなり単純化して整理してみると、知り合って恋に落ち、子どもが出来、子育てで厳しい状態になり、お互いの関係も冷え切ってついには離婚を考えるに至る、というまでの頃は、「同じ人間なんだから、こうして当然だろう」という思いこみが、お互いにあったのだと思います。だからそれを無視する相手を理解できないし、「困った人」として見てしまう。

 次のステップは彼女がアスペの問題を私に訴えるようになってから後です。これも彼女に言わせると、私がそのことを真剣に受け止めるより前の段階から、すでに「そうじゃないかと思う」というようなことはなんどか言ったといいますし、私もそうだったような気がするのですが、でもその可能性を私がまともに受け止めるまでに、ちょっと時間とかお互いの関係の変化が必要だったのでしょうね。

 いずれにしても、「ああ、これまでの「対立」は、アスペ定型のズレから来ていたんだ」と考えるようになって、そのことを改めて一生懸命理解しようとし続けてきました。ですから、そこでは彼女と私は「違う人間」であることが大きな問題で、「同じだ」というそれまでの思いこみを見つめ直して「ああ、ここも違う、ここも違う!」ということを発見していくことが重要でした。そこで下手に「同じ」ということを言い出すと、また逆戻りで自分の「当たり前」を彼女に押しつけてしまうことになるからです。

 そして今自分が入ってきているように感じる三つめのステップでは、改めて「でも同じ人間同士」という感覚が復活してきています。二つ目のステップでは、極端に言えばまず「アスペであるパートナー」と「定型である私」がいて、その「全然違う二人」がどう関係を作るか、という感じだったのが、今は「アスペという個性も持ったパートナー」と「定型という個性も持った私」が「同じ人間同士」として、必要な工夫はしながら一緒に生きていく、という感じになってきているわけです。

 言葉で書くと違いがもしかしてちょっとわかりにくいかもしれませんが、少なくとも最初の頃の「同じ人間」という見方と今が違うのは、自分のやり方が相手にとっても当然だ、という風には思わなくなったことでしょうね。昨日とかも書いたように、彼女には彼女の生き方がある。そのことが実感として分かってきている感じがします。

 そしてその「生き方」を、二番目のステップの時のように「アスペ」という「障がい」として見てしまう感覚が無くなってきていることも大きいような気がします。私は「定型」の一人として、定型的な生き方を自分なりに模索し続けて今があるように、彼女は「アスペ」の一人として、彼女なりの生き方を自分なりに模索し続けて今がある。

 持って生まれたものに違いはありますから、その模索の仕方もまた違うものになるし、そこで作り上げられる生き方もだいぶん違ったものになる。でもお互いの違いを前提にそのことを理解してみれば、定型の私にもおぼろげながらに「ああ、そういう状況で生きてきたら、こんな生き方になって当然だよな」と感じられるものが出てくる。その感覚で「同じ人間」ということが実感されてくるようです。

 自分は彼女とは違うし、決して彼女のようにはなれない。でも、「もし仮に彼女のようになったとしたら、自分もそうなるだろう」と感じられるという意味で「同じ」わけです。

 まあ、人間関係「同じ」と思えば「いややっぱり違う」と思い、でもその先にはまた「それでも同じだなあ」と思えるようになって、又その先に「でも違うなあ」と感じるような、「同じ」と「違う」の見方の繰り返しをやっていくのかもしれません。だから今は「同じ」というところに注目しているけど、またそのうちに「違う」面が重要になるかもしれません。そんなふうに行ったり来たりしながら、「一緒に生きていく」ということなのかなと、そんな感じを今は持っています。

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コメント

パンダさん

こちらの記事を読ませていただいて、なんかほっとする感じがしました。

そのうち、時間の経過とともに、「同じ」とか「違い」とかが気にならなくなってくるのではないのかな?と思います。

以前からそんなには思わなかったのですが、私は「違い」とか「同じ」とかが気にならないようになっています。
今は、ただ、「その人と私」「私はその人がよい」と思っています。

一本の桜の木は、春夏秋冬を通して、同じ桜の木なのですよね。
早春に蕾をつけた姿も
春にきれいな花を見せてくれる姿も
花びらが散ってしまった後も
毛虫がいっぱい住みついていても
緑におおわれた葉桜の姿も
葉が落ちてお掃除が大変な時も
そして幹だけになった姿も
きれいな花を見せてくれるときだけが、桜ではないのですよね。

私自身にも色々な姿があると思います。
それを受容して欲しいと思うから、相手も受容したいと素直に思います。

大切な人にもきちんと伝えたことはないかもしれませんが、
「ただあなたがいい」そう思います。

同じ道を二人で一緒に歩いていけたら、幸せだと思っています。
手をつないだり
腕を組んだり
時には肩を並べて
同じ傘にふたりで入ったり
ふたり雨に打たれたり
時には道の端と端を
どちらかの背中を見ながらだったり
様々な状況の中でも、同じ道を共に歩いていきたいと。

彼との関係の中で自然にそんな感じになっていました。
彼の人柄と二人の相性なのかなと思っています。
私一人では、到底到達できない境地だと感じています。

ふと感じたことを書き込ませていただきました。(*v.v)。

パンダさん、いつも記事をありがとうございます。
私自身、自分の気持ちにあらためて気がつくことがあります。
とても感謝しています。


星さん

 どうもありがとうございます。
 「お互いを受け入れる」と、言葉にすると同じ事であっても、
 そこい至る道は本当にいろいろなんだろうなと思いました。

 わりあいとすんなりと辿り着く人やカップルもあれば、
 七転八倒してようやく辿り着く人やカップルもあれば、
 結局そこには進まない人やカップルもある。

 同じ七転八倒でも、きっとその転倒の仕方はさまざまなのでしょうね。
 結局それぞれの人が、自分自身の抱えた状況、自分自身の姿を抱えながら、
 自分自身の人生を一歩ずつ歩んでいくしかないように感じます。
 その意味では唯一の正解なんてなくて、
 ただ他の人の経験は参考になるし、支えにもなる、
 そんな感じかもしれません。

 うーんと、こういう最後のとらえ方は、もしかして定型的かも…… (^ ^;)ゞ

パンダさん

お返事ありがとうございます。

パンダさんのおっしゃる「お互いを受け入れること」に至る道も、その道の歩き方も、歩いている過程も、歩いてみた結果も、歩き出すことができるかどうかも、人それぞれ、カップルそれぞれ、本当に多種多様なのでしょうね。

そして、そのような他の方の様々なご経験は、色々な方の参考になったり、励みになったり、指針になったりするように感じます。
だからこそ、パンダさんのブログには、私を含め色々な方々が来られているのではないでしょうか。(*^-^)
私にはパンダさんのブログは貴重な存在です。


人は、(大切な)人からの愛情を感じるようになると、変わっていくような気がします。
(大切な)人からの愛情が、目の前に起きている現象や相手の言動にかかわらず、その根底に変わらず存在し、自分に注がれていることが実感できていると、相手を受容できることに近づくいていくように思います。


かずきです。

ここの所の記事を読んでいて
安心するというか、
うまく表現できませんが
「ああ、そうだよね、こう思えれば楽だよね、お互いに」
と、素直にそう思っています。

その上でお互いを尊重、尊敬できる関係が築くことが出来たら
とても穏やかな人間関係になると思っています。
双方がそう思えるようになるまでが大変なんだと思いますが、
どんなに近いしい人になっても、その人を尊重、尊敬する事が
人間関係の基礎のような気がしています。

最近の記事には、定型にありがちなごり押しな共感とかを感じませんでしたから
パンダさんがとても穏やかなのかなと感じていました。


なんだかまとまらずに書き込んでしまい申し訳ありません。

星さん

>(大切な)人からの愛情が、目の前に起きている現象や相手の言動にかかわらず、その根底に変わらず存在し、自分に注がれていることが実感できていると、相手を受容できることに近づくいていくように思います。

 「愛情」という言葉をパートナーがどう感じるかは分かりませんけれど、定型的に言えばきっとそんな表現で現されるものでしょうね。私はとりあえず「誠実さ」みたいな言葉で感じ取ろうとしてみています。

 言葉の問題はおいておいて、いずれにせよ、星さんの仰るとおり「根底に変わらず存在し、自分に注がれている」ものを感じ取れることはとても大きいのだと私も感じます。それが感じ取れるようになってくると、あとはどちらかというと「表面的」な問題にも見えてくる気がします。

 とはいえ、その「表面的」な問題が、定型にとっては結構重要だったりもするので、「すっと問題解決!」というふうにはなかなか行かないかもしれませんけれど、たとえそうだとしても、やっぱり「根底」の問題は大きいですよね。そこにはこれからもこだわって考えていきたいと思います。


かずきさん

>「ああ、そうだよね、こう思えれば楽だよね、お互いに」と、素直にそう思っています。 

 これって、定型的に表現すれば「共感してもらえた!」ということになりそう (^o^)
 まあ、「共感」という言葉が適切でないにしても、かずきさんにそう感じていただけた
 とすれば、これは私としては大きな進歩かなと思えます。

>最近の記事には、定型にありがちなごり押しな共感とかを感じませんでしたからパンダさんがとても穏やかなのかなと感じていました。

 まあ、実生活ではいろいろ大変なこともあるのですけれど、
 パートナーとの関係について言えば、変わってきて居るなあという実感があります。

 面白いなあと思ったのは、「最近の記事には、定型にありがちなごり押しな
 共感とか感じ」ないと書いて下さったことです。
 これ、書いている私自身は自覚がなかったんですね(笑)。
 こんな風に指摘していただいても、「どういう書き方がごり押しな共感」なのか、
 まだよく分かっていません (^ ^;)ゞ

 やっぱり自分のことって、自分ではなかなかわからないものです。

 いずれにせよ、トマトさん、星さん、かずきさんのコメントを頂いて、
 「何か峠のひとつを越えたのかもしれない」
 という気がしています。あらたなステージに入ったというか。
 ま、思い過ごしかもしれませんが (^ ^;)ゞ
 

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