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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年4月 4日 (金)

パートナー理解の変化

 このところ、私のパートナーの受け止め方がだいぶん変化してきていることを感じますし、多分記事にもその変化は現れているのではないかと思います。

 大雑把な印象ですが、最初の頃は「アスペ定型のずれがあったんだ」ということを受け止めた上で、一体そういう違いを持ったもの同士、どうやって改めて関係を作っていけるんだろうか、ということを考えはじめました。そしてそのために、「なにがそもそもずれてるんだろう」ということを具体的に考えてきたように思います。

 その時の視点は、一般の解説書や教科書的な「客観的な説明」ではなくて、当事者として一緒に生活を共にしていてどういうズレを感じるのか、何に困るのか、なんでしんどいのか、といったことを考えてみること、そしてできるだけ定型の側からの一方的な見方にならないように、アスペの方にはそのずれはどう感じられるのか、ということについても考えようとする視点でした。

 なかなか困難な作業ですけれど、それでもすこしずつ、「ああこんなズレなのかなあ」と思えるところも出てきて、その次に気になりだしたのは、「どうしてこういうズレ方になるんだろう?」ということでした。

 これについても教科書的に言えば「アスペの人は他者の感情や視点をとることが苦手」とか、あるいは脳科学で言えばそれは「ミラーニューロン」の働きや脳内物質の量とか、活動している脳の場所の違いとか、そんな話で説明することになるのでしょうけれど、私が知りたかったのはそういう説明の仕方ではありませんでした。

 そもそもものの基本的な「見え方」にも結構大きなズレがありそうだということが感じられてくる中で、定型やアスペの方はそれぞれそもそもどんな風にこの世の中が見えているんだろう、そうすると、どんな「体験の仕方のズレ」が生まれるんだろう、それがどんなコミュニケーションのぶつかりあいを生むんだろう、というような、もっと当事者目線の「主観的」なことが知りたかったのです。

 そこで気にし続けていたことは、大人になって感じるズレ方や、定型の目から見えるアスペの方の「特徴」は、生まれながらの定型アスペの物の見方、感じ方、関心の持ち方の違いがベースにはあるけれど、でも多分「多数派と少数派」という立場の違いがその後の「生き方の違い」にすごく影響しているんじゃないか、ということを考えてみることでした。たとえば「自己責任」ということをとても重視するのも、定型でも「自己責任」の考え方はありますから、状況次第では定型だってアスペの方に「近い」ような信念に成られる方もあるように思える、というようなことです。

 つまり、「もし自分が小さい頃からアスペの方と同じような立場に立たされ続けたら、アスペの方の生き方の特徴といわれているものも、ある程度までは理解可能になるのではないか、という可能性を考えてきました。

 私としては、その試みはそれはそれでなんとなくうまくいくようになった部分も感じます。パートナーのいろいろな生きる姿勢も、そういう私の「定型的に<相手の立場に立って見る>」というやりかたで、「ああそうか。それならそう感じたり、そう振る舞うことも当然という気がするなあ」といった、一種の「共感的な理解」ができてくる部分がぼちぼち出てきています。(もちろんアスペの方から見るといろいろ「誤解」を含んでいる可能性もありますが、定型的にはなんとなく「納得」感が生まれます)

 他方で、「うーん、やっぱりどうしても理解が届かない」と感じる部分も改めて強く意識されたりもします。すくなくとも定型的に「共感的な理解」をずっと進めていったら、いつかは定型同士のコミュニケーションのように関係が成り立つようになるか、といえば、それはそういうことはないだろうなと思えるわけです。お互いの理解は深まっては行くけれど、でもどこまでもズレが続く。

 そんなふうに定型アスペのズレの理解がだんだんと深まっていくのと並行して、パートナーとの関係もやっぱり一寸ずつ変化していっているように私は感じています。(パートナーが同じように感じているかどうかはちょっとよく分からないところがあるのですが。あんまりそういう変化については彼女は注目していない印象もあるので……)

 最初の頃は「なんでこんなに共感的な関係が作れないんだろう?どうやったらお互いの共感的な理解が深められるんだろう?」ということにこだわっていたような気がします。やっぱり夫婦という「特別な関係」が幸せであるには、そういう「共感的な支え合い」がどうしても必要なんじゃないか、そんな思いが抜けなかったからでしょう。

 けれども理解が深まれば深まるほど、そういう関係を追い求め続けることのしんどさのようなものが積み重なっていきます。ところがやはり理解が深まるほどに、別の意味で私を「支え」てくれているパートナーの姿がだんだんとリアルに感じられるようになってきたんですね。そしてそれが本当に有り難く感じられるようになってくる。

 私がそうなってきた理由の一つは、こんなことかもしれません。アスペの方が定型とは違う感覚を持ちながら、少数派の悲哀でその感覚を常に否定され続け、往々にしてひどいいじめなどにも遭いながら、なんとかこの多数派に合わせて生きるすべを探さざるを得なくなる。その苦労が私なりになんとなく感じ取れるようになってくると、「ああ、こんな大変な状況の中で、それでもパートナーはほんとに頑張って生きてきたんだなあ」と思うようになる。

 それまでは「ほんとに難しい人だなあ。困ったことだなあ。なんとか解決の方法は無いものかなあ」という感じで見ていたパートナーのことが「ほんとに誠実に頑張って生き続けてきている人」に思えてきて、むしろ尊敬の気持ちも湧いてきたりするのです。そしてそういう生き方から学べるものもいろいろ感じ取れるようになってくる。

 そうすると、今度は逆にこの「困った人(=パンダ)」を、、彼女がどういう思いで必死で支えようとしてきてくれたか、ということについても感じ取れる部分が出てくる。それは私が求めていた「共感的な支え」とかとは違うものなんだけど、でも彼女なりの誠実さがそこに貫かれているように思えてくるわけです。

 今は、そういう彼女の「支え方」が、私にとっても無くてはならないものに感じられてきています。彼女が自分にとってどんな意味で大事な人なのか、ということが、今までとはちょっと違った部分でリアルに感じられるようになってくる。そこが現在の大きな変化かなと思います。

 今のところその感覚が揺らぐような気はしませんが、ただ「共感的な支え合い」を求めたい気持ちが全く無くなっているか、と聞かれると、「ああ、もうさっぱりなくなりました」とは言えないような気がします。まだやっぱりこだわりは残っていそう。そのあたりが今後どうなるのか、気になるところです。
 

 

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コメント

ネタ投下を目的として書いてみます。
問題としたい点は「幼児の承認欲求を満たせのるか?」です。

こちらは自立傾向が強いため、アスペと取られてしまう場合のある男性(私)に、日常生活に大きな問題は少ないものの、よく知られるほどアスペと見破られてしまう女性(だたし自覚無し)のカップルです。

現在まで1年ほどの交際期間ですが、アスペを疑い始めたのは3ヶ月ほど前。
現在は彼女の理解が進みはじめた所です。

そんな中で初めてとも言える大ゲンカがありました。
私なりに考えてみたところ、私の承認欲求が満たされない(または阻害されている)ように感じられる事が原因と行きつきました。

そんな私はともかくとして、今後産まれてくるであろう子どもに対して、何が備えと思われますか?

人生の先輩としてお心当たりがあれば教えていただければと思います。

若竹さん

 ここでみなさんから紹介していただいた事例などから考えると,お子さんがアスぺであれ定型であれ,受容されて育つかどうかがすごく大きいようです。若竹さんが承認欲求と書かれていることですよね。

 お母さんがアスぺでそのあたりの感覚がずれる場合は,お父さんがそれを補う必要があるでしょうし,おばあちゃんやおばさんなどに補ってもらえる環境があれば,それも大事にすべきではないかと思います。

 できるだけ母子や夫婦と子どもの関係だけに閉じてしまわない環境を作ることが大事なように思います。

 具体的にはお相手の方とそのご両親との関係や,若竹さんのご両親との関係など,その中での相性などがあるでしょうし,アスぺの方の場合親戚づきあいも困難な場合があるでしょうから,「閉じないように」という工夫が具体的にどんなふうにできるかは私にはよく分らず,一般的に考えての話になってしまいますが。

 ただひとつ,子育てで問題を感じられた時に,「これは当然に起こりうることなんだ」という理解をあらかじめ心の準備として持てているか,そこで「これは一体どういうことなんだ」と初めて混乱するかの違いはすごく大きいと思います。

 私は全然心の準備もパートナーのアスぺ的な性格についての理解もなかったので,その結果子どもにもほんとに大きな負担をかけました。今であればもう少し違った模索を続けられたと思います。

お忙しい中、お時間を割いてくださりありがとうございます。

そうですね。
本人に拒絶の意思が無いとしても、子にとっては承認(受容)されるかどうかが大きな問題になると私も感じております。
そのためにできる事としては「閉じない(開かれた)環境」ですか。

スナップ写真やエピソードなどから察するに、あちらのご家庭は一種の機能不全状態と思われます。
さらにこちらの親は年齢相応の拒否反応を示しておりました。
相当な先手のつもりでしたが、すでに時間など残されていないのかもしれませんね。

あまり良い手とは思えませんが、現状ではパニックからの硬直が予想されるため、もう少しだけ私一人で模索してみます。
ありがとうございます。

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