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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年4月

2014年4月30日 (水)

何回同じ事聞くの?

 私がパートナーの考え方とか感じ方を理解したくて「こういうことなの?」と質問すると,しばしば「何回おんなじこと聞くの?」とちょっとあきれたように(と聞こえる)言われます。

 それは実際に私が同じ事をよくわからなくて何度も聞き返しているのかもしれませんし,もうひとつの可能性としては,私としてはいろいろ違うことを聞いているつもりなんだけど,彼女にとってはそれはどれも同じ事で,だから何度も聞かれるように感じるからかもしれませんし,あるいはその両方かもしれません。

 なんにしてもパートナーの答えは一回聞いただけではなかなか頭に入ってこないものが結構あるんでしょうね。かなり発想のパターンが違うので,ピンと来なくて,何度も似たようなことを聞くことになってしまうのだろうと思います。パートナーにはそういうわけで,それだけ定型には理解が難しいということだから,まあ勘弁して頂戴と言いました (^ ^;)ゞ

 とはいえ,そんなふうにしつこく聞いている内に,ふと「あ,もしかしてこういう感じなんだろうか?」となんとなく分かってくるように思えることがあります。で,「こう言うときはこういう理由でこう感じる(考える)んだよね?」と尋ねてみて,「また同じ事聞いている」と言われながらも,それを肯定されることもぼちぼち出てきているんです。

 それで昨日も感じたんですが,彼女の方から「定型ってこうでしょう?アスペはこうだけど」みたいなことを言われたときに,「うん,そうだな」とそのまま思えたり,「たしかにアスペの人から見るとそう見えるんだろうな」と思えたりすることが結構増えてきたんですね。そういうわけで「随分理解が共有されてきたように感じる」とか言うと,「共有」については彼女は大体懐疑的ですけど (^o^),ま,それも含めていかにも定型アスペの「共有」の仕方の気がします。

 あと,そうやって話を出来た後は,私の中ではいろいろ整理される感じがして,ちょっと元気になったりするんですが,そのことを話すと,彼女の方は「話し終えると疲れてぐったりする」とか言うことが多かったりします。このへんは「今は未だそうだ」ということなのか,これからもずっとそうでありつづけてしまうのか,出来ればなんかの工夫でお互いにとって「話してすっきりした」となりたいですね。

 

2014年4月29日 (火)

共感は不誠実?

 最近仕事がらみでちょっと「まいったな~!」と思うことがあって,パートナーに話したんですね。パートナーもそれに関することでは前から腹立たしく思っていたのですが,さらに今回のことがあって彼女は「もう私はしんどい」というようなことを言いました。

 それで,その思いは私も同じなので,思いっきり共感モードで「ほんとにそうだよね!」と言ったのですが,それに対して即座に帰ってきた言葉は「じゃあどうするの?」というものでした。

 「まいったな~!」と私が言っているのは,困るけれど,どうしようもないからそう言っている訳なので,そんなふうに「責められる(と感じます)」ことにちょっと傷つきながら,「いや,どうすると言われてもどうしようもないんじゃない?」と言ったんですね。

 そしたら彼女が言うのは,「それなら最初から「どうしようもない」と言ってくれないと。「ほんとにそうだよね!」と言われたら,じゃあなにか対策があるのかと期待してしまうじゃない。そうやって期待を抱かせておいて「どうしようもない」と言われるのはしんどいから,最初から「どうしようもないじゃない」と言われる方が誠実だ」ということでした。

 私は「いや,そこは定型はやっぱり評価を共有するところが大事なんだ」と言うんですが,そういうことはこれまでも何回か説明してきたので,彼女も一応は分かっているようです。でもやっぱり彼女にとっては定型的な「共感」の言葉は,「口先だけで誤った(無責任な?)期待を持たせて,結局裏切る」という不誠実な態度に感じられて仕方ないようです。

 なんだか定型アスペのズレがすごく分かりやすい形で見えてきてるなあと思いました。定型的に考えれば,にっちもさっちもいかなくて「こまったなあ!」となっているときに,「ほんとにそうだよね」と分かってもらえることは大事な支えになりますし(カウンセリングで強調される「共感的態度」なんてそれそのものですよね),逆にそこで「しょうがないじゃない」といきなり言われるのは,自分のつらさを切り捨てられたような,ものすごく冷たい態度を取られたように感じて傷つきやすいでしょう。

 ところがアスペ(少なくとも私のパートナー)の場合は,「解決策もないくせに,口先で同情してみせる」ことのほうが,よほど冷たい態度だと言うことになるようなのです。

 たしかにそういう見方はわからないでもありません。定型的な共感は,そこから「じゃあどうしようか」という解決策の模索に結びついていくこともありますし,逆にある種の「ガス抜き」じゃないですけど,「共感しておしまい」という場合も少なくありません。そしてひどいときには表面的には同情するふりをしておいて,蔭ではぼろくそに言ったり,相手を馬鹿にしていたり,ということも無いとは言えません。それ自体が変な「駆け引き」に使われることもありうる。

 定型の場合は「共感される」こと自体である程度はホッと出来る部分がありますし,さらに相手の共感がどれほど「誠実」なものかを「見分ける」姿勢や,ある程度の技も経験的に積み重ねていっているのだと思います。だから「あ,これは単なるお愛想だね」と感じれば,それほど期待もせず,社交辞令としてさらっとうけとめてすませるし,「ほんとに誠実だし本気だ」と思える場合はさらに期待もでてきたりして,そこでバランスをとるようにしているでしょう。

 けれどもパートナーも言いますけど,多分アスペの方はそういうことを「見分ける」ということはほんとに困難であるようです。定型にとってもそこを見分けるのはしばしば容易ではなく,「裏切られた」とかいう話しもいくらもあるわけですから,アスペの方がそれが難しくても当然かもしれません。

 だからアスペの方は相手のかけてくれる「同情的な言葉」を真に受けて,痛い目に遭う,ということはずっと繰り返し体験されてきているのでしょう。その結果そもそういう共感的な言葉全体が不誠実に感じられるようになってくるとしても,さほど不思議はないように思います。そしてそんな「誤魔化し」の不誠実な言葉を掛けられるより,ストレートに「仕方ないじゃない」といった「現実的」な言葉を掛けられる方が,よほど実際の自分の対処に役に立つ情報なので,誠実に感じられることになります。

 このあたりが,以前クッションのことを書いたことにもつながっていくように思います。

2014年4月26日 (土)

割り切ることの難しさ

 このところ難しい親の介護の問題や自分の仕事上の悩みなど,かなり大変なことが重なり続けていて,暗い顔をしていることが多いのですが,そんなときに自分がしんどいときにしんどい表現をする,というのは私の場合,これまであんまり無かったことです。むしろしんどいときには逆に頑張って明るく振る舞い,それ以上暗い雰囲気を作らないようにしようとするタイプなんですね。(これって「仮面鬱」になりやすいタイプなのかも)

 さらにパートナーの前で自分がしんどそうにすると,パートナーがそれを見て不安になるようで,その結果私に対する接し方がますます私にはしんどい方向に進んでしまうので,彼女に対してはできるだけそれを見せないようにしてきたという経緯も加わり,その傾向がより強まったかもしれません。

 けれども定型アスペ問題を考えるようになって,彼女が私に対しては仕事モードの「明るい振る舞い」を決してしないこと,それが彼女にとっては近しさの表現だし自然なことだということを知り,改めて私もがんばって「明るく振る舞う」ことはやらなくなってきたんです。実際たとえそうやって頑張って明るく振る舞っても,彼女がそれによって明るくなってくれる感じもしませんでしたし。

 まあ,しんどいときにそのまましんどい姿をしていることの方が,ある意味では楽でもありますから,私も今はオフのモードではそうしているわけなんですが,そうするとやっぱり彼女からは「しんどそうな姿を見ているのはいやだ。明るく楽しそうになって欲しい」と言うんですね。もちろん「明るいふりをして欲しい」という意味ではなく,実際にそういう精神状態になって欲しいという意味だと思うんですが。

 ただ,介護の問題にしても仕事の問題などにしても,自分の努力だけでどうにかなる,というものではありませんから,結局状況が変化するまではしんどさに耐えるしかない,というところがあります。そのことは彼女も理解はしてくれているんですが,でもやっぱり私がしんどそうな姿をしていることが彼女にとっては嫌だということもまた正直な気持ちなのでしょう。それをストレートに表現されます。

 状況はしんどいけど,せめて気分的には明るく振る舞おう,というパターンはうまくいかず,かといってそのまましんどそうにしていると「それは嫌だ」と言われ,なかなか難しいことだなと思います。まあ,彼女の理屈としては,「嫌だ」というのは単に自分の感じていることで,私がそれを気にする必要はない,ということなのかなと思うのですが,そういう割り切り方が定型には難しそう。

 

2014年4月25日 (金)

行動主義とアスペ的見え方

 自閉性障がいの人の家族などのために,どう理解し,対応したらいいかを伝える講習会の様子を以前テレビニュースで少しだけ見たことがあります。その時は半分に切ったペットボトルの口の方から外を除きながら歩き回るような体験をやっていました。

 自閉性障がいの方が「視野が小さい」といわれるような状態とを実際に体験してみて,その世界を理解してみようという試みなのだと思います。

 この方法の良いところは,「自分はこれだけ見えるのが当然」と思っているところが,「障がい」を抱えることによって全然世界の見え方が変わってくるし,そうすれば,たとえばどうやって障害物にぶつからずに歩くか,といったような基本的な動きについても,「健常者」が普段当たり前にやっていることは出来なくなり,別の工夫が必要になる,ということを体験的に理解できることでしょう。

 逆に限界と思えるのは,このやりかただと「健常者に出来ること」-「障がいでできないこと」=「障がい者」というマイナスの部分でだけ障がい者を見ることになりがちで,逆に「障がい者に出来ること」-「健常者には出来ないこと」=「健常者」といったプラスの部分は見過ごされがちになることかもしれません。

 たとえば生まれつき目が「見えない」方は,それでも自由に動き回ることが出来ます。この間テレビでもやっていましたし,ここにも前にもちょっと書いたように,その方たちはたとえば「音の反響」を聞き取って,周囲の状況をかなり正確に,立体的に掴んでいらっしゃるんですね。晴眼者は光の反射で周囲の物を見ていますが,音の反射でそれができるわけです。これは晴眼者にはとても難しいことで,実際晴眼者が視力を失った場合は,生まれつき目の見えない方に比べると,なかなかその能力は身につきにくいそうです。

 人間誰しも「自分の体験」を基準に他者のことも理解しますから,「自分とは違う他者」について理解しようとするときも,やはりマイナスの面で理解することの方がやりやすくなるのは無理がないでしょう。自分に出来ないことを想像して理解するのはやはり難しいですものね。たとえば体操選手とか,空中でくるくる回っているときに,自分の体が今どんな状態にあるのかを意識できるらしいですけど,運動神経ゼロの私は,そんなこと想像も出来ません (^ ^;)ゞ

 そういう限界はあるとしても,でもやっぱりたとえ一部分であっても,相手の人が自分とは違う見え方をしていることを体験してみる最初に書いた試みなどは,ひとつのきっかけとして大切なことだと感じます。私もパートナーの世界をいろいろ想像してみるときに,まずはやっぱりそういうところからはじめているような気がします。

 そんなふうに想像を働かせてみながら,最近ちょっと思い始めたことがあります。それはアスペの方の人間理解の仕方は,「行動主義心理学」と呼ばれる考え方に似ている部分があるのではないかと言うことです。

 学生時代に心理学の授業をとっていて習いましたが,心理学はアメリカを中心に一時期「心」という目にも見えない,どこにあるのかもわからないものを考えることを止めようとしたというんです。で,誰の目にも見える人間の「行動」と,その行動の原因となる周りの物理的な状況(刺激)だけを取り上げて,どんな刺激にどんな反応をするのか,そしてその反応が経験の積み重ねでどう変わっていくのかを調べることに研究を限定したんですね。「心」ではなく,「行動」を見ると言うことで「行動主義」と名付けられています。

 それで,パートナーの言うこととか,あるいはここでもアスペの方のコメントとかを拝見していると,定型が自分や相手の人の「気持ち(心)」を理解する,ということをやりとりの中で重視しているのに対して(トマトさん風に言うと「共感回路を使う」),アスペの方はそこはあまり使わない形で人や人とのやり取り,そして自分のことを理解されているように感じられます。

 それって,だから目に見えやすい「行動」とかその周囲の物理的状況によって人のことを理解しようとする行動主義の考え方と似ているように思ったわけです。

 その後,コンピューターで脳の働きをシミュレーションしたり,あるいは脳科学が進んだりすることで,「行動」には直接現れない部分も「目に見える」形になってきましたので,今度はそういう部分も「心」の仕組みとして科学的に理解しようとするような心理学が流行ってきて,行動主義は昔のような元気はないようですが,でも今流行の心理学も,やっぱり「目に見える」「物」によって「心」を理解しようとしているという意味では,行動主義と同じ姿勢ですよね。だからアスペルガールさんなんかもそういう形での脳科学的な理解の仕方にはとても関心を持たれていたように思います。

 でも,定型が実際の人間関係の中で使う人間理解の仕方,特に共感的な理解の仕方というのは,そういうのとはちょっと違うように思うんです。何が違うのかはまたゆっくり考えてみたいと思います。

 

 いずれにせよ,「行動主義」とアスペの方の人間理解にどこか共通点があるのだとすれば,そういう視点から「アスペの方にとっての世界の見え方」を定型が想像してみる手がかりの一つになるかもしれないと思ったのでした。

 

  

2014年4月24日 (木)

揺るぎなさと日常生活

 

トマトさん星さんのコメントを拝見していて,そしてまたパートナーとの関係を考えてみて,定型アスペのいろいろな困難を抱えながらも,それでもお互いの関係が意味を持ってくるときには,アスペの方の側の「揺るぎなさが大きなポイントになることがあるかもしれないと感じました。

 この「揺るぎなさ」は反面で「融通の気かなさ」とか「周囲との調整のなさ」とか「こだわり」とか,そんな風に評価される部分にもなります。もしその「揺るぎなさ」が単にその人の「身勝手」として感じられる場合には,お互いの関係がうまくいくことはないでしょう。でもそれがその人なりの形での自分に対する「一途な誠意」のように感じられるときには,逆に深い信頼に結びつく可能性があるように思います。

 そのことでお互いの絆が強まる可能性があるわけですが,だからといって,アスペ定型間のズレの問題が無くなるわけではもちろんないのですね。定型が相手に求めやすい共感的な支え合いの関係,といったものはなかなか作られることがないように思えるからです。でもそれとは別の面で,「支える」ということが成り立つ。

 少し話は変わりますが,昨日パートナーに,「最近ようやく○○さんが日常生活のひとつひとつのことについて,しっかりとこなしていくことをとても大事にしていることの意味が分かってきた感じがする」と話したんです。私の場合は家事とか,そういう生活上のことは,まあやらなければならないことだからしょうがなくやる,という感じで,そこに生き甲斐を感じることはないタイプです。それより仕事などで自分のやりたいことを実現したり,新しい展開を作ったりといったことにやりがいを感じるし,意義を感じる,という人間なんですね。

 そうすると,パートナーがほんとに一生懸命家事をこなし続けることの意味がぴんとこなかったし,なんでそこまで「こだわる」のかもわからなかった。私は自分がしんどい時に,彼女から支えてもらったという実感がなかなか得られにくかったのですが,彼女は実は一生懸命支えようとしてくれていたようで,その内容はやはり家事などを一生懸命することだったのです。それは私には全く「支え」としては理解できていなかった。私はむしろ「精神的な支え」を求めていましたので。

 彼女が老人福祉関係の仕事をするのも,老齢化してそれまで当たり前に出来ていた日常生活が困難になっていく,その人たちにすこしでも「あたりまえ」の暮らしをしてもらいたいと感じるからだと聞いていました。それはそれで全く分からないわけではないけれど,何かもうひとつぴんと来にくい部分も残っていたんですね。

 そのあたりのことが,アスペ的な性格を持って,この世の中で生きていくとはどういうことなのか,ということを多少なりとも私が想像するようになって,「ああ,なるほど,生活のひとつひとつをいつも通りに確実にこなしていくことは,彼女が生きていく上でほんとに大事なことなんだ」と,ある程度の実感を持って感じられるようになってきたんです。

 彼女はそれに対して,「それは障がいのせいでこだわりがあって,それがないと不安になるからだけのことだから,そんな「意義がある」とかいう話ではない」と答えていました。そういう見方ももちろん分かるんです。私も以前は単に「なんでこんなことに<こだわる>んだ。ほんとに困った性格だ」としか見られなかったわけですし,定型アスペの問題としてみるようになってからは「要するに自閉的なこだわりで,それがないとパニックになるから」と理解していたわけです。

 でも,そんなふうに定型的なやり方と比べて「<おかしなこだわり>と考える」見方とか,「足りない部分」として見る見方とか,そういう「マイナスの見方」ではなくて,それぞれの人が持って生まれた条件の中で,自分の気持ちを安定させながらしっかりと日常をこなしていく,という課題を誰もがこなしていくことには,それぞれの人にとってそれは積極的な<意義>があることだ,と感じられるようになってきたんですね。

 それで,私なりに彼女が持って生まれてきたものや,その後の人生の中で直面し続けてきたいろいろな問題を想像してみると,彼女にとってのその<意義>が分かる感じになったというわけです。

 

 そういうことを彼女に対しても説明をしてみましたが,もうひとつよく分からない,という感じでした。多分この説明は伝わりにくいだろうな,ということも今は分かる気がします。彼女の場合は相手を理解するとき,「この人はこういう行動パターンを採る人だ」という形で「納得」して対応するのに対して,私は「どうしてそういう行動パターンになるんだろう?」というところを,「ああなるほど,そういうことなら自分もそういう行動をとりうるだろうな」といった「共感」的な理解に至らないと,分かった気持ちになれないからです。そういう人間理解の作り方の違いが,私の説明のわかりやすさ,わかりにくさにつながるのかなと思っています。

2014年4月21日 (月)

理解と折り合い

 私の場合,アスペ的な発想を定型的な感覚に翻訳して理解する方法を探り続けています。自分とは違うんだけど,「こういう前提があれば,そう考えたり感じたり言ったりすることは理解できるなあ」と思えることを増やしていくようなことですね。そうやってコミュニケーションの幅を拡げたり,厚みを厚くしたりすることが出来ないだろうかと考えているわけです。

 そういう模索はこれからも続くと思いますけれど,一方でそれをいくら続けたところで「これでもうちゃんと理解し合える」という「終点」があるわけではないでしょう。もちろん定型同士だってそういう「終点」はないと思いますが,アスペ定型間ではもう一段の難しさがそこに加わるはずです。そしてそれが消えることはない。

 お互いに理解し合おうとする姿勢はとても大事だと思うし,これからも大切にしていきたいことですが,同時にそれはやはりかなり大変な作業でもあります。時にはあまりの難しさにくじけそうになることだってある。その大変な作業を24時間ずっと続けることも不可能でしょう。

 そんなふうに「終点」があるわけでもないし,24時間理解し続けようとすることも不可能だとすれば,当然アスペ定型のカップルが一緒に生きて行くには,お互いに通じ合わない状態のままにやりとりをしなければならないことが多いことになります。で,それはそれとして,そういうものとして考えて,無理矢理その場で理解し合おうとせずに,分からないなりになんとか折り合いをつけるような工夫が実はとても大事なのではないかと思いました。

 「理解しようとすること」と「理解できないままでおりあいをつけること」と,その二つのバランスって,結構現実的には大きい問題なのかなと感じます。

2014年4月16日 (水)

内面の出来事を言葉に

 今朝も「ああ、またやっちゃった」と思ったんですが、パートナーとのやりとりが、なんだか変な「議論」になってしまうことがあります。彼女があることを要求したり提案したりするので、「なんで?」とその理由を聞くと、答えてくれるんですが、それが私から見ると、なんだかとってつけたような理由で、理屈が通ってないように感じられるんです。

 それで「でも○○じゃない」と「反論」すると、さらに別の理由が付け加えられたりするんですが、それがまた私から見ると筋が通って無くて、「え?なんでそういう反論になるわけ?」と思い、またそこをつっこむ……という感じで、どんどん話がわけがわかんなくなっていくんです。

 ほんとにその彼女の言う理由で本人も納得できているのか疑問で、しばらく時間をおいてからもっと分かりやすい説明をしてくれたりすることもあるので、多分「反論されたから、とにかくなにか反論しなければ」という感じになって、その場でぱっと思いつくことを答えている、ということなんじゃないかなと思えるんですね。だから話の筋が通らなくなってくる(ように私には感じられる)。

 この話、アスペの方が「自分の<感情>をあまり意識しない(か、あるいはあると感じない)」としばしば言われることと似てるような気がしました。「これはこうした方が良い」という判断はあるんだけど、「なんで?」と聞かれると、自分がどういう理由でそういう判断をしているのかを意識して言葉にすることが難しかったり、時間がかかったりする。

 一方は<感情>の問題だし、一方は<そう考える理由>の問題だし、違うといえば違うんだけど、自分の内面のできごと、ということでは共通するとも言えそうな気がします。自分のことにしても、他者のことについても、「内面の出来事」については自分で言葉にして他の人に説明するような形にすることはあまりしないか苦手。

 私はまあ理屈っぽいほうだと思うので、「あれ?それ筋が通らないじゃない」と思うと、ついその場で反論したくなってしまうんですね。でもその感覚で話していくとだめみたいです。

 やっぱりだからゆっくりと話をしたほうがいいんでしょうね。そしてとりあえず私から見て「?」の答えが出てきても、その場ですぐ反論したり反問したりしないで、時間をおいて別の聞き方をしてみるとか。余裕がないときはちょっと難しかったりもしますが、定型の側からはそういう工夫が必要な場合もあるように思いました。

2014年4月12日 (土)

同じと違うと同じ

 今日も、このところの自分の中での変化を振り返ってみるシリーズです。

 最近パートナーに対して私の方が感じていること(彼女がどう感じているかはとりあえず置いておくとして)は、なんだか改めてひとりの人間と人間として一緒に生きている、という感じが出てきはじめていることです。

 そんなこと、最初から当たり前じゃない、と言われそうですし、実際離婚を真剣に考えるに至るまでは、「同じ人間同士」として考えていたわけですから、じゃあそれと何が違うんだろうか、ということがポイントになると思います。

 かなり単純化して整理してみると、知り合って恋に落ち、子どもが出来、子育てで厳しい状態になり、お互いの関係も冷え切ってついには離婚を考えるに至る、というまでの頃は、「同じ人間なんだから、こうして当然だろう」という思いこみが、お互いにあったのだと思います。だからそれを無視する相手を理解できないし、「困った人」として見てしまう。

 次のステップは彼女がアスペの問題を私に訴えるようになってから後です。これも彼女に言わせると、私がそのことを真剣に受け止めるより前の段階から、すでに「そうじゃないかと思う」というようなことはなんどか言ったといいますし、私もそうだったような気がするのですが、でもその可能性を私がまともに受け止めるまでに、ちょっと時間とかお互いの関係の変化が必要だったのでしょうね。

 いずれにしても、「ああ、これまでの「対立」は、アスペ定型のズレから来ていたんだ」と考えるようになって、そのことを改めて一生懸命理解しようとし続けてきました。ですから、そこでは彼女と私は「違う人間」であることが大きな問題で、「同じだ」というそれまでの思いこみを見つめ直して「ああ、ここも違う、ここも違う!」ということを発見していくことが重要でした。そこで下手に「同じ」ということを言い出すと、また逆戻りで自分の「当たり前」を彼女に押しつけてしまうことになるからです。

 そして今自分が入ってきているように感じる三つめのステップでは、改めて「でも同じ人間同士」という感覚が復活してきています。二つ目のステップでは、極端に言えばまず「アスペであるパートナー」と「定型である私」がいて、その「全然違う二人」がどう関係を作るか、という感じだったのが、今は「アスペという個性も持ったパートナー」と「定型という個性も持った私」が「同じ人間同士」として、必要な工夫はしながら一緒に生きていく、という感じになってきているわけです。

 言葉で書くと違いがもしかしてちょっとわかりにくいかもしれませんが、少なくとも最初の頃の「同じ人間」という見方と今が違うのは、自分のやり方が相手にとっても当然だ、という風には思わなくなったことでしょうね。昨日とかも書いたように、彼女には彼女の生き方がある。そのことが実感として分かってきている感じがします。

 そしてその「生き方」を、二番目のステップの時のように「アスペ」という「障がい」として見てしまう感覚が無くなってきていることも大きいような気がします。私は「定型」の一人として、定型的な生き方を自分なりに模索し続けて今があるように、彼女は「アスペ」の一人として、彼女なりの生き方を自分なりに模索し続けて今がある。

 持って生まれたものに違いはありますから、その模索の仕方もまた違うものになるし、そこで作り上げられる生き方もだいぶん違ったものになる。でもお互いの違いを前提にそのことを理解してみれば、定型の私にもおぼろげながらに「ああ、そういう状況で生きてきたら、こんな生き方になって当然だよな」と感じられるものが出てくる。その感覚で「同じ人間」ということが実感されてくるようです。

 自分は彼女とは違うし、決して彼女のようにはなれない。でも、「もし仮に彼女のようになったとしたら、自分もそうなるだろう」と感じられるという意味で「同じ」わけです。

 まあ、人間関係「同じ」と思えば「いややっぱり違う」と思い、でもその先にはまた「それでも同じだなあ」と思えるようになって、又その先に「でも違うなあ」と感じるような、「同じ」と「違う」の見方の繰り返しをやっていくのかもしれません。だから今は「同じ」というところに注目しているけど、またそのうちに「違う」面が重要になるかもしれません。そんなふうに行ったり来たりしながら、「一緒に生きていく」ということなのかなと、そんな感じを今は持っています。

2014年4月11日 (金)

冷徹なやさしさ

 引き続きパートナーの「生き方の重み」みたいなものが私の中でずっしりと感じられるようになってきています。

 これは必ずしも定型アスペのズレの問題ではないかもしれないのですけれど、これまではほんとにお互いに生きる世界が違っていて、私の生き方から見ると、彼女の生き方はなんだか説得力が無くて、大事なことを無視しているような、逆にどうでもいいことに激しくこだわっているような、意味がよく分からない薄っぺらい世界に感じられてしまっていたんだと思います。

 それが少しずつでもパートナーの生きてきた世界を私なりに感じ取ることが出来るようになって、その視点から見たときに、これまで私が全然見ていなかった違う世界を見て、その中で頑張って生きてきた彼女が感じ取れてきます。そしてその彼女が見ている世界は、実は私自身にとってもすごく重要なんだ、ということを思うようになってくる。そうすると、彼女の世界がぐっと重みを持って感じられてくるんですね。

 最近しみじみ感じていることの一つは、パートナーの「やさしさ」についてです。老人福祉の現場では、ほんとに「壮絶」な家庭だとか、あるいは老人の生き方などに出会うことが少なくないようで、まあ普通の(?)感覚から言えば「この人はなんてめちゃくちゃな人なんだ!」とか「なんてひどいひとなんだ!」と憤りを感じるような人もあるわけです。もしその人が高齢でいろんな困難を抱えていても、「自業自得でしょう」と言いたくなるような、そんな場合だってありうる。もし私なら「こんな人のケアなんかしてやるものか」と思ってしまうかもしれません。まあ、仕事だからしたとしても「いやいや」でしょう。

 でも、最近改めてパートナーの生き方を見ていたり、時々語る言葉を聞いていたりすると、私ならとてもじゃないけど、同情なんて出来なさそうなケースでも、それはそれとして、でも現に生きていく上で困っていることについて、それを「可哀想(? ちょっと感覚は違うかも)」と思えて、必要な対応を出来るみたいなんですね。

 なんか、「人間なんて、ほんとにひどいことをするし、ひどい人もいる」ことをストレートに見つめた上で、「それが人間だ」と思い、そういう人間を相手にしてケアをするのが自分の大事な仕事だと彼女が思えているように私は感じるのです。

 それは「優しく共感してあげる」とか、そういう世界とはちょっと違います。その人の「えぐい」ところとか、そういうこともちゃんと冷徹に見ていて、必要な警戒や注意はしながら、でもその人が生きていく上で必要な援助をちゃんとするんですね。ある意味でその「えぐい」ところもそのまま受け止めているわけです。

 今何かうまい表現を探そうとしているのですが、「暖かく優しい共感的関わり」などではなく、「冷徹で現実的な援助の関わり」とでも言えるもので、でもそれはその人が一番基本の所で生きていくことを支える「やさしさ」なんですね。

 そういう目で見ると、自分がパートナーに求めているような「暖かい関係」は、なんだか上っ面の甘えた気持ちに過ぎない、という風にも見えてきます。もちろん自分のそういう部分を意味がないものとして頭から否定してしまう気持ちは全くありませんけれど、でもある面ではそういう「甘えに過ぎない」ところもあるんだなあという気がするんです。

 なんだかほんとにいろいろ考えさせられます。
 

2014年4月 5日 (土)

ずれたまま共有される足場

 パートナーとの関係が、時間はかかっても私には前向きに感じられるようになっている理由は、「自分が求めていたものがどんどん得られるようになってきた」からではなさそうな気がします。

 そうではなくて、多分ひとつには「自分が求めているものがなかなか得られない」状態があっても、以前のように「だから自分は無視されている」とか「嫌われている」とか「否定されている」というようには思わなくなってきた、ということがあるように思います。

 逆に、それは「自分の求めているもの」とはずれていても、彼女なりに本当に自分のことを考えてくれていることなんだ、ということがだんだんと実感されてきたことが大きそうです。

 その彼女のやり方は、「私が求めるもの」とはずれているし、あくまで「彼女が大事だと思っていること」ですから、その意味では彼女のやり方の押しつけと言えなくはないし、自己中心的だという見方も出来なくはないでしょう。

 でもそれは「自分のことしか考えない」こととは違うんですよね。彼女なりに一生懸命私のことを考えたり、心配してくれたり、その結果のことです。身勝手な自己中とはやっぱり違いがあります。

 そういうことが少しずつでも実感されてくると、それまでは「なんで私を無視してこんなに押しつけがましいことをするのか」と感じて反発していたことも、「ああ、こんな風に自分のことを一生懸命考えてくれているんだなあ」と、ちょっとゆとりを持って考え直し、感じ直すことが出来たりもします。そうすると彼女に対する「信頼感」が増していくんですね。

 この変化は、「彼女の方が変わったから」ということではなさそうに思います。むしろ彼女の方はずっと一貫していて、その姿についての私の理解の仕方が変わった、ということが大きそうです。もちろん彼女は彼女なりにいろいろ努力はしてくれているわけですし、定型のことを理解しようともしてくれいますし、それで変わる部分もあるわけですが、根っこの所ではずっと一貫している感じなんですね。まあ、ある意味ではアスペ的に頑固だともえいるかもしれないですが。逆に私の方は定型的に柔軟だとも、揺れ動いているとも言えるのでしょう。

 つまりはお互いがお互いの持って生まれたものは持ち続けながら、お互いに「相手に向かって頑張ろうとしている」ということは認めあえる関係になってきているのかもしれません。そこが私にとっても「大事な足場」に感じられるようになってきているようです。

2014年4月 4日 (金)

パートナー理解の変化

 このところ、私のパートナーの受け止め方がだいぶん変化してきていることを感じますし、多分記事にもその変化は現れているのではないかと思います。

 大雑把な印象ですが、最初の頃は「アスペ定型のずれがあったんだ」ということを受け止めた上で、一体そういう違いを持ったもの同士、どうやって改めて関係を作っていけるんだろうか、ということを考えはじめました。そしてそのために、「なにがそもそもずれてるんだろう」ということを具体的に考えてきたように思います。

 その時の視点は、一般の解説書や教科書的な「客観的な説明」ではなくて、当事者として一緒に生活を共にしていてどういうズレを感じるのか、何に困るのか、なんでしんどいのか、といったことを考えてみること、そしてできるだけ定型の側からの一方的な見方にならないように、アスペの方にはそのずれはどう感じられるのか、ということについても考えようとする視点でした。

 なかなか困難な作業ですけれど、それでもすこしずつ、「ああこんなズレなのかなあ」と思えるところも出てきて、その次に気になりだしたのは、「どうしてこういうズレ方になるんだろう?」ということでした。

 これについても教科書的に言えば「アスペの人は他者の感情や視点をとることが苦手」とか、あるいは脳科学で言えばそれは「ミラーニューロン」の働きや脳内物質の量とか、活動している脳の場所の違いとか、そんな話で説明することになるのでしょうけれど、私が知りたかったのはそういう説明の仕方ではありませんでした。

 そもそもものの基本的な「見え方」にも結構大きなズレがありそうだということが感じられてくる中で、定型やアスペの方はそれぞれそもそもどんな風にこの世の中が見えているんだろう、そうすると、どんな「体験の仕方のズレ」が生まれるんだろう、それがどんなコミュニケーションのぶつかりあいを生むんだろう、というような、もっと当事者目線の「主観的」なことが知りたかったのです。

 そこで気にし続けていたことは、大人になって感じるズレ方や、定型の目から見えるアスペの方の「特徴」は、生まれながらの定型アスペの物の見方、感じ方、関心の持ち方の違いがベースにはあるけれど、でも多分「多数派と少数派」という立場の違いがその後の「生き方の違い」にすごく影響しているんじゃないか、ということを考えてみることでした。たとえば「自己責任」ということをとても重視するのも、定型でも「自己責任」の考え方はありますから、状況次第では定型だってアスペの方に「近い」ような信念に成られる方もあるように思える、というようなことです。

 つまり、「もし自分が小さい頃からアスペの方と同じような立場に立たされ続けたら、アスペの方の生き方の特徴といわれているものも、ある程度までは理解可能になるのではないか、という可能性を考えてきました。

 私としては、その試みはそれはそれでなんとなくうまくいくようになった部分も感じます。パートナーのいろいろな生きる姿勢も、そういう私の「定型的に<相手の立場に立って見る>」というやりかたで、「ああそうか。それならそう感じたり、そう振る舞うことも当然という気がするなあ」といった、一種の「共感的な理解」ができてくる部分がぼちぼち出てきています。(もちろんアスペの方から見るといろいろ「誤解」を含んでいる可能性もありますが、定型的にはなんとなく「納得」感が生まれます)

 他方で、「うーん、やっぱりどうしても理解が届かない」と感じる部分も改めて強く意識されたりもします。すくなくとも定型的に「共感的な理解」をずっと進めていったら、いつかは定型同士のコミュニケーションのように関係が成り立つようになるか、といえば、それはそういうことはないだろうなと思えるわけです。お互いの理解は深まっては行くけれど、でもどこまでもズレが続く。

 そんなふうに定型アスペのズレの理解がだんだんと深まっていくのと並行して、パートナーとの関係もやっぱり一寸ずつ変化していっているように私は感じています。(パートナーが同じように感じているかどうかはちょっとよく分からないところがあるのですが。あんまりそういう変化については彼女は注目していない印象もあるので……)

 最初の頃は「なんでこんなに共感的な関係が作れないんだろう?どうやったらお互いの共感的な理解が深められるんだろう?」ということにこだわっていたような気がします。やっぱり夫婦という「特別な関係」が幸せであるには、そういう「共感的な支え合い」がどうしても必要なんじゃないか、そんな思いが抜けなかったからでしょう。

 けれども理解が深まれば深まるほど、そういう関係を追い求め続けることのしんどさのようなものが積み重なっていきます。ところがやはり理解が深まるほどに、別の意味で私を「支え」てくれているパートナーの姿がだんだんとリアルに感じられるようになってきたんですね。そしてそれが本当に有り難く感じられるようになってくる。

 私がそうなってきた理由の一つは、こんなことかもしれません。アスペの方が定型とは違う感覚を持ちながら、少数派の悲哀でその感覚を常に否定され続け、往々にしてひどいいじめなどにも遭いながら、なんとかこの多数派に合わせて生きるすべを探さざるを得なくなる。その苦労が私なりになんとなく感じ取れるようになってくると、「ああ、こんな大変な状況の中で、それでもパートナーはほんとに頑張って生きてきたんだなあ」と思うようになる。

 それまでは「ほんとに難しい人だなあ。困ったことだなあ。なんとか解決の方法は無いものかなあ」という感じで見ていたパートナーのことが「ほんとに誠実に頑張って生き続けてきている人」に思えてきて、むしろ尊敬の気持ちも湧いてきたりするのです。そしてそういう生き方から学べるものもいろいろ感じ取れるようになってくる。

 そうすると、今度は逆にこの「困った人(=パンダ)」を、、彼女がどういう思いで必死で支えようとしてきてくれたか、ということについても感じ取れる部分が出てくる。それは私が求めていた「共感的な支え」とかとは違うものなんだけど、でも彼女なりの誠実さがそこに貫かれているように思えてくるわけです。

 今は、そういう彼女の「支え方」が、私にとっても無くてはならないものに感じられてきています。彼女が自分にとってどんな意味で大事な人なのか、ということが、今までとはちょっと違った部分でリアルに感じられるようになってくる。そこが現在の大きな変化かなと思います。

 今のところその感覚が揺らぐような気はしませんが、ただ「共感的な支え合い」を求めたい気持ちが全く無くなっているか、と聞かれると、「ああ、もうさっぱりなくなりました」とは言えないような気がします。まだやっぱりこだわりは残っていそう。そのあたりが今後どうなるのか、気になるところです。
 

 

2014年4月 2日 (水)

非共感的な支え合い

 介護の問題など、身近に抱える問題を考えていく上で、これまでの自分の人間理解ではどうしても追いつかない状態に置かれるとき、パートナーの見方が本当に力になっています。「共感的に支えてもらう」とか、そういうことで力になってもらっているというのとは違って、現実に生きていく上で大事な力をもらっているように感じるんですね。

 定型的な「共感的関係」ではない形で、お互いがお互いを必要とし、また支える関係というものを改めて見つめていけるのかもしれません。もちろん、いわゆる「自閉度」の違いとか、定型側の性格の違いによって、具体的になにがそういう関係になるのかはカップル毎にずいぶん違うかもしれません。

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