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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 多数派と少数派 | トップページ | 自分の感情に「共感」する »

2014年3月21日 (金)

信じる=おどし、と感じるのはなぜ?

 かずきさんから頂いたコメントが、最初から最後までどの行も刺激的で、
 うーん、と唸る感じでした。
 以下、引用だらけになりそうです。

>「信じてるよ」は、「誉め言葉」と同じように、やっぱり「おどし」に聞こえる私です。「信じてる」から、期待にこたえてね。「信じてる」から、裏切りは許さない。そう聞こえます。

 「信じてるよ」という言葉は、定型の場合は「ああ自分は信頼されているんだ」と嬉しくなることが多いように思うので、「おどし」という理解の仕方がこれまですごくわかりにくい感じがしていました。

 まあ、でも改めてよく考えてみると、相手に勝手に自分のイメージを作られて、それを押しつけられるようにして「信じているよ」と言われれば、「まいったなあ。どうしよう。私責任取れないよ」と思うことはあるかもなあと、そんなことを思います。

 その感じをさらに延長して、「相手の期待通りにしないと自分が攻撃される」と感じれば、その言葉は「おどし」に聞こえるようにも思えてきます。さらに「相手の期待が一体何なのか分かんない」という状態に置かれれば恐怖感にさいなまれることにもなりそうです。

 極端な話、DV状態に閉じこめられた人を想像してみると、相手は何に怒りだして急に暴力を振るってくるか予測が出来ず、ひたすら怒らせないようにびくびくとしているしかない。そんな状態に陥ってしまうことは定型でもありそうです。そんな状態で「おまえを信じてる」とかDVの加害者に言われたら、それは恐怖だろうなとも思います。

 もしアスペの方が定型の「訳の分からない」人間関係の中で、得体の知れない要求をされ、理由も分からずに突然攻撃されるということを繰り返し経験した場合には、「信じてるよ」という言葉が「おどし」に聞こえるというのも分かる感じがしてきますが、どうでしょう。

>でも、私が「信じた」人は「私の期待」には答えないし私を「裏切り」ます。(と、私は感じています)

 かずきさんも「信じる」ということを「期待」とつながることとして理解されていて、そこは定型の「信じる」ということの考え方にもつながるように思えます。だから、このことに関しての定型アスペのズレは「信じる」という言葉の理解の仕方が全然違うということではなくて、アスペの方は「信じた」のに定型に「裏切られ」てしまう、という経験が繰り返されて「何を信じて良いか分からない状態になってしまう」ということが大きいのではないかと思えました。

>だったら「信じる」とか「信じない」とか、言葉に出して伝える必要があるの?ってとこです。良くある?女の子同士の会話で「~信じてるからね」とか「私の事だけは信じていてね」とか。経験上たいていの場合、短い期間で「信頼関係」とやらは消滅します。これほどうすっぺらい言葉は無いと体験から学んできましたから、

 昔職場の上司から、「刎頸の友」という言葉を教わったことがあります。その友達が理由も説明せずに、自分のために死んでくれと言えば、自分も一切何も聞かずに死ぬことが出来るような深い絆で結ばれた友人関係のことを言うとのことでした。そこまで友人を信じ切っているというわけです。

 もちろん、実際にそんなことができる人はほとんどないでしょうし、あってもすごく特別な状況でのことでしょう。だからこそ、わざわざ「刎頸の友」とか言って美化するんだと思いますが、いずれにしても定型的な人間関係ではそういう極端な状態を理想的な「信頼」として語る場合もあるわけですね。最終的には「命がけ」になる。

 つまり、定型的な人間関係では、「信じる」ということは最後は「命をかける」(命を代償として差し出す)こともあるくらいに重要な問題にもなりうるし、だから実際にはかずきさんの言われるような「うすっぺらい」関係はしばしば見られるわけですけれど、それは決して理想ではなくて、場合によっては軽蔑の対象にもなるように思います。

 そう考えてみると、定型的な「信頼」というのは、なんか、「理想」の共有にも関係していそうに思えてきます。「理想」というのは「こうあってほしいな」というものですが、実際には実現しにくいから「理想」なんですよね。そして現実にはなかなか実現が難しいからこそ、それが大切な物に感じられる、という、変な状態ですね。

 それを「現実」にウェイトを置いてみれば、「信頼」なんて意味のない言葉に思えてくる。これも定型でもひどい裏切りをされ続けた人なら、同じように「信頼」なんてばかげたことだと感じるかもしれません。だとすれば、ここでもアスペの方の感じ方は定型もある程度共有できる可能性はあるわけかな。

>私としては「信じたいけど信じられないのが現実」だったら『意識も出来ないくらい絶望されていて、「自分自身で現実的な対処を考える」』という結論なのだと思います。

 うーん、やっぱりそうなんですね。そういう感覚は私なりに想像可能な気がします。

>私の場合、「信じる」事はイコールで「自己責任」です。裏切られようが、がっかりしようが、その人をそこまで「信じた」自分の責任ですから。その人が(私から見て)失敗することまで含めて、自己責任だと思っています。私の場合は、ですが。

 この納得の仕方は私も分かります。実際にひどい裏切りに出会ってそうやって自分を納得させることもあります。逆に言えば自分自身がそんなに「信頼」されるに足る人間だとも思いませんし。ただ、私の場合はそれでも「信頼」ということに、なんだか未練が残るんです。これは個性の部分もあるでしょうし、定型的な性格の部分もありそうな気がします。

>経験から、皮肉な価値観になっているのだと思いますが、これらを口答で説明すると、私の場合も、「信じると言うことが解らないから信じる事が出来ない」になるんだと思います。

 分からないから、と言うよりも、一応分かった上で、それが裏切られる経験を繰り返すので、「何を信じて良いか分からない」という状態になるのかなと思うのですが、どんなものでしょうか。

>信頼関係は、おそらく他者の望みを読み取って望まれたように行動(言動)する事から発生すると思うんですね。幼少期から親の期待や望みを読み取って、良いキャッチボールが出来ていたなら信頼と言うものを自然と学び取っていくんだと思います。でも、親を含め他人が求めている事が読み取れず、それに答えるという発想さえなかったら。

 私のパートナーは動物が好きですが、もしかすると動物は人間のような形では「裏切らない」からかもしれない、と思いました。動物や物の世界は「裏切らない」ことが大きな意味を持つんじゃないでしょうか。そういう意味では「信頼する感覚」はアスペの方にもあるんだと思います。ただ人間に対してはそれは感じられにくい状況に置かれてしまっている。
 そんな理解をしてみました。

>私には、「こう感じて良いんだよね?」と聞きたい気持ちもあります。

 この言葉が私には痛々しく感じられます。(この「痛々しく感じる」ということの意味がうまく伝わるかどうかはわかりませんが)私のパートナーもおなじようなことをときどき言うんです。自分が感じたことを自分で肯定できないって、ほんとに辛いことだと思います。

>浅いからですかね?同意も欲しいですよ。頂ければ安心もします。突き詰めればその人とは違うことには目をつぶれる時もまれにあります。それに救われてきたことも有りました。でも、極端なので、ありがたく思っていると、大抵はその後(私にとっては)しっぺ返しを食らうのですが・・・

 なんか、私の勝手な思いこみかもしれないんですが、この感じ、よく分かる気がします。そういうこと、定型でもあるよ、と思える。かなりシビアな状況でのことでそんなに「大抵」あることではないかもしれませんけれど、「ありうる」感じはする。


>そして私は子供に「信じている」と言うことがあります。説明出来ない私が使うには矛盾してますが、子供には「信じる」という事を学ぶ事は経験上必要だと思うので・・・。そして「信じている」というと子供は決まって泣きます。プレッシャーを与えているだけなのか、何なのか、涙の理由がいまいち解らないので今悩んでいたテーマでした。

 またもや「痛々しく」感じてしまいます。(決して軽蔑しているとか、「可哀想」と上から目線で感じているとか言うことではありません。「もし自分が同じような状況にあれば、ほんとに辛いだろうな。想像すると自分も辛くなる」、という「共感」の感覚です)

 子どもさんがどうしてそこで必ず泣かれるのか、それは私は想像できません。でも、そういうところで泣かずには居れない状態の解決法はないのだろうかと考えてしまいます。何か見つかればいいのですが……

 

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コメント

かずきです。
取り上げてくださってありがとうございます。

改めて考えますと
「信じてる」と言われて「期待」の内容が解っていれば、
「まいったなあ。どうしよう。私責任取れないよ」と思う前に
というか、「責任取れない」と思えない、んですかね。
「ああ、信頼されているから絶対に裏切ってはいけない、
何が何でも期待に沿えるようやらなくては」
となるというか…。
(これは私のこだわりの部分かもしれませんが)

なので、「信じ」られてしまったら、
「絶対」位のニュアンスで強い縛りのような物が発生して
その縛りに苦しめられる自分を容易に想像できてしまう。
だからまず「困る」
その後の相手との関係を考えると
「関係が破綻するか維持できるかのターニングポイントですよ」
という宣言にまで聞こえる。「おどし」
というのが細かなイメージですかね。

しかもそのハードルの高さを相手に決められる、一発勝負の試験のような。

だから世に言う「信じる」と、体感してきた「信じる」が、違うんです。
言葉にすれば、
「(定型の言う)『信じる』という事がわからないから(定型の言う)信じることが出来ない」
わけで
「(私なりの)『信じる』事は出来る」
のです。
(提示してある金額を渡せば商品が手に入る事を信じることは出来ますから。
そういう所で厳密に言えば「信じる」事が出来ないわけではないと思うんです。)

「信頼」を「理想」に置き換えて、パンダさんの「理想」の説明に基づいて考えると、
なんとなく解るような気がしました。
表現が悪いのですが
「信じてる」と言い合える関係に酔っている(理想に近づいている自分達に?)
というようなイメージでしょうか。
毎度例えが解りにくくて申し訳ないのですが。

そして「現実」より「理想」に近づきたいから人を信じる事を捨て去るには「未練」がある?のでしょうか。


自分で感じた事を自分で肯定できる、というのが、
やっぱりつい最近まで出来なかった私です。
今でも不得手ですが。100個のうち、1個出来れば大成功です。
辛い、のかは解りません。それが今までの当たり前だったので。
ただ、同意して頂けると意味の解らない涙が出ます。
多分それが答えです。どういう涙か解りませんが・・・。
普段と違うからのパニックかもしれませんし、
「安堵」ってやつかもしれません。
ホント、よくわかりません。

しっぺ返しを食らう事が「ありうる」という
パンダさんのコメントで思ったのですが

定型の思う信頼関係って、
しっぺ返しを食らわない関係と言い換えられますか?


子供の心配まで頂きありがとうございます。
叱っている時でも、普通に話している時でも、
「お母さんは貴方を信じているよ」というと、タイミングによっては号泣します。
私が言われて泣いたとしたら、それはプレッシャーに潰されているのですが
子供の場合はどうなのでしょう…
もし定型感覚で考えるとすると嬉し泣き?もありえるのでしょうか?

かずきさん

>「ああ、信頼されているから絶対に裏切ってはいけない、何が何でも期待に沿えるようやらなくては」となるというか…。(これは私のこだわりの部分かもしれませんが)

 アスペでそういうタイプの方あるようですね。
 私のものすごく限られた経験からも想像できます。

>その後の相手との関係を考えると「関係が破綻するか維持できるかのターニングポイントですよ」という宣言にまで聞こえる。「おどし」というのが細かなイメージですかね。

 うーん、ほんとにぴったりの感じ。この辺、アスペの方でもいろいろ個性がありそう。
 でもその個性の出方がアスペ的という感じがします。

>しかもそのハードルの高さを相手に決められる、一発勝負の試験のような。

 アスペの方の場合、自分を中心に考えると自分基準のみになって、
 相手を中心に考えると、相手基準のみに引きずられる、
 そういうことが起こりやすかったりするのではないか、とこれを見て思いました。

>(提示してある金額を渡せば商品が手に入る事を信じることは出来ますから。そういう所で厳密に言えば「信じる」事が出来ないわけではないと思うんです。)

 これ、読んでびっくり。「以心伝心」です (^o^)
 記事を書きながら、その例を使おうかどうか考えていたんです。
 ただ、ちょっと話をひろげすぎるかなと思ってやめたんですけど、
 かずきさんから例としてあげていただけるとは想像してませんでした (^ ^;)ゞ

>「信じてる」と言い合える関係に酔っている(理想に近づいている自分達に?)というようなイメージでしょうか。

 はい、まったくその通りと言える部分があると思います。
 定型の社会って、そうやって「お互いに信じ合える」部分を作って、
 そこに時には「命をかける」こともあって、
 さめた目で見れば「自分たちのその姿に酔っている」ことになりますし
 (というのはその関係の中にいない他の人からみると「なにを馬鹿なことを」
 とすっかり醒めた気持ちになってしまうこともあるので)
 でも本人は感動していたりするわけです。

 定型の「恋愛関係」もまさにそういうものの一つじゃないでしょうか。
 「あばたもえくぼ」になるわけで、関係が冷えてくると「えくぼもあばた」になります。
 周りから見てるとはずかしくなるようなやりとりも平気で行われたりする。

 ああ、そういえば、パートナーとつきあい始めたときに、
 私のそういう振る舞いに、パートナーがちょっと引いてました (^ ^;)ゞ

>そして「現実」より「理想」に近づきたいから人を信じる事を捨て去るには「未練」がある?のでしょうか。

 多分、定型的な人間関係の作り方には、そこが欠かせないんだと思います。
 人によってどのくらい重視するかは個人差があると思いますが。
 だから常に「相手の理想への姿勢(自分との信頼関係への態度)」が
 どの程度のものか、ちゃんと続いているか、深まっているかどうか
 いつも気にしていると思います。そこはすごく敏感。
 もちろんいつも意識している訳じゃないけど、「あ、これは違うかも」
 と思えることについては敏感に反応しちゃうんじゃないでしょうか。
 何しろ信頼って一種の「賭け」のようなものですから、
 「裏切られる」可能性は常にあるわけです。
 だから「この人は裏切らないだろう」と思える人は人から頼りにされやすい。

>定型の思う信頼関係って、しっぺ返しを食らわない関係と言い換えられますか?

 もうすこし定型的な感覚に近く(私の感覚かもしれませんが)言えば、
 「しっぺ返しを食らわないだろうと思える関係」でしょうか。
 「この人は私を裏切らないよね」という「安心感」の大きさみたいな。
 
>ただ、同意して頂けると意味の解らない涙が出ます。多分それが答えです。どういう涙か解りませんが・・・。

 これは定型的に表現すれば、「ああ、自分の思いや辛さが分かってもらえた!」
 と感じられたときの救われた思いからくる涙、ということになりそうです。
 「共感された」ことへの涙ですね。
 あるいは「やっと自分が認めてもらえた」という思い、うれしさへの涙とか。

>叱っている時でも、普通に話している時でも、「お母さんは貴方を信じているよ」というと、タイミングによっては号泣します。

 二つの可能性を考えます。
 ひとつはお子さんが定型である場合、普段お母さんとの間で気持ちが伝わりにくい
 感じがあって、そのことに辛い思いをされている場合、
 「信じてる」と言ってもらえて、すごく救われた感じになることがありそうです。

 お子さんがアスペである場合は、まだわたしにはそれがどういう意味なのか
 ちょっと想像力が及びません。

ありがとうございます、かずきです。

>アスペの方の場合、自分を中心に考えると自分基準のみになって、
 相手を中心に考えると、相手基準のみに引きずられる

正にこれです。そして相手の基準も読み間違えてしまうので、
明後日の方向に行ってしまい目も当てられません。

売買などの信頼は社会で生活する為のルールのような側面もありますが、
「信じる」という言葉がカバーする範囲が違うのでしょうか。

そこに通じる物があると思うのですが、
相手との関係に求める物が、「理想の関係」であり、「温度差の無い理想」を要求する?
のでしょうか。
そう考えると、私の人間関係は、「現実の関係」に対応する事で精一杯で
「理想の関係」とか先のことまで考えられないと言うのが
正確な表現のような気もします。

>「しっぺ返しを食らわないだろうと思える関係」
ですか。
そう期待できる関係を体験してみたいです。
逆に、私にそう思って頂けるような関係も。

やっぱり、私は共感される事に慣れていない様で
共感された時には対応に困ります。
そんな時どうしたら良いんでしょうかね、、、
定型的にはどうするんでしょう。
そこら辺が攻略できないと地に落ちている自己肯定感は
どうにも向上しそうにありません。^^;

そんな状態で息子の涙を救えるのか解りませんが
もう少し観察して色々考えて見ます。
おっしゃるとおり、定型の可能性もあるので、私との関係に苦しんでいる事もありえると思います。
ありがとうございます。
私と同じ考えなら、涙の理由も解らないでもないのですが
息子は息子で、何か思いがあるのでしょうし…

親子でも気持ちが伝わらないと言うのは、定型的には結構キツイ事なのですよね?

かずきさん

>売買などの信頼は社会で生活する為のルールのような側面もありますが、「信じる」という言葉がカバーする範囲が違うのでしょうか。

 たぶん、お商売の場合はたんにお店屋さんとお客さんの間で
 個人的にルールがあるわけじゃなくて、
 世の中みんなで認めているし、当たり前とされている、シンプルなルールがあります。
 もしそれをやぶればお巡りさんもやってくるわけですし、
 そのルールに従っておけば「自分は守られる」という安心感もある。

 でもこの人との信頼関係、みたいなことが問題になるときには
 そういうシンプルなルールでもないし、誰とでもみんなになりたつものではないし、
 その人との間の暗黙の約束事みたいなものですから、
 誤解もありうるし、破られることもありうるし、
 で、破られてもおまわりさんが来てくれる訳じゃないし……
 多少なりともそんな「安心できない感」が伴うんじゃないかな。

>共感された時には対応に困ります。そんな時どうしたら良いんでしょうかね、、、

 定型的には「うれしい!」ということを何らかの形で相手に伝えるのだと思います。
 ただ、そういう「うれしい」感情が特にないという場合には、
 御愛想で「ありがとうございます」と言えばいいのかなあ。
 まあ、それは無難ではあります。

>親子でも気持ちが伝わらないと言うのは、定型的には結構キツイ事なのですよね?

 これはそうだと思います。うちの子もそれでだいぶ苦しんだようです。
 ただ、うまく噛み合わなくても、親が本気で自分のことを心配してくれている、
 ということはどこかで伝わっているようにも思います。
 そのことをベースに、何か工夫がいるんでしょうね。

かずきです。

ちょっと思い当たったのですが、違ったらばっさりお願いします。

「あのとき私は○○と思ったんですが、「それは違う」と言われてしまって。」
という話をした時に
「かずきさんは○○と思われたんですもんね、それは聞いて欲しいですね」
と返されたことがあったのですね。
その時、「そうなんです」と返して、
(この人にはこの先の事を少し話していいのかな)
と判断したのですが
こういう判断が、「安心感」というものなのでしょうか。
そして「信頼」に繋がる物なのでしょうか?

ちなみに主治医との会話なので、特殊かもしれませんが…

これを「信頼」と仮定して、ですが、
そこで少し相手を「信頼」したとしても、
次会った時も同じとは思えないですし…
いや、思わないですし、
毎回ゼロから探りを入れてる感じです。
毎回リセットされるんです。
「さぁ、今日は何処まで話して良いんだろう」というような。

夫や息子でも毎朝、毎夕(帰宅時)リセットされる感じですが、
判断基準の情報量がとにかく多いので、
その情報量でカバーしている状態です。

そう考えると、「信頼」というものがより分からなくなってきてしまって。
分かってきたような、もっと分からなくなったような…

まだまとまりきって居ませんが、
とりあえず、息子と向き合い続けなくちゃな事は分かってきました。
ありがとうございます。

最近向き合う事に疲れてきて、
同じ方向向いてればいいかなー、と横に座ることが多くなってきました。
たまには必要かもしれませんが、ずっとじゃ駄目ですね;
定型かも、な息子の事に、もっと敏感にならないとです。
気持ちは通じていても、通じ合っていないのはやっぱりキツイですもんね。
人とは通じ合えなくて当たり前、じゃ無い世界で生きていくのかもしれませんし。。。

かずきさん

> これを「信頼」と仮定して、ですが、そこで少し相手を「信頼」したとしても、次会った時も同じとは思えないですし…いや、思わないですし、毎回ゼロから探りを入れてる感じです。毎回リセットされるんです。「さぁ、今日は何処まで話して良いんだろう」というような。

 なるほど。このリセットされる感じというのは想像したことがありませんでした。
 逆に考えれば、定型はそこでリセットしないわけでしょうね。
 一旦「この人は信頼できる人だ」と思えたら、ある程度その思いが持続する。
 裏切られるとだめになりますけど、そうでなければ。

 そういう違いはどこから生まれるんでしょう。
 「生まれつき」の違いなのか、それともアスペの方は
 繰り返し自分の予想を「裏切られて」きた経験があって、
 そのせいで常に「本当にそうなのか?」ということを
 確かめないといけなくなっているということなのか……
 そのあたりもまた考えていきたいことの一つになりました。

>夫や息子でも毎朝、毎夕(帰宅時)リセットされる感じですが、判断基準の情報量がとにかく多いので、その情報量でカバーしている状態です。

 「判断基準の情報量」と言われることの意味がまだちょっとうまく理解できません。
 またよろしければ教えてください。

>そう考えると、「信頼」というものがより分からなくなってきてしまって。分かってきたような、もっと分からなくなったような…

 謎が謎を呼ぶ。一つ分かると10個分からないことが増える……
 そんな感じでしょうか…… (^ ^;)

>息子と向き合い続けなくちゃな事は分かってきました。ありがとうございます。

 あ、いえ、お役に立てれば幸いです。
 
>最近向き合う事に疲れてきて、同じ方向向いてればいいかなー、と横に座ることが多くなってきました。たまには必要かもしれませんが、ずっとじゃ駄目ですね;

 あんまりぎしぎしと向き合い続けるのも疲れますよね。
 適当に息抜きをしないと。
 あ、ただ、この「適当に」という言い方がまた
 アスペの方にとっては曖昧で困る表現な訳か…… (^ ^;)ゞ

 「疲れたら休む」という言い方の方がいいのかなあ。
 この辺は私にはまだまだよく分からないです。

>定型かも、な息子の事に、もっと敏感にならないとです。気持ちは通じていても、通じ合っていないのはやっぱりキツイですもんね。人とは通じ合えなくて当たり前、じゃ無い世界で生きていくのかもしれませんし。。。

 お父さんが定型の方であれば、お父さんに相談してみるのもいいかもしれません。
 定型的な通じ合いについてはお父さんに主に担当してもらって、
 そのあたり、「分業」を考えるとか。

 あと、お子さんの年齢によっては、だんだんとかずきさんの性格を理解してもらって、
 お子さん自身にもいろいろ工夫をしてもらうことが大事になるかもしれませんね。
 「こういう所はお互いに感じ方が違うみたいだから、そこは理解してね」
 とか、なんか説明することに意味が出てくる時期があるようにも思います。

 具体的なことは分かりませんので、あくまで一般的な可能性の話ですけれど……

ありがとうございます。かずきです。

判断基準の情報量についてですが、
例えば

「あ、この表情の時は機嫌が悪い事が多いな」
だとか
「あ、この足音は機嫌が良いな」
とか、
大雑把にはそういう類の物です。

一緒に暮らしていれば、
「この表情は機嫌が悪いんじゃなくて体調が悪いんだろう」
とかまで推測できる。
(というか、拾える、のが正しい表現でしょうか。)

時にはそこから
「なにかあったの?」とか「どうしたの?」という
実に定型らしい問い掛けをするという思考回路に持っていく。
「今○○そうだから、ここまで話そう、聞こう」と判断出来る。

「すっごい仏頂面をしている」=「機嫌が悪い」と思いがちな私ですが、
そうではなくて、前日から連続した関係で
「疲れている」のかもしれないし
「眠い」のかもしれない。
その中でどれに当てはまるのか、前日の情報や
その人の生活パターンやそれまでの会話を参考に推測する感じです。

たぶん、定型の方は近い関係になればなるほど、
こういった事は無意識にされているんだと思うんですが、
逐一ステップごとに考えなくては「どうしたの?」とか「眠い?」という出力にはならないんです。
テンポ良く聞けないのも考えて聞いてるからなんです。

朝起きた瞬間から他人が居る生活というのは、
そもそも「一人」になる時間が無い生活というのは、
本来、常時脳みそ高速フル回転生活なんです。
だから一緒に生活しているだけでもう、これ以上ないくらい特別なんですよね。
でも、時間と共にパターンの蓄積がされていきますから
長く居れば居るほど、相手の表情というか、行動というか、読みやすくなる。

そこで、「判断基準の情報量」が多くなるという表現になったのです。
逆に言うと、毎日生活を見ている人じゃないと
「ここまで話そう」と判断出来る要素というのは、無いんです。
前回の会話の体温を持続しているわけじゃないですから。
だから、毎回リセットしている感じなんです。


ちなみに、私は「疲れた」と感じるには鈍感なんです。
適度に、ほどほどに、ってやつですね。難しいです。
「あ、疲れてるのかも」と気がつくとぶっ倒れて寝込みますから・・・
それもなかなかうまくいきません。
疲れる前に休む練習中です^^;

かずきさん

 かずきさんのして下さる説明、私にはとても分かりやすく感じます。
 なんか上手な「通訳」をして下さっている感じがします。
 それも常時脳みそ高速フル回転のお陰なのかもしれませんね。

 「疲れた」を感じにくい、というお話しは、
 結局アスペの方は感情など、「自分自身の状態」を定型的に理解することが
 難しいという話の一部なのかなとちょっと考えてみました。
 
 アスペルガールさん風に図にしてみると、こんなイメージが浮かびました。


 定型  自分の状態 → 自分の状態についての理解 → 自分の行動
      相手の状態 → 相手の状態についての理解 → 相手への行動

 アスペ 自分の状態          →            自分の行動
      相手の状態          →            相手への行動

 ちょっと単純化しすぎていると思いますけど、この真ん中の部分が
 いわゆる「クッション」にあたる部分だろうと思います。
 で、定型の場合、このクッションの部分に拘わる「理解」のところで、
 自分と他人の関係の調整とかもあわせてやっているんだろうと思えます。
 だからそこが抜けると関係がぎこちなくなってしまう。

 で、アスペの方も社会経験を積んでいくと、このクッションの部分を
 「頭で理解して」なんとかこなせるところが出てくるんだけど、
 それはやっぱりかなり無理してのことなので、すごく負担がおおきい。
 それで親しい関係ではそこはやっぱり飛ばすことになる。

 かずきさんの場合は、親しい関係でもそこを飛ばさずに頑張られているわけでしょうか。
 だとすれば、ほんとに「常時フル回転」で、大変ですよね。

かずきです。
そうなんですよね。
定型の方は、微妙な体温だとかちょっとした配慮とかを、
自動処理して相手の状態を理解してしまうんですよね。

私にはそれはとても出来なくて、
「こうだから、こっちなはずで、あ、こういう場合は先にネギライを・・・」とか
考えなきゃ出てこないんです。

文章だと、言葉が前後しても、先に挿入すればいいのでゆっくり考えられますが
口頭だとそうもいきませんから…

私が親しい関係でも欠かさない、というか親しい関係だからこそ徹底するのは
「関係が親しくなると崩壊する」という自分のジンクスを破る為です(苦笑

距離が測れなくなって、同化させてしまった事も、
配慮を省いてしまって傷つけた事も、何度もあります。
忘れたくても忘れられません。たくさんの人を傷つけてきました。

その反省から、「いくら自分が疲れても、大切な相手には礼節を欠かしてはならない」
と肝に銘じているからです。
これも、多分私のコダワリです。やぶっちゃいけないルールの一つです。
以前、「親しき仲にも礼儀あり」とお伝えしたことがありますが
そういった部分もありました。(私にとって大切なんです、この場所。)

良い部分ではこうやってうまくお話が出来ているのですが、
悪い部分としては自分が疲れているか無興味になってしまう事ですねー^^;

特に、感覚過敏と同じで、体調によって「定型より」な思考回路の時と、
「がっつりASより」の思考回路の時と落差が結構激しいのですが、
今は「定型より」な思考回路で居られているのだと自分では思っています。
それが「通訳」になっていたなら嬉しいです。

かずきさん

>私が親しい関係でも欠かさない、というか親しい関係だからこそ徹底するのは「関係が親しくなると崩壊する」という自分のジンクスを破る為です(苦笑

 これ読んで、「ああ、やっぱりそうなんだ」と思いました。
 知っている人で「親しくなれば必ず終わる」という信念を持っている人がいましたので。
 この感覚、やっぱり定型には持ちにくい感覚なんだろうなと思います。

>体調によって「定型より」な思考回路の時と、「がっつりASより」の思考回路の時と落差が結構激しいのですが、

 やっぱり定型よりな思考回路は「自然体」はないので、それだけ疲れるのでしょうね。反動がおおきくなっても無理はないと思います。「省エネ」でうまくやりとりできる方法の工夫が重要そう。

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