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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年3月23日 (日)

自分の感情に「共感」する

 かずきさんとのやりとりが私にはものすごく噛み合って感じられるので驚いています。アスペと言ってもいろんなタイプの方がいらっしゃいますから、かずきさんの個性の部分で「噛み合いやすい」のかもしれないし、アスペの方と対話をするためのポイントのようなものが少し見え始めてきたのかもしれないし、両方かもしれないし、とにかくうれしい驚きです。

 昔パートナーの持っていた「ソロモンの指輪」という本を読んだことがありますが、その指輪をすると動物と話が出来るようになる、という伝説からつけられた本の名前でした。定型アスペ間でほんとにお互いの言葉が通じあわない、なにがずれているのかについてもうまく語り合うことが難しい、まるで「違う言葉の世界」を持っている者同士、とさえ感じられるところに、「ソロモンの指輪」が手に入りつつあるのかもしれないと、そんなことさえ考えてみたくなります。

 

かずきさんが次のようなことを書かれていますが、この問題も私はほんとに気になっていることの一つです。

「自分で感じた事を自分で肯定できる、というのが、やっぱりつい最近まで出来なかった私です。今でも不得手ですが。100個のうち、1個出来れば大成功です。辛い、のかは解りません。それが今までの当たり前だったので。ただ、同意して頂けると意味の解らない涙が出ます。多分それが答えです。どういう涙か解りませんが・・・。普段と違うからのパニックかもしれませんし、「安堵」ってやつかもしれません。ホント、よくわかりません。」

 ここで特に考えたいのは、「同意していただけると意味の分からない涙が出ます」という部分です。定型的にそのような状況を理解すれば、すごく「意味が分かる」感じがします。それまで自分の感じ方を人から肯定してもらえずに、むしろ否定され続けて、そういう辛い思いをずっと続けてきたのに、ようやく同意し、肯定してもらい、あるいは受容とか共感とかしてもらい、その「受け入れられた」感覚に涙が止まらなくなる。

 たとえば定型アスペ間のズレに苦しみ続ける定型当事者が、でもその自分の苦しさを人に語っても中々理解してもらえず、「そんなこと誰でもよくあることよ」などとなぐさめられたり元気づけられたりといった見当違いの対応をされてしまい、カサンドラ症候群になる。だれも自分のこの苦しさを理解してくれないと絶望的な気持ちにもなっているところに、「あなたの気持ち、あなたの辛さはよく分かる」と言ってくれる人が一人でも現れたら、その人が辛い思いをしていればしているほど、涙があふれてくるだろうと思います。「ようやく私の辛さを理解してもらえた。受け止めてもらえた。許してもらえた」と、そんな気持ちになりながら。

 人になかなか理解されず、認められない辛さを抱えた人が、初めてその思いを他の人に受け止めてもらって、救われる思いで涙することは、定型的にはとてもよく理解できるし、また自分がそういう状態になってももちろんそのことの意味はよく分かります。全然不思議感はないんです。

 だから、たとえばかずきさんがそこでなみだを流されることについては、ほんとに「定型的に共感」できるわけなんですが、ところがかずきさん自身はそれをわからないという感覚を持っていらっしゃる。すごく不思議な状態です。

 ふと思ったのですが、こんな風に理解してみることはできないでしょうか。定型の場合、人がそのようになった場合にそう感じ、涙が出ることに「共感」できるわけですが、それと同じように、自分がそのような状態に置かれたときに、自分自身に「共感できる」のだと考えてみることです。自分の感情理解というのはつまり自分が自分に共感していることだと考えてみる。

 もしそうだとすれば、アスペの方が他者の感情の動きについて「共感」が難しいのであれば、自分自身の感情の動きについても「共感」という形で理解することが難しくなるはずです。それはコインの裏表のような関係にある。「涙が流れる」などの「身体の変化」は分かるのだけれど、「感情の動き」としては理解が難しい。

 そう考えると、これまでとても不思議だった、「この状態でパートナーがこの表情をしていると言うことは、きっとこう感じているに違いない」と、定型的には理屈ではなく直感的に「理解(とか共感とか)」できるのに、本人からは「そんなことを感じていない」と否定されて訳が分からなくなってしまうことについても、またちょっと分かってくる感じがあります。定型の私は彼女の表情を定型的に「共感」して理解するのだけれど、彼女の方はそういう「共感的な自分の理解」とはかなり違う形でその状態を理解しているんだ、と考えられるからです。だから私がそう感じてしまうことは定型的には当然のことだし、彼女がそれを「違う」というのも当然のことだし、どちらが正しいという話ではないことになります。

 定型から見ると、自分自身の感情なのにアスペの方がそれを「感じない」とか「理解できない」というのが不思議でしょうがないのですが、そもそも感情理解というのは他人のものであっても自分のものであっても「共感的に理解する」形で成り立つものだと考えれば、そういうアスペの方の感じ方も「なるほど」と思えるようになりそうです。前にアスペルガールさんが身体の状態としてなら感情は理解できるけれど、というような意味のことを繰り返し強調されていたことの意味も、それで分かってくる感じがします。

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コメント

パンダさんへ トマトです。

自覚する・・ということを別視点から言われたのですね。

そういえば誰しも「この気持ちは何なんだろう」という経験はあるのでしょうね。

トマトさん

 そうですね。まだまだ分からないことだらけですけれど、
 「自覚の仕方」がかなり違うのかなという気がします。

 で、「私を理解する」ことと「相手を理解すること」と
 その両方のやり方が多分セットになっていて、
 そのセットの作られ方が定型アスペで相当違うんだろうな
 と想像してみています。

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