生活の共有
このところ、介護問題でパートナーにいろいろ助けてもらっているんですが、「生活を共有する」って、大事なことだなとあらためて思ったりしています。
私の場合、もともと「あたまでっかち」なところが強くて、もしかするとそのことも影響してるのかもしれないんですが、パートナーとの関係でも「感覚の共有」だけじゃなくて、そういう「観念的な世界の共有」みたいなこともずっと求めてきたように思います。でもそれがうまくいかなくて消耗したりする。
そのへん、アスペの方でも、コンピューターとか「論理」の世界は大好きと感じられる方もあるわけでしょうけれど、でもそれを「共有」することが喜びの中心になるかどうかは微妙な感じがします。トマトさんのお掃除やパチンコの話ではないですけど、「自分が楽しいからやる」という世界なんだとすれば。
パートナーの場合はいずれにしてもそういう「観念的な世界の共有」についてはあんまり興味がないみたいなんですが、でも「生活を一緒に作っていく」ことはとても大事にしているんだなあと、ようやくなんとなく実感できるようになり始めた気がします。
ああ、そういう感覚から考えてみると、「アスペルガーと定型を生きる」の伸夫さんが、離婚を巡るやりとりになっているのに、離婚後の奥さんの生活設計についていろいろ計画を立てていらっしゃったのもなんとなく分かるような気がしてきます。お話しを読んだり伺ったりしていたときには「なんで?」ととても不思議でしたけれど。
「共感」とかいう「観念的」な世界の話じゃなくて、「共有」という生活の「現実的」な話から関係を考え直す、というのは、だいじなことなのかもしれませんね。
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