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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年3月

2014年3月30日 (日)

怒りと憎しみと救い

 パートナーは自分自身の子どもの頃からの経験でもそうですし、福祉関係の仕事の場の経験からもそうですし、「憎しみの世界」というものをとてもリアルに知っているなあと、このところしみじみと感じています。

 私が自分の人間理解が浅いなあと思い、そしてパートナーが私が見ることの出来ていない人間の姿をするどく見抜いているなあと感じる部分の一つが、この「憎しみの世界」なのではないかと最近つくづく思うんです。

 もちろん、これは定型アスペの視点の違い、というだけのことではないと思います。同じ定型でも私はそういうのが苦手な方で、そういう否定的な感情の中では「怒りの世界」は分かりやすいんですが、「憎しみの世界」はどちらかというと避けてきたのかもしれません。でも「憎しみの世界」を深く持っている定型の人もいるわけですね。

 憎しみと怒りと何が違うんだろうか、と改めて考えてみるんですが、怒りというのは「闘い」に結びつきやすいと思います。「こんな不当なことを許せるか!」みたいな感じで。それに対して憎しみの方は「怨み」と「復讐」に結びつきやすそうに感じます。

 夫婦関係でも、長い年月の間にどうしようもなくこの「憎しみの世界」を相手に対して募らせていく場合も少なくないようです。私はどうしてもそういうときに「そんなに憎い関係であれば、すっかり別れてしまった方がいいだろうに」と思ってしまうのですが、現実には人間そう簡単にはいかないのでしょうね。

 パートナーは仕事を通じて、もう人生の最終段階に入った夫婦に常に接する中で、そういうどしようもない「憎しみ」の関係に陥ってしまっているカップルを少なからず経験し続け、そういうカップルがどんなふうに老いから死へのプロセスを進んでいくか、そこに関わり続けているようです。(もちろん彼女には守秘義務がありますから、具体的には何も教えてくれませんけれど、一般的なこととして)

 そうすると、私の両親もまたほんとにお互いにお互いを受け入れられない関係で、老後が大変ですし、そのほかにも身近に見るシビアな関係などについて、パートナーに意見を聞くと、びっくりするくらいするどく解説してくれるんです。

 彼女にそういう力があるのは、一つにはそういう世界に身近に接し続け、そういう世界の中で生きざるを得なかったからでしょうけれど、もうひとつは定型的な「クッション」を外したところで人間を見るからではないかという気がします。

 つまり、比較的おだやかな定型同士の人間関係では、「クッション」が上手に使われているのだと思います。ところが定型同士でもあまりにも関係が悪くなっていくと、もはや「クッション」が使えない状態になる。そういう時に定型が示す姿は、あるいはアスペの方にはより分かりやすいものなのではないかという気がします。

 私は多分クッションへのこだわりが定型の中でも強い方だと思うので、そうするとパートナーには見えやすい人間のある一面が、やっぱり見えにくくなるんでしょうね。

 そんなことに気がついてくると、このところ親の介護の問題や何やで、彼女の見方を教えてもらうことですごく「見えてくる」感じがあったり、ほんとに救われる思いがすることが増えてきました。だからある意味すがるように彼女の意見を聞きたくなったりします。そうすると、これまで「何と皮肉な」と感じていた彼女の見方が、「何と素直な」と思えたりするのですから、まあ私も人間(パンダ)いい加減というか、底が浅いというか…… (^ ^;)ゞ

2014年3月29日 (土)

定型アスペ用クッション

 前回はアスペの方がコミュニケーションの中で定型の重視するクッションを使わないため、定型が自分の感覚でそれを受け止めると、すごくショックを受けてしまうことがある、という話を書きました。

 私も「パートナーには私を攻撃する気持ちがある訳じゃないんだ」ということが、なんとなく頭で理解できるようになってからも、なかなかそのショックがなくなることはなかったし、今もやっぱりときどき「ぐさっと来る」ことがあります。

 けれども、ふと気がついてみると、自分の中で何か変化も起こってきているようにも感じます。

 最初の変化は、そんな彼女の言い方に対して「ムキになって反論する」ということをあまりしなくなったことかもしれません。その代わり、「ガク」っとして落ち込み、そのまま自分の気持ちを落ち着けるようにやや深呼吸しながら、しばらくじっとしている、というふうに変わりました。そのような私の反応に彼女が気がつくこともあるし、気がつかないこともあるようです。

 気がついたときは彼女の方から「また落ち込ませちゃった?」と言われ、なんでそうなったかを説明することもあります。

 それから、「こういう言い方を彼女がするのは、決して私を傷つけようとしているわけではないんだ」ということを納得する上で、彼女の思い遣りを具体的に気がつき、感じる、ということも意味がありそうです。

 昨日はちょっと頑張らないと行けないことがあって、朝家を出るとき、パートナーが「がんばってね」と言ってくれたんです。言われてうれしくて、それから「あれ?こういうこと言われたことあたったっけ?」と思いました。なんか覚えてないんですね。わすれてるだけかもしれないけど、少なくとも最近はずっとなかったように思います。

 「あ、応援してくれているんだ」と思えて、それが嬉しかった訳なんでしょうけれど、そいう「言葉での応援」というのが、定型的には嬉しいところ、彼女の場合はたとえば家事をしっかりやるとか、そういう形で「現実的に支える」ことを一生懸命やってくれるわけなんですが、そこがなんかもうひとつぴんとこなかった。でも「がんばってね」の一言を聞いただけで、とても嬉しいわけです。

 そういう言葉を聞くと、「ああ、応援してくれているんだ」と実感されるんですね。そうすると、気持ちの上で、クッション無しの言葉があっても、それに対してこちらの気持ちにゆとりを持って受け止められやすくなる見たいです。「こんな表現してるけど、ほんとは自分のことを考えてくれているんだな」、という気持ちになりやすくて、別の意味の「クッション」ができるのかも。 

2014年3月25日 (火)

「クッション」の有無

 少し前に「アスペ的発言で定型が傷つく理由」の記事に書いたことと同じ事になりそうですが、やっぱりパートナーにきつく責められてしまう感じがして、なんでそんなことで責められなければならないんだろうとため息になる、ということが時々あることに改めて気がつきます。

 今日も親についての介護のことで、私がある状況について彼女に説明したんですが、「それ、どういうことなの?」「なんでそんなことをするの?」「そんなことできるの?」「こういうときどうするの?」「こうなっちゃったら大変じゃない」……など、「キツイ顔」で次々に「怒られる」んです。

 説明をしていくと、彼女もそれはそういうことなのかと理解はしてくれるし、その上で「こういうことは気をつけた方が良い」などと必要なアドバイスをくれたりするので、そのことはよいのですが、でもどうしても「不当に傷つけられた」という感覚が残ってしまうんですね。

 なんでそういう感覚になってしまうかというと、彼女の言い方がどうしても最初からいきなり「なんでそんなことをするの!」と責め立てるような調子に聞こえてしまうからです。で、それに答えても次々に「じゃあこれはどうなの!「これは?!」と「責め立てられる」。

 別に私は事態を悪くしようとしているわけではないわけで、状況を良くしようとして努力している訳なのですが、そういうことは一切「無視されている」印象になってしまい、最初から「おまえのやることはどうもあやしい。ちゃんと考えるべき事を考えてやっているのか?」と疑いをかけられて、責められるような、そんな「印象」になってしまうんです。これは辛いです。

 けれども彼女の方にはそんな風に私を責めている気持ちは(多分)全然ないんですね。ただ自分が分からないこと、心配なことをそのまま思いつくままに聞き、「状況を理解したい」と考えてくれているだけなんです。それで、彼女が真剣に考えてくれればくれるほど、心配してくれればしてくれるほど、その言い方は矢継ぎ早になって、聞き方もきつくなる。それで彼女にはそのつもりは全然無いのに、私には「責められている」感じになってしまう。

 改めて少し冷静になってから考えると、やっぱり彼女のやり方には「クッションがない」ということを思います。「私はこういうことがわからない。こういうことが心配だ」と思ったときに、「相手はどういう考え方でやっているんだろうか?いい加減な態度なのか、努力してるけど足りないところがあるのか、あるいは単に自分が理解できていないだけのことなのか」ということを判断しながら、それにあわせて言い方を変える、ということがないのです。


 たとえばいい加減な態度だと思えれば、それはきつく責める言い方になるのは分かります。でも「努力していても足りないところがある」場合には、頭から責めるのは可哀想ですよね。わかるように説明してあげることが大事になる。分からないことは説明されれば分かることが多いわけですし、分かればその方向で努力する姿勢が最初からあるのですから、責められる必要はない。さらに「自分が理解していないだけ」の可能性があるのなら、相手に教えてもらう、といった態度が大事になります。

 この場合分けの仕方について、もしかするとアスペの方にはうまく伝わらない可能性もあるのかなと思いますが、定型的にはそこは言い方を変える必要のあるところで、それがないと「私の気持ちを考えずにただ責められた」という感じになってしまったりする部分なのです。もちろん定型もそこはいつも上手に出来るわけではなく、相手が善意で努力しているのに、そのことに気づかずに責めてしまったりして、関係を悪くすることが時々あるのですけれど、そういう「失敗」を通してできるだけそうならないようにという「修行」も続けています。

 そう考えると、やっぱり「クッション」がないという感じがするんです。パートナーの場合、「自分が分からない」「自分が心配だ」ということをそのまま疑問としてストレートにぶつけてくる。そこで問題になるのは「事実はどうなんだ?」ということで、「相手がどういう姿勢でそれに対応しようとしているか」ということの判断は全然そこに入らない感じなのです。「クッション」というのはそこの部分のことです。

 逆に言えば、定型同士の遣り取りは、そこのクッションの部分をすごく重視しているんですね。もちろん定型にもそこが上手な人と下手な人はあるし、同じ人でも人生経験を積むことで「だんだん上手になる」ということもあるし、そのときの気分によってクッションを入れる気持ちの余裕がなくなる場合もありますが、でも「クッションが大事だ」という感覚は持っている。文化が違うと「何をクッションにするか」も異なっていたりしますから、そこで自分のクッションが通用せず、相手のクッションは理解できず、カルチャーショックになる、というようなことも起こりますけれど、どちらの文化の人にしても、その人たちが持っている「クッション」を大事にしていることには変わりがない。

 でもアスペ定型間のズレの場合、「どういうクッションを使うか」のズレではなくて、「クッションのあるなし」というズレのような印象を今のところ持ってしまいます。ほんとうにそうい理解で良いのか、あるいは単に私が「アスペ的なクッション」をまだ理解できていないだけのことなのか、その辺はこれから考えていかないといけないことだなと思います。

2014年3月23日 (日)

自分の感情に「共感」する

 かずきさんとのやりとりが私にはものすごく噛み合って感じられるので驚いています。アスペと言ってもいろんなタイプの方がいらっしゃいますから、かずきさんの個性の部分で「噛み合いやすい」のかもしれないし、アスペの方と対話をするためのポイントのようなものが少し見え始めてきたのかもしれないし、両方かもしれないし、とにかくうれしい驚きです。

 昔パートナーの持っていた「ソロモンの指輪」という本を読んだことがありますが、その指輪をすると動物と話が出来るようになる、という伝説からつけられた本の名前でした。定型アスペ間でほんとにお互いの言葉が通じあわない、なにがずれているのかについてもうまく語り合うことが難しい、まるで「違う言葉の世界」を持っている者同士、とさえ感じられるところに、「ソロモンの指輪」が手に入りつつあるのかもしれないと、そんなことさえ考えてみたくなります。

 

かずきさんが次のようなことを書かれていますが、この問題も私はほんとに気になっていることの一つです。

「自分で感じた事を自分で肯定できる、というのが、やっぱりつい最近まで出来なかった私です。今でも不得手ですが。100個のうち、1個出来れば大成功です。辛い、のかは解りません。それが今までの当たり前だったので。ただ、同意して頂けると意味の解らない涙が出ます。多分それが答えです。どういう涙か解りませんが・・・。普段と違うからのパニックかもしれませんし、「安堵」ってやつかもしれません。ホント、よくわかりません。」

 ここで特に考えたいのは、「同意していただけると意味の分からない涙が出ます」という部分です。定型的にそのような状況を理解すれば、すごく「意味が分かる」感じがします。それまで自分の感じ方を人から肯定してもらえずに、むしろ否定され続けて、そういう辛い思いをずっと続けてきたのに、ようやく同意し、肯定してもらい、あるいは受容とか共感とかしてもらい、その「受け入れられた」感覚に涙が止まらなくなる。

 たとえば定型アスペ間のズレに苦しみ続ける定型当事者が、でもその自分の苦しさを人に語っても中々理解してもらえず、「そんなこと誰でもよくあることよ」などとなぐさめられたり元気づけられたりといった見当違いの対応をされてしまい、カサンドラ症候群になる。だれも自分のこの苦しさを理解してくれないと絶望的な気持ちにもなっているところに、「あなたの気持ち、あなたの辛さはよく分かる」と言ってくれる人が一人でも現れたら、その人が辛い思いをしていればしているほど、涙があふれてくるだろうと思います。「ようやく私の辛さを理解してもらえた。受け止めてもらえた。許してもらえた」と、そんな気持ちになりながら。

 人になかなか理解されず、認められない辛さを抱えた人が、初めてその思いを他の人に受け止めてもらって、救われる思いで涙することは、定型的にはとてもよく理解できるし、また自分がそういう状態になってももちろんそのことの意味はよく分かります。全然不思議感はないんです。

 だから、たとえばかずきさんがそこでなみだを流されることについては、ほんとに「定型的に共感」できるわけなんですが、ところがかずきさん自身はそれをわからないという感覚を持っていらっしゃる。すごく不思議な状態です。

 ふと思ったのですが、こんな風に理解してみることはできないでしょうか。定型の場合、人がそのようになった場合にそう感じ、涙が出ることに「共感」できるわけですが、それと同じように、自分がそのような状態に置かれたときに、自分自身に「共感できる」のだと考えてみることです。自分の感情理解というのはつまり自分が自分に共感していることだと考えてみる。

 もしそうだとすれば、アスペの方が他者の感情の動きについて「共感」が難しいのであれば、自分自身の感情の動きについても「共感」という形で理解することが難しくなるはずです。それはコインの裏表のような関係にある。「涙が流れる」などの「身体の変化」は分かるのだけれど、「感情の動き」としては理解が難しい。

 そう考えると、これまでとても不思議だった、「この状態でパートナーがこの表情をしていると言うことは、きっとこう感じているに違いない」と、定型的には理屈ではなく直感的に「理解(とか共感とか)」できるのに、本人からは「そんなことを感じていない」と否定されて訳が分からなくなってしまうことについても、またちょっと分かってくる感じがあります。定型の私は彼女の表情を定型的に「共感」して理解するのだけれど、彼女の方はそういう「共感的な自分の理解」とはかなり違う形でその状態を理解しているんだ、と考えられるからです。だから私がそう感じてしまうことは定型的には当然のことだし、彼女がそれを「違う」というのも当然のことだし、どちらが正しいという話ではないことになります。

 定型から見ると、自分自身の感情なのにアスペの方がそれを「感じない」とか「理解できない」というのが不思議でしょうがないのですが、そもそも感情理解というのは他人のものであっても自分のものであっても「共感的に理解する」形で成り立つものだと考えれば、そういうアスペの方の感じ方も「なるほど」と思えるようになりそうです。前にアスペルガールさんが身体の状態としてなら感情は理解できるけれど、というような意味のことを繰り返し強調されていたことの意味も、それで分かってくる感じがします。

2014年3月21日 (金)

信じる=おどし、と感じるのはなぜ?

 かずきさんから頂いたコメントが、最初から最後までどの行も刺激的で、
 うーん、と唸る感じでした。
 以下、引用だらけになりそうです。

>「信じてるよ」は、「誉め言葉」と同じように、やっぱり「おどし」に聞こえる私です。「信じてる」から、期待にこたえてね。「信じてる」から、裏切りは許さない。そう聞こえます。

 「信じてるよ」という言葉は、定型の場合は「ああ自分は信頼されているんだ」と嬉しくなることが多いように思うので、「おどし」という理解の仕方がこれまですごくわかりにくい感じがしていました。

 まあ、でも改めてよく考えてみると、相手に勝手に自分のイメージを作られて、それを押しつけられるようにして「信じているよ」と言われれば、「まいったなあ。どうしよう。私責任取れないよ」と思うことはあるかもなあと、そんなことを思います。

 その感じをさらに延長して、「相手の期待通りにしないと自分が攻撃される」と感じれば、その言葉は「おどし」に聞こえるようにも思えてきます。さらに「相手の期待が一体何なのか分かんない」という状態に置かれれば恐怖感にさいなまれることにもなりそうです。

 極端な話、DV状態に閉じこめられた人を想像してみると、相手は何に怒りだして急に暴力を振るってくるか予測が出来ず、ひたすら怒らせないようにびくびくとしているしかない。そんな状態に陥ってしまうことは定型でもありそうです。そんな状態で「おまえを信じてる」とかDVの加害者に言われたら、それは恐怖だろうなとも思います。

 もしアスペの方が定型の「訳の分からない」人間関係の中で、得体の知れない要求をされ、理由も分からずに突然攻撃されるということを繰り返し経験した場合には、「信じてるよ」という言葉が「おどし」に聞こえるというのも分かる感じがしてきますが、どうでしょう。

>でも、私が「信じた」人は「私の期待」には答えないし私を「裏切り」ます。(と、私は感じています)

 かずきさんも「信じる」ということを「期待」とつながることとして理解されていて、そこは定型の「信じる」ということの考え方にもつながるように思えます。だから、このことに関しての定型アスペのズレは「信じる」という言葉の理解の仕方が全然違うということではなくて、アスペの方は「信じた」のに定型に「裏切られ」てしまう、という経験が繰り返されて「何を信じて良いか分からない状態になってしまう」ということが大きいのではないかと思えました。

>だったら「信じる」とか「信じない」とか、言葉に出して伝える必要があるの?ってとこです。良くある?女の子同士の会話で「~信じてるからね」とか「私の事だけは信じていてね」とか。経験上たいていの場合、短い期間で「信頼関係」とやらは消滅します。これほどうすっぺらい言葉は無いと体験から学んできましたから、

 昔職場の上司から、「刎頸の友」という言葉を教わったことがあります。その友達が理由も説明せずに、自分のために死んでくれと言えば、自分も一切何も聞かずに死ぬことが出来るような深い絆で結ばれた友人関係のことを言うとのことでした。そこまで友人を信じ切っているというわけです。

 もちろん、実際にそんなことができる人はほとんどないでしょうし、あってもすごく特別な状況でのことでしょう。だからこそ、わざわざ「刎頸の友」とか言って美化するんだと思いますが、いずれにしても定型的な人間関係ではそういう極端な状態を理想的な「信頼」として語る場合もあるわけですね。最終的には「命がけ」になる。

 つまり、定型的な人間関係では、「信じる」ということは最後は「命をかける」(命を代償として差し出す)こともあるくらいに重要な問題にもなりうるし、だから実際にはかずきさんの言われるような「うすっぺらい」関係はしばしば見られるわけですけれど、それは決して理想ではなくて、場合によっては軽蔑の対象にもなるように思います。

 そう考えてみると、定型的な「信頼」というのは、なんか、「理想」の共有にも関係していそうに思えてきます。「理想」というのは「こうあってほしいな」というものですが、実際には実現しにくいから「理想」なんですよね。そして現実にはなかなか実現が難しいからこそ、それが大切な物に感じられる、という、変な状態ですね。

 それを「現実」にウェイトを置いてみれば、「信頼」なんて意味のない言葉に思えてくる。これも定型でもひどい裏切りをされ続けた人なら、同じように「信頼」なんてばかげたことだと感じるかもしれません。だとすれば、ここでもアスペの方の感じ方は定型もある程度共有できる可能性はあるわけかな。

>私としては「信じたいけど信じられないのが現実」だったら『意識も出来ないくらい絶望されていて、「自分自身で現実的な対処を考える」』という結論なのだと思います。

 うーん、やっぱりそうなんですね。そういう感覚は私なりに想像可能な気がします。

>私の場合、「信じる」事はイコールで「自己責任」です。裏切られようが、がっかりしようが、その人をそこまで「信じた」自分の責任ですから。その人が(私から見て)失敗することまで含めて、自己責任だと思っています。私の場合は、ですが。

 この納得の仕方は私も分かります。実際にひどい裏切りに出会ってそうやって自分を納得させることもあります。逆に言えば自分自身がそんなに「信頼」されるに足る人間だとも思いませんし。ただ、私の場合はそれでも「信頼」ということに、なんだか未練が残るんです。これは個性の部分もあるでしょうし、定型的な性格の部分もありそうな気がします。

>経験から、皮肉な価値観になっているのだと思いますが、これらを口答で説明すると、私の場合も、「信じると言うことが解らないから信じる事が出来ない」になるんだと思います。

 分からないから、と言うよりも、一応分かった上で、それが裏切られる経験を繰り返すので、「何を信じて良いか分からない」という状態になるのかなと思うのですが、どんなものでしょうか。

>信頼関係は、おそらく他者の望みを読み取って望まれたように行動(言動)する事から発生すると思うんですね。幼少期から親の期待や望みを読み取って、良いキャッチボールが出来ていたなら信頼と言うものを自然と学び取っていくんだと思います。でも、親を含め他人が求めている事が読み取れず、それに答えるという発想さえなかったら。

 私のパートナーは動物が好きですが、もしかすると動物は人間のような形では「裏切らない」からかもしれない、と思いました。動物や物の世界は「裏切らない」ことが大きな意味を持つんじゃないでしょうか。そういう意味では「信頼する感覚」はアスペの方にもあるんだと思います。ただ人間に対してはそれは感じられにくい状況に置かれてしまっている。
 そんな理解をしてみました。

>私には、「こう感じて良いんだよね?」と聞きたい気持ちもあります。

 この言葉が私には痛々しく感じられます。(この「痛々しく感じる」ということの意味がうまく伝わるかどうかはわかりませんが)私のパートナーもおなじようなことをときどき言うんです。自分が感じたことを自分で肯定できないって、ほんとに辛いことだと思います。

>浅いからですかね?同意も欲しいですよ。頂ければ安心もします。突き詰めればその人とは違うことには目をつぶれる時もまれにあります。それに救われてきたことも有りました。でも、極端なので、ありがたく思っていると、大抵はその後(私にとっては)しっぺ返しを食らうのですが・・・

 なんか、私の勝手な思いこみかもしれないんですが、この感じ、よく分かる気がします。そういうこと、定型でもあるよ、と思える。かなりシビアな状況でのことでそんなに「大抵」あることではないかもしれませんけれど、「ありうる」感じはする。


>そして私は子供に「信じている」と言うことがあります。説明出来ない私が使うには矛盾してますが、子供には「信じる」という事を学ぶ事は経験上必要だと思うので・・・。そして「信じている」というと子供は決まって泣きます。プレッシャーを与えているだけなのか、何なのか、涙の理由がいまいち解らないので今悩んでいたテーマでした。

 またもや「痛々しく」感じてしまいます。(決して軽蔑しているとか、「可哀想」と上から目線で感じているとか言うことではありません。「もし自分が同じような状況にあれば、ほんとに辛いだろうな。想像すると自分も辛くなる」、という「共感」の感覚です)

 子どもさんがどうしてそこで必ず泣かれるのか、それは私は想像できません。でも、そういうところで泣かずには居れない状態の解決法はないのだろうかと考えてしまいます。何か見つかればいいのですが……

 

2014年3月19日 (水)

多数派と少数派

 久しぶりにある定型当事者の方のブログをちょっと拝見しました。婚家がみんなアスペの方らしく、世の中とは違って定型のその方が「少数派」として苦労されているようでした。

 その方にとってはまったく理解できない、想像を超えた世界に住まわされて、ほんとうにぼろぼろになられていて、ブログでその傷ついた自分の体験を訴えられ、それを理解してくれる読者の声に救われている、そんな感じがします。「自分が傷つくこの感覚、おかしくないよね?あたりまえだよね?」という叫び声。そして「あなたはおかしくない。当然の感じ方だ」と言ってもらえることでほっとする感覚。定型的にはよく分かる気がします。

 もしお互いが対等な立場で「相手を理解する」という関係を作れるのなら、関係の改善にまだ道が作りやすくなるのかもしれませんが(それでももちろん大変ですが)、そこに「多数派」対「少数派」みたいな「力関係」が加わって、一方が絶対化されてしまうと、理解し合うことには一層の困難が生まれますね。多数派は自分たちのやりかたを変えない方が楽ちんですから、わざわざそんな面倒なことはしたくない、というのは、良い悪いは別にして、まあそうなりがちだよなとは思えます。

 そしてそういう問題は、定型が多数派の場合も、アスペの方が多数派の場合も、多分そんなに変わりがないんじゃないでしょうか。どっちが多数派になっても、少数派になった方は「訳の分からない世界」に翻弄され、孤立し、苦しめられる。

 ただ、自分が少数派になっているときに、どうやってその苦しみから逃れようとするか、というところでは、定型アスペ間でちょっとやり方が違うのかもしれません。定型は自分の苦しみを誰かに分かってもらいたいと切実に思い、自分の感じていることは「常識」であって、みんなに「共感」してもらえると分かって救われた気持ちになれることがある。でもアスペの方は最初からそのことには余り期待していないか、あるいはもう意識も出来ないくらいに絶望されていて、「自分自身で現実的な対処を考える」という道に進まれる。

 実際、パートナーの口からは、定型的な世界の「人間関係」について、「まったく信用していない」というようなことを聞くことが時々あります。もちろん「定型だから信用できない」という話ではないのですし、個人としては「この人は」基本的には信用する、ということがあるわけですけれど、でもそれはやはりアスペ定型の区別とは関係ありません。

 以前はそういうパートナーの「人間不信」に私は驚いて、なんでそんな皮肉な見方しかできないんだろう、と憤慨もしていたのですが、今では少数派として苦労させられてきた経験からすれば、そういう見方もとてもリアルなもので、無理もないんだろうな、という気がします。

2014年3月16日 (日)

アスペ的発言で定型が傷つく理由

 アスペの方の話し方について、本人は全然そんなつもりはないのに、なんで定型がショックを受けたり、傷ついたりすることがあるのか、ずっと不思議に思っていたのですが、「もしかすると」と考えたことがあります。

 今日、お昼ご飯をパートナーが作ってくれて、片付けを私がしたんですが、洗い物をしていると、彼女が来て、レトルト食品を暖めていたお湯の入っている鍋を示して、「このお湯使ったらいいのに」と不機嫌な感じで(と聞こえてしまう)言うんです。

 で、そこに入っているのがお湯だとは知らなかった私は「ああそう。じゃ、使うわ」と言いながら、なんか引っかかるものを感じたんですね。

 何に自分が引っかかったんだろうと、洗い物をしながら考えていたんですが、私にはその言い方が、こんな風に聞こえたんだなと思えたんです。「このお湯を使ったらいいのに、なんであなたはそんなこと気がつかないわけ?もったいない」

 つまり、気がついて当然のことを気がつかなかった不注意な人だと、責められたように感じられたわけです。

 でも、多分彼女にはそんな気持ちは無いはずで(これまでの経験から推測するとですが)、「なんで責めるの?」と聞けば「だれも責めてないじゃない」と言うと思えるんですね。で、多分それは嘘ではない。

 じゃあなんで自分がそんな風に責められたと感じたんだろうと考えたんですが、ふと思ったのは「このお湯使ったら?」とか「ここにお湯あるし使って良いよ」と言われたら、全然何のひっかかりもなく、素直に「うん、ありがとう」で済んだと思えました。ということは「このお湯使ったらいい<のに>」の「のに」の部分が引っかかったんだろうと思えたわけです。この「のに」の部分が「なんであなたはそんなことに気がつかないわけ?もったいない」という文句を想像させちゃったんだろうなと。

 じゃあ、なんで彼女はどんなつもりでこの「のに」を付け加えたんだろうかと考えてみました。それで「もしかして」と思ったことは、彼女はそこにお湯があることを知っているわけですから、せっかくのお湯を使って洗い物をすることは「当然」だと思える「のに」、私がそれを使っていないことを見て、ごく自然に「のに」をつけて話したんじゃないかと思いつきました。

 私なら「お湯を使ったら?」というような言い方をするのは、私はそれがお湯だと知っているのだけれど、相手の人は知らないだろう、と予想するので、知らない人に情報を教えてあげる、といった姿勢で話すからだろうと思います。でも多分彼女はそういう距離の取り方は苦手で、「自分は知っているから当然そうすること<なのに>、この人はしていない」という枠組でそのまま素直に発言してしまう。

 ですから、相手に何かを言うときに、「私はこう感じている」ということを足場にしてそのまま相手に発言する場合と、「相手の人はどういう状況にあるのか」ということを考えて、そこに合わせて発言する場合とのズレがあるんじゃないでしょうか。そのズレに気づかないと、定型的には「おまえはなんて不注意な、気がつかないやつなんだ」と批判されているように聞こえてしまうのでしょう。

 ま、ちょっとした話ですから、ほんとにそうなのか、どこまでそれが言えるのかは分かりませんけど、ひとつの理解の可能性として、これから気をつけてみたいなと思います。

2014年3月15日 (土)

生活の共有

 このところ、介護問題でパートナーにいろいろ助けてもらっているんですが、「生活を共有する」って、大事なことだなとあらためて思ったりしています。

 私の場合、もともと「あたまでっかち」なところが強くて、もしかするとそのことも影響してるのかもしれないんですが、パートナーとの関係でも「感覚の共有」だけじゃなくて、そういう「観念的な世界の共有」みたいなこともずっと求めてきたように思います。でもそれがうまくいかなくて消耗したりする。

 そのへん、アスペの方でも、コンピューターとか「論理」の世界は大好きと感じられる方もあるわけでしょうけれど、でもそれを「共有」することが喜びの中心になるかどうかは微妙な感じがします。トマトさんのお掃除やパチンコの話ではないですけど、「自分が楽しいからやる」という世界なんだとすれば。

 パートナーの場合はいずれにしてもそういう「観念的な世界の共有」についてはあんまり興味がないみたいなんですが、でも「生活を一緒に作っていく」ことはとても大事にしているんだなあと、ようやくなんとなく実感できるようになり始めた気がします。

 ああ、そういう感覚から考えてみると、「アスペルガーと定型を生きる」の伸夫さんが、離婚を巡るやりとりになっているのに、離婚後の奥さんの生活設計についていろいろ計画を立てていらっしゃったのもなんとなく分かるような気がしてきます。お話しを読んだり伺ったりしていたときには「なんで?」ととても不思議でしたけれど。

 「共感」とかいう「観念的」な世界の話じゃなくて、「共有」という生活の「現実的」な話から関係を考え直す、というのは、だいじなことなのかもしれませんね。

 

2014年3月10日 (月)

パートナーのすごいところ

 私の年代はやっぱり介護の問題を抱えるのですが、このところその問題に関してパートナーが教えてくれる「人間理解」がものすごく的確なことを、ほんとに感じ入っています。

 具体的に書かないとわかりにくいでしょうけれど、印象としては私が見過ごしているか、あるいは見ようとしていな人間のありかた、みたいなものをしっかりと見据えている気がするんです。もちろんそれは定型アスペの問題ではなくて、単に私が人を見る目がなさすぎ……ということかもしれないのですが (^ ^;)ゞ

 ただ、いじめのことについての記事でも書きましたけれど、パートナーはやっぱり定型的な「笑顔のごまかし」のようなものを、嫌と言うほど味わい続けてきて、彼女にとってわかりやすい人の姿を一生懸命掴んできたんでしょうね。そしてそれは「笑顔のごまかし」の世界に生きていると見えないものなのかなと思うんです。

 それでも彼女がすごいと思わせられるのは、そういう深い「人間不信」にも陥りそうな体験の連続の中で、なお「優しさ」を失わないことです。私が苛立ってしまう老親の様子も、パートナーはしっかりと受け止め、否定せず、そこでこちらが怒ってしまうのは可哀想だと言い、現実的な対応を考えてくれる。なんだか自分の未熟さを見せつけられる思いがします。

 他方でちょっと面白いことに気がつきました。別のことで私がパートナーに心を打たれる思いがして、感謝の気持ちを伝えると、「そんなことはない」というんです。以前はそういうのは「謙遜」なのかなあとか思っていたのですが、なんかちょっと違う気がして気になっていました。で、やっぱり本気で否定しているんだなと思えたんです。

 そこで興味深かったのは、仮にそれが誤解だとしても、私が嬉しい気持ちになっていること自体は彼女が否定できることではないはずです。けれども彼女の否定の仕方は、「嬉しいはずがない」という感じなんですね。それで、「僕がそう感じているという事実は、あなたが否定できることではないでしょう」というんですが、なんか納得いかないみたいなんです。

 アスペの方はよく「あなたはあなた、私は私」ということを強調されますし、パートナーもそうですけれど、こう言うところではむしろ自分の感じ方がすべてになってしまって、私がそれと違う感じ方をすることが「嘘」にされてしまうんですね。そこ、私がしつこく彼女に言ったら、「もう、わかんないわ」とか言ってました (^o^)

 そういうところ、定型は「常識」を振りかざして自分の感覚でアスペの人の感じ方を否定しがちですけれど、アスペの方もポイントこそ違え、そういう自分の感覚で相手を決めつけるところはおんなじなんじゃないかな、ただ「常識」とそれを呼ぶかどうかの違いだけでと、そんなことを感じられて興味深かったです。

2014年3月 3日 (月)

虐め体験と感情理解

 多分そういう経験を持たれるアスペの方は少なくないのではないかと想像しますが、私のパートナーも、子どもの頃にずっといじめの対象となっていて、そこから逃れるすべを模索することが彼女にとってはとても大事な「生きる技術」になっています。

 前にも少しご紹介しましたが、そのことに関して印象的なことがあります。小学生の時、パートナーは虐められていることになかなか気がつけなかったというのです。なぜかというと、相手の人が「笑顔で」いじめてくるからだそうです。ただ、実際はいじめで傷つくのは傷つくわけですし、事態の意味がよくわからないまま、かなり時間がたってからようやく「あれはいじめなんだ」と気がつくというのです。

 そのことを前提に、「感情理解」ということについて、アスペの方がこんなふになる傾向があるのではないか、と想像したことがあります。

 定型の場合は、表情と思っていることが違うことがよくあります。それは年齢が上になればなるほど、「本心を隠してやりとりする」ことが重要な社会的なテクニックになったりするからです。それには「相手をだます」というマイナスの意味もありますし、「相手を傷つけないようにおだやかに調整する」というプラスの意味もあり、それはその時々で異なるでしょう。そのどちらなのかは定型も経験的に推理して判断するわけですし、その推理が外れることもしばしばあります。

 でも、たとえばパートナーはそこで「本心」と「表情」の区別ができなかったのですね。そうすると、彼女にとっては「表情」というのは、全くあてにならないもの、ということになります。その「表情」をそもまま信じることで、結果としては大きく裏切られることはいくらでもあり、「表情に頼る」ということはできないことになります。

 だとすれば、もともとが「感情の遣り取り」については定型に比べてそれほど積極的ではないところに、そもそも表情が全くあてにならない、という現実を突きつけ続けられることで、ますますそういう「感情の遣り取り」には意味を感じられなくなるのではないでしょうか。

 社会の中ではそれでも「表情のやりとり」を求められますから、生きていくためにはそれは「テクニック」として身につけざるを得ない。でもそれはアスペの方にとっては非常にしらじらしい、嘘の世界として感じられるのではないでしょうか。だから大事な家族との関係では、そういう「偽物の気の遣い方」はしたくないと思う。

 そう考えると、今まで表面的には「こういうことをアスペの人は強調する」ことまでは理解できていたことが、もう一歩踏み込んで「ああ、なるほど、そんな感覚なのかも」と私には感じられるようになります。もちろん私の思いこみに過ぎないかもしれません。

 

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