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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年2月22日 (土)

それぞれの事情

 ちょっと手のかかる仕事が立て込んでいることも影響しているかもしれませんが、ここ数日こちらの方では頭があんまり働かない日々が続いています。自分自身の印象としては別に悪い感じはなくて、何となく頭がもう一度整理されなおそうとしているのかなあ、という気もします。(アスペルガールさん風にいうと、無意識下で理解が進んでいる、という感じかも)

 気分転換にチャン・ドンゴンの主演する「タイフーン」という映画をGyaO!の無料映画で見ていたんですが、改めて朝鮮(韓)半島の人たちが抱えている壮絶な状況や、その中で生きざるを得ない人生の重たさをしみじみ感じています。まあ、韓国の友達なんかとつきあっていても、ときどきそのことは意識せざるを得ないのですが。

 私の場合も、子どもの頃、「家庭は戦場」というのが当たり前、という感覚で育って、大人になってから「家庭は安らぎの場」という感覚で生きてこられた人たちのことに気づいて「え?そんなことありうるんだ!」とびっくりするような状態でした (^ ^;)ゞ だから、朝鮮(韓)半島の方たちが置かれた「日常が戦場」という世界に、なんとなく私がリアリティを感じるのかもしれません。それにしても彼らの人生のすさまじさに比べると、自分の置かれてきた状況はまだなんと穏やかな、と思えないでもありません。

 まあ、日本の中でもすごい厳しい状況はいくらでもあるわけで、昔の知り合いに親がヤクザやさんの親分さん、という人がいましたけれど、子どもの頃に目の前で人が刺されるところも見たそうです。本人、冗談言うのが好きな人で、そのときも決して深刻ぶらずに笑顔で話してましたけど、それだけシビアな深い傷になっているということですよね。でも、数はそんなに多くないですが、私が海外の知り合いや友達たちの人生を聞いていると、日本のように「穏やかさを大事に<できる>」という状態を、そもそも「許されていない」状況の厳しさを感じさせられることが多いです。

 何にせよ私も私なりには「戦場」で育ってきたことになるのだと思うわけですが、パートナーはそういう私にとって、安らぎを与えてくれる人だったんだろうなと、ふと思いました。彼女自身それまでわけのわからない定型世界の中で、やはり家の中でも私とはまた違った形で厳しい状況を生き抜いてきたわけですが、そのことは私には「共感」できる部分になったのかもしれませんし、何よりもやたらと私の中をかき乱そうとはしないその距離感が、ほんとに救いになったのだろうと思います。それまではほんとに自分の中に手を突っ込まれてかき乱され、振り回され続ける家庭環境でしたから。

 私の親にとってはそんな風に人と距離を取って生きるパートナーは、ある意味得体の知れない人間だったでしょうし、色んな意味で許し難い存在にもなったのだろうと思います。結婚してからは私は彼女に対して親からの防壁になる、という役目を必死で果たしていました(ただ後にパートナーは全くそのことに気づいていないことを知って、唖然・愕然、でしたが (^ ^;)ゞ)。

 それでも親がするどく突いてくるパートナーの「アスペ的部分」の「おかしさ」(もちろんそれを親がアスペの問題として理解しているわけではありませんし、私もそういう理解は出来ていませんでしたが)については、私も日常生活の中で深刻に感じずにはおれませんでしたし、そこに同意を求められて困りましたが、とにかく親のように一方的に決めつけて非難する気にはなれなかったです。私には理解が及ばなくても、パートナーにはパートナーなりの深い事情があるに違いないと思い続けてきたからです。

 前にもすこし書いたことがあるような気がしますが、確かにパートナーという人は、私にとっては「私の内面をやたら自分の都合でかき乱そうとはせず、静かにそこに一緒にいてくれる」というところで本当に安らぎをもたらしてくれると同時に、こんどはその同じ事が「私の気持ちを共有して支えてくれない」ということにもなってしまい、私や子どもが苦しむ原因にもなったことになります。

 彼女は彼女で子どもや私のことを(特に子どもが出来てからはひたすら子どものことでしょう)心配して、いろいろ努力を続けてきたし、そのことで子どもが救われた部分は決して小さくないだろうとは思うのですが、やはり彼女の「アスペ的な理解の仕方」で子どもに対応することで、彼女が懸命になればなるほど逆にズレが大きくなってしまって、子どもの「気持ち」を中々支えられずに、自分の理屈で(私から見て理不尽に)しばりつけるという結果になってしまったと思えます。

 「自分はアスペルガーだ」という理解を彼女がし始めてから、彼女は自分のせいで子どもを苦しめた、と思ってそのことに苦しんで来ていますし、正直に言えば、私の定型的な感覚から言うとそのように思える部分も確かにあります。ただ、言葉の遊びをする気持ちはないのですが、それを「彼女のせい」と考えることはしたくなくて、やっぱり「アスペ定型のズレのせい」と考えたいんですね。別に彼女は自分で選んでアスペになったわけではないし、私だって選んで定型になったわけでもない。彼女が定型的世界を理解しにくいことでいろいろな問題が生まれるように、私はアスペ的世界を理解できなくていろいろな問題が生まれてしまう。

 彼女は生まれながらにして「そういう人」なわけだし、私もまた生まれながらにして「こういう人」なわけだし、お互いの家庭のそれぞれ個性的だったりシビアだったりする状況も、別に自分が選んだわけではなくて、もう運命としてそうだったわけです。そのこと自体は個人が「責任を負う」という話ではないですよね。

 子どもを苦しめた、ということについての罪悪感は私も抱えていますけれど、子どもが親を選んで生まれてくることは出来ないし、そしてなによりも、「この親」からしか「この子ども」は生まれないんです。このことはどんなに逆立ちしたってもう変えようのないことで、ただ「そういうものだ」と受け入れるしかありません。あとはそのことを認めた上で、どうやって少しでも幸せになっていくか、ということですよね。


 あれほどシビアだった私の親とパートナーとの緊張関係ですが、介護の問題を通して、福祉の仕事をやっているパートナーがその専門性も活かしながらいろいろ考えてくれ、親の方が彼女を頼りにするように変わってきました。時間はかかっても、それなりにいつか変わるものはあるんですね。そのチャンスを見逃さないことが大事なのかもしれません。

 

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コメント

トマトです。 パンダさんへ。

すみません。ちょっと、例が悪かったかも知れません。
パンダさんのみならず、ASの人と日々、近距離で向かい合っている定型は、自分の相手のASを理解するために、様々な努力をする人が多いと思います。

私個人は、本よりも、専門医の説明よりも、ネット上での当事者の方とのやりとりが、目の前のAS友人を理解するに、ダントツ有効でした。
当事者の方と、生でやりとりできることが、光栄みたいに思えましたし、リアルな感覚や個々人の違いも知って、様々な特性や様々な感じ方や考え方や認知の仕方があるのだなあと、学びました。

それでも・・・どこか、目の前のAS友人の言動に、納得というあきらめや、あなたはこうなのだという割り切りが出来なくて「頭では解っているのだけれど、感情がおさまらない」という日々が続きました。

そういう日々に、なんとなくの納得や割り切りが生まれだしたきっかけが、
複数のASの人との関わりでした。

「理解出来ない!」と勘に障るところが「このASの人も、あのASの人も、そのASの子もそうなのだ・・・つまりフツーなのだ」という数の理論の納得を得たり
友人以外のASの人と、一緒に仕事をしたり、映画鑑賞や食事やドライブをしたりしているうちに感じる「ASの人は」という理解と、
友人しか知らないまま言っていた「ASの人は」との感覚的な違い。

パンダさんが、いろいろなASの人との交わることで、きっと奥様の「そこの部分の謎や不満」が、次第に自然に感覚的に納得されるのではないかと思ったのです。

1人のアメリカ人とのコミュニケーションで「アメリカ人は・・・」と疑問や意見を持つのと
多くのアメリカ人と接した人が、慣れ親しんでしまって特別、そこに疑問や違和感や要望を感じなくなってしまったという例が妥当でしょうか。

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多分・・・「風邪をひいたとき、独りにしてあげる云々・・」というコメントはASの人にとって「病気の時にそっとして安静にしておいてほしいと思うのは、ASだけだろうか」という誤解を生みやすいのではないかと思うのです。
定型は、なんとなく「熱はないか?」「食べたいものはないか?」「うん、ありがとう」と
一言かけるニュアンスの件を言っているのであって、病気の時くらい心配を寄せさせてよという内容だなと察しはつくでしょうが。

こういう「妻へのつぶやき」的な感覚が、ASの方にはちょい混乱を与えてしまう可能性はあるかも知れません。

私は、知人が病気で臥せった時、無表情で声もかけず通り過ぎて行くASの伴侶や子どもを見ているうちに「こういうものなのだ」と、その行為を自然に感じられるようになった自分がいたのです。

そういう、無理のない自然な受け入れ方のひとつに、複数のASの人と交わったり、取材したりということは、とても有効だと思ったんですね。

トマトです。

すみません「あきらめ」のテーマに書くべきを間違って送信しました。

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