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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年2月 9日 (日)

ズレの大きさ

 掲示板に投稿された「〆た後ですが……」さんの経験談や、こちらのコメントの星さんの体験談などを拝見していて、改めて印象づけられたことがありました。それは定型アスペ間のズレの大きさや内容、そしてその受け止められ方が、ほんとうに多様だと言うことです。

 私はみなさんから教えていただくことなどを参考にしながらも、やっぱり私のパートナーと自分のズレの体験をベースに、お互いのコミュニケーションをどう調整することが出来るのか、ということを考えてきています。そしてその自分の体験や、そこで作られた感覚から、定型アスペのズレのポイントや、それをどう理解してどう対処したらいいのかについて、少しずつ考えてきているわけです。

 けれども、そこで私が考えたことがどこまで他の方たちの定型アスペ間のズレにも言えることなのか、そこで私が考えた対処のしかたや姿勢がどこまで通用するものなのか、ということを考えたときに、もちろん全く意味がないとは思えませんけれども、でも決して簡単には一色単に考えられないものなんだなあと改めて感じています。

 たとえば共感が成り立ちにくい、ということを考えた場合でも、相手の人が怪我や病気その他で辛そうにしているとき、アスペの方がそれにどういう対応をされるのか、ということを考えてみると、〆た後ですが……さんが体験されたように、全く援助されることなく、(多分一種のパニックになられているんだと思いますが)むしろ定型的感覚では「失礼」とか「ひどい」と感じられるような場合があります。これは私も別の方について具体的な体験を聞いたことがありますし、私自身、以前ちょっと記事で書いたことがあるように、医療従事者の方から同じような扱いを受けてショックを受けたことがありました。

 そうかと思うと、私のパートナーとの場合は、怪我や病気などの場合は、心配してくれますし、医療的な対処などはしっかり考えてくれます(それがなければ福祉関係の仕事は困難でしょうけれど)。ただ、私の印象としては「身体の心配はしてくれるけれど、精神的に支えようとしてくれない」と感じられるようなところでズレが生まれてしまいます。私が「精神的」と感じる部分で辛くなっていて、それがたとえば鬱状態で身体にも目に見えて表れるような場合には、彼女はむしろパニックになってしまうような印象を持ちます。(あくまで私の定型的な目から見た印象ですが)

 そういう二つの例を比べて考えてみても、おなじ「共感が難しい」というズレであっても、その大きさによってお互いに相手に対して受ける印象はかなり違ってきてしまうのではないでしょうか。だとすれば、当然、「じゃあそのズレにどうやって向き合ったらいいのか」ということについても、決して同じひとつのやり方や考え方ですませられることにはならないように思えるのです。場合によってはそれを無理にひとつと思ってしまうと、逆にどんどん不幸になることがあるようにさえ感じます。

 ですから、このブログのサブタイトルは「アスペルガーと定型のコミュニケーションを考える」となっていますけれど、そのことをしっかりとやるためには、お互いのズレがどんなところで、どんな大きさで起こるのか、ということをまず理解すること、そしてそれにあった対処の仕方や調整の方法を考えていくことが必要だろうと、そんなことを感じました。そしてそのズレの大きさについてのひとつの判断の手がかりは、上にも書いたような「心配の仕方のズレ方」にありそうな気がします。

 

 

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コメント

トマトです。

想定外のことに対しては、ASの人はパニックやフリーズが、定型で言うところの「フツーな態度」だと私は覚悟しています。

仕事中、AS社員さんが突然混乱をきたし、私が事の前後を説明したら、私の言葉を何度も繰り返して反芻しながら時間をかけて納得を探している様子とか・・・

私がAS友人と食事中に、突然めまいに襲われテーブルに突っ伏したとき、AS友人はさかんに「今どれほど自分が驚いているか」の説明を、私が「ちょ・・・ちょっと黙ってて」と言うまで喋り続けたとか・・

高齢病弱の父親に差し出したイスに、付き添いの健康なASの息子が座ってしまい、父親がよろけたのを息子は驚いて背筋を伸ばして座ったまま見ていた・・・とか。

「それは違うよね」シリーズは、ASの相手ごと、シチュエーションごと、様々に定型の理解と冷静さで対応すべき場面だと思います。
その冷静に・・といところに確かに「覚悟」が必要ですね。

トマトさん

>その冷静に・・といところに確かに「覚悟」が必要ですね。

 「覚悟」という言葉が私にはとても印象的です。
 トマトさんのように沢山のアスペの方とつながりをもたれている場合の覚悟と
 ほぼ限られた身内との関わりでの覚悟との違いとか、
 さらにいえば、ズレの大きさによる覚悟の違いとか、
 そういうものはあるのだろうか、とか、ちょっと考えたりしています。

 掲示板の「〆た後ですが……」さんも
 大変な覚悟をされていますよね……
 うーむ。。。。。

パンダさんへ トマトでする

【沢山のアスペの方とつながりをもたれている場合の覚悟と、ほぼ限られた身内との関わりでの覚悟との違いとか、さらにいえば、ズレの大きさによる覚悟の違いとか、そういうものはあるのだろうか】

覚悟の質の違いは、あると思います。
生活圏の中に定型とASが毎日顔を合わす「家族」などの場合は、相手から受けるストレスを抱えながらこれからずっと生きる・・という覚悟は必要だと思いますし

職場や友人などの関係性の場合、定型は、ほかの人をある意味、敵にまわしても、自分が誤解されてもかまわない、という割り切りの覚悟がないと、ASの人を正しく理解したり擁護したり出来ません。
自閉圏の人は「この人とやりとりする」というオンリーワンを決める場合があるので、周囲からはとても極端な態度に見える時があります。
「トマトさんの言う事だけ聞くのはトマトさんがコントロールしてるんじゃない?」「トマトは、口をはさまないでくれ」「トマトさんがこんな指示をしたのか!」
AS当事者にも、周囲の定型にも理解されずという、自分の立ち位置を見失いがちで、ASの人との関わりを断ち切って多数派の楽な方に流れるか否か、という岐路はいつもつきまといます。

一緒に生活するのも、一緒に働いたり活動したりするのも、少数派と多数派という関係性を維持するなら、多数派側の人間の覚悟がなければ維持は無理だと思ってるんですね。

その覚悟は、女性の方がしやすいのかもしれません。
自分の体内に、自分以外の命を受け入れ、育てることを体感できる分。

トマトさん

>トマトでする

 え?トマトでなにをされるんですか? (^o^)

 冗談はさておき……

>AS当事者にも、周囲の定型にも理解されずという、自分の立ち位置を見失いがちで、ASの人との関わりを断ち切って多数派の楽な方に流れるか否か、という岐路はいつもつきまといます。

 ここを拝見して状況を想像して、トマトさんはなんて壮絶な状況の中で
 ひたすらに頑張っていらっしゃるんだろう、としみじみ思ってしまいました。

 考えてみると、私の場合、パートナーと他の人たちをどうつなぐのか、
 という問題にはそんなにいつも直面させられるわけではありません。
 問題は私と彼女の二人の問題、という感じになることが多いので。

 あ、子育ての問題に関してはまたちょっと違いますけれど、
 でもそのときは私は気分的には「子どもの側に立つ」という感じでしたから、
 やっぱりトマトさんの置かれた状況とは違いますよね。

 そう考えてみると、トマトさんのみんなが驚くような強さは、
 アスペの方たちが誤解されて苦労されているその状況を
 アスペの方たちと共有されている、あるいは共有されようとしている
 というところから来るのかもしれないなとふと思ったりしました。

 そういう視点から改めてパートナーとの関係を見つめてみたら
 私にも何か少し違うものが見えてくるかもしれません。
 ちょっとそんな気がしました。

>その覚悟は、女性の方がしやすいのかもしれません。自分の体内に、自分以外の命を受け入れ、育てることを体感できる分。

 これは、「ああなるほど!」とも思い、
 男としてはそれを言われちゃうともうお手上げだな、
 そりゃ反則だよ、とも思い (^ ^;)ゞ

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